2016年5月24日火曜日

抜粋「弓と禅」その1 [Eugen Herrigel]




話:オイゲン・ヘリゲル
Eugen Herrigel

日本語訳:稲富栄次郎・上田武
対比訳:魚住孝至






日本人は弓を射る”(art)”をば、主に身体的な練習(bodily exercises)によって多少とも自分の身につけることのできるスポーツ的な技量と解するのではない。

By the "art" of archery he does not mean the ability of the sportsman, which can be controlled, more or less, by bodily exercises,

それはむしろ、その根源が精神の練磨(spiritual exercises)の中に求められ、その目標が精神的な的中(a spiritual goal)、すなわち射手が根本においては自分自身を的として狙い、そしてその際ついにはおそらく自分自身を射あてるところまで達する的中に在るような技量と解しているのである。

but an ability whose origin is to be sought in spiritual exercises and whose aim consists in hitting a spiritual goal, so that fundamentally the marksman aims at himself and may even succeed in hitting himself.



[参考:魚住孝至訳]

日本人は弓道の「道」を、主として肉体的な練習によって多少なりとも習得できるスポーツ的な能力ではなく、その根源を先進的な修練に求め、その目標は精神的に射中(いあ)てることにあると理解している。

それゆえ、射手は根本では自己自身を狙い、そして自己自身に射中(いあ)てることをおそらく達成するのである。






もし人が、日本の弓道の大家達は、射手のこの自己自身との対決(contest with himself)をどのように見ており、また描写しているかを尋ねてみても、彼等の答は全く謎のように聞こえるに違いない。

Should one ask how the Japanese Masters understand this contest of the archer with himself, and how they describe it, their answer would sound enigmatic in the extreme.

というのはこの対決は、彼等にとっては、射手が自己自身を狙い --かつまた狙わないということ、彼はその際おそらく自己自身を射あて --かつ射あてないということ、かくて狙うもの(the aimer)と狙われるもの(the aim)、射あてるもの(the hitter)と射あてられるもの(the hit)とが一つになるということに在るからである。

For them the contest consists in the archer aiming at himself --and yet not at himself, in hitting himself --and yet not himself, and thus becoming simultaneously the aimer and the aim, the hitter and the hit.

それともまた常に弓の大家達の念頭を去らない二、三の表現を用いていうならば、射手はいろんな動作を行うにもかかわらず、常に不動の中(ちゅう)となるということが眼目なのである。

Or, to use some expressions which are nearest the heart of the Masters, it is necessary for the archer to become, in spite of himself, an unmoved centre.



そしてその時、最大にして最後のことが現れてくる。

Then comes the supreme and ultimate miracle:

すなわち術は術のない術(artless)となり、射ることは射ないこと、言い換えれば弓矢なしで射ることとなる。

art becomes "artless", shooting becomes not-shooting, a shooting without bow and arrow;

さらに師範は再び弟子となり、大家は初心者に、終局(the end)は発端(the beginning)に、そして発端はすなわち完成(perfection)となるのである。

the teacher becomes a pupil again, the Master a beginner, the end a beginning, and the beginning perfection.



[参考:魚住孝至訳]

日本の弓の達人たちが、この射手の自己自身との対決をどのように見ており、表現しているかと問うならば、答えは完全に謎めいて聞こえるに違いない。

というのは、彼らにとって対決は、射手が自己自身を狙い、また自己自身を狙わない、それによって自己自身を射中(いあ)て、また射中(いあ)てない。したがって、的を中(あ)てる者と的との、射中(いあ)てる者と中(あ)てられるものとが一つである点にあるからである。

弓の達人たちが好んで用いるいくつかの表現を使うならば、射手はあらゆる動作にもかかわらず、「不動の中心」となるということが大事である。

その時、最も偉大にして究極のものが姿を現す。術は術なきものとなり、射ることは射ないことになり、弓と矢なくして射ることになり、師匠は再び弟子となり、たつ人は初心者になり、終わりは始まりになり、始まりは完成になるからである。







この仏教(禅)は何はさておき、まずもって思弁(speculation)ではなく、あらゆる存在の根底のない根底(the bottomless ground)として、悟性(intellectual means)によってはどれほど考えても考え得られぬもの、否、いかほど一義的で反抗できない経験(unequivocal and incontestable experiences)の後ですら会得され解釈され得ないもの、換言すれば知らないこと(not knowing)によって知り得るところのものを、直接に経験しようとするもの(immediate experience)である。

Zen is not speculation at all but immediate experience of what, as the bottomless ground of Being, cannot be apprehended by intellectual means, and cannot be conceived or interpreted even after the most unequivocal and incontestable experiences: one knows it by not knowing it.

この決定的な経験(crucial experiences)のために、禅宗は方法的に練磨された自己沈潜(immersion in oneself)を介して、魂の最も深い底において名付けることのできない無底(Groundlessness)、無相のもの(Qualitylessness)を了得させ、さらに進んでそれと一つになるようなところまで導く道を切り拓くのである。

For the sake of those crucial experiences Zen Buddhism has struck out on paths which, through methodical immersion in oneself, lead to one's becoming aware, in the deepest ground of the soul, of the unnamable Groundlessness and Qualitylessness --nay more, to one's becoming one with it.



[参考:魚住孝至訳]

この仏教は、第一の意味での思弁ではなく、存在するものの根拠なき根拠として、悟性によって考え出されたものではなく、はっきりとした紛れもない経験の後でも捉えることが出来ないものであり、人はそれを知らないことによって、それを知っているとしてほのめかすことが出来るだけのものである。

この決定的な経験のために、禅仏教は方法的に修練された自己沈潜によって、魂の最も深い根底において、名付けようもない無底なもの、無相なものを意識しながら、それと一つになるところへと導かれる途(みち)をとる。










このことは弓射に関していえば、次のことを意味している。すなわち精神的な練磨(the spiritual exercises) --ただそのお陰でのみ弓射の技法が術(an art)となり、そしてもしそういうことが起こることにでもなれば、術のない術(artless art)として完成されるところの精神的な練磨は、すなわち神秘的な練磨(mystical exercises)であるということを。

This, with respect to archery, means that the spiritual exercises, thanks to which alone the technique of archery becomes an art and , if all goes well, perfects itself as the "artless art", are mystical exercises, 

弓射はこのようにして、どんな事情の下でも、弓と矢をもって外面的に(outwardly)ではなくて、自己自身でもって内面的に(inwardly)何事かを成し遂げるという意味をもつのである。

and accordingly archery can in no circumstances mean accomplishing anything outwardly with bow and arrow, but only inwardly, with oneself.

弓と矢とは、たとえそれらがなくても獲得し得るあるものに対しての、いわば一種の方便物(a pretext)に過ぎない。それは目標自身ではなくて、目標に至る道(the way to a goal)であり、最後の決定的な飛躍(decisive leap)に対する補助(helps)に過ぎないのである。

Bow and arrow, but only a pretext for something that could just as well happen without them, only the way to a goal, not the goal itself, only helps for the last decisive leap.



[参考:魚住孝至訳]

このことは、弓術との関わりで言えば、確かに仮の言い方であり、同様の理由によって慎重に考えるべきものであるが、次のような定式を意味することになる。

すなわち、弓の技が道となり、もしそのようになるとすれば、術なき術として完成される精神的な修練は、神秘主義的な修練であり、弓を射ることは、したがって弓と矢による外面的なものではなく、自己自身で以(も)って何ごとかを成し遂げる内面的な意味を持つものである。

弓と矢は、いわば弓矢なくしても達することが出来る何ものかへの手掛かりであり、ある目標への途であって、目標そのもではなく、究極の決定的なものと飛躍するための手助けに過ぎない。






私は、禅の本質(the nature of Zen)を、それが禅によって形を与えられた諸芸術の一つの中に、働きかつ現れている通りに、照らし出そうとする意図を追求している。

It was my intention to throw light on the nature of Zen as it affects one of the arts on which it has set its stamp.

この照明はもちろんまだ、禅にとってあのように基本的な意味をもっている心眼照明(illumination in the sense)ではない。

This light is certainly not illumination in the sense fundamental to Zen,

しかしそれは、あたかも透視し難い霧の帷(とばり)の背後に、視線に隠された何物かがあるように、また稲妻が遠くで落雷のあったことを知らせるように、少なくとも何かが在るに違いないということを告げ知らすのである。

but at least shows that there must be something behind the impenetrable walls of mist, and which, like summer lightning, heralds the distant storm.

このように解すると、弓道はいわば禅の予備門(a preparatory school)を表す。

So understood, the art of archery is rather like a preparatory school for Zen,

そしてさし当りまだ全く明白な実行の中に、それ自身からはもはや把握され得ない出来事をはっきりさせることを許すのである。

for it enables the beginner to gain a clearer view, through the works of his own hands, of events which are not in themselves intelligible.



事実的見地からいえば、上述の諸芸術のどれからでも、禅の道に通じる道をつけることは十分できるであろう。

Objectively speaking, it would be entirely possible to make one's way to Zen from any one of the arts I have named.

しかし私は、弓道の一弟子が、通り過ぎねばならぬ修行の道程を記述することによって、私の意図を最も有効に達成できると信ずるものである。

However, I think I can achieve my aim most effectively by describing the course which a pupil of the art of archery has to complete.

もっと正確にいえば、私は、日本滞在中この道の最も優れた師範の一人から受けた、ほとんど六年間の稽古について報告しようと思うのである。

To be more precise, I shall try to summarize the six-year course of instruction I received from one of the greatest Masters of this art during my stay in Japan.








[参考:魚住孝至訳]

私は、禅の本質を、禅によって影響されている諸々の道の一つの実現されているあり様において、明らかにしたいと思う。

このように明らかにすることは、確かに禅にとって根本的なこの言葉の意義を解明するものではないが、少なくとも見通しがきかない濃霧の後ろに視線から隠された何物かがあることを、稲妻の光が遠くの雷を告げるように示すであろう。

弓道は、そのように解されれば、いわば禅の予備門(Vorschule)を表す。さしあたって〔弓道という〕全く具体的に実行できることにおいて、それ自身ではもはや捉え得ない出来事〔禅〕に見通しをつけることが可能になるのである。

事柄に即して見れば、先に述べた諸道のどれからでも、禅の道への一つの道を拓くことが可能であろう。しかし私は、弓道の一人の弟子が歩んだ途を記述することによって、私の意図を最も有効に達成することができると信じる。より正確に言うならば、私の日本滞在中、この道の最も偉大なある達人から受けた、ほとんど六年間にわたる稽古について報告することを試みようと思う。










引用:
Zen in the Art of Archery: Training the Mind and Body to Become One
稲富栄次郎、上田武訳「弓と禅
新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)




0 件のコメント:

コメントを投稿