ラベル アメリカ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル アメリカ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年5月17日火曜日

Oh, my God! [和尚]




話:OSHO(和尚)





アシュラムで3人のサニヤシン(弟子)の子どもたちが出会い、一緒におしゃべりをはじめた。



「いいかい」

とドイツ人の子どもが言う。

「ぼくの叔父さんは神父で、人々はみんな彼のことを『Holly father(神父さま)』って呼ぶんだ」



「そんなの何でもないさ」

と日本人の子どもが言う。

「ぼくのお祖父ちゃんは禅のマスターで、天皇だって祖父ちゃんの足を触りに来るんだ」



「君たち、そんなことで驚くもんじゃないよ」

とアメリカ人の子どもが言う。

「ぼくのお母さんは体重が150kgもあって、街の通りを歩くと、人々は

『Oh, my GOD(ああ、神様)!』

って言うんだ」







引用:空っぽの鏡・馬祖





2016年5月2日月曜日

真如 Suchness [仏教英語]



話:室謙二


真如は「Suchness」である


あるとき私は、少し遅れて彼(ティク・ナット・ハン)が話しているところに入っていった。

黒板には

「如」

と漢字が書かれていて、彼はちらっと私のほうを見た。というのは、そのとき禅堂にいた人のなかで、たぶん私だけが漢字がわかる人間だったから。彼は仏教の説明に漢字をつかうことはなかった。これは珍しいケースだった。



そして彼(ティク・ナット・ハン)は、

「この漢字の意味は Suchness です」

と言いながら、黒板に

「真如」

と書いて、「これは仏教の一番重要な考え方です」と付け加えた。



こうやって私は、「真如」という偉そうな言葉(漢字)の意味を、ティク・ナット・ハンから、「それは Suchness ということなんだよ」と教わった。辞書で調べてみれば、真如というのは

「あるがままにあること

とあるけど、「真如」と書くと、偉そうな漢字がその口語的理解を阻害する。



しかし

真如というのは Suchness なんだよ」

と英語で言われてみれば、そしてアメリカ人は「真如」というような漢字は知らずに、Suchness という単語を仏教の基本として習うわけで。



なーんだ、これは Such という単語に ness がついて、状態をあらわす抽象的な言葉になっただけで、Suchness を辞書で引いてみれば

The quality or state of being such: essential or characteristic quality

とある。



もっとも2番目の定義として、仏教では

nameless and characterless reality in its ultimate nature

とある。つまり「真如」

「名前もなく性格もなしのリアリティ、”のような(such)”状態」

かあ。



漢字の

真如こそは仏教の重要概念である」

と習うのと、

Suchness が仏教の重要な考えですよ」

と英語で習うのは、ずいぶんと違うね。







引用:アメリカで仏教を学ぶ (平凡社新書)



2016年4月30日土曜日

紙でない要素 non-paper element [T.N.Hanh]



話:室謙二





それでは、このところワークショップに通っているベトナムの坊さん、ティク・ナット・ハンは「空(くう)」をなんて説明しているのか?

こちらは実に簡単なゆっくりとした口語英語で、分かりやすく「空(emptiness)」を説明している。彼は分厚いニューヨーク・タイムス紙を手にしながら、私たちのまえでこう語った。



この新聞には、さまざまな事件が書かれています。それではこの新聞の一ページを見ましょう。

文字を読むのではなくて、紙自体をみると、そう、もしあなたが詩人なら新聞が印刷されている紙に、「木」を見ることができる。なぜなら、紙はパルプから作られて、パルプは木から作られるから。

そしてまた、その木が生えていた、うっそうとした「森」を見ることもできます。いや木々のみではない。「太陽」がなくては、「雨」がなくては、「風」がなくては、木は育たなかったのです。



だからこのニューヨーク・タイムスの一ページの紙の向こうに、それらが、木が森が、太陽と雨と風が見えてくるはずです。

もう少し考えましょう。

木はパルプになるために、切り倒されなければならなかったのです。あなたが詩人なら、この新聞の紙のなかに、「キコリ」さえ見ることができるはずです。それらの要素がこの紙を作っているのです。



そう考えていけば、この紙は多くの「紙でない要素(non-paper element) 
によって作られていることが分かりますね。「太陽」も「雨」も「風」もそれに「木」も「キコリ」も、それは紙を作っている「紙でない要素」です。

つまり「紙という要素」は「紙でない要素(non-paper element)によって作られているといってよいのです。



それでは次に、その「紙でない要素(non-paper element)」を、紙から、もとの場所にもどしてやろうではないか。パルプは木にもどり、それを育てた太陽の光は太陽にもどろ、雨は空に、風も雲も、その元あったところに、キコリはその父親にもどしてあげよう。

つまり紙を形作っていた「紙でない要素」を、そのそれぞれの場所にもどしてやったとすると、あとには「紙そのもの」というものが、残るのであろうか?

「どう思うかな?」

とティク・ナット・ハンは私たちに聞いた。

何も残らない。



So we say, "A sheet of Paper is made of no-paper elements." 

A cloud is a no-paper element.

The forest is a non-paper element.

Sunshine is a non-paper element.



The paper is made of all the non-paper elements to the extent that if we return the non-paper elements to their sources, 

the cloud to the sky, 

the sunshine to the sun, 

the logger to his father, 

the paper is empty.



というわけで、ついに「空(くう)」、empty が出てきた。

紙そのものは「紙でない要素(non-paper elements)」によって成り立っている。その紙を作る「紙でない要素」を、元のところに戻したとしたら、紙は「からっぽ(空)」になる。ということで、

「それ自体が他と関係なく、独立して成り立っている存在などはない」

と空(くう)と縁起を説明した。



他から独立した自分自身(separate self)ということはない。

自分自身(self)は「自分自身以外の要素(non-self elements)」によって形作られている。

だから、独立した存在と感じられ、思われている自分自身(自我)は、本当は完全な空(くう)なのです。







ところでティク・ナット・ハンは、そういう話を子供たちと共にするのだった。

彼は子供たちをステージに呼び上げて、自分の隣に座らせる。そして、そのひとりひとりに「キミはいくつかな? 誕生日はいつかな?」と聞いていた。

それから

「誕生日のまえにキミはどこにいたのだろう?」

と質問をすすめた。カリフォルニアのカウンター・カルチャーの子供たちだから、みんなそれぞれに、

「お父さんとお母さんがメイク・ラブして、それからお母さんの体の中にいた」

とはっきり言う。



そこでティク・ナット・ハンは話をすすめて

「それじゃあ、お父さんとお母さんがメイク・ラブする前は、キミはどこにいたのかな?」

と聞くのである。子供たちは

「半分はお父さんの中で、半分はお母さんの中だ」

とは言うけど、すでに確信がない。



そこで彼はもうひとつ話を進める。

「お母さんが生まれる前には、キミはどこにいたのかな」

子供たちは答えられない。



このティク・ナット・ハンと子供たちの問答が、禅の公案(修行するものに与えられる課題)から来ていることに、ワークショップが終わって数日たってから気がついた。

それほどその会話は自然で、子供とそれをとりまく大人の聴衆を、不思議な愉快さとともに、公案ということを意識することなしに、仏教の核心的な疑問に連れて行くものだった。

その公案は

「父母(ふぼ)未生(みしょう)以前の本来の面目(めんもく)如何(いかん)
(父母が生まれる前に、おまえの顔かたちはどこにあったのか?)

である。



こうやって子供たちも、それを取り巻いている大人たちも、

「いったい自分たちはどこから来たのだろう? 今どこにいるのだろう? そして、どこへ行くのだろう?」

という大きな問いを与えられたのだった。







引用:アメリカで仏教を学ぶ (平凡社新書)



2016年4月28日木曜日

アメリカ人の唱える「般若心経」



話:室謙二








アメリカ人にまざって座禅をすると、座禅のあとのサービス(仏像にむかってお経を唱える)のときに、英語で印刷されている紙がくばられて、それをみんなで唱える。

表には

The Maha Prajna Paramita Hrdaya Sutra

とあって、Sutra というのはお経だから、これは何かお経の英語訳であることがわかった。ところがその裏が不思議なもので、

MU MU MYO JIN NAI SHI MU RO SHI YAKU MU RO SHI JIN MU KU SYU METSU DO

と意味不明の言葉がならんでいる。それをまたアメリカ人がアメリカ語風発音とイントネーションで唱えるから、いよいよ何がなんだか分からない。



最初に気に入ったのは、その裏のページのわけの分からないやつではなく、表ページの英語のお経の次のようなところです。


No feelings,

no perceptions,

no impulses

no consciousness;



No eyes,

no ears,

no nose,

no tongue,

no body,

no mind;



No color,

no sound,

no smell,

no taste,

no touch,

no object of mind;



No realm of eyes

and so forth until

no realm of min consciousness;



No ignorance

and also no extinction of it,

and so forth until

no old-age and Death

and also no extinction of them;



No suffering,

no origination,

no stopping,

no path;



No cognition,

also no attainment.


これを木魚とときどき入るカネの音で、お経のリズムとイントネーションで唱えるときは気分が高揚した。



訳すと、こんな風になるんじゃないかな。


感覚はない。
No feelings,

知覚というものもない。
no perceptions,

衝動もない。
no impulses

意識さえもない。
no consciousness;



眼はない。
No eyes,

耳はない。
no ears,

鼻はない。
no nose,

舌もない。
no tongue,

体もない。
no body,

心もない。
no mind;



色はない。
No color,

音はない。
no sound,

においはない。
no smell,

味もない。
no taste,

感触もない。
no touch,

心の対象もない。
no object of mind;



眼の領域はなく、
No realm of eyes

意識の領域さえない。
and so forth until
no realm of min consciousness;




無知はない。
No ignorance

無知がなくなることもない。
and also no extinction of it,

また、老いも死もなく、
and so forth until
no old-age and Death


老いと死がなくなることもない。
and also no extinction of them;



苦しみはない。
No suffering,

苦しみのもとはない。
no origination,

苦しみがとまることもない。
no stopping,

苦しみを制する道はない。
no path;



知るということもなく、
No cognition,

得るということもない。
also no attainment.



何度読んでも、実に面白い。人は誰だって悩みや苦しみがあって、ぼくにもあります。でもこの英語のプレーズを、もうやけになって大声で唱えると、何かが分かったような気持になる。

ここがカリフォルニアで、まわりがアメリカ人で、畳の上にみんなで座り、ブッダのまえで、木魚とカネのリズムで、私という日本人が英語のお経を唱えるというのは、それはちょっと奇妙な環境ではあるが、ともかく

「感覚も知覚も、衝動も意識もなく、眼も耳も鼻も舌も、体も心もなく、色も音もにおいも味も感触も、心の対象もないし、また無知も老いも死もなく、無知と老いと死のなくなることもなく、苦しみもなく、苦しみがなくなることもなく、知ることもなく、得ることもない」

のだから、すべてが「ない」ので、どうやら「ないこともない」らしいので、そうするとつまり人間と宇宙の深いところで、このままでいいことになる。だから少々環境がおかしくても、そんなことは関係ないのである。

この英語のお経には大変なこと、何か根源的なことが書いてあるなあ、と感心した。



そして何回か唱えるうちに、裏のページにわけの分からないローマ字の羅列のなかから、

SHIKI SOKU ZE KU

KU SOKU ZE SHIKI

というのが読み取れて、なんだこれは

色即是空

空即是色

ではないかと漢字が浮かんできた。それなら知っている。



それでそのとき一緒に座って、英語と何語か分からないローマ字記述のお経を唱えていた日本人女性を選んで、

「アノー、これは有名な般若心経でしょうか」

と聞いて、そんなことも知らないで唱えていたのか、とあきれられた。









引用:アメリカで仏教を学ぶ (平凡社新書)