〜話:足立大進〜
夢窓国師(疎石)は、円覚寺の第十五世であり、京都にお出でになり天龍寺をお開きになった方です。その夢窓国師に
極楽に 行かんと思う 心こそ
地獄に落つる 初めなりけり
という歌があります。
夢窓国師は、四国の土佐の山中に籠っていらっしゃいました。ところが、たいへん偉い方でしたから、京都の有名な寺から、出て来て住職をしてほしいと、ずいぶんたくさんの依頼があった。そのときにお作りになった「山居(さんきょ)の詩」というものがあります。
青山幾度変黄山
世上粉紜総不干
眼裏有塵三界窄
心頭無事一牀寛
青山(せいざん)、幾度(いくたび)か黄山(こうざん)と変ず、
浮世(ふせい)の粉紜(ふんうん)、総に干(かか)わらず。
眼裏(がんり)に塵(ちり)有れば、三界(さんがい)窄(すぼ)く、
心頭(しんとう)無事なれば、一牀(いっしょう)寛(ひろ)し。
青い山が何度も秋の黄色い山に変わる、毎年、年が変わる。そのときに、この山の中に住んでいる私にとって、世の中の争いごとなんて知ったことではない。眼の中に埃(ほこり)が入って心が濁っていれば、世の中はすべて不幸せに見える。心に引っかかるものが何もなければ、粗末な寝床だって寛げる。
と、このような意味の詩です。この詩から、私はいつも「心が生きていなきゃいかん」と強く感じさせられます。心が本当に充足するとき、生き生きとしているときは、案外何気ない瞬間にあるようです。皆さんも「心が生きる瞬間」探しをしてみてください。
出典:足立大進「即今只今」
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