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2016年4月20日水曜日

ミャンマー仏教とタイ仏教の違い [魚川祐司]



話:魚川祐司


ミャンマー仏教とタイ仏教

最後に、この個々の仏教者による「本来性」と「現実性」との関係のとり方の差異について、もう一つ面白い例を挙げておこう。それは、ミャンマー仏教とタイ仏教の性質の違いである。

ミャンマーとタイは、ともに上座部圏に属する国であり、多くの国民がテーラワーダ仏教徒であるが、それぞれの国で実践されている仏教の性質には、やはり微妙な差異がある。そして、なかでも顕著な相違であると考えられるのが、その涅槃に対する把握の仕方だ。

総じて言えば、ミャンマーの仏教徒たちにとって、涅槃とは本書で述べたような瞑想による無為の領域の覚知のことであり、タイの仏教徒たちにとって、涅槃とは瞑想時に限らず、行住坐臥のすべてにおいて実現されている、人格の一定の状態を指すように思われる。



ミャンマーの仏教は基本的に聖典のテクストを遵守する保守的な性格のものであるから、それが第6章で詳述したような「テーラワーダ的な」涅槃の解釈にしたがって実践を行うのは当然であるが、ここで興味深いのはタイ仏教のほうである。

もちろん彼らもテーラワーダ仏教徒であるから、無為の涅槃の領域を否定はしない。だが、かの地の瞑想指導者たちの著作や、そこで実践を行う人々の語るところによれば、タイの仏教徒たちにとって、涅槃という事態は瞑想における特定の状態というよりは、むしろ日常において意識が「いま・ここ」への気づきを保っていて、そこに貪瞋痴の煩悩が混入していない状態のこととして、認識されていることがしばしばであるように思われる。



たとえば、世界的に著名なタイの瞑想指導者であり、このほど法話の邦訳も出版されたアーチャン・チャーは、それらの著作のなかで、ミャンマーの瞑想関係の書籍であれば必ず語られる涅槃の覚知の瞑想経験について、ほとんど口にすることがない。彼が語るのは、ただ気づきを保って日常を過ごし、そうすることで無常・苦・無我という現象の性質をありのままに知って、執著から離れることだけである。






あるいは、日本人タイ僧侶として人々に瞑想の指導や仏教の解説などを行っているブラユキ・ナラテボーも、涅槃の覚知のような瞑想における特定の経験を修道上の目標として語ることがほとんどなく、ただ「いま・ここに開かれてあり続けること」を基本として、その指導を行っているようである。






両者に共通しているのは、瞑想上の特殊な経験を目標あるいはブレイクスルーとして捉えることを、基本的にはしないことだ。



このように涅槃観の相違は、僧院での生活の仕方にも表れており、たとえばミャンマーの瞑想寺院では、修行者にいわゆる作務をやらせることをほとんどしない。「余計なことはせずに、ただ瞑想だけに集中せよ」というわけで、これは真剣に取り組んでいるところほどそうである。

他方、タイでは瞑想者にも、掃除や居住小屋(クティ)の修理といった作務を、積極的にやらせる寺院が多い。これは瞑想や涅槃というものを、通常の暮らしも含めた生の全体性のなかにおいて実践・実現されるものとして捉えていることの表れであると思われる。

ミャンマー仏教とタイ仏教の、瞑想や涅槃に関するこのような態度の相違は、日本における臨済禅と曹洞禅の差異ともパラレルに理解できるところがあって、たいへん興味深いものがある。



両者にこうした相違が生じるのは、記述の「世間 諦」と「出世間諦」の内実把握と、それぞれを重視する仕方に違いがあるからであろうが、いずれにせよ、個々の仏教者による「本来性」と「現実性」との関係のとり方の差異は、テーラワーダの内部にさえも、実は存在しているということである。







引用:仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か
第8章 「本来性」と「現実性」の狭間で その後の話




2016年4月15日金曜日

「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」



話:魚川祐司





子供の頃に読んだ本の中で、

「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」

と、小さな王子さまが言っていた。

この言葉を借りて比喩とするならば、「苦はないのではない、苦はあるのだ」と言い、また、「私は苦を、私は苦を見る」とも言ったゴータマ・ブッダは、「砂漠なんて実は存在しない」とか、「この世は実はオアシスだ」とか、そういうごまかしを語っていたわけではない。

「砂漠はあくまで砂漠である。その現状認識からはじめなさい」

と、彼は最初の説法から、繰り返し語っていた。



だが同時にゴータマ・ブッダは、「この世はしょせん砂漠だから、さっさと死ぬのがいちばんです」というような、単純な厭世主義やペシミズムを語ったわけでも決してない。そのような仏教の解釈は、単に「現代的ニヒリズム」に冒された私たちが、「ゴータマ・ブッダも全ては無意味だと語ったに違いない」というバイアスによって、彼の教説を判断してしまうところから出てきているに過ぎないものである。

実際のゴータマ・ブッダが語ったことを見るならば、彼は「砂漠だ」と明言しただけではなくて、そこにきちんと「井戸」が隠されていることも教えており、また、その「井戸」の存在を知る者にとっては、「砂漠」は「砂漠」のままに「美しい」ということも、伝えられてきたテクストとそれに沿った実践から、正しく引き出して知ることができる。これらのことは、いずれも仏教の本質的な内容であって、そのどれかを欠いた形で語ってしまうのであれば、それらはいずれにせよゴータマ・ブッダの仏教の解釈としては不十分だ。

言わずもがなのことであるが、上の比喩に言う「井戸」とは、もちろん「仏教思想のゼロポイント」である解脱・涅槃のことであり、そこから反照したときに覚者の眼(buddhacakkhu)に映じる「砂漠」、即ち、苦なる現象の世界の風光が、悟後のゴータマ・ブッダに死ではなく説法を選ばせたものである。そして、その風光はまた、後の時代にゴータマ・ブッダの教えを実践した者たちに、彼らの住まう地域や歴史的状況の文脈に応じて、新しく「仏教」について語らせる原動力、もしくは原風景ともなった。





引用:仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か