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2016年5月23日月曜日

序文『弓と禅』Zen in the Art of Archery[鈴木大拙]




話:鈴木大拙
Daisetz Teitaro Suzuki







序文
Foreword


弓道(archery)の稽古において、そして日本において、あるいは恐らく他の極東の諸国において学ばれているあらゆる道の稽古において、我々が気づく最も重大な特色の一つは、

One of the most significant features we notice in the practice of archery, and in fact of all the arts as they are studied in Japan and probably also in other Far Eastern countries,

それらが実用的な目的(utilitarian purposes)だけや純粋にアスレティックな楽しみ(aesthetic enjoyments)のために行わているのではなく、心の修練を意味し、実際に心を究極のリアリティ(the ultimate reality)に接触するようにもたらすことを意味するのである。

is that they are not intended for utilitarian purposes only or for purely aesthetic enjoyments, but are meant to train the mind; indeed, to bring it into contact with the ultimate reality.



それ故、弓道は単に的(the target)に中(あ)てるためだけに稽古されるのではない。

Archery is, therefore, not practiced solely for hitting the target;

剣士(the swordsman)は、敵に打ち勝つためだけに剣を稽古するのではなく、舞い手(the dancer)はあるリズミカルな身体の動きを演じるためだけに舞うのではない。

the swordsman does not wield the sword just for the sake of outdoing his opponent; the dancer does not dance just to perform certain rhythmical movements of the body.

心はまず第一に無意識的なもの(the Unconscious)に合わせなければならない。

The mind has first to be attuned to the Unconscious.







もし人が本当にある道(an art)をマスターしようと願うなら、その技術的な知識(technical knowledge)だけでは十分ではない。

If one really wishes to be master of an art, technical knowledge of it is not enough.

人は技術を超えなければならず、その結果、〔術を行う〕道は、無意識(the Unconscious)に至って「術なき術(artless art)」になるようになるのである。

One has to transcend technique so that the art becomes an "artless art" growing out of the Unconscious. 



弓道の場合には、射手(the hitter)と的(the hit)とはもはや二つの対立した物(two opposing objects)ではなく、一つのリアリティ(one reality)である。

In the case of archery, the hitter and the hit are no longer two opposing objects, but are one reality.

弓道家(the archer)は、向かっている的(the bull's eye)を中(あ)てることに従事する人間として意識することを止める。

The archer ceases to be conscious of himself as the one who is engaged in hitting the bull's eye which confronts him.

この無意識の状態は、完全に空(empty)となって自己(the self)から抜け出て、自らの技術的な技を行える者になった時にのみ、実現できる。

This state of unconsciousness is realized only when, completely empty and rid of the self, he becomes one with the perfecting of his technical skill, 

その状態においては、道を斬新的に学習することによっては獲得出来ない、全く違った秩序ある何ものかがあるのである。

though there is in it something of a quite different order which cannot be attained by any progressive study of the art.







禅を、他の全ての宗教的、哲学的、神秘主義的な教説から最も特徴的に異ならせていることは、

What differentiates Zen most characteristically from all other teachings, religious, philosophical, or mystical, 

日常生活の外に行くのではないながら、しかも禅が、あらゆる実践性(practicalness)と具体性(concreteness)を以(も)って、世俗的な強欲さ(sordidness)や落ち着かなさ(restlessness)の場面から離れた立場にある何物かを持っていることである。

is that while it never goes out of our dairy life, yet with all its practicalness and concreteness Zen has something in it which makes it stand aloof from the scene of worldly sordidness and restlessness.

ここにおいて、禅と弓道との間のつながりに気づく。

Here we come to the connection between Zen and archery,

そして禅と剣道、華道、茶道、舞い、さらに絵画などの諸道とのつながりにも気づく。

and such order arts as swordsmanship, flower arrangement, the tea ceremony, dancing, and the fine arts.







馬祖(ばそ、788年没)によって宣言されたように、禅は「平常心(everyday mind)」である。

Zen is the "everyday mind", as was proclaimed by Baso (Ma-tsu, died 788);

この「平常心」は「疲れれば眠り(sleeping when tired)、空腹になれば食らう(eating when hungry)」という以上ではない。

this "everyday mind" is no more than "sleeping when tired, eating when hungry."



我々は反省し、考え、思考する(conceptualize)やいなや、元来の無意識は失われ、思惟(thought)が邪魔をする。

As soon as we reflect, deliberate, and conceptualize, the original unconsciousness is lost and a thought interferes.

我々はもはや食べながら食べず、眠りながら眠らずということになる。

We no longer eat while eating, we no longer sleep while sleeping.



(the arrow)は弦(the string)を離れても、的(the target)に向かって真っすぐに飛んで行くのではなく、的はそれがあるところの場所にはない。

The arrow is off the string but does not fly straight to the target, nor does the target stand where it is.

間違った計算である計算(calculation)をすることが働いている。

Calculation which is miscalculation sets in.

弓道でやること全体は間違った方(thr wrong way)へ行く。

The whole business of archery goes the wrong way.

射手の混乱した心(confused mind)は、活動のあらゆる方向とあらゆる方面でそれ自身を裏切ってしまう。

The archer's confused mind betrays itself in every direction and every field of activity.







人間は考える葦(a thinking reed)であるが、彼の偉大な仕事は、彼が計算せず考えない時になされる。

Man is a thinking reed but his great works are done when he is not calculating and thinking.

「子供のごとくあること(childlikeness)」は、長年の道の訓練により自己を忘れること〔無心〕(self-forgetfulness)が回復されなければならない。

"Childlikeness" has to be restored after long years of training in the art of self-forgetfulness.

このことが到達されると、人は考えるが考えない。

When this is attained, man thinks yet he does not think.



彼は、にわか雨(the showers)が空から降ってくるように考える。

He thinks like the showers coming down form the sky;

彼は、海で波(the waves)が渦巻くように考える。

he thinks like the waves rolling on the ocean;

彼は、星(the stars)が夜の天空に輝くように考える。

he thinks like the stars illuminating the nightly heaven;

彼は、新緑の葉(the foliage)が春のそよ風に憩いながら出るように考える。

he thinks like the green foliage shooting forth in the relaxing spring breeze.



本当に、彼は、にわか雨であり、海であり、星であり、葉であるのだ。

In deed, he is the showers, the ocean, the stars, the foliage.







人が、この「精神的な」発展の段階に達した時には、彼は人生の禅の道を行う者(a Zen artist)である。

When a man reaches this stage of "spiritual" development, he is a Zen artist of life.



彼は、絵師(the painter)のように、キャンバスや絵筆を必要とせずに、描く。

He does not need, like the painter, a canvas, brushes, and paints;

彼は、弓道家(the archer)のように、弓と矢と的、その他の装備も、要求しない。

nor does he require, like the archer, the bow and arrow and target, and other paraphernalia.



彼は、手足、身体、頭と、その他の部分を持っている。

He has his limbs, body, head, and other parts.

彼の禅生活は、これらの「道具」すべてによってそれ自身を表現しており、それの表明として重要である。

His Zen-life expresses itself by means of all these "tools" which are important to its manifestation.

彼の手と足が絵筆であり、全宇宙が彼の70年、80年、あるいは90年の人生を描くキャンバスである。

His hands and feet are the brushes and the whole universe is the canvas on which he depicts his life for seventy, eighty, or even ninety years.

この描かれた絵が「歴史」と呼ばれる。

This picture is called "history."







五祖法演(ほうえん、1104年没)は言う、

Hoyen of Gosozen (died 1104) says:

「ここに一人の人物がいる。宇宙の空虚を一枚の紙に変え、大海の波を墨の壺(inkwell)に変え、スメル山を絵筆に変えて、『祖師西来意(そ・し・さい・らい・い)』という五つの漢字※1を書く。このようなものに向かって、私は坐具※2を広げ、深いお辞儀をするのである」

"Here is a man who, turning the emptiness of space into a sheet of paper, the waves of the ocean into an inkwell, and Mount Sumeru into a brush, writes these five characters: 

so - shi - sai - rai - i
(祖師西来意)※1

To such, I spread my zagu※2 and make my profound bow."



人間は問うかも知れない、

One may well ask,

「この法外な宣言は何を意味するのか。何ゆえに、このような際立った行いを成し得る人が、最高の尊敬に値すると考えられているのか」と。

"What does this fantastic pronouncement mean? Why is a person who can perform such a feat considered worthy of the utmost respect?"



禅の師家は多分このように答えるだろう、

A Zen master would perhaps answer,

「腹が減れば食らい、疲れれば眠る」と。

"I eat when hungry, I sleep when tired."



もし彼が自然の心であれば、

If he is nature-minded, he may say,

「昨日は晴れていたが、今日は雨である」〔日々是好日〕

"It was fine yesterday and to-day it is raining."

と言うかもしれない。



しかしながら、読者にとっては、質問はまだ解かれないままかも知れない、

For the reader, however, the question may still remain unsolved,

「射手はどこにいるのか」と。

"Where is the archer?"







この素晴らしい小著において、ヘリゲル氏 --ドイツ人の哲学者であり、日本に行って、禅を理解することを目指して弓道の稽古をした-- は、彼自身の経験に基づいて、一つの絵を描いてみせた。

In this wonderful little book, Mr. Herrigel, a German philosopher who came to Japan and took up the practice of archery toward an understanding of Zen, gives an illuminating account of his own experience.

彼の表現を通じて、西洋の読者は、まさに奇妙な、何か近づくことが出来ないように思われる東洋人の経験について考える、より親しいやり方を見出すであろう。

Through his expression, the Western reader will find a more familiar manner of dealing with what very often must seem to be a strange and somewhat unapproachable Eastern experience.






鈴木大拙
Daisets T. Suzuki

マサチューセッツ州 イプスウィッチにて
Ipswich, Massachusetts
1953年3月
May 1953







※1
祖師西来意(so shi sai rai i)
この五つの漢字は、言語的に翻訳すれば「禅の開祖が西方から来た動機(the first patriarch's motive for coming from the west)」を意味する。このテーマは禅問答の主題としてしばしば取り上げられる。それは、禅において最も根本的な事柄について問うのと同じである。これが理解されれば、禅はこの身体それ自身である。

These five characters in Chinese, literally translated, mean "the first patriarch's motive for coming from the west." The theme is often taken up as a subject of mondo. It is the same as asking about the most essential thing in Zen. When this is understood, Zen is this body itself.

※2
坐具(zagu)
坐具は、禅僧が持ち歩く物の一つである。仏陀や師に向かってお辞儀をする時に、禅僧の前に広げられる。

Zagu is one of the articles carried by the Zen monk. It is spread before him when he bows to the Buddha or to the teacher.






引用:
新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)
Zen in the Art of Archery: Training the Mind and Body to Become One


2016年5月18日水曜日

野ガモと鼻と、百丈の悟り




ある日、百丈(ひゃくじょう)が師の馬祖(ばそ)のもとを訪ねていたとき、頭上を野ガモの群れが飛び去った。

馬祖はたずねた。

「あれは何だ?」

「野ガモです」

と百丈。



「どこへ行ったのか?」

と師はたずねた。

「どこかへ飛び去っていきました」

と百丈はこたえた。



馬祖(ばそ)は突然、百丈(ひゃくじょう)の鼻先をつかまえ、それを捻(ねじ)りあげた。そのあまりの痛さに百丈は叫び声をあげた。

馬祖は言った。

「おまえは飛び去っていったと言うが、あれらは時のはじまりからここにいるぞ」

その瞬間、百丈は悟りを得た。






次の日、いつもの法話の席に馬祖が坐ろうとするやいなや、百丈がやってきて坐具をたたんでしまい、師は禅床からおりるしかなかった。

百丈は自室に帰る師について行った。

馬祖は言った。

「いましがた法話をはじめようという時に、なぜおまえは坐具をたたんでしまったのか?」

百丈は言った。

「きのう、尊師はわたしの鼻をねじられましたが、あの痛みは強烈でした」



「きのう、おまえは心をどこに用いていたのだ?」

と馬祖はたずねた。

弟子はただこう言った。

「今日はもう鼻は痛みません」



師はそこで評して言った。

「おまえは、きのうの話題をじつに深く理解している」










話:OSHO(和尚)


ふつうの合理的な思考をする者にとっては、これは「不合理な言明」にみえる。が、瞑想に調和している者には、これは「とてつもない目覚めの地点」になりうる。

馬祖は、野ガモが飛び去っていったことを知らないわけではない。野ガモがそこにいたことを、彼が知らないというのではない。彼はいかなる知的な答えも求めてはいない。彼は百丈が最初に見逃したレスポンス(応答)を求めている。



「あれは何だ?」

とたずねたとき、馬祖は、明らかにそれが何であるのかを知っていた。だからこれは、対象についての知をたずねる質問や問いではないということを覚えておかねばならない。

百丈はその地点で取り逃がした。彼の応答はマインド(頭)から出てきたものだった。彼は言った。

「野ガモです」

それは世界中のだれにでも言えるような応えだった。それは「空っぽのハート」から出てきたものではなかった。それは「無の鏡」から出てきたものではなかった。それは単に、どんな子供でも言えるようなことだった。答えは正しかったが、百丈の応答はハートから出たものではなく、マインド(頭)から来ていた。

ここで百丈は取り逃がしたのだ。彼はどんな脈絡もかんがえずに、この質問に応答すべきだった。



「どこへ行ったのか?」

師は彼に、もう一度チャンスを与えている。

「どこかへ飛び去っていきました」

と百丈は応えた。彼はまた、単にメンタル(知的な)レベルで機能したのみだった。



馬祖は突然、百丈の鼻先をつかまえ、それを捻りあげた。

百丈がマインド(頭)を通してしか働いていなかったことを自覚させねばならなかった。心は痛みしかもたらすことができない。心とは痛みだ。

そのあまりの痛さに百丈は叫び声をあげた。

この叫びは、マインド(頭)から出たものではなかった。この叫びは、彼の全実存からおのずと湧きおこる応答としてやってきた。この瞬間なら、師は彼に話すことができた。彼はいまや正しい空間にいた。彼はもはやマインド(頭)のなかにはいなかった。その痛みゆえに、彼の全実存が目覚めていた。



馬祖は自分がなぜ鼻をねじりあげたのか、何ひとつ説明はしなかった。

それどころか彼は言った。

「おまえは飛び去っていったと言うが、あれらは時のはじまりからここにいるぞ」

馬祖は、とてつもなく意味深い言明を述べた。「誰ひとり、何ひとつ、ここから外にでることはできない」と。「ここ」は果てしなく広大であり、「いま」も同じだ。どこにいようと、彼らはここにいる。



その瞬間、ただ痛みだけで、百丈に思考はなかった。

心は空っぽで、ただ鼻が痛んでいた。

百丈はいまや、師が言わんとすることを理解できる正しい状態にあった。



その瞬間、百丈は悟りを得た。

馬祖の言葉によって、百丈のなかの何かが触発された。それは禅がエンライトメント(大悟)と呼ぶものだった。

彼は自らの「ここ」にあること、自らの「いま」にあることに気がついた。野ガモは、ただの口実にすぎなかった。

百丈には用意がととのっていた。あとほんのひと押しだった。彼はまさに境界線にいた。そして鼻をねじられて目を覚まし、百丈は大悟した。



痛みは目覚めにとって、このうえもない価値がある。眠れる弟子を目覚めさせるために、多くの師たちが痛みを用いてきた。

ところが、あなた方の古くからの宗教はみな、むしろその逆に、弟子をなぐさめ、彼らがよく眠れるように助ける。天国には神があり、地上のことは何もかもうまくいっている。何ひとつ心配することはない、と。

だが、禅はあなた方をなぐさめることにはまったく関心がない。それは、あなた方を目覚めさせることに興味をいだく。



次の日、いつもの法話の席に馬祖が坐ろうとするやいなや、百丈がやってきて坐具をたたんでしまい、師は禅床からおりるしかなかった。

百丈自身が、光明をえた師になっていた。いまや彼は、師が対応するように対応していた。もはや百丈に法話は必要ではなかった。必要とするものはすべて、きのう得てしまっていた。

「きのう、おまえは心をどこに用いていたのだ?」

と馬祖はたずねた。

弟子はただこう言った。

「今日はもう鼻は痛みません」










引用:空っぽの鏡・馬祖




2016年5月17日火曜日

「梅の実も熟したとみえる」 [大梅と馬祖]




あるとき、大梅(たいばい)という名の僧が、馬祖(ばそ)の門下にくわわった。



大梅(たいばい)は師にたずねた。

「仏とは何でしょう?」

馬祖(ばそ)は応えた。

「仏とは、現在の心だ」

これを聞いた大梅(たいばい)は大悟した。



大梅(たいばい)は山中にひきこもると、何年も時のたつのを忘れて、ただ周囲の山々が緑や黄にかわるのを眺めて暮らした。

ある日、馬祖(ばそ)は彼を試してやろうと、ひとりの僧をつかわした。

その僧は大梅(たいばい)にたずねた。

「あなたはただ一度、馬祖にお会いしただけで大悟なされましたが、いったいどんな言葉で悟られたのですか?」

大梅は応えた。

「馬祖はそのとき、『現在の心が仏だ』と言われた」



「いまでは師の教えは異なっています」

と僧は大梅(たいばい)に言う。

「では、何なのだ?」

と大梅はたずねた。

「馬祖はいまや、『仏であるこの心そのものは、心でもなく仏でもない』と言っておられます」

と僧はこたえる。



「あの老漢め!」

と大梅は言う。

「いつになったら、人の心を惑わすことをやめるのか? 彼には

『心でもなく仏でもない』

と言わせておけばよい。わたしはこの

『現在の心そのものが仏だ』

を曲げるつもりはない」



使者が、このやり取りを告げると、馬祖(ばそ)は評して言った。

「梅の実も熟したとみえる」










話:OSHO(和尚)


絶えず覚えておかなければならない最も重要なことは、「禅師は哲学者ではない」ということだ。彼は合理的ではない。彼は基本的に極めて非合理で非条理だが、奇跡的にもあなたに、ごくはっきりとメッセージを伝える。その非条理、矛盾する言辞をもって。

今日、彼はこのことを言ったかと思うと、明日にはまた別のことを言う。もしそこに論理的なマインド(頭脳)をもちこんだら、あなたは「自分は惑わされている」と思うだろう。

が、同じことを言うのにも異なった言い方というものがある。実際、矛盾撞着を通してでさえ、おなじメッセージを伝えることができる。



2本の別々の指が、2つの異なった角度から同じ月を指ししめすことができる。

心はそれに困難をおぼえる。じつのところ、禅師のはたらきのすべては、あなたが心に疲れ、思考に疲れるように、物事を心にとって極めて難しいものにすることにある。

そうなれば、あなたは心をわきに置く。そして心をわきに置く、その安らかな瞬間、ふと気づくと、あなたは存在の入り口に立っている。



「仏とは、現在の心だ」

それは馬祖(ばそ)が生涯したがった慧能(えのう)の教えだった。

だが、「心はけっして現在にはない」ということを覚えておかなければならない。それは過去か未来にある。現在には空っぽの心がある。

肯定的な言葉をつかいたければ「現在の心」と呼べばよいし、否定的な言葉をつかいたければ「無心」と呼んでもよい。



真理は肯定も否定も、どちらの表現もとることができる。「現在の心」は、じつのところ「無心」を意味している。

心は過去にあることができるし、未来にあることもできるが、けっして現在にあることはできない。だから、現在にあるということは、心の支配そのものから抜けだすことを意味する。



「あの老漢め!」

大梅(たいばい)は、馬祖(ばそ)が表現を「肯定から否定にかえた」ことをはっきりと理解した。凡庸な人間なら惑わすこともできるが、すでに光明をえた者を惑わすことはできない。

もし大梅が「馬祖に同意していない」と考えるなら、あなたは理解していない。彼は完璧に同意している。肯定も否定もおなじ意味であることを理解している。表現が変わっただけで、「表現されているもの」は同じだ。



「梅の実も熟したとみえる」

馬祖は、大梅が光明をえていることを十分に承知していた。光明をえていない者なら混乱したに違いない。

なぜなら、光明をえていない者は「肯定と否定がおなじ意味、おなじ意義になること」など考えもつかないからだ。イエスとノーには対立しない場所がある。










引用:空っぽの鏡・馬祖