2016年5月17日火曜日
「梅の実も熟したとみえる」 [大梅と馬祖]
あるとき、大梅(たいばい)という名の僧が、馬祖(ばそ)の門下にくわわった。
大梅(たいばい)は師にたずねた。
「仏とは何でしょう?」
馬祖(ばそ)は応えた。
「仏とは、現在の心だ」
これを聞いた大梅(たいばい)は大悟した。
大梅(たいばい)は山中にひきこもると、何年も時のたつのを忘れて、ただ周囲の山々が緑や黄にかわるのを眺めて暮らした。
ある日、馬祖(ばそ)は彼を試してやろうと、ひとりの僧をつかわした。
その僧は大梅(たいばい)にたずねた。
「あなたはただ一度、馬祖にお会いしただけで大悟なされましたが、いったいどんな言葉で悟られたのですか?」
大梅は応えた。
「馬祖はそのとき、『現在の心が仏だ』と言われた」
「いまでは師の教えは異なっています」
と僧は大梅(たいばい)に言う。
「では、何なのだ?」
と大梅はたずねた。
「馬祖はいまや、『仏であるこの心そのものは、心でもなく仏でもない』と言っておられます」
と僧はこたえる。
「あの老漢め!」
と大梅は言う。
「いつになったら、人の心を惑わすことをやめるのか? 彼には
『心でもなく仏でもない』
と言わせておけばよい。わたしはこの
『現在の心そのものが仏だ』
を曲げるつもりはない」
使者が、このやり取りを告げると、馬祖(ばそ)は評して言った。
「梅の実も熟したとみえる」
…
話:OSHO(和尚)
絶えず覚えておかなければならない最も重要なことは、「禅師は哲学者ではない」ということだ。彼は合理的ではない。彼は基本的に極めて非合理で非条理だが、奇跡的にもあなたに、ごくはっきりとメッセージを伝える。その非条理、矛盾する言辞をもって。
今日、彼はこのことを言ったかと思うと、明日にはまた別のことを言う。もしそこに論理的なマインド(頭脳)をもちこんだら、あなたは「自分は惑わされている」と思うだろう。
が、同じことを言うのにも異なった言い方というものがある。実際、矛盾撞着を通してでさえ、おなじメッセージを伝えることができる。
2本の別々の指が、2つの異なった角度から同じ月を指ししめすことができる。
心はそれに困難をおぼえる。じつのところ、禅師のはたらきのすべては、あなたが心に疲れ、思考に疲れるように、物事を心にとって極めて難しいものにすることにある。
そうなれば、あなたは心をわきに置く。そして心をわきに置く、その安らかな瞬間、ふと気づくと、あなたは存在の入り口に立っている。
「仏とは、現在の心だ」
それは馬祖(ばそ)が生涯したがった慧能(えのう)の教えだった。
だが、「心はけっして現在にはない」ということを覚えておかなければならない。それは過去か未来にある。現在には空っぽの心がある。
肯定的な言葉をつかいたければ「現在の心」と呼べばよいし、否定的な言葉をつかいたければ「無心」と呼んでもよい。
真理は肯定も否定も、どちらの表現もとることができる。「現在の心」は、じつのところ「無心」を意味している。
心は過去にあることができるし、未来にあることもできるが、けっして現在にあることはできない。だから、現在にあるということは、心の支配そのものから抜けだすことを意味する。
「あの老漢め!」
大梅(たいばい)は、馬祖(ばそ)が表現を「肯定から否定にかえた」ことをはっきりと理解した。凡庸な人間なら惑わすこともできるが、すでに光明をえた者を惑わすことはできない。
もし大梅が「馬祖に同意していない」と考えるなら、あなたは理解していない。彼は完璧に同意している。肯定も否定もおなじ意味であることを理解している。表現が変わっただけで、「表現されているもの」は同じだ。
「梅の実も熟したとみえる」
馬祖は、大梅が光明をえていることを十分に承知していた。光明をえていない者なら混乱したに違いない。
なぜなら、光明をえていない者は「肯定と否定がおなじ意味、おなじ意義になること」など考えもつかないからだ。イエスとノーには対立しない場所がある。
…
引用:空っぽの鏡・馬祖
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