話:OSHO(和尚)
…
沢庵は書いている。
うつるとも 月もおもはず
うつすとも 水もおもはぬ
広沢の池
沢庵の僧院は、広沢の池のちかくにあった。この小さな詩のなかに、禅の真髄のすべてが込められている。
うつるとも 月もおもはず
あなたは月がそう意図して、何千の海や湖や池にうつる影を落としていると思うだろうか? 月には計らいというものがない。
そしてまた一方で、
うつすとも 水もおもはぬ
池や湖や大洋にも、月を宿そうする欲望はないし、あえてそれを映しだそうとはしていない。
広沢の池
その何という穏やかさ!
そこに映る月の影にすらかき乱されない。それを気にもかけない。彼の詩があなたに言っているのは、「計らいもなく、いかなる目標もなく、達成したいというどんな欲望も、野心もなく生きよ」ということだ。
意図をもって生きる人は、かならず欲求不満をおぼえる。期待をいだいて生きる人は、かならず失望をあじわう。なぜなら、存在には、あなたに対する義務はないからだ。
が、意図もなく、期待もなしに生きるなら、奇跡的にも、あなたはかつて夢みたすべてのものが叶えられているのを見いだす。
月は池にうつっている。
池はそれを求めたわけではなく、月もそれを意図したわけではない。存在はひとりでに続いていく。
自らの欲望、野心、期待をもちこんではいけない。それらは妨げを生みだす。それはあなたの心のなかにカオス(混乱)をつくりだす。
だが、なにに対する計らいもなければ…、「広沢の池」のなんという穏やかさ!
月がうつっても、池は胸をおどらせはしない。これほどの美しい月を、広沢の池は淡々と、さりげなく映しだしている。たとえそれが映らなくても、失望というものはまったく起こってこないだろう。月があろうとなかろうと、何ひとつ違いはない。
広沢の池はしずかだ。
あなたの意識もそうあるべきだ。
まさに静かな池のように。
…
覚者(ブッダ)は鏡だ。
ブッダはただ映しだし、リアクト(反応)しない。彼はいつも鏡のように空っぽだ。鏡のまえを様々なものが行ったり来たりするが、何ひとつ鏡には跡が残らない。
わたしはこのシリーズを『空っぽの鏡・馬祖 』と呼ぶが、それはひとえに、彼の教えのすべてが「反応せず、ただ在り、映しだすこと」にあったからだ。
話:マ・デヴァ・サリト
…
「反応しない」
はたして、そんなことが可能だろうか?
私たちは生まれたときから反応するように訓練されている。「ダメだよ」、それでやめることを習う。「こんにちは」、それでほほえむことを習う。
そうやって層に層をかさねるうちに、私たちはいつしか、この「自分」と呼び習わされた、「条件づけられた反応」の寄せ集めにすぎないものになってしまう。
「リフレクト(映しだす)」こと。
それは私たちがよく reflect という単語から連想する「熟考する」という意味ではなく、「ただ鏡のように在る」ことだ。
反応しないこと、ただ在ること、この2つが「リフレクト(映しだす)」の前提条件になる。
…
話:OSHO(和尚)
あらゆるものを映しだす
鏡になりなさい
影を映そうとする計らいはない
ただ静かな広沢の池であれば
この現在の瞬間が
無心、無時間、まったき全一性
かぎりなき空間になる
ただ一面の鏡となり
なにものにも執着せず
家もなく、独りであるとき
あなたの意識はエベレストになる
引用:空っぽの鏡・馬祖
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