2016年5月13日金曜日

臨済の「四喝」 [横田南嶺]



話:横田南嶺





臨済の宗風は古来、将軍のごとしと言われ、「臨済将軍」と評される。あたかも将軍が軍に号令を発するがごとくに、勇猛果敢なるところがある。

その臨済の宗風を最も端的に表しているのが

「喝」

であろう。いまでも臨済宗の葬儀においては、導師が最後の引導を「一喝」で終えているところが多い。死者の未練執着をたちきって、引導をわたすのである。







わたしは学生時代に出家して、白山道場の小池心叟(しんそう)老師の弟子にさせていただいた。はじめて僧侶になった頃、師匠のおともをして葬儀にお参りすることがあった。兄弟子から、

「老師が一喝されるときには、腰をぬかさないように気をつけておけ」

と言われていた。あらかじめ心していても、小池心叟(しんそう)老師は小柄なかたであったが、その一喝は「百雷一時に落ちるか」のごとき迫力があった。







「一喝」が用いられたのがいつの頃からははっきりしないが、古く唐代の禅僧、馬祖道一(ばそ・どういつ)禅師がすでに一喝をはかれている。

百丈禅師が修行時代に、馬祖禅師と問答していて、馬祖禅師から大喝一声をくだされた。その折に、一喝をくらった百丈禅師は、3日間耳が聞こえなくなったというから、どれほどの大喝であったか、想像を絶する。







さて、その「喝」を臨済禅師は

「四喝」

といって、4つのはたらきがあると示されている。



第一は

「金剛王(こんごうおう)宝剣の一喝」

という。金剛とはダイヤモンドである。金剛の宝剣で一切を断ち切るはたらきである。仏の智慧がいっさいの煩悩を断ち切ることをたとえている。臨済禅師が「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」と言われたのはよく知られている。一切を断ち切るのである。葬儀の引導で「喝」をくだすのも執着を断ち切ることだ。



第二は

「踞地金毛(こじきんもう)の獅子の一喝」

という。これはあたかも獅子が大地にうずくまって獲物をねらうはたらきである。威厳にみちていて、なにものをも寄せつけないはたらきをいう。



第三には

「探竿影草(たんかんようぞう)の一喝」

といって、水の深さをさぐる竿(さお)のようなはたらきである。「一喝」をくらわしておいて、相手の力量をはかろうというはたらきがある。



第四には

「一喝の用を作(な)さず」

という。これはもはや「一喝」のはたらきさえもしない。「一喝」の気配もみせない。これはいかにも詰まらぬように思われるかもしれないが、これが最も容易ならぬ「一喝」でもある。







臨済禅師がいよいよ御遷化(ごせんげ)になるときに、臨済禅師が威儀をただして言われた。

「わしが亡くなった後、わが教えを滅ぼしてはならぬ」

と。



弟子の三聖(さんしょう)が進みでて、

「どうして我が師のおしえを滅ぼしたりいたしましょうか」

と告げると、臨済禅師は

「もし、この後、誰かがそなたに『臨済のおしえとは、どのようなものであったか?』と問うたならば、どう答えるか」

と問うと、三聖はそこで「一喝」した。



その「一喝」をきいて臨済禅師は

「あに図らんや、わが教えはこの『盲目の驢馬(ろば)』のところで滅びてしまうとは」







古来、禅家では

「臨済の喝、徳山の棒」

といって、一喝をくらわし、一棒をくらわして弟子を鍛え、教えを伝えてきた。



「蛇一寸を出(いづ)れば、その大と小とを知り、人一言を出(いだ)せば、その長と短とを知る」

という禅語がるが、「一喝」で禅僧の力量がはかられる。



小池心叟(しんそう)老師のようなお方の「一喝」は見事であったが、老師は常々われわれ弟子には

「けっして無闇に一喝をするべきではない」

と戒められた。

「一喝をするのであれば、まず自らに一喝をせよ」

と教えられた。











出典:致知2016年6月号
横田南嶺「喝」




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