2016年5月29日日曜日

Dhammapada「法句経」第一章 [English・パーリ語]



ダンマパダ(真理のことば)
Dhammapada

法句経
dhammapadapāḷi


日本語:中村元(正田大観)
English:Max F. Müller







第一章
Chapter 1

ひと組ずつ
The Twin-Verses

対なるものの章
yamakavagga






チャックパーラ長老の事例
cakkhupālattheravatthu

1.

ものごとは心(thoughts)にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。

All that we are is the result of what we have thought: it is founded on our thoughts, it is made up of our thoughts.

もしも汚れた心(an evil thought)で話したり行ったりするならば、苦しみ(pain)はその人につき従う。

If a man speaks or acts with an evil thought, pain follows him,

(the carriage)をひく〔牛〕の足跡(the foot of the ox)に車輪(the wheel)がついて行くように。

as the wheel follows the foot of the ox that draws the carriage.



諸々の法(dhamma)は、意(mano)を先行〔の因〕とし、意を最勝〔の因〕とし、意をもとに作られる。

manopubbaṃ gamā dhammā, manoseṭṭhā manomayā;

もし、汚れた意で、あるいは、語り、あるいは、為すなら、

manasā ce paduṭṭhena, bhāsati vā karoti vā; 

そのうち、彼に、苦しみ(dukkha)が従い行く。〔荷を〕運ぶ〔牛〕の足跡(pada)に、車輪(cakka)〔付き従う〕ように。

tato naṃ dukkhamanve ti, cakkaṃva vahato padaṃ.



マッタクンダリの事例
maṭṭhakuṇḍalīvatthu

2.

ものごとは心(thoughts)にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。

All that we are is the result of what we have thought: it is founded on our thoughts, it is made up of our thoughts.

もしも清らかな心(a pure thought)で話したり行ったりするならば、福楽(happiness)はその人につき従う。

If a man speaks or acts with a pure thought, happiness follows him,

(a shadow)がそのからだから離れないように。

like a shadow that never leaves him.



諸々の法(dhamma)は、意(mano)を先行〔の因〕とし、意を最勝〔の因〕とし、意をもとに作られる。

manopubbaṃ gamā dhammā, manoseṭṭā manomayā; 

もし、清らかな意で、あるいは、語り、あるいは、為すなら、

manasā ce pasannena, bhāsati vā karoti vā; 

そののち、彼に、楽しみ(sukha)が従い行く。影(chāyā)が離れないように。

tato naṃ sukhamanveti, chāyāva anapāyinī.







ティッサ長老の事例
tissattheravatthu

3.

「かれ(he)は、われ(me)を罵った。

"He abused me,

かれは、われを害した。

he beat me,

かれはわれにうち勝った。

he defeated me,

かれは、われから強奪した」

he robbed me."

という思い(thoughts)をいだく人には、怨み(hatred)はついに息(や)むことがない。

in those who harbour such thoughts hatred will never cease.



〔彼は〕わたしを罵った。

akkocchi maṃ 

〔彼は〕わたしを打った。

avadhi maṃ, 

〔彼は〕わたしに勝った。

ajini maṇ 

〔彼は〕わたしから奪った」〔と〕

ahāsi me; 

しかして、彼らが、彼を怨むなら、彼らの怨み(vera)は静まることがない。

ye ca taṃ upanayhanti, veraṃ tesaṃ na sammati.



4.

「かれは、われを罵った。

"He abused me,

かれは、われを害した。

he beat me,

かれは、われにうち勝った。

he defeated me,

かれは、われから強奪した」

he robbed me,"

という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。

in those who do not harbour such thoughts hatred will cease.



〔彼は〕わたしを罵った。

akkocchi maṃ 

〔彼は〕わたしを打った。

avadhi maṃ, 

〔彼は〕わたしに勝った。

ajini maṇ 

〔彼は〕わたしから奪った」〔と〕

ahāsi me; 

しかして、彼らが、彼を怨まないなら、彼らの怨み(vera)は止み静まる。

ye ca taṃ nupanayhanti, veraṃ tesūpasammati.



カーリー女夜叉の事例
kāḷayakkhinīvatthu

5.

実にこの世においては、怨み(hatred)に報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。

For hatred does not cease by hatred at any time: 

怨みをすててこそ息(や)む。

hatred ceases by love, 

これは永遠の真理である。

this is an old rule.



まさに、〔怨みにたいし〕怨み(vera)をもって〔為すなら〕諸々の怨みは、この〔世において〕、いついかなる時も、静まることがない。

na hi verena verāni, sammantīdha kudācanaṃ; 

しかしながら、〔怨みにたいし〕怨みなきをもって〔為すなら〕〔諸々の怨みは〕静まる。

averena ca sammanti, 

これは、永遠の法(真理)である。

esa dhammo sanantano.



コーサンビーの者たちの事例
kosambakavatthu

6

「われらは、ここにあって死ぬはずのもの(come to an end)である」と覚悟をしよう。このことわりを他の人々(the world)は知っていない。

The world does not know that we must all come to an end here; 

しかし、このことわりを知る人々があれば、争い(quarrels)はしずまる。

but those who know it, their quarrels cease at once.



しかしながら、他者たちは、〔わたしたちが滅び行く存在であることを〕識知しない。

pare ca na vijānanti, 

わたしたちは、ここにおいて、〔自ら滅び行く存在であることを識知して、自らを〕制するのだ。

mayamettha yamāmase; 

しかして、彼らが、そこにおいて〔自らが滅び行く存在であることを〕識知するなら、そののち、諸々の確執(medhaga)は静まる。

ye ca tattha vijānanti, tato sammanti medhagā.



マハーカーラ長老の事例
mahākāḷattheravatthu

7.

この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、

He who lives looking for pleasures only, 

(眼などの)感官(senses)を抑制せず、

his senses uncontrolled, 

食事の節度を知らず、

immoderate in his food, 

怠けて勤めない者は、

idle, and weak, 

悪魔(Mara)にうちひしがれる。

Mara (the tempter) will certainly overthrow him, 

弱い樹木(a weak tree)が風に倒されるように。

as the wind throws down a weak tree.



浄美の随観者(不浄のものを「美しく価値がある」と見る者)として〔世に〕住んでいる者を、

subhānupassiṃ viharantaṃ, 

諸々の〔感官の〕機能(根)において〔自己が〕統制されていない者を、

indriyesu asaṃvutaṃ; 

さらには、食について量を知らない者を、

bhojanamhi cāmattaññuṃ, 

怠惰で精進に劣る者を、

kusītaṃ, hīnavīriyaṃ; 

彼を、まさに、悪魔(māra)は打ち負かす。

taṃ ve pasahati māro,

風が、力の弱い木を〔倒す〕ように。

vāto rukkhaṃva dubbalaṃ.



8.

この世のものを不浄であると思いなして暮らし、

He who lives without looking for pleasures,

(眼などの)感官(senses)をよく抑制し、

his senses well controlled,

食事の節度を知り、

moderate in his food,

信念あり、勤めはげむ者は、

faithful and strong,

悪魔にうちひしがれない。

him Mara will certainly not overthrow,

岩山(a rocky mountain)が風にゆるがないように。

any more than the wind throws down a rocky mountain.



不浄の随観者(不浄のものを「美しくなく価値がない」と見る者)として〔世に〕住んでいる者を、

asubhānupassiṃ viharantaṃ, 

諸々の〔感官の〕機能において〔自己が〕善く統御された者を、

indriyesu susaṃvutaṃ; 

さらには、食について量を知る者を、

bhojanamhi ca mattaññuṃ, 

信があり精進に励む者を、

saddhaṃ āraddhavīriyaṃ; 

彼を、まさに、悪魔は打ち負かさない。

taṃ ve nappasahati māro, 

風が、山の巌を〔倒そうとして倒せない〕ように。

vāto selaṃva pabbataṃ.







デーヴァダッタの事例
devadattavatthu

9.

けがれた汚物(sin)を除いていないのに、黄褐色の法衣(the yellow dress)をまとおうと浴する人は、

He who wishes to put on the yellow dress without having cleansed himself from sin, 

自制が無く真実も無いのであるから、

who disregards temperance and truth, 

黄褐色の法衣(the yellow dress)にふさわしくない。

is unworthy of the yellow dress.



すなわち、無濁ならざる者が、黄褐色の衣(袈裟)をまとうとして、

anikkasāvo kāsāvaṃ, yo vatthaṃ paridahissati; 

調御と真理(諦)から離れた者は、

apeto damasaccena, 

彼は、黄褐色〔の衣〕に値しない。

na so kāsāvamarahati.



10.

けがれた汚物(sin)を除いていて、戒律(virtues)をまもることに専念している人は、

But he who has cleansed himself from sin, is well grounded in all virtues, 

自制と真実とをそなえているから、

and regards also temperance and truth, 

黄褐色の法衣(the yellow dress)をまとうのにふさわしい。

he is indeed worthy of the yellow dress.



しかして、すなわち、汚濁を吐き捨てた者として〔世に〕存し、諸戒において〔心が〕善く定められたなら、

yo ca vantakasāvassa, sīlesu susamāhito; 

調御と真理を具した者は、

upeto damasaccena, 

彼は、まさに、黄褐色〔の衣〕に値する。

sa ve kāsāvamarahati.



サーリプッタ長老の事例
sāriputtattheravatthu

11.

まことではないもの(untruth)を、まことである(truth)と見なし、

They who imagine truth in untruth, 

まことであるもの(truth)を、まことではない(untruth)と見なす人々は、

and see untruth in truth, 

あやまった思い(vain desires)にとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。

never arrive at truth, but follow vain desires.



真髄(実:真実・本質)なきものについて真髄と思い、さらには、真髄あるものについて真髄なきと見る者たち -- 誤った思惟(邪思惟)を境涯とする者たちは、彼らは、〔法の〕真髄に到達しない。

asāre sāramatino, sāre cāsāradassino; te sāraṃ nādhigacchanti, micchāsaṃkappago carā.



12.

まことであるもの(truth)を、まことである(truth)と知り、

They who know truth in truth, 

まことではないもの(untruth)を、まことではない(untruth)と見なす人は、

and untruth in untruth, 

正しき思い(true desires)にしたがって、ついに真実(まこと)に達する。

arrive at truth, and follow true desires.



しかしながら、真髄を真髄と知って、さらには、真髄なきものを真髄なきものと〔知って〕、正しい思惟(正思惟)を境涯とする者たちは、彼らは、〔法の〕真髄に到達する。

sārañca sārato ñatvā, asārañca asārato; te sāraṃ adhigacchanti, sammāsaṃkappago carā






ナンダ長老の事例
nandattheravatthu

13.

屋根を粗雑に葺(ふ)いてある家(an ill-thatched house)には雨が漏れ入るように、

As rain breaks through an ill-thatched house, 

(mind)を修養していないならば、情欲(passion)が心に侵入する。

passion will break through an unreflecting mind.



すなわち、〔屋根が〕だらしなく覆われた家に、雨が漏れ入るように、このように、修められていない心に、貪り〔の思い〕は漏れ入る。

yathā agāraṃ ducchannaṃ, vuṭṭhī samativijjhati; evaṃ abhāvitaṃ cittaṃ, rāgo samativijjhati.



14.

屋根をよく葺(ふ)いてある家(a well-thatched house)には雨の漏れ入ることが無いように、

As rain does not break through a well-thatched house, 

(mind)をよく修養してあるならば、情欲(passion)の侵入することがない。

passion will not break through a well-reflecting mind.



すなわち、〔屋根が〕しっかりと覆われた家に、雨が漏れ入らないように、このように、善く修められた心に、貪り〔の思い〕は漏れ入らない。

yathā agāraṃ suchannaṃ, vuṭṭhī na samativijjhati; evaṃ subhāvitaṃ cittaṃ, rāgo na samativijjhati.



チュンダ屠豚者の事例
cundasūkarikavatthu

15.

悪いことをした人(the evil-doer)は、この世(this world)で憂え、来世(the next)でも憂え、ふたつのところで共に憂える。

The evil-doer mourns in this world, and he mourns in the next; he mourns in both.

かれは、自分の行為(his own work)が汚れているのを見て、憂え、悩む。

He mourns and suffers when he sees the evil of his own work.



悪しき〔行為〕を為す者(悪業を作る者)は、この〔世において〕憂い悲しみ、死してのち憂い悲しむ。〔すなわち〕両所において憂い悲しむ。彼は、〔この世において〕憂い悲しみ、彼は、〔死してのち〕打ちのめされる -- 自己の行為(業)の汚れを見て。

idha socati pecca socati, pāpakārī ubhayattha socati; so socati so vihaññati, disvā kammakiliṭṭhamatta no.



ダンミカ在俗信者の事例
dhammikaupāsakavatthu

16.

善いことをした人(the virtuous man)は、 この世(this world)で喜び、来世(the next)でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。

The virtuous man delights in this world, and he delights in the next; he delights in both.

かれは、自分の行為(his own work)が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。

He delights and rejoices, when he sees the purity of his own work.



善き〔行為〕を為した者は、この〔世において〕歓喜し、死してのち歓喜する。〔すなわち〕両所において歓喜する。彼は、〔この世において〕歓喜し、彼は、〔死してのち〕大いに歓喜する -- 自己の行為の清浄を見て。

idha modati pecca modati, katapuñño ubhayattha modati; so modati so pamodati, disvā kammavisuddhimatt ano.



デーヴァダッタの事例
devadattavatthu

17.

悪いことをした人(the evil-doer)は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。

The evil-doer suffers in this world, and he suffers in the next; he suffers in both.

「わたしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(=地獄など)(the evil path)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。

He suffers when he thinks of the evil he has done; he suffers more when going on the evil path.



悪しき〔行為〕を為す者は、この〔世において〕悩み苦しみ、死してのち悩み苦しむ。〔すなわち〕両所において悩みくる住む。〔この世では〕「わたしは、悪を為した(悪業を作った)」と悩み苦しみ、〔死後は〕悪しき境遇(悪趣)に赴き、より一層、悩み苦しむ。

idha tappati pecca tappati, pāpakārī ubhayattha tappati; "pāpaṃ me katan" ti tappati, bhiyyo tappati duggatiṃ gato.



スマナーデーヴィーの事例
sumanadevīvatthu

18.

善いことをなす者(the virtuous man)は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。

The virtuous man is happy in this world, and he is happy in the next; he is happy in both.

「わたしは善いことをしました」といって歓喜し、幸(さち)あるところ(=天の世界)(the good path)におもむいて、さらに喜ぶ。

He is happy when he thinks of the good he has done; he is still more happy when going on the good path.



善き〔行為〕を為した者(功徳を作った者)は、この〔世において〕愉悦し、死してのち愉悦する。〔すなわち〕両所において愉悦する。〔この世では〕「わたしは、善を為した(功徳を作った)」と愉悦し、〔死後は〕善き境遇(善趣)に赴き、より一層、愉悦する。

idha nandati pecca nandati, katapuñño ubhayattha nandati; "puññaṃ me katan" ti nandati, bhiyyo nandati suggatiṃ gato.



二者の道友の比丘の事例
dvesahāyakabhikkhuvatthu

19.

たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。

The thoughtless man, even if he can recite a large potion (of the law), but is not a doer of it, 

牛飼い(a cowherd)が他人の牛(the cow of others)を数えているように。かれは修行者の部類(the priesthood)には入らない。

has no share in the priesthood, but is like a cowherd counting the cows of others.



たとえ、もし、益を有する〔聖典の言葉〕を多く語るも、それを為す者と成らないなら、怠る人である。他者たちの牛を数えている牛飼いのようなものであり、沙門(修行者)の資質を分け持つ者には成らない。

bahumpi ce saṃhita bhāsamāno, na takkaro hoti naro pamatto; gopova gāvo gaṇayaṃ paresaṃ, na bhāgavā sāmaññassa hoti.



20.

たとえためになることを少ししか語らないにしても、

The follower of the law, even if he can recite only a small potion (of the law)

理法にしたがって実践し、情欲(passion)と怒り(hatred)と迷妄(foolishness)とを捨てて、

but, having forsaken passion and hatred and foolishness, 

正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類(the priesthood)に入る。

possesses true knowledge and serenity of mind, he, caring for nothing in this world or that to come, has indeed a share in the priesthood.



たとえ、もし、益を有する〔聖典の言葉〕を僅かに語るも、法(教え)を法(教え)のままに行じおこなう者として〔世に〕有るなら、貪り(貪)と、怒り(瞋)と、迷い(痴)を捨棄して、心が善く解脱した正知の者は、この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、〔両者ともに〕執取することなく、彼は、沙門の資質を分け持つ者と成る。

appampi ce saṃhita bhāsamāno, dhammassa hoti anudhammacārī; rāgañca dosañca pahāya mohaṃ, sammappajāno suvimuttacitto; anupādiyāno idha vā haraṃ vā, sa bhāgavā sāmaññassa hoti.






対なるものの章が、第一となる。
yamakavaggo paṭhamo.






英語音声↓





パーリ語音声
Dhammapada (Pali) - 1/26.
Yamakavaggo - by Ven. Ariyadhamma Maha Thero



引用:
The Dhammapada (Wisehouse Classics - The Complete & Authoritative Edition)
ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)
小部経典 第一巻 (パーリ語原文付)~正田大観 翻訳集 ブッダの福音~




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