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道元
辦道話 [弁道話]03
とうていはく、仏家なにゝよりてか、四儀のなかに、たゞし坐にのみおほせて禅定をすゝめて証入をいふや。
しめしていはく、むかしよりの諸仏、あひつぎて修行し、証入せるみち、きはめしりがたし。ゆゑをたづねば、ただ仏家のもちゐるところをゆゑとしるべし。このほかにたづぬべからず。たゞし、祖師ほめていはく、「坐禅はすなはち安楽の法門なり」。はかりしりぬ、四儀のなかに安楽なるゆゑか。いはむや、一仏二仏の修行のみちにあらず、諸仏諸祖にみなこのみちあり。
とうていはく、この坐禅の行は、いまだ仏法を証会せざらんものは、坐禅辦道してその証をとるべし。すでに仏正法をあきらめえん人は、坐禅なにのまつところかあらむ。
しめしていはく、痴人のまへにゆめをとかず、山子の手には舟棹をあたへがたしといへども、さらに訓をたるべし。
それ、修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辦道すなはち本証の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ、直指の本証なるがゆゑなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。ここをもて、釈迦如来、迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師、大鑑高祖、おなじく証上の修に引転せらる。仏法住持のあと、みなかくのごとし。
すでに証をはなれぬ修あり、われらさいはひに一分の妙修を単伝せる、初心の辦道すなはち一分の本証を無為の地にうるなり。しるべし、修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。妙修を放下すれば本証手の中にみてり、本証を出身すれば、妙修通身におこなはる。
又、まのあたり大宋国にしてみしかば、諸方の禅院みな坐禅堂をかまへて、五百六百および一二千僧を安じて、日夜に坐禅をすゝめき。その席主とせる伝仏心印の宗師に、仏法の大意をとぶらひしかば、修証の両段にあらぬむねをきこえき。
このゆゑに、門下の参学のみにあらず、求法の高流、仏法のなかに真実をねがはむ人、初心後心をえらばず、凡人聖人を論ぜず、仏祖のをしへにより、宗匠の道をおふて、坐禅辦道すべしとすゝむ。
きかずや祖師のいはく、「修証はすなはちなきにあらず、染汚することはえじ」。
又いはく、「道をみるもの、道を修す」と。しるべし、得道のなかに修行すべしといふことを。
とうていはく、わが朝の先代に、教をひろめし諸師、ともにこれ入唐伝法せしとき、なんぞこのむねをさしおきて、たゞ教をのみつたへし。
しめしていはく、むかしの人師、この法をつたへざりしことは、時節のいまだいたらざりしゆゑなり。
とうていはく、かの上代の師、この法を会得せりや。
しめしていはく、会せば通じてむ。
とうていはく、あるがいはく、「生死をなげくことなかれ、生死を出離するにいとすみやかなるみちあり。いはゆる、心性の常住なることわりをしるなり。そのむねたらく、この身体は、すでに生あればかならず滅にうつされゆくことありとも、この心性はあへて滅する事なし。よく生滅にうつされぬ心性わが身にあることをしりぬれば、これを本来の性とするがゆゑに、身はこれかりのすがたなり、死此生彼さだまりなし。心はこれ常住なり、去来現在かはるべからず。かくのごとくしるを、生死をはなれたりとはいふなり。このむねをしるものは、従来の生死ながくたえて、この身をはるとき性海にいる。性海に朝宗するとき、諸仏如来のごとく妙徳まさにそなはる。いまはたとひしるといへども、前世の妄業になされたる身体なるがゆゑに、諸聖とひとしからず。いまだこのむねをしらざるものは、ひさしく生死にめぐるべし。しかあればすなはち、たゞいそぎて心性の常住なるむねを了知すべし。いたづらに閑坐して一生をすぐさん、なにのまつところかあらむ」。
かくのごとくいふむね、これはまことに諸仏諸祖の道にかなへりや、いかむ。
しめしていはく、いまいふところの見、またく仏法にあら。先尼外道が見なり。
いはく、かの外道の見は、わが身うちにひとつの霊知あり、かの知、すなはち縁にあふところに、よく好悪をわきまへ、是非をわきまふ。痛痒をしり、苦楽をしる、みなかの霊知のちからなり。しかあるに、かの霊性は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにむまるゝゆゑに、ここに滅すとみゆれども、かしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり。かの外道が見、かくのごとし。
しかあるを、この見をならうて仏法とせむ、瓦礫をにぎつて金宝とおもはんよりもなほおろかなり。癡迷のはづべき、たとふるにものなし。大唐国の慧忠国師、ふかくいましめたり。いま心常相滅の邪見を計して、諸仏の妙法にひとしめ、生死の本因をおこして、生死をはなれたりとおもはん、おろかなるにあらずや。もともあはれむべし。たゞこれ外道の邪見なりとしれ、みゝにふるべからず。
ことやむことをえず、いまなほあはれみをたれて、なんぢが邪見をすくはば、しるべし、仏法にはもとより身心一如にして、性相不二なりと談ずる、西天東地おなじくしれるところ、あへてうたがふべからず。いはむや常住を談ずる門には、万法みな常住なり、身と心とをわくことなし。寂滅を談ずる門には、諸法みな寂滅なり、性と相とをわくことなし。しかあるを、なんぞ身滅心常といはむ、正理にそむかざらむや。しかのみならず、生死はすなはち涅槃なりと覚了すべし、いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし。いはむや、心は身をはなれて常住なりと領解するをもて、生死をはなれたる仏智に妄計すといふとも、この領解知覚の心は、すなはちなほ生滅して、またく常住ならず。これ、はかなきにあらずや。
嘗観すべし、身心一如のむねは、仏法のつねの談ずるところなり。しかあるに、なんぞこの身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて生滅せざらむ。もし一如なるときあり、一如ならぬときあらば、仏説おのづから虚妄になりぬべし。又、生死はのぞくべき法ぞとおもへるは、仏法をいとふつみとなる。つゝしまざらむや。
しるべし、仏法に心性大総相の法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず、生滅をいふことなし。菩提涅槃におよぶまで、心性にあらざるなし。一切諸法万象森羅ともにたゞこれ一心にして、こめずかねざることなし。このもろもろの法門、みな平等一心なり。あへて異違なしと談ずる、これすなはち仏家の心性をしれる様子なり。
しかあるを、この一法に身と心とを分別し、生死と涅槃とをわくことあらむや。すでに仏子なり、外道の見をかたる狂人のしたのひゞきを、みゝにふるゝことなかれ。
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