2019年12月3日火曜日

【原文】正法眼蔵_弁道話_01




道元



辦道話(べんどうわ) [弁道話]01

諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提(あのくぼだい)(しょう)するに、最上無為(むい)の妙術あり。これたゞ、ほとけ(ほとけ)にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用(じじゅよう)三昧(ざんまい)、その標準なり。

この三昧に遊化(ゆけ)するに、端座参禅を正門(しょうもん)とせり。この法は、人人(にんにん)分上(ぶんじょう)にゆたかにそなはれりといへども、いまだ(しゅ)せざるにはあらはれず、証せざるには、うることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならむや。かたればくちにみつ、縦横(じゅうおう)きはまりなし。諸仏のつねに、このなかに住持(じゅうじ)たる、各々(かくかく)の方面に知覚をのこさず。群生(ぐんしょう)のとこしなへにこのなかに使用(しよう)する、各々の知覚に方面あらはれず。

いまおしふる功夫(くふう)辦道(べんどう)は、証上に万法をあらしめ、出路に一如(いちにょ)を行ずるなり。その超関(ちょうかん)脱落のとき、この節目(せちもく)にかゝはらむや。



()発心(ほっしん)求法(ぐほう)よりこのかた、わが(ちょう)遍方(へんぼう)に知識をとぶらひき。ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華(そうか)すみやかに九廻(きゅうかい)をへたり。いさゝか臨済の家風をきく。全公は祖師西(せい)和尚の上足(じょうそく)として、ひとり無上の仏法を正伝(しょうでん)せり。あへて余輩のならぶべきにあらず。

予、かさねて大宋国(だいそうこく)におもむき、知識を両浙(りょうせち)にとぶらひ、家風を五門にきく。つひに太白峰(たいはくほう)の浄禅師に参じて、一生参学の大事こゝにをはりぬ。それよりのち、大宋紹定(じょうてい)のはじめ、本郷(ほんきょう)にかへりし、すなはち弘法(ぐほう)求生(くしょう)をおもひとせり。なほ重担をかたにおけるがごとし。

しかあるに、弘通(ぐづう)のこゝろを放下(ほうげ)せむ激揚のときをまつゆゑに、しばらく雲遊(うんゆう)萍寄(ひょうき)して、まさに先哲の(ふう)をきこえむとす。たゞし、おのづから名利にかゝはらず、道念をさきとせん真実の参学あらむか。いたづらに邪師にまどはされて、みだりに正解(しょうげ)をおほひ、むなしく自狂にゑうて、ひさしく迷郷(めいきょう)にしづまん、なにによりてか般若(はんにゃ)正種(しょうしゅ)(ちょう)じ、得道の時をえん。貧道はいま雲遊萍寄をこととすれば、いづれの山川(さんせん)をかとぶらはむ。これをあはれむゆゑに、まのあたり大宋国にして禅林の風規を見聞し、知識の玄旨を稟持(ひんじ)せしを、しるしあつめて、参学閑道の人にのこして、仏家(ぶっけ)の正法をしらしめんとす。これ真訣(しんけつ)ならんかも。いはく、

大師(だいし)釈尊、霊山(りょうぜん)会上(えじょう)にして法を迦葉(かしょう)につけ、祖祖正伝して菩提達磨尊者にいたる。尊者、みづから神丹国(しんだんこく)におもむき、法を慧可(えか)大師につけき。これ東地の仏法伝来のはじめなり。

かくのごとく単伝して、おのづから六祖大鑑(だいかん)禅師にいたる。このとき、真実の仏法まさに東漢に流演(るえん)して、節目(せちもく)にかゝはらぬむねあらはれき。ときに六祖に二位の神足(じんそく)ありき。南嶽の懐譲(えじょう)青原(せいげん)行思(ぎょうし)となり。ともに仏印(ぶっちん)を伝持して、おなじく人天(にんでん)導師(どうし)なり。その二派の流通(るづう)するに、よく五門ひらけたり。いはゆる法眼宗(ほうげんしゅう)潙仰宗(いぎょうしゅう)曹洞宗(そうとうしゅう)雲門宗(うんもんしゅう)臨済宗(りんざいしゅう)なり。見在(げんざい)、大宋には臨済宗のみ天下にあまねし。五()ことなれども、たゞ一仏心印なり。

大宋国も後漢よりこのかた、教籍(きょうじゃく)あとをたれて一天にしけりといへども、雌雄(しゆう)いまださだめざりき。祖師西来ののち、(じき)に葛藤の根源をきり、純一の仏法ひろまれり。わがくにも又しかあらん事をこひねがふべし。

いはく、仏法を住持せし諸祖ならびに諸仏、ともに自受用(じじゅよう)三昧(ざんまい)に端坐依行(えぎょう)するを、その開悟のまさしきみちとせり。西天(さいてん)東地(とうち)、さとりをえし人、その(ふう)にしたがへり。これ、師資ひそかに妙術を正伝し、真訣を稟持(ひんじ)せしによりてなり。



宗門の正伝にいはく、この単伝正直(しょうじき)の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香(しょうこう)礼拝(らいはい)、念仏、修懺(しゅさん)看経(かんきん)をもちゐず、ただし打坐(たざ)して身心脱落することをえよ。

もし(ひと)、一時なりといふとも、三(ごう)仏印(ぶっちん)を標し、三昧に端坐するとき、遍法界(へんほうかい)みな仏印となり、尽虚空(じんこくう)ことごとくさとりとなる。ゆゑに、諸仏如来をしては本地(ほんじ)法楽(ほうらく)をまし、覚道の荘厳(しょうごん)をあらたにす。および十方(じっぽう)法界(ほうかい)三途(さんず)六道(ろくどう)の群類、みなともに一時に身心(しんじん)明浄(みょうじょう)にして、大解脱地(だいげだつち)を証し、本来(ほんらいの)面目(めんもく)現ずるとき、諸法みな正覚(しょうがく)証会(しょうえ)し、万物(ばんもつ)ともに仏身を使用(しよう)して、すみやかに証会(しょうえ)辺際(へんざい)を一(ちょう)して、覚樹王(かくじゅおう)に端坐し、一時に無等等(むとうどう)大法輪(だいほうりん)を転じ、究竟(くきょう)無為(むい)深般若(じんはんにゃ)を開演す。

これらの等正覚(とうしょうがく)、さらにかへりてしたしくあひ冥資(みょうし)するみちかよふがゆえに、この坐禅人(ざぜんにん)確爾(かくに)として身心脱落し、従来(じゅうらい)雑穢(ぞうえ)の知見思量を截断(せつだん)して、天真の仏法に証会し、あまねく微塵(みじん)(ざい)そこばくの諸仏如来の道場ごとに仏事を助発(じょほつ)し、ひろく仏向上の機にかうぶらしめて、よく仏向上の法を激揚す。このとき、十方法界の土地(どぢ)草木(そうもく)牆壁(しょうへき)瓦礫(がりゃく)、みな仏事をなすをもて、そのおこすところの風水(ふうすい)利益(りやく)にあづかるともがら、みな甚妙(じんみょう)不可思議(ふかしぎ)仏化(ぶっけ)冥資(みょうし)せられて、ちかきさとりをあらはす。この水火(すいか)受用(じゅよう)するたぐひ、みな本証の仏化を周旋するゆゑに、これらのたぐひと共住(ぐじゅう)して同語するもの、またことごとくあいたがひに無窮の仏徳そなはり、展転(てんでん)広作(こうさ)して、無尽(むじん)無間断(むけんだん)、不可思議、不可称量の仏法を、遍法界(へんほうかい)内外(ないげ)流通(るづう)するものなり。しかあれども、このもろもろの当人(とうにん)の知覚に(こん)ぜざらしむることは、静中(じょうちゅう)無造作(むぞうさ)にして直証(じきしょう)なるをもてなり。もし、凡流(ぼんる)のおもひのごとく、修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはるは証則にあらず、証則には迷情およばざるがゆゑに。

又、心境ともに静中(じょうちゅう)の証入・悟出あれども、自受用(じじゅよう)境界(きょうがい)なるをもて、一(じん)をうごかさず、一(そう)をやぶらず、広大(こうだい)の仏事、甚深(じんじん)微妙(みみょう)の仏化をなす。この化道のおよぶところの草木(そうもく)土地(どぢ)ともに大光明をはなち、深妙法(じんみょうほう)をとくこと、きはまるときなし。草木(そうもく)牆壁(しょうへき)はよく凡聖(ぼんしょう)含霊(がんれい)のために宣揚し、凡聖(ぼんしょう)含霊(がんれい)はかへって草木(そうもく)牆壁(しょうへき)のために演暢(えんちょう)す。自覚覚他の境界(きょうがい)、もとより証相(しょうそう)をそなへてかけたることなく、証則おこなはれておこたるときなからしむ。

こゝをもて、わづかに一人一時の坐禅(ざぜん)なりといへども、諸法とあひ(みょう)し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽(むじん)法界(ほうかい)のなかに、去来現(こらいげん)に、常恒(じょうこう)仏化(ぶっけ)道事(どうじ)をなすなり。彼ゝ(ひひ)ともに一(とう)同修(どうしゅ)なり、同証なり。たゞ坐上の(しゅ)のみにあらず、(くう)をうちてひゞきをなすこと、(とう)の前後に妙声(みょうしょう)綿綿(めんめん)たるものなり。このきはのみにかぎらむや、百頭(はくとう)みな本面目(ほんめんもく)本修行(ほんしゅぎょう)をそなへて、はかりはかるべきにあらず。

しるべし、たとひ十方(じっぽう)無量(むりょう)恒河沙(ごうがしゃ)(すう)諸仏(しょぶつ)、ともにちからをはげまして、仏智慧(ちえ)をもて、一人坐禅の功徳(くどく)をはかりしりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。






→ 【原文】正法眼蔵_弁道話_02

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