道元
辦道話 [弁道話]01
諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これたゞ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。
この三昧に遊化するに、端座参禅を正門とせり。この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるには、うることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならむや。かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。諸仏のつねに、このなかに住持たる、各々の方面に知覚をのこさず。群生のとこしなへにこのなかに使用する、各々の知覚に方面あらはれず。
いまおしふる功夫辦道は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にかゝはらむや。
予、発心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき。ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華すみやかに九廻をへたり。いさゝか臨済の家風をきく。全公は祖師西和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝せり。あへて余輩のならぶべきにあらず。
予、かさねて大宋国におもむき、知識を両浙にとぶらひ、家風を五門にきく。つひに太白峰の浄禅師に参じて、一生参学の大事こゝにをはりぬ。それよりのち、大宋紹定のはじめ、本郷にかへりし、すなはち弘法求生をおもひとせり。なほ重担をかたにおけるがごとし。
しかあるに、弘通のこゝろを放下せむ激揚のときをまつゆゑに、しばらく雲遊萍寄して、まさに先哲の風をきこえむとす。たゞし、おのづから名利にかゝはらず、道念をさきとせん真実の参学あらむか。いたづらに邪師にまどはされて、みだりに正解をおほひ、むなしく自狂にゑうて、ひさしく迷郷にしづまん、なにによりてか般若の正種を長じ、得道の時をえん。貧道はいま雲遊萍寄をこととすれば、いづれの山川をかとぶらはむ。これをあはれむゆゑに、まのあたり大宋国にして禅林の風規を見聞し、知識の玄旨を稟持せしを、しるしあつめて、参学閑道の人にのこして、仏家の正法をしらしめんとす。これ真訣ならんかも。いはく、
大師釈尊、霊山会上にして法を迦葉につけ、祖祖正伝して菩提達磨尊者にいたる。尊者、みづから神丹国におもむき、法を慧可大師につけき。これ東地の仏法伝来のはじめなり。
かくのごとく単伝して、おのづから六祖大鑑禅師にいたる。このとき、真実の仏法まさに東漢に流演して、節目にかゝはらぬむねあらはれき。ときに六祖に二位の神足ありき。南嶽の懐譲と青原の行思となり。ともに仏印を伝持して、おなじく人天の導師なり。その二派の流通するに、よく五門ひらけたり。いはゆる法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗なり。見在、大宋には臨済宗のみ天下にあまねし。五家ことなれども、たゞ一仏心印なり。
大宋国も後漢よりこのかた、教籍あとをたれて一天にしけりといへども、雌雄いまださだめざりき。祖師西来ののち、直に葛藤の根源をきり、純一の仏法ひろまれり。わがくにも又しかあらん事をこひねがふべし。
いはく、仏法を住持せし諸祖ならびに諸仏、ともに自受用三昧に端坐依行するを、その開悟のまさしきみちとせり。西天東地、さとりをえし人、その風にしたがへり。これ、師資ひそかに妙術を正伝し、真訣を稟持せしによりてなり。
宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香、礼拝、念仏、修懺、看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ。
もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。ゆゑに、諸仏如来をしては本地の法楽をまし、覚道の荘厳をあらたにす。および十方法界、三途六道の群類、みなともに一時に身心明浄にして、大解脱地を証し、本来面目現ずるとき、諸法みな正覚を証会し、万物ともに仏身を使用して、すみやかに証会の辺際を一超して、覚樹王に端坐し、一時に無等等の大法輪を転じ、究竟無為の深般若を開演す。
これらの等正覚、さらにかへりてしたしくあひ冥資するみちかよふがゆえに、この坐禅人、確爾として身心脱落し、従来雑穢の知見思量を截断して、天真の仏法に証会し、あまねく微塵際そこばくの諸仏如来の道場ごとに仏事を助発し、ひろく仏向上の機にかうぶらしめて、よく仏向上の法を激揚す。このとき、十方法界の土地草木、牆壁瓦礫、みな仏事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあづかるともがら、みな甚妙不可思議の仏化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。この水火を受用するたぐひ、みな本証の仏化を周旋するゆゑに、これらのたぐひと共住して同語するもの、またことごとくあいたがひに無窮の仏徳そなはり、展転広作して、無尽、無間断、不可思議、不可称量の仏法を、遍法界の内外に流通するものなり。しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏ぜざらしむることは、静中の無造作にして直証なるをもてなり。もし、凡流のおもひのごとく、修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはるは証則にあらず、証則には迷情およばざるがゆゑに。
又、心境ともに静中の証入・悟出あれども、自受用の境界なるをもて、一塵をうごかさず、一相をやぶらず、広大の仏事、甚深微妙の仏化をなす。この化道のおよぶところの草木土地ともに大光明をはなち、深妙法をとくこと、きはまるときなし。草木牆壁はよく凡聖含霊のために宣揚し、凡聖含霊はかへって草木牆壁のために演暢す。自覚覚他の境界、もとより証相をそなへてかけたることなく、証則おこなはれておこたるときなからしむ。
こゝをもて、わづかに一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽法界のなかに、去来現に、常恒の仏化道事をなすなり。彼ゝともに一等の同修なり、同証なり。たゞ坐上の修のみにあらず、空をうちてひゞきをなすこと、撞の前後に妙声綿綿たるものなり。このきはのみにかぎらむや、百頭みな本面目に本修行をそなへて、はかりはかるべきにあらず。
しるべし、たとひ十方無量恒河沙数の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかりしりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。
→ 【原文】正法眼蔵_弁道話_02
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