2021年3月24日水曜日

都治(辻)月丹の「へなへな剣」

 

大森曹玄『剣と禅』より


一法無外

へなへな剣の都治月丹(つじ・げったん)



これまで何べんとなく述べたように、剣と禅とがその極致、ねらい所において一致することは疑いない。そういう意味でいうならば「諸道に通ず」といわれる禅と一致しないものは、おそらく一つもないであろう。茶も花も書もみな禅と一致する。それをもう一歩ふみこんで、はっきりと自分の剣は禅だと主張したものはないものだろうか。


前に述べた針谷夕雲などはもっとも禅的であるが、それでも剣の道を究尽するための補助手段として禅を用いたというほうが正しいであろう。ところがここに一人、寛文から享保にかけて名を謳われた剣客に都治月丹(つじ・げったん、1727歿、79歳)がいて、明瞭に自分の剣は禅だと主張している。わたくしもかなり多くの伝書類を見たが、かれの伝書ほどその内容、文章等において充実したものはちょっと見当たらないと思う。古今随一だとは言えないまでも、少なくとも一流中の有力な一つであることは疑いない。


一体に剣者には無学なものが多く、勿体ぶった伝書は大てい儒者か僧侶の代筆に成ったものである。一刀流の仮名字目録といわれる免許状が、平仮名のたどたどしい文章であることが、かえって始祖一刀斎自身の手に成ったものだろうと珍重されるなどは、その反証だといってよい。


都治月丹は無外流の創始者で、かれの撰した皆伝の伝書を「無外真伝剣法訣」という。わたくしの想像では、たしかに月丹自身の書いたものだと思う。その伝書の末尾にこう書いている。

右無外真伝の剣法は、禅理を以て教導いたす処、貴殿禅学御了知の上、当流の剣法御懇望、且つ御篤志につき云々。

これらをみても明らかなように、この流儀は禅理をもって教導するのだから、必ず禅をやり、しかもそれが「了知」といえる程度に達していなければ許さないのがたてまえである。明治以後のことは知らないが、それ以前はこのたてまえが厳守されたものと思われる。わたくしの接した、そして伝書を写させてもらった無外流皆伝の前野先生は禅も印可の老居士であった。このように真向うから禅をうたっている流儀、あるいは伝書は、剣禅一致といわれる剣の世界においても稀有のことであろうと思う。わたくしは寡聞にして無外流の外には、まだ一つも見ていない。


月丹の高弟森下権平辰直は「無外流にては術ということを忌む。よって兵法の、兵道の、剣法のというなり。またこの流については、真ということを宗とするなり」と語ったという(平尾道雄氏『土佐武道史話』)。つまり、かれの剣は、それによって宇宙の真理、人間の道を究めるという主旨なのであろう。


さて、その都治月丹であるが、古いものでは「武術流祖禄」に、わずか三行、『撃剣叢談』に「軟弱なる兄弟」に助太刀して仇討の本懐を遂げさせた物語が出ているだけである(いずれも天保十四年刊行)。先師山田先生の『日本剣道史』と、平尾氏の『土佐武道史話』には、若干くわしく出ている。しかしそれにしたところで、もともと大して資料がないのだから、そう詳細な紹介ができるわけがない。その他に昭和十三年に死んだ友人富永阿峡(前東福管長止渇室の縁者で同師に参じた)が、「剣人無外」という短篇を雑誌に発表している。かれがその資料をどこから得たかは、今となっては聞く由もない。

月丹の身許につぃては『撃剣叢談』には「辻無外と云ふ者江戸小石川に住し、一流を弘めて名高し」とあるだけであるが、『武術流祖禄』には「都治月丹資持」(伝書には資茂)は、「近江甲賀郡の人也。京師に到って山口流刀術を学び妙旨を悟る。工夫を加へて無外流と号す。後、東武に来り番町に居る。門人多と云。子孫世々其業を継ぎ山内家に仕」とあるのがその全文である。月丹は近江国甲賀郡馬杉の郷士の出で、はじめは都治でなく辻と書いたものらしい。祖先は佐々木四郎高綱だという。富永阿峡の「剣人無外」によると、享保十九年に七十九歳で死んだことになっているが、『日本剣道史』には享保十二年歿とある。いずれにしても、それを基準に逆算すると、明暦または承応頃の生れということになる。

かれははじめ山口下真斎という者について山ロ口流を学び、延宝三年、二十六歳のときその印可を得たという。ただし『日本剣道史』には、月丹の自記によれば、伊藤大膳という達人から印可を得たとあるが、自ら諸侯に出した願書には山口卜真斎に学ぶ由を述べてあるので、あるいは伊藤は山口の前名かも知れぬ、これらの点は不審であるが後考を倹つ、と記している。その後、諸国を修行して歩いた末、江戸に出て麹町の九丁目に町道場を開いたということになっている。ところがその後になって自分の剣境に疑問を抱き、麻布吸江寺の石還和尚に参禅し、朝参暮請、実に二十年に及んだという。阿峡は主として、その間の辛苦を小説風に描いているのだが、その一説にこう書いている。

おそらく武士とも乞食とも判りかねる異様な風態、頭髪は延びるに任せて蓬の如く乱れ飛び、羽織の肩は摺り切れて下の着物が透いて見え、髪の判らぬよれよれになった木綿の袴を着し、その下の着物の裾から綿がはみ出し、それが地上に引きずっている。云々

若い頃は髪に油もつけず、紙で束ねていたので、ときにはそれが解けて風になびくのが凄味を加えたという。あるとき街を歩いていると、前から七人ほどの荒くれ武士が肩を組みながら大道せましとやってきた。月丹は側らに避けながら、「各々方、通り筋はふさがれまいぞ!」と注意した。

一人の侍が、「編笠をつけたままで物申すとはけしからん。いったいその方は何者だ」と気色ばんでつめよった。

「ごもっともでござる」月丹は、そういいながら悠然と笠をとった。そのとき例の元結がとけて、折からの北風が髪を顔にふきつけた。その顔を見ると侍たちは逃げるように立ち去ったという逸話が残っている。

貧乏時代はこのようにウラぶれた風体であったから、ときには不愉快な思いもしたものとみえる。あるとき門人の家に出稽古にゆき、一通りの稽古をすませて息を休ませていると、その家の下男が飛び出してきて、「先生! 私にも一本お願いします」といった。

無外の心の中を、ふと不倫快な思いが横ぎった。「こやつ、おれの姿が見苦しいので、侮ってくみしやすしと見たか、無札な奴!」。こう感じたが、さりげない様子で、「いや、すこし疲れたからまたにせよ」と、おだやかに断わった。

しかし一服しながら、ひそかに思い返してみると、心中なんとなく安らかでない。「まてよ、これがもし、この家の主人の要求だったら自分はどうしたろう。本当に疲れていたにし
ても、おそらく相手をしたであろうに、相手が下男だからと断わったのは、自らをあぎむき、他をいつわり、かつヒガむというものだ。こんな煩悩があってはとても大道の成就はおぼつかない」。

こう反省した無外は、すぐに木刀を取ってパッと稽古場におどり出た。そしてすがすがしい気持でその下男に稽古をつけたという。

そのときの術壊だというのに、

小車の夢ばかりなる世の中を何とていとふ身こそつらけれ

という一首が残されている。かれには、そういうところがあった。その頃の無外は、友人の好意でその離れに居候をさせてもらい、右のような風体で風の日も雨の夜も吸江寺に通ったのである。

石還和尚が印可したとき、かれに一偶を与えている

一法実無外 乾坤得一貞
吹毛方納密 動著則光清

月丹が無外子または一法居士と号し、その流名を無外流と改めたのはこの偈に由来する。

そのころ、師の卜真斎がたまたま江戸に出てきて月丹を訪い、ひさびさに手練を見たいと仕合を所望したが、三たび立合って三たびとも敗れたという。あるいは無外が師の前で、百目蝋燭をともし、それに向かって抜刀し、刃風でその火を消したので、卜真斎が驚嘆したとも伝えられている。

かれには大名の弟子五十と称されるが、特に土佐山内侯の知遇を受けたので、その門葉が土佐に栄えたのである。かれが江戸の土佐藩邸に出入りをはじめたのは、五代の山内豊房の時代、宝永四年(一七〇七)の頃からだという。



2.

かれは山口流の印可を得たのち、自ら未在と反省してからは、専ら真剣の素振りと坐禅とで練ったようである。二十年もの長い間、一切の欲情を断ち、孤独と貧困に徹し、友人のつけてくれた下男からさえ馬鹿にされながら、ひたすらに精進をつづけたのであった。

かれの剣はへなへなとして、相手には強いのか弱いのかわからなかったという。押してゆけばあとへ退るし、付け入って打とうとすれば風のようにすり抜ける。そのくせ、そのへなへなの袋竹が目の先にちらついて、どうにも打てなかったという。

ちょうど、幕末の男谷下総がどうやらそうだったらしい。相対してみるとさほど強いとも思えないが、いつの間にか雲に包まれたようになってしまって、手も足も出なかったといわれる。

例の島田虎之助もはじめて仕合ったときは自分が勝ったと思ったが、井上伝兵衛に注意されて再び仕合をしたら、その雲気に包まれ、完全に参ってその弟子になったという有名な話がある。

また、清水次郎長が山岡鉄舟に真剣勝負の経験を物語ったとき、自分の刀で相手の刀を押してみて押し返してくる相手は必ず切れる、しかし押してもそのまま押されている相手は恐ろしい、といっている。鉄舟がそんな場合にはどうするかと聞いたら、次郎長は、刃を引いて逃げるのだ、と答えたという。鉄舟もそれより方法はあるまいと笑ったという話もある。

これはひとり剣のみに限ったことではない。後藤象二郎がいつも術懐していたそうである。「自分は西郷南洲とよく議論をしたが、西郷は議論をしている間は黙っているので、いつでも自分が勝ったような気がする。ところがさて家に帰ってよく考えてみると、まるで松の大木に蜂がひとりで鳴いていたようなもので、自分のほうはなっておらんことが多かった」と。

これが道元さんのいわれる柔軟心(にゅうなんしん)というものであろうか、剣のほうで俗に八方破れという「放つ位」なるものが、それであろうか。無外はそのへなへな剣なのである。

けれども、またこんな話も伝わっている。

あるとき、庭で薪を割っている所へ、一人の武士が来てしきりに仕合を求めた。無外は黙々として返事もしない。武士はいらだったのか、「無外流とはどんなものか、ぜひ見せてもらいたい」と詰めよろうとした。その言葉が終わるか終わらぬうちに「こんなものだ!」と、手にした薪で一撃した、と。これは無外は無外でも、初代の月丹でなく、その弟子で二代目をついだ記摩多だともいわれ、正確ではないが、いずれにせよ、ここには禅機と相通ずる無外流の鋭い機鋒がうかがわれる。

わたくしは四十年ほど前、土佐に遊んだとき、高知の小高坂城内に陳列されていた無外愛用の袋竹刀を拝見して、覚えず舌を捲いたことがある。爾来無外の名はわたくしの脳裡に深く刻みつけられ、つねに畏敬して巳まないのである。ビロードか何かの袋で割竹を包んだその袋竹刀は、驚くべし、物打の辺一寸ばかりの間がスリ切れているだけであった。おそらくこれで型を使ったか、あるいは仕合ったかしたのであろうが、敵を打撃したり、敵刀を受け流す場合に、そこだけしか使わなかった証拠である。間づもりの正確というのか、打撃の精錬というのか正に神技というほかには言いようがない。

かれは大名の弟子を持ち、立派な道場の主人たる身分になってからも石運和尚の禅風を慕い、名利を避け枯淡を甘なって、ひと筋に塵外の一剣を磨いていた。その頃のこと、ある日、下谷の車坂付近で一連の美しい女性たちに出逢った。かれは従者に「あれは?」と、目をみはりながら訳ねたそうである。かれは芸者を知らなかったのである。

こうして無外の一法を受用しつつ、享保十二年六月二十三日、彼はいとも静かに床上に坐禅を組んだまま、禅僧のように坐亡してその七十九年の生涯を閉じたのである。ただしこの残年は『日本剣道史』によるもので、富永阿峡は享保十九年説をとっている。

そのどちらにしたところで、伝書を撰した年号から考え合わせると、いささか疑問がある。わたくしの所持する伝書には、明瞭に「延宝八年歳庚申、仲夏望日」とある。歿年が享保十二年で七十九歳とすると、延宝八年はかれが三十一歳のときである。『日本剣道史』には延宝三年に山口卜真斎から印可を受けたことになっており「時に廿六歳」とあるから、何か拠りどころがあるのだろう。

いずれにしても山口流印可ののち参禅二十年にして桶底を脱し、無外流を名乗ったものとすれば、伝書の年月日が早すぎて勘定が合わない。どちらかに間違いがあるものと思うが、しかしこれは、わたくしのいまここでの任務ではないから、後日、心ある人の考証にまつことにしよう。



3.

かれの撰に成る伝書『無外真伝剣法訣』は、壮麗な筆致の序文と「十訣」とから成っている。全文すべて漢文であるが、引用は便宜上仮名交り文に書き下しておく。

「夫れ撃剣の術は鎮国の大権、擬乱の要備也」からはじまり「吾れ焉ぞ庾(かく)さんや、吾れ焉ぞ庾さんや」に終わるその序文は、儒に入り、老荘に触れ、禅に及ぶ名文である。あるいは師の石潭和尚の補筆があったかもしれないが、後に記された「十訣」と相照応するところから見れば、全然門外の他人の筆になるものとも思われない。

その全文をここに引用したいが、長いので割愛することにする。前に引用した「小心手相称い、憶忘一の如し」などという句は、その序文中のものである。

「十訣」には、十本の剣名と、その注解が記されている。その剣名にしても獅王剣とか雛車刀、あるいは神明剣などは、どの流儀にも似たような名称があって珍しくないが、水月感応とか、玉簾不断、万法帰一などは無外流独特の禅的なものではないかと思う。それに注解がことごとく禅語である。

たとえば翻車刀には「互換争う有るに似たり、鼓無、還って動かず」とある。鼓無の「無」は「舞」ではないかとも思われるが、これなど、どういう技のものかは知らなくとも、その剣名と語と照応してみると何となく想像できるような気がする。彼我互いに主となり客となって、双方の太刀があたかも車輪のように回転し、入り乱れて戦う、しかも中心一点の微動もないという技のように想像されるではないか。

獅王剣というのには、踞地の威、出窟の態、返擲の機と語をつけ、その後に「太極より出づる則(とき)んばその象を見難く、気象より発する則(とき)んば厥(そ)の痕(あと)を窮め易し」としてある。これなども臨済の四喝の一つのように、金毛の獅子が地に踞(うずくま)っているような、すさまじい気迫でジッと敵に対して構え、やがてその獅子が窟を出てゆくように敵を威圧しながら歩を進める。間に入った途端、おそらく圧迫された敵が苦しまぎれに打ち出したであろう一撃を、ハッシとばかりに斬り返すといった技のように想像される。その出窟も返擲も、太極と名づけられる絶対無の世界から、無心に音もなく色もなく発するから「その象」を見ることができない。もしそうでなく、ホンのわずかでも動く気配があれば、その痕跡が象を残すからそこをしてやられる、というのが後の対句の意味であろう。

その他、玄夜刀というのには「暗裡に文彩を施し、明中に蹤(あと)を見ず」としている。いくら色彩鮮やかでも真っくらやみでは見ることができない。あれどもなきにひとしい。それに反し蹤形(あとかた)もないものは白昼でも見るわけにはいかない。ないかと思うとあり、あるかと思うとない。全く捉えどころのないかげろうのようなのがこの玄夜刀の妙趣であろう。

水月感応には「氷壷、影像なく、猿猴、水月をとらう」とある。氷壷は心の清いことの形容だから、この語は透きとおって影のない無心の状態をいったものであろう。こういうものには、猿が水中の月を捉えようとするのと同じく、全く処置なしである。いかなる相手も手の下しようもあるまい。しかしまた、そういう心境でおってこそ、水の月を写すように、相手の動きはそのままに感応するわけであろう。

玉簾不断には、「牛頭没し、馬頭還る」「前波後波、相続して絶えず、忽ち没し忽ち回(かえ)る、心心不二」とある。玉簾とは滝のことである。牛頭、馬頭は男波女波のこと。つまり、滝は一滴一滴の水玉が次から次へと無数に連続して流れているのであるが、それがたった一本の線のように見える。われわれの心もそのように「念起念滅、前後別なし」で、男波女波の寄せては返すように「忽ち没し、忽ち回」りつつ、畢意「心心不二」なのである。いわゆる地限り、場限りで、端的只今の無限連続以外のものではない、只今を最高に充実して生きることが、時間を越えて永遠を生きる所以なのである。剣の妙諦は「玉簾不断」に尽きるといってもよい。

鳥王剣には「正令当行、十方坐断」「金翅鳥王、宇宙に当たる、箇中、誰かこれ出頭の人」とある。正令当行云々は、一刀下に迷悟、凡聖の一切を截断することであり、その太刀風の凄じさを金翅鳥王に譬えたものと思う。金翅鳥王というのは双翼の広さを九万里、つねに竜を取って餌としている鳥の王様である。その金翅鳥が両翼を天地一杯に広げて襲いかかったら、何人といえども面出しもならぬこというまでもない。山岡鉄舟翁の無刀流の正五典にも、金翅鳥王剣というのがある。大上段に振り冠って猛然と敵に迫り、運身の力をこめて打ち落とす、さらに力を入れ替えて 刀を揮って敵を仕留めたのち、再び大上段でサラサラと引上げる、と小倉正恒氏は説明している。その技はともかく、無外流の金翅鳥王剣もおそらくは同じ気迫のものであろう。

そのあとに「附」として「短剣法訣」が記され、それが出身、応機、転身の三つに分けられている。まず「出身は水の科(あな)に盈(み)つるが如し」とある。水が高きより低きに流れるように、無理なく自然にサラサラと敵のふところに入って行くことであろう。

次に「応機は鏡の台に当たるが如し一で、明鏡が対象を寸分も誤ることなく写し取るように、相手次第に適応していくことをいう。最後に 「転身は環(たまき)の端なきが如し」で、玉の輪がキレ目なくグルグル回っているように、自由自在に渋滞なく身を転ずる働きをいうものであろう。

これらはすべて禅語であるが、これをみればそれぞれの太刀の心がどんなものか、よくわかるように思われる。それと同時に、その型も大体は推察できそうな気がする。これだけのものが書けるのは、無外によほどの素養があったと見なければならない。また、もし師の石潭が補筆したとすれば、石潭和尚もなかなか剣心の深い理解者だったというほかはな

一番ふるっているのは、最後のしめくくりである。それは「万法帰一刀」と呼ぶ。それに着けた語が、なんと「碧巌録」第四十五則の公案そのままである。すなわち、

問うて云く、万法、一に帰す、一、いずれのところにか帰す。
答えて云く、われ青州に在って一領の布衫(ふさん)を作る、重きこと七斤

とある。ただ「僧、趙州(じょうしゅう)に間う」とか「州云く」という固有名詞が省かれているだけである。万法、つまりすべての存在は結局のところ、一に帰着する。キリスト教でいえば、神に帰着する。科学的にいえば、エネルギーに帰するといってもよい。禅は無の一字に帰するといってもよいであろう。一刀流では万刀一刀の帰すといっている。

それはわかる。ではその一は、いったいどこに帰するのであろうか。こう問いつめられた超州が、「わしが青州にいたときに、一着のころもを作ったが、ナンと重さ七斤じゃったよ」と答えたのである。

万刀は一刀に帰し、その一刀はまた万刀と展開する、ということであろうか。一即多、多即一ということなのだろうか。その一多相即不二の消息をハッキリ承知し、体得し、自由に用いこなすことだろうか。

無外流伝書には、万法帰一の公案を記したあとで、行をかえて、

「更に参ぜよ三十年」

と書き、その次に大きく一円相を描いている。まことに意味深長であり、無外その人の禅心の深さを示すもののようである。

都治月丹が、自鏡流の居合を取入れたといわれる無外流の居合が今日まで伝わっている。もと姫路藩の藩外不出の秘技だったといわれる。その秘太刀三本のうち、一番向上のものを「万法帰一刀」という。数歩あゆんで、腰の高さで横に抜き払うだけのものである。その刃音に逃れ去る敵をダラリと太刀を右手に提げて、魯の如く愚の如く、追いもせずに見送るのみである。この真境がモノになるには「更に参ぜよ三十年」どころか、おそらく生涯百錬万鍛、学び去り、修し来たってもなお容易には至り得ないであろう。

一刀流の仮名字免許に、

これのみとおもひきはめつゆくかずも
上にありすゐまう(吹毛)のけん(剣)

とあるが、おそらくそれと同じ心持だと思う。禅でいう「白雲未在」である。永遠になおこれ未在である。そこではあるが、そこではない。これが極意だ、と思い極めたその境地も、山上更に山ありである。停着することは許されない。「上に上あり吹毛の剣」「更参三十年」、どっかと尻を据えるべき極致とてはない。釈迦も達磨も、修行中である。「尚是未在、尚是未在」と願輪に鞭つのみである。しょせん肯定は、否定そのものの真っ只中にあるのであろう。

剣人無外が一流の奥秘を極め、師の印可を得て一たん教場を開いたのち、更に尚是未在と気づいて再行脚し、苦修二十年にして「一法実に外無し」と悟入した端的は果たして何であったろうか。かれが末期、坐定して入寂するまで一生受用したその吹毛剣は、上に上ありと伊藤一刀斎の詠じたように一生受用不尽底のものであったろう。十訣を撰し、その末尾に「更参三十年」と記し、一円相を画したとき、かれは謙虚にその自己の心境を吐露したのではなかったろうか。


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