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2015年11月22日日曜日

パーリ語で読む『スッタニパータ』宝経(2/17)




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宝経 Ratana Suttaṃ(1/17偈)



スッタニパータ Suttanipāta
第二 小さな章
宝経 Ratana Suttaṃ(2/17偈)



タスマー
Tasmā それ故


hi 実に

ブーター
bhūtā 生きものたちよ

ニサーメータ
nisāmetha 注意する

サッベー
sabbe すべての


[日本テーラワーダ協会訳]
それゆえ、一切の精霊は耳を傾けよ

[中村元訳]
それ故に、すべての生きものよ、耳を傾けよ

[正田大観訳]
それゆえに、まさに、一切の精霊たちよ、こころして聞け



メッタン
mettaṃ 慈しみを

カロータ
karotha 為しなさい

マーヌスィヤー
mānusiyā 人間に

パジャーヤ
pajāya 人々に


[日本テーラワーダ協会訳]
人間に慈しみを垂れるがよい

[中村元訳]
人類に、慈しみを垂れよ

[正田大観訳]
人間たる〔世の〕人々に、慈愛〔の心〕を作り為せ



ディワー
Divā 昼に

チャ
ca また

ラットー
ratto 夜に

チャ
ca また

ハランティ
haranti 運ぶ

イェー
ye 人びと

バリン
baliṃ 供物を


[日本テーラワーダ協会訳]
昼夜に供物を持ち来る人々を

[中村元訳]
昼夜に供物をささげる人類に

[正田大観訳]
彼らは、昼も、夜も、〔あなたたちに〕供物を運ぶ者たちである



タスマー
tasmā それ故


hi 実に

ネー
ne 彼に

ラッカタ
rakkhatha 護りなさい

アッパマッター
appamattā  怠りなく


[日本テーラワーダ協会訳]
怠ることなく護るがよい

[中村元訳]
それ故に、なおざりにせず。かれらを守れ

[正田大観訳]
それゆえに、まさに、怠りなく、彼らを守れ






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宝経 Ratana Suttaṃ(3/17偈)






引用:
困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く
精霊よ 人間たちを 護りなさい 彼らはいつも 供養している<223>


2015年11月21日土曜日

パーリ語で読む『スッタニパータ』宝経(1/17)




スッタニパータ Suttanipāta
第二 小さな章
宝経 Ratana Suttaṃ(1/17偈)





ヤーニーダ
Yānīdha 彼ら・ここに

ブーターニ
bhūtāni 生きものたち

サマーガターニ
samāgatāni 集まった


[日本テーラワーダ協会訳]
ここに集いし諸々の精霊は

[中村元訳]
ここに集まった諸々の生きものは

[正田大観訳]
彼ら、ここに集いあつまった精霊たちは



ブンマーニ
bhummāni 土地に

ワー
 或は

ヤーニ
yāni 彼ら


va 或は

アンタリッケー
antalikkhe 虚空に


[日本テーラワーダ協会訳]
地に棲むものたちも虚空に棲む者たちも

[中村元訳]
地上のものでも、空中のものでも、

[正田大観訳]
あるいは、地上にあるものたちも、あるいは、彼ら、空中にあるものたちも          



サッベーワ
Sabbeva 一切・まさしく

ブーター
bhūtā 生きものは

スマナー
sumanā よい心

バワントゥ
bhavantu あれよ


[日本テーラワーダ協会訳]
一切の精霊は、心喜ぶがよい。

[中村元訳]
すべて歓喜せよ。

[正田大観訳]
まさしく、一切の精霊たちが、悦意の者たちと成れ。



アトーピ
athopi 時に・また

サッカッチャ
sakkacca 尊敬して

スナントゥ
suṇantu 聞け

バースィタン
bhāsitaṃ 語ることを


[日本テーラワーダ協会訳]
そして、我が語るところを謹んで聞くがよい。

[中村元訳]
そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。

[正田大観訳]
しかして、また、〔わたしの〕語るところを、謹んで聞け。   







引用:
困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く




2014年11月21日金曜日

諸行無常と毒矢 [小林秀雄]




〜話:小林秀雄〜



 諸行無常という言葉も、誤解されている様です。現代人だから誤解するのではない、昔から誤解されていた。平家にある様に「おごれる人も久からず、唯春の夜の夢の如し」、そういう風に、つまり「盛者(しょうじゃ)必衰のことわりを示す」ものと誤解されて来た。

 太田道灌が未だ若い頃、何事につけ心おごれる様があったのを、父親が苦が苦がしく思い、おごれる人も久からず、と書いて与えたところが、道灌は、早速筆をとって、横に、おごらざる人も久からず、と書いたという逸話があります。

 この逸話は、次のような事を語っている。因果の理法は、自然界の出来事のみならず、人間の幸不幸の隅々まで滲透しているが、人間については、何事も知らぬ。常無しとは又、心なしという事であって、全く心ない理法というものを、人間の心が受容れる事はまことに難しい事である、そういう事を語っております。





 肯定が否定を招き、否定が肯定を生むという果てしない精神の旅は、哲学的思惟の常であり、そういう精神の運動は、あたかも蚕が糸を吐くが如く、つまる処、己れを自足的な体系の中に閉じこめて了う。般若経を土台として、哲学というか神学というか、精緻な観念論の体系が、其後仏教史上にいろいろ現れた、そういうものに関する詳しい知識は、私にはないが、恐らく自足した思弁的汎神論の性質をいよいよ帯びたものになったと推察されます。だが、そういうものの中に、釈迦という人間を閉じ込める事は出来ますまい。彼は寧ろ逆の道を歩いた人だと思われます。

 阿含経の中に、こういう意味の話がある。ある人が釈迦に、この世は無常であるか、常住であるか、有限であるか、無限であるか、生命とは何か、肉体とは何か、そういう形而上学的問題をいろいろ持ち出して解答を迫ったところが、釈迦は、そういう質問には自分は答えない、お前は毒矢に当たっているのに、医者に毒矢の本質について解答を求める負傷者の様なものだ。どんな回答が与えられるにせよ、それはお前の苦しみと死とには何の関係もない事だ。自分は毒矢を抜く事を教えられるだけである、そう答えた。これが所謂”如来の不記”であります。

 つまり、不記とは形而上学の不可能を言うのであるが、ただ、そういう消極的な意味に止まらない。空の形而上学は不可能だが、空の体験というものは可能である、空は不記だが、行う事によって空を現す事は出来る。本当に知るとは、行う事だ、そういう積極的な意味合いも含まれている様であります。釈迦の哲学的思弁が、遂に空という哲学的観念を得たのではない。いや、それよりも、彼にとって、空とは哲学的観念と呼ぶべきものではなかったのでありましょう。ただ、彼の絶対的な批判力の前で、人間が見る見る崩壊して行く様を彼は見たのだ、と言った方がよい様に思われる。見るとは行う第一歩であります。






出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)