〜話:小林秀雄〜
諸行無常という言葉も、誤解されている様です。現代人だから誤解するのではない、昔から誤解されていた。平家にある様に「おごれる人も久からず、唯春の夜の夢の如し」、そういう風に、つまり「盛者(しょうじゃ)必衰のことわりを示す」ものと誤解されて来た。
太田道灌が未だ若い頃、何事につけ心おごれる様があったのを、父親が苦が苦がしく思い、おごれる人も久からず、と書いて与えたところが、道灌は、早速筆をとって、横に、おごらざる人も久からず、と書いたという逸話があります。
この逸話は、次のような事を語っている。因果の理法は、自然界の出来事のみならず、人間の幸不幸の隅々まで滲透しているが、人間については、何事も知らぬ。常無しとは又、心なしという事であって、全く心ない理法というものを、人間の心が受容れる事はまことに難しい事である、そういう事を語っております。
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肯定が否定を招き、否定が肯定を生むという果てしない精神の旅は、哲学的思惟の常であり、そういう精神の運動は、あたかも蚕が糸を吐くが如く、つまる処、己れを自足的な体系の中に閉じこめて了う。般若経を土台として、哲学というか神学というか、精緻な観念論の体系が、其後仏教史上にいろいろ現れた、そういうものに関する詳しい知識は、私にはないが、恐らく自足した思弁的汎神論の性質をいよいよ帯びたものになったと推察されます。だが、そういうものの中に、釈迦という人間を閉じ込める事は出来ますまい。彼は寧ろ逆の道を歩いた人だと思われます。
阿含経の中に、こういう意味の話がある。ある人が釈迦に、この世は無常であるか、常住であるか、有限であるか、無限であるか、生命とは何か、肉体とは何か、そういう形而上学的問題をいろいろ持ち出して解答を迫ったところが、釈迦は、そういう質問には自分は答えない、お前は毒矢に当たっているのに、医者に毒矢の本質について解答を求める負傷者の様なものだ。どんな回答が与えられるにせよ、それはお前の苦しみと死とには何の関係もない事だ。自分は毒矢を抜く事を教えられるだけである、そう答えた。これが所謂”如来の不記”であります。
つまり、不記とは形而上学の不可能を言うのであるが、ただ、そういう消極的な意味に止まらない。空の形而上学は不可能だが、空の体験というものは可能である、空は不記だが、行う事によって空を現す事は出来る。本当に知るとは、行う事だ、そういう積極的な意味合いも含まれている様であります。釈迦の哲学的思弁が、遂に空という哲学的観念を得たのではない。いや、それよりも、彼にとって、空とは哲学的観念と呼ぶべきものではなかったのでありましょう。ただ、彼の絶対的な批判力の前で、人間が見る見る崩壊して行く様を彼は見たのだ、と言った方がよい様に思われる。見るとは行う第一歩であります。
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出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)」
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