2021年4月9日金曜日

五蘊と剣道

 

from:

小川忠太郎『百回稽古』



想蘊・行蘊・一息載断の息


般若心経の眼目に「五蘊皆空」がある。五種の五とは色・受・想・行・識の五つの心身のはたらき。


「色」というのは形あるもののことで、人間で言えば身体にあたる。

「受」というのは外界のものを五官を通じて受け入れること。眼で見、耳で聞き、鼻で嘆ぎ、舌で味わい、身体では触れている。

「想」というのは内なる思い。想像紛飛の念、意馬心猿、五蘊の中で一番激しい念慮である。

「行」とは細かい念慮、連想。

「識」は、朝起きてきれいに心が澄んでいるような時にポツンと湧く一念を言う。


人間はこういう五つの内容で構成されているという考え方である。




蘊とは集積の意で、心の垢、雲のこと。生まれたままならば五つが備わっているだけだからそれでいいが、これに心の垢、雲がかかる。人間本来の心は明鏡のようなものであるが、それに雲がかかると無明となり迷いとなる。


この雲は大雑把に言えば「我」という雲。この無縄自縛の我という雲を体と心にかけて苦しんでいるのが人間である。この雲を無くす、空ずる(五蘊皆空)。これが般若心経の眼目であり、剣道修行の基本である。




○第一の「色蓋」を剣道に当てはめると、色とは構え、正しい構え。この構えに雲がかかる。自分に構えがあるから相手にも構えがあると見て、そこで相手とは対立となり争いとなる。これを構えに雲がかかったと言う。その雲を取って本当の構えにしなくてはいけない。それが剣道の最初の修行である。


打込み三年の懸り稽古。我を許さないで、懸かって懸かって懸かり抜く。そのうちに懸り稽古三昧に入る。これを儒教では “己に克つ“と言う。打込み三年で克己の修行をやる。当てっこの修行ではない。全身全力でやる。これを禅では“己を殺す”と言う。これが三昧。殺すから大きな自己が生まれてくる。それを「大死一番絶後に再蘇する」と言う。


剣道を打込み三年、本気でやり三味力を養えば、そこから自然に本当の構えが生まれる。山岡鉄舟はこれを三角矩の構えと言い、苦修三年にして本体(構え)が得られると入門規則で言い切っている。そこには雑念が入っていない。「俺が」というものが入っていない。自分が無いから相手が無い。自分と相手が一つである。自他不二。これが構えである。自分の構えの中に相手が入る。相手の構えの中に自分がある。自分と相手は一つ、一如である。


ここが剣道の第一基本であり、これが人間形成の土台になる。




〇第二は「受蘊」。これは相手からの働きかけに対する心構えであるが、互いに一足一刀に剣を交えた場合、未熟の者はここに雲がかかって迷う。相手から色をしかけられると色に迷わされる。 少し上達した者は色には着かないが無念無想の穴倉に入り働きがない。恐ろしい境涯である。


この雲を取るにはどうしたらよいか。それは第一の構え、即ち自他不二の本体に立てば、ありのままが写る。写ったままで二念を継がなければよい。その働きは、相手と対した時に、面と思ったら思った時に面を打つ。小手と思う。思った時に小手を打てばよい。思った時に体はそこに出てしまっているのが自然の技というものである。


それを思ってから打つのでは人為的であり、後れてしまう。思ってから打つのでは遅い。だが思ってもだめなのであるから、思わずにやってはなおさらだめである。それはでたらめ。思ったら打つ。これを一念不生という。二念以下をぶち切ってしまう。


処世法もこれでいけばよい。自分でこれが赤だと思ったら誰が何と言っても赤は赤。白と思ったら誰が何と言っても白。これで行けばよい。これが剣道。それを赤だから赤だと言いたいけれど周囲を見て、白と言った方がよいのではなどと考えて、二念を継ぐからいけない。ぐずぐずしてはだめ。善いことは善い、悪いことは悪い、それで解決して行けばよい。これが道の上に立ったはたらきである。


以上、第一と第二は外部からの働きかけに対する心構えであるが、次の第三、第四、第五の三つは内部、即ち自身の心の中に生ずる雲に対する心構えである。




○第三「想蘊」。想像紛飛の念、意馬心猿、これが五つの雲の中で一番激しい荒い念慮である。時には蜂の巣をつっいたように、妄念が紛起して収拾がつかないことがある。これをどう始末するか。神に祈ったり、水を浴びたり、そういう難行苦行では、荒れる意馬心猿には歯が立たない。


しかしここに古徳の教えが残されている。それは数息観である。ズーッと息を吸う。吸う息の中に雑念を交えない。息をグーッと吐いて行く。吐く息の中に雑念を交えない。一念一念を正念化する。数息観こそが念々正念に入る秘訣なのである。元円覚寺管長釈宗演老師は「数息観は禅の初歩であるが、また終極である」と言われている。


第一の三角矩本体は苦修三年頓悟でもいけるが、第三の念々正念が本当に自分のものになるには、二十年、三十年、否、一生かかっても難しい。それは、剣道では技や理念が邪魔するからである。


持田先生が七十歳を過ぎてから「もう剣道はいやになった。難しい。構えていると内からヒョッと考えが浮かんでくる。どうしようもない。この世の中に剣道ほど難しいものはないであろう。いやになった」と言われたことがある。持田先生は七十歳を過ぎてもこの念々正念には徹していないと反省されながらこの修行に全力をかけておられたのである。


世間で問題にしている段位などは先生の念頭にはない。先生の十段授与式の時、式場は妙義道場で、全剣連の渡辺敏雄(当時)事務局長が先生の前へ証書を持って行き、先生が受けられた時に合図をしてお祝の拍手をしようと望月正房先生が段取りをしていた。ところが渡辺事務局長が証書を持って行くと先生は、その証書をポーンと放り投げてしまった。そして、「わしはこんなものはいらない。実力がなくてこういうものがどうして受けられるか。わしにはこういうものを戴く資格がない」と言われた。そして列席の人々に「皆さんは若い。私は日暮れて道遠しだ。剣道は深いからしっかりやって下さい」と言われた。これが十段を受けられなかった時の先生の挨拶であった。先生は十段を辞退されて、後輩に、剣道修行の目的は段位ではない、人間形成である。人間形成の真髄は念々正念相続にありという秘訣を教えられたのである。


五十歳以後の宮本武蔵は日常この工夫をしていた。「五輪書」地之巻に、我が兵法を学ばんと思う人は道を行なう法ありとして、九ヶ条を挙げ、その第一条は「邪になき事をおもふ所」とある。うそをついてはいけない―― これが武蔵という人の全体である。汚い着物で、風呂にも入らない。そこで弟子たちが、先生はどうして風呂に入らないのかと尋ねると、「身体の垢は桶一杯の水で取ることができるが、心の垢は取る暇がない」と答えた。


雑念を正念化する。一念、一念を正念化する。ここまで行ったら本物である。我は古今の名人に候と自認し、常に念々正念の工夫を絶やさず、二天道楽と号して道一を楽しみ、本当の人生を味わい得た道人である。


雲弘流に「一息円想無我」という教えがある。一息とは「坐禅用心記」に「心散乱する時、一息断両眼永く閉づるの端的に向て打坐工夫せば散心必ず歇む」とある。心散乱する時、即ち想蘊の起こった時、人間最後の一息、吐く息有って吸う息知らず、呼吸を「ウムーム」と踵に踏み込む、即ち運 足三昧になりきれば散心必ず歇むと。これを真人という。


荘子いわく「真人の息は之を息するに踵を以てす」と。これは雑念を呼吸に合わせて正念化するのである。この正念相続の修行こそ人間形成の嶮関であり真髄である。念々正念の修行は道場内だけではない。日常生活の上で正念の工夫を絶やさない。これが本当の剣道である。




○第四は「行蓮」。これは細かい念慮、連想である。人間はこの細かい念慮に悩まされる。過去の事にぐずついたり、現在にこだわったり、また一寸先は闇の将来を気にしたりして、自分で自分を苦しめている。こういうやっかいな雲をどう捌いたらよいか。それには、この細かい念慮は、畢寛夢・幻空華のようなものであるということを見破っておくことである。空中の華とは、眼を患った時に、あたかも空中に在るが如くに見えるモヤモヤした華のようなもののことを言う。これといって拠り所のない、取るに足らないものである。


雲弘流では、ここを「あと先のいらぬ処を思ふなよ、只中程の自由自在を」と、過去も未来もいらぬ、ただ現在になりきれと示しており、一刀流では夢想剣として秘している。ここは理屈では通れない悟りである。




○第五は「識瀧」。これは一念である。第三は荒い念、第四は細かい念、第五は一念と、こう心がいくつもあるのではない。第五の一念が本となっているのである。秋水のように心が澄んだ所から、ポツンと一念が生ずる。この一念に迷と悟の分かれる原点がある。


剣道なら相手に一念が生じた時、どう空ずるか。押える。ヒョッヒョッと頭を押える。機先を制するのである。起こりを押えよう、機先を制しようと思うと後れる。相手に一念がポツンと生じた時、頭を押える。機先を制するのである。これで識蘊は空じられる。これが剣道の極意である。


以上が般若心経の五蓋皆空を剣道に当てはめたものであるが、五薩皆空と照見すれば一切の苦厄は度せられるのである。これを剣道や坐禅の時ばかりでなく、一切時、一切処で修錬していく。


これが人間形成の基本面の修錬である。



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