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2016年5月18日水曜日

「斬猫」cutting the cat in two [南泉と趙州]




話:フィリップ・カプロー
Philip Kapleau





趙州の師である南泉がある日、禅院にもどると、数人の僧たちが彼らの前に座っている猫をめぐって言い争いをしていた。

Nan-Chuan, the teacher of Chao-Chou, returned to his monastery one day to find some of his monks quarreling about a cat sitting in front of them.

おそらく、彼らは猫にも犬同様、仏性があるかどうかということについて論争していたのだろう。

Presumably they were arguing about whether a cat, like a dog, also has the Buddha-nature.

ひと目で状況をみてとった南泉は、この機会をつかって、その僧たちを彼らが見失いつつある真理につれ戻そうと考えた。

Sizing up the situation at once and taking advantage of the occasion to brin home to them the truth they were obscuring, 



彼はいきなり猫をつかんで高く持ちあげ、こう要求した。

Nan-Chuan suddenly seized the cat, held it aloft and demanded,

「おまえたちのなかで誰か禅の言葉をわたしに示してみよ。それができれば、この猫のいのちは助けてやろう。さもなくば、この猫を両断するぞ!」

"One of you monks, give me a word of Zen! If you can I will spare the life of the cat, otherwise I will cut it in two!"

誰も、何を言えばいいか、わからなかったので、南泉は思いきりよくその猫を両断してしまった。

No one knew what to say, so Nan-Chuan boldly cut the cat in two.



その日の夕方、外出していた趙州が帰ってきた。

That evening Chao-Chou, who had also been away, returned.

南泉は、何が起こったかを話し、

Nan-Chuan told him what had happened and asked,

「おまえがその場にいたら、どうしたか?」

"Suppose you had been there. What would you have done?"

とたずねた。



すると趙州は何も言わず、履いていた草履を脱いで、自分の頭に乗せ、ゆっくりと歩いて部屋から出ていってしまった。

Without a word Chao-Chou took off his slippers, placed them on his head, and slowly walked out of the room.

「おまえがいたなら、猫のいのちを救えたであろうに…」

"If only you had been there," said Nan-Chuan admiringly, "you would have saved the life of the cat."

と南泉は感嘆して言った。






さて、ではこの「禅の言葉」とは、いったい何であろうか?

Now what is a word of Zen?

禅においては、「生きた言葉(活句)」と「死んだ言葉(死句)」と呼ばれるものがある。

In Zen there are what are called live words and dead ones.



賛嘆される生きた言葉とは「はらわた」から出てくる言葉であり、具体的で感情にあふれている。

The admired live word is the gut word, concrete and vibrant with feeling;

それに対して死んだ言葉とは、説明的言葉であり「あたま」から出てくるものだから、無味乾燥でいのちが通っていない。

the dead word is the explanatory word, dry and lifeless, issuing from the head.

前者はものを統一するが、後者は分離・分断させる。

The first unifies; the second separates and divides.



僧たちも趙州も言葉を発しなかったという点では同じだが、南泉は僧たちをうけがわず、趙州を褒めた。

Neither the monks nor Chao-Chou spoke a word, yet Nan-Chuan put down the monks and praised Chao-Chou.

それはなぜか。

Why?

趙州が自分の草履を頭に乗せて歩み去ったことの意義は何だったのか。

What was the significance of Chao-Chou's putting his slippers on his head and walking out?

南泉が猫を「両断」してみせることによって示そうとしたことは何だったのか。

What did Nan-Chuan demonstrate by his act of "cutting" the cat in two?

そして今、あの死んだ猫はどこにいるのか言ってみよ!

And say where that dead cat is right now!

言い争い、あれこれ推測し、いわれのない前提を立てて、結論に飛びつくようなときにはいつでも、われわれはみな死んだ猫になっているのではないだろうか。

Aren't we all dead cats whenever we argue and speculate, make gratuitous assumptions, jump to conclusions?












引用:
禅への鍵 〈新装版〉
Zen Keys: A Guide to Zen Practice




2016年5月13日金曜日

Buddha-nature [趙州]




話:フィリップ・カプロー
Philip Kapleau





有名な禅匠のひとりである趙州は、しばしばこういう問いを受けた。

Chao-Chou (Joshu in Japanese), a famous Zen master, was frequently asked,

「犬にさえ仏性があるというのは本当ですか」

"Is it true that even a dog has the Buddha-nature?"

これは、人間のように高貴な存在は、純粋ですべてを包含する仏性というすばらしいものをもっているが、犬のように低級な存在が、それと同じ仏性をもつことがどうしてできるかを問う質問である。

the implication of the question being that if such an exalted being as man has the pure, all-embracing Buddha-nature, how can such a lowly creature as a dog also have it?



この問いに対して、趙州はあるときには

To this question Chao-Chou sometimes answered,

「無(いや、無い)」

"No, it hasn't."

と答え、あるときには

and at other times,

「有(そのとおり、有る)」

"Yes, it has."

と答えた。



質問者たちは経典のなかにある「すべての存在は仏性を有する(悉有仏性)」という言葉に本当に困惑していたのかもしれないし、

The questioners may have been genuinely puzzled by the statement in the sutras to the effect that all beings possess the Buddha-nature,

あるいは趙州がどう応答するかをみるために、知らないふりをして問いを発したのかもしれない。

or they may have been feigning ignorance in order to see how Chao-Chou would respond.

仏性はすべての存在に共通しているのだから、論理的にいえば、どちらの答えも意味をなさないはずだ。

Since Buddha-nature is common to all existence, logically either answer makes no sense.



しかし、ここには論理以上の何かがあるのだ。

But more than logic is involved here.

では趙州は何をやろうとしたのだろうか。

So what is Chao-Chou up to?

彼は僧たちに、絶対的な真理は肯定や否定を越えたところにあることを示そうとして、言語の論理を愚弄してみせたのだろうか。

Is he flouting the logic of language to show the monks that absolute truth lies beyond affirmation and negation, 

それとも「有!」あるいは「無!」という言葉を発するその仕方でもって、質問者に仏性そのものを事実として突きつけたのだろうか。

or is he, by the manner in which he utters "Yes!" or "No!" actually thrusting this Buddha-nature at his questioners?









出典:禅への鍵 〈新装版〉



2016年5月9日月曜日

吉田鷹村と大森曹玄



話:吉田鷹村



−−禅はどのようなキッカケではじめられたのですか?



たとえば、字を書くにあたって緊張感がともなう。それはいいことなのですが、そのためには自由なハナタキが失われてしまう。

古人は

「無縄自縛(むじょうじばく)

といいました。自分で自分を拘束する。この状態から脱却する手だてが、禅のなかにあるような気がしてならない。







そんな矢先、松本洪先生から「大森曹玄」老師をご紹介いただきました。老師が花園大学学長に迎えられる前でした。正式に相見(しょうけん)の礼をへて参禅を許され、それから長い苦闘の日々がつづきました。

ご承知のように、臨済宗は「公案」により修行してゆく。わたしの場合、第一関として与えられたのが、

「趙州(じょうしゅう)の無」

でした。







「無になり切ってこい」

「死に切ってみよ」

「全身心を挙げ熱鉄丸になってブチ当たれ」

などと厳しく指導されました。



鐘を鳴らし、礼拝をして、師の室にはいり、膝下に参ず。

一対一の真剣勝負。

見所を呈し、鈴の音にしたがって退く。



まったく特殊な時間、空間に身をおく、じつに貴重な体験でした。

のちのち公案を重ね、師の前に言上する見解(けんげ)が伝統の見所に合致したときは、号泣せんばかりの感動をおぼえました。







30代のころでした。ある友人が

「断食をすると自分の本質がわかる」

と言うんですね。



即、飛び込んだ。

3週間。

それだけ長くやる人は珍しいそうですが、この間は、水だけを飲んで、滝に打たれつづけた。



終わり頃は、寝まきに死臭がしみついてきます。古い細胞が死滅するのでしょう。

それで岩の上に立って滝に打たれていると、ちかくを散歩する人の周りを「チュッチュッチュッ」と虫みたいに飛び回っているものが見える。

「ああ、これが人間の気というものなのか」

と直感的に思いました。それだけ感性が鋭敏になっているんです。徹底した心身のクリーニングになったことは確かでした。







「釈迦も達磨も修行中」

といいます。道は無限。

到達点はありません。



慈悲行について、鎌倉時代の大燈国師は

「失銭遭罪(しっせんそうざい)

と言われています。



金を盗まれたうえに罪を負わされる。

そういう境遇に陥ってもなお、慈悲の気もちを持ってゆくという意味です。







引用:致知2016年6月号
吉田鷹村「94歳、まだ前進せねば」