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2016年5月18日水曜日

釈迦という「いたずら者」 [一休]



話:OSHO(和尚)





一休の詩がある。


釈迦といふ

いたずらものが 世にいでて

おほくの人を まよはするかな






釈迦とは、ゴータマ仏陀の姓だ。

一休は言っている。

「彼は、なんというイタズラ者だろう、これほど多くの人々を迷わせるとは」

と。



それはほんとうだ。

25世紀ものあいだ、ゴータマ仏陀は絶えず人々を悩ませつづけてきた。

一休はそれを愛ゆえに言っているのであって、それは誹謗中傷ではない。かれは単に、こう言っている。

「なんというイタズラ者だろう!」

ゴータマ仏陀から25世紀もたつのに、人々はいまだに「いかにしてブッダになろうか」と頭を悩ませている。この地上に人間が存在するかぎり、これは人を当惑させる問題でありつづけるだろう。



なぜなら、意識の広大な大空のなかにあって、これほど人類を惑わせてきた者は、ゴータマ仏陀よりほかにはいないからだ。

彼はオリジナリティ(独自性)を主張し、あなたがたが真正な存在であることを主張し、あなたがたが全面的に自由であることを望んだ。

人類をこれほど愛した人はほかにいない。ゴータマ仏陀よりほかに、人間にこれほどの尊厳をあたえた人はいない。彼は、あなたがたに追従者になるのではなく、「ひとりのブッダ」になることを望んだ。










引用:空っぽの鏡・馬祖




「しゃべらない」という秘密 [OSHO]




話:OSHO(和尚)





禅のサークル(世界)には、ある奇妙な話がある。

それによると動物たちは、私たちの言葉が完璧にわかっているのだという。だが、彼らは口を開かない。私たちのことを理解しているという気配すら見せない。



あるとき、ひとりの禅師がサルにむかって言った。

「私はすっかり承知しておるぞ。わたしの洞察によれば、おまえたちは我々の言葉を知っているのだが、その事実を隠そうとしているのだ」

すると、そのサルは言った。

「ええ、そうなのです。でも、だれにも言わないでくださいよ。ほかの誰のまえでもしゃべるつもりはありませんからね。これは秘密にしておいてください。どんな動物も、あなたがたの言葉を理解できるのですが、ただ、あなたがたの奴隷にはなりたくないのです。動物がしゃべるなどということになれば、たちまち仕事をやらされることになるでしょう」



この古代の物語で思い出したのだが、8歳になるまで全くしゃべらなかった子供がいた。あらゆる努力がなされ、さまざまな検査がおこなわれた。かれの耳は完璧だったし、生理的には何ひとつ障害はなかった。

かれが応答しないというのは、ひとつの謎だった。とうとう彼らは、その子を精神科医のところに連れていったが、それでも何の効果もなかった。



ところがある日、かれは母親にむかって叫んだ。

「母さん、塩はどこにあるの?」

彼は昼食をたべていた。

母親は、じぶんの耳が信じられなかった。

家にいたのは彼女だけだったから、だれも信じてくれそうになかった。その子どもは8年間も啞(おし)だったのだ。



母親は彼にたずねた。

「なぜ8年間も黙っていたの?」

彼は言った。

「いままでは何の問題もなかったんだよ。今日は、ちょうど塩がなかったのさ。いままではしゃべる必要がなかった。しゃべってどうするのさ?」



だが、母親は言った。

「ほかの人のまえでも話してくれないかしら?」

彼はそれを断ると、言った。

「これは僕たちだけの秘密にしてよ。ほかの誰にも言っちゃだめ。そうでないと、ウソをついていると思われるよ。僕は、また黙ったままでいるつもりさ」










引用:空っぽの鏡・馬祖




野ガモと鼻と、百丈の悟り




ある日、百丈(ひゃくじょう)が師の馬祖(ばそ)のもとを訪ねていたとき、頭上を野ガモの群れが飛び去った。

馬祖はたずねた。

「あれは何だ?」

「野ガモです」

と百丈。



「どこへ行ったのか?」

と師はたずねた。

「どこかへ飛び去っていきました」

と百丈はこたえた。



馬祖(ばそ)は突然、百丈(ひゃくじょう)の鼻先をつかまえ、それを捻(ねじ)りあげた。そのあまりの痛さに百丈は叫び声をあげた。

馬祖は言った。

「おまえは飛び去っていったと言うが、あれらは時のはじまりからここにいるぞ」

その瞬間、百丈は悟りを得た。






次の日、いつもの法話の席に馬祖が坐ろうとするやいなや、百丈がやってきて坐具をたたんでしまい、師は禅床からおりるしかなかった。

百丈は自室に帰る師について行った。

馬祖は言った。

「いましがた法話をはじめようという時に、なぜおまえは坐具をたたんでしまったのか?」

百丈は言った。

「きのう、尊師はわたしの鼻をねじられましたが、あの痛みは強烈でした」



「きのう、おまえは心をどこに用いていたのだ?」

と馬祖はたずねた。

弟子はただこう言った。

「今日はもう鼻は痛みません」



師はそこで評して言った。

「おまえは、きのうの話題をじつに深く理解している」










話:OSHO(和尚)


ふつうの合理的な思考をする者にとっては、これは「不合理な言明」にみえる。が、瞑想に調和している者には、これは「とてつもない目覚めの地点」になりうる。

馬祖は、野ガモが飛び去っていったことを知らないわけではない。野ガモがそこにいたことを、彼が知らないというのではない。彼はいかなる知的な答えも求めてはいない。彼は百丈が最初に見逃したレスポンス(応答)を求めている。



「あれは何だ?」

とたずねたとき、馬祖は、明らかにそれが何であるのかを知っていた。だからこれは、対象についての知をたずねる質問や問いではないということを覚えておかねばならない。

百丈はその地点で取り逃がした。彼の応答はマインド(頭)から出てきたものだった。彼は言った。

「野ガモです」

それは世界中のだれにでも言えるような応えだった。それは「空っぽのハート」から出てきたものではなかった。それは「無の鏡」から出てきたものではなかった。それは単に、どんな子供でも言えるようなことだった。答えは正しかったが、百丈の応答はハートから出たものではなく、マインド(頭)から来ていた。

ここで百丈は取り逃がしたのだ。彼はどんな脈絡もかんがえずに、この質問に応答すべきだった。



「どこへ行ったのか?」

師は彼に、もう一度チャンスを与えている。

「どこかへ飛び去っていきました」

と百丈は応えた。彼はまた、単にメンタル(知的な)レベルで機能したのみだった。



馬祖は突然、百丈の鼻先をつかまえ、それを捻りあげた。

百丈がマインド(頭)を通してしか働いていなかったことを自覚させねばならなかった。心は痛みしかもたらすことができない。心とは痛みだ。

そのあまりの痛さに百丈は叫び声をあげた。

この叫びは、マインド(頭)から出たものではなかった。この叫びは、彼の全実存からおのずと湧きおこる応答としてやってきた。この瞬間なら、師は彼に話すことができた。彼はいまや正しい空間にいた。彼はもはやマインド(頭)のなかにはいなかった。その痛みゆえに、彼の全実存が目覚めていた。



馬祖は自分がなぜ鼻をねじりあげたのか、何ひとつ説明はしなかった。

それどころか彼は言った。

「おまえは飛び去っていったと言うが、あれらは時のはじまりからここにいるぞ」

馬祖は、とてつもなく意味深い言明を述べた。「誰ひとり、何ひとつ、ここから外にでることはできない」と。「ここ」は果てしなく広大であり、「いま」も同じだ。どこにいようと、彼らはここにいる。



その瞬間、ただ痛みだけで、百丈に思考はなかった。

心は空っぽで、ただ鼻が痛んでいた。

百丈はいまや、師が言わんとすることを理解できる正しい状態にあった。



その瞬間、百丈は悟りを得た。

馬祖の言葉によって、百丈のなかの何かが触発された。それは禅がエンライトメント(大悟)と呼ぶものだった。

彼は自らの「ここ」にあること、自らの「いま」にあることに気がついた。野ガモは、ただの口実にすぎなかった。

百丈には用意がととのっていた。あとほんのひと押しだった。彼はまさに境界線にいた。そして鼻をねじられて目を覚まし、百丈は大悟した。



痛みは目覚めにとって、このうえもない価値がある。眠れる弟子を目覚めさせるために、多くの師たちが痛みを用いてきた。

ところが、あなた方の古くからの宗教はみな、むしろその逆に、弟子をなぐさめ、彼らがよく眠れるように助ける。天国には神があり、地上のことは何もかもうまくいっている。何ひとつ心配することはない、と。

だが、禅はあなた方をなぐさめることにはまったく関心がない。それは、あなた方を目覚めさせることに興味をいだく。



次の日、いつもの法話の席に馬祖が坐ろうとするやいなや、百丈がやってきて坐具をたたんでしまい、師は禅床からおりるしかなかった。

百丈自身が、光明をえた師になっていた。いまや彼は、師が対応するように対応していた。もはや百丈に法話は必要ではなかった。必要とするものはすべて、きのう得てしまっていた。

「きのう、おまえは心をどこに用いていたのだ?」

と馬祖はたずねた。

弟子はただこう言った。

「今日はもう鼻は痛みません」










引用:空っぽの鏡・馬祖




2016年5月17日火曜日

「梅の実も熟したとみえる」 [大梅と馬祖]




あるとき、大梅(たいばい)という名の僧が、馬祖(ばそ)の門下にくわわった。



大梅(たいばい)は師にたずねた。

「仏とは何でしょう?」

馬祖(ばそ)は応えた。

「仏とは、現在の心だ」

これを聞いた大梅(たいばい)は大悟した。



大梅(たいばい)は山中にひきこもると、何年も時のたつのを忘れて、ただ周囲の山々が緑や黄にかわるのを眺めて暮らした。

ある日、馬祖(ばそ)は彼を試してやろうと、ひとりの僧をつかわした。

その僧は大梅(たいばい)にたずねた。

「あなたはただ一度、馬祖にお会いしただけで大悟なされましたが、いったいどんな言葉で悟られたのですか?」

大梅は応えた。

「馬祖はそのとき、『現在の心が仏だ』と言われた」



「いまでは師の教えは異なっています」

と僧は大梅(たいばい)に言う。

「では、何なのだ?」

と大梅はたずねた。

「馬祖はいまや、『仏であるこの心そのものは、心でもなく仏でもない』と言っておられます」

と僧はこたえる。



「あの老漢め!」

と大梅は言う。

「いつになったら、人の心を惑わすことをやめるのか? 彼には

『心でもなく仏でもない』

と言わせておけばよい。わたしはこの

『現在の心そのものが仏だ』

を曲げるつもりはない」



使者が、このやり取りを告げると、馬祖(ばそ)は評して言った。

「梅の実も熟したとみえる」










話:OSHO(和尚)


絶えず覚えておかなければならない最も重要なことは、「禅師は哲学者ではない」ということだ。彼は合理的ではない。彼は基本的に極めて非合理で非条理だが、奇跡的にもあなたに、ごくはっきりとメッセージを伝える。その非条理、矛盾する言辞をもって。

今日、彼はこのことを言ったかと思うと、明日にはまた別のことを言う。もしそこに論理的なマインド(頭脳)をもちこんだら、あなたは「自分は惑わされている」と思うだろう。

が、同じことを言うのにも異なった言い方というものがある。実際、矛盾撞着を通してでさえ、おなじメッセージを伝えることができる。



2本の別々の指が、2つの異なった角度から同じ月を指ししめすことができる。

心はそれに困難をおぼえる。じつのところ、禅師のはたらきのすべては、あなたが心に疲れ、思考に疲れるように、物事を心にとって極めて難しいものにすることにある。

そうなれば、あなたは心をわきに置く。そして心をわきに置く、その安らかな瞬間、ふと気づくと、あなたは存在の入り口に立っている。



「仏とは、現在の心だ」

それは馬祖(ばそ)が生涯したがった慧能(えのう)の教えだった。

だが、「心はけっして現在にはない」ということを覚えておかなければならない。それは過去か未来にある。現在には空っぽの心がある。

肯定的な言葉をつかいたければ「現在の心」と呼べばよいし、否定的な言葉をつかいたければ「無心」と呼んでもよい。



真理は肯定も否定も、どちらの表現もとることができる。「現在の心」は、じつのところ「無心」を意味している。

心は過去にあることができるし、未来にあることもできるが、けっして現在にあることはできない。だから、現在にあるということは、心の支配そのものから抜けだすことを意味する。



「あの老漢め!」

大梅(たいばい)は、馬祖(ばそ)が表現を「肯定から否定にかえた」ことをはっきりと理解した。凡庸な人間なら惑わすこともできるが、すでに光明をえた者を惑わすことはできない。

もし大梅が「馬祖に同意していない」と考えるなら、あなたは理解していない。彼は完璧に同意している。肯定も否定もおなじ意味であることを理解している。表現が変わっただけで、「表現されているもの」は同じだ。



「梅の実も熟したとみえる」

馬祖は、大梅が光明をえていることを十分に承知していた。光明をえていない者なら混乱したに違いない。

なぜなら、光明をえていない者は「肯定と否定がおなじ意味、おなじ意義になること」など考えもつかないからだ。イエスとノーには対立しない場所がある。










引用:空っぽの鏡・馬祖




ただ「リフレクト(映しだす)」 [OSHO]




話:OSHO(和尚)





沢庵は書いている。


うつるとも 月もおもはず

うつすとも 水もおもはぬ

広沢の池


沢庵の僧院は、広沢の池のちかくにあった。この小さな詩のなかに、禅の真髄のすべてが込められている。

うつるとも 月もおもはず

あなたは月がそう意図して、何千の海や湖や池にうつる影を落としていると思うだろうか? 月には計らいというものがない。

そしてまた一方で、

うつすとも 水もおもはぬ

池や湖や大洋にも、月を宿そうする欲望はないし、あえてそれを映しだそうとはしていない。

広沢の池

その何という穏やかさ!

そこに映る月の影にすらかき乱されない。それを気にもかけない。彼の詩があなたに言っているのは、「計らいもなく、いかなる目標もなく、達成したいというどんな欲望も、野心もなく生きよ」ということだ。

意図をもって生きる人は、かならず欲求不満をおぼえる。期待をいだいて生きる人は、かならず失望をあじわう。なぜなら、存在には、あなたに対する義務はないからだ。



が、意図もなく、期待もなしに生きるなら、奇跡的にも、あなたはかつて夢みたすべてのものが叶えられているのを見いだす。

月は池にうつっている。

池はそれを求めたわけではなく、月もそれを意図したわけではない。存在はひとりでに続いていく。



自らの欲望、野心、期待をもちこんではいけない。それらは妨げを生みだす。それはあなたの心のなかにカオス(混乱)をつくりだす。

だが、なにに対する計らいもなければ…、「広沢の池」のなんという穏やかさ!

月がうつっても、池は胸をおどらせはしない。これほどの美しい月を、広沢の池は淡々と、さりげなく映しだしている。たとえそれが映らなくても、失望というものはまったく起こってこないだろう。月があろうとなかろうと、何ひとつ違いはない。



広沢の池はしずかだ。

あなたの意識もそうあるべきだ。

まさに静かな池のように。







覚者(ブッダ)は鏡だ。

ブッダはただ映しだし、リアクト(反応)しない。彼はいつも鏡のように空っぽだ。鏡のまえを様々なものが行ったり来たりするが、何ひとつ鏡には跡が残らない。

わたしはこのシリーズを『空っぽの鏡・馬祖 』と呼ぶが、それはひとえに、彼の教えのすべてが「反応せず、ただ在り、映しだすこと」にあったからだ。










話:マ・デヴァ・サリト





「反応しない」

はたして、そんなことが可能だろうか?

私たちは生まれたときから反応するように訓練されている。「ダメだよ」、それでやめることを習う。「こんにちは」、それでほほえむことを習う。

そうやって層に層をかさねるうちに、私たちはいつしか、この「自分」と呼び習わされた、「条件づけられた反応」の寄せ集めにすぎないものになってしまう。



「リフレクト(映しだす)」こと。

それは私たちがよく reflect という単語から連想する「熟考する」という意味ではなく、「ただ鏡のように在る」ことだ。

反応しないこと、ただ在ること、この2つが「リフレクト(映しだす)」の前提条件になる。










話:OSHO(和尚)


あらゆるものを映しだす

鏡になりなさい

影を映そうとする計らいはない

ただ静かな広沢の池であれば

この現在の瞬間が

無心、無時間、まったき全一性

かぎりなき空間になる

ただ一面の鏡となり

なにものにも執着せず

家もなく、独りであるとき

あなたの意識はエベレストになる






引用:空っぽの鏡・馬祖





Oh, my God! [和尚]




話:OSHO(和尚)





アシュラムで3人のサニヤシン(弟子)の子どもたちが出会い、一緒におしゃべりをはじめた。



「いいかい」

とドイツ人の子どもが言う。

「ぼくの叔父さんは神父で、人々はみんな彼のことを『Holly father(神父さま)』って呼ぶんだ」



「そんなの何でもないさ」

と日本人の子どもが言う。

「ぼくのお祖父ちゃんは禅のマスターで、天皇だって祖父ちゃんの足を触りに来るんだ」



「君たち、そんなことで驚くもんじゃないよ」

とアメリカ人の子どもが言う。

「ぼくのお母さんは体重が150kgもあって、街の通りを歩くと、人々は

『Oh, my GOD(ああ、神様)!』

って言うんだ」







引用:空っぽの鏡・馬祖





覚者と、アレクサンダー大王




話:OSHO(和尚)





ブッダが逝ってからちょうど300年後、インドにアレクサンダー大王がやって来た。彼は、師というものに会いたがっていた。ブッダの名前と名声は、はるかかなたの岸辺にまでとどいていた−−、ギリシャやアテネにまで。

アレクサンダーの師は、西洋論理学の父、アリストテレスだった。アリストテレスは彼に言った。

「あなたは世界を征服しようとしておられますから、きっとインドにまで到達なさることでしょう。私はどんな土産も望みませんが、ただ、光明を得た師にお会いなさい。わたしは多くを聞いていますが、まったく雲をつかむような話なのです。それにもまして、わたしは論理家ですから、論証や証明がある合理的なものしか受け容れられないのです」







アレクサンダーはその帰途につこうとしたとき、師を見つけねばならないことを思い出した。

人々に問いただすと、彼らは言った。

「それはひどく難しいことです。たとえ師を見つけられたにしても、彼があなたと一緒にギリシャに行くとは思えませんね」

アレクサンダーは言った。

「そのことは心配いらない。私はヒマラヤをギリシャに持ち帰りたいと思ったら、必ずそれをやり遂げる男だ!」







とうとう彼は、ひとりの師を見つけた。

多くの人々が言った。

「ええ、あの方は悟りを開いておられますよ。彼は川のほとりで裸で暮らしています」



その男のもとに到着したアレクサンダーは、手に抜き身の剣をかざして、言った。

「わたしと一緒に来るがいい! きっと盛大な歓迎を受けることだろう。おまえには、あらゆる待遇があたえられる。宮廷の客人として迎えられるのだから、何ひとつ心配することはない。とにかくギリシャまで来てほしい。なぜなら、わたしの師が『光明を得た人物にぜひ会いたい』と言っているのだ」

その老人は笑った。彼は言った。

「まず第一に、その剣をさやに収めなさい。それは師に会うときのやり方ではありません。それから、その馬を降りなさい!」



アレクサンダーは、かつてこれほどに威厳のある言葉を聞いたことがなかった。それも、何ひとつ持たない裸の男から。

その男は言った。

「いいですか、たとえ全世界を征服したとしても、あなたは乞食のままでしょう。いまもあなたは私に、自分と一緒に来るようにと乞うています。でもこの私は、どのような動きもない地点にまで至っています。私はどこにも行かないし、どこにも行ったことがありません。私は常にいま、ここにいるのです。時間は止まり、心も止まっています」



アレクサンダーは激怒した。

彼は言った。

「わたしと一緒に来ないなら、おまえの首を切り落としてやろう!」



その男は言った。

「それは良い考えです。わたしの首をもってお行きなさい。でも、わたしは行きませんよ。そしていいですか、わたしの首を切り落としたとき、あなたは私の首が地面に落ちるのを見るでしょうが、私もそれを見ているのです。見守ることが、わたしたちの秘密なのです。それをあなたの師にお伝えなさい。そして、わたしの首をもって行きなさい」



さあ、このような人、すこしも恐れを知らない人の首をとることは非常に難しい。アレクサンダーは言った。

「どうやら、師を連れて帰ることはできないようだな」

老人は言った。

「あなたの師にお言いなさい。光明は、外側から持ち込めるようなものではない、と。それは輸入できません。あなたはそれを自分自身の内側で探ってみなければなりません。すべての論理、すべての見解、すべての心を落として、できるかぎり深く自分自身のなかに入るのです。その探求のまさに最後に、あなたはブッダを見いだすでしょう。わたしが行ったところで何の役にも立ちません。

わたしは断ったのではありませんよ。なぜなら、私にとってはどこにいようと違いはないからです。でも、この私を見て、あなたに光明が見えますか? あなたの師匠も、その光明を見ることができないでしょう。光明を見るためには、あなたの側にも少しばかりの光明の体験が必要なのです。すくなくとも瞑想的な資質ぐらいはね…。わたしが見たところ、西洋の人々の意識には、その瞑想性すら入り込んでいないようです」










引用:空っぽの鏡・馬祖




黒んぼになった黄金の仏像



話:OSHO(和尚)





ある仏教の尼僧の話を聞いたことがある。

彼女には自分専用の、小さな純金の釈迦仏があって、それを僧院から僧院へと旅をするときに持ち歩いていた。







が、ひとつ問題があった。

毎朝、その仏像に礼拝するときに香をたくのだが、その煙の方向を定めることができず、それがいつも寺のほかの仏像のほうに行ってしまうのだ。

これは困ったことだった。

自分の仏像がそこに坐っているのに、彼女が供養した香の煙やにおいは、ほかの仏像のほうへ行ってしまう。むかしの時代には、今でもそうだが、寺院には多くの仏像があった。

が、彼女は自分の仏像にひどく執着していたから、それは放ってはおけない問題だった。

自分の仏像と、ほかの仏像…。



彼女はとうとう香の煙が、自分の仏像のほうにだけ行く工夫を考え出した。

何しろ、せっかく香を供養しても、ほかの仏像たちがそれを取ってしまう。彼女は細い竹で管をつくり、それを香炉に取り付けて、その竹の管を通ってにおいが自分の仏像の鼻のほうにだけ行くようにした。

しかし、そこで別の問題がおこってきた。仏像の鼻が真っ黒になってしまったのだ。彼女の嘆きようといったらなかった。黄金の仏、純金の仏像なのに、鼻が真っ黒だ。それは似つかわしくなかった。まるで黒ん坊のように見えた…!



彼女は先輩の僧にたずねた。

「いったい、どうしたらようのでしょうか? もし竹をつけなかったら、香の煙は…、どこに行くかわかりません。それはほかの仏像のところへ行ってしまいます。わたしは香を『自分の』仏像に供えているのです。ところが今度は、この竹のおかげで鼻やお顔が真っ黒になってしまいました。いったい、どうしたらよいのでしょう?」

彼女がたずねたその僧は、笑って言った。

「あなたは何と愚かな女性でしょう! すべての仏像は同じだということを、みな同じ方の像だということをご存じないのですか? あなたは自分の仏像に執着しておられるが、み仏の教えのすべては無執着にあるのですよ。

まさしくそれで良いのです。み仏はあなたに、執着は人を汚すということを教えておられるのです。だからお気をつけなさい! 金細工師のところに行けば、あなたの仏像はきれいに磨いてくれるでしょう。

でもこれからは、そのみ仏のことだけをお考えなさい。どの仏像でも、どの仏が香りを取ろうとも…、彼はたぶん、それに価するのです! そしてあなたは、それがどこかに届いたことを喜ぶべきです。なぜなら、これらすべての像は、みな同じ方を表しているからです」






ゴータマ仏陀は言った。

「わたしの像をつくってはならない。なぜなら、人びとは蓮華坐ですわっただけで、目覚めることができると考えるかもしれないからだ。

ただ、このようにしておきなさい、気づきには形がなく、それは内側にしかみつからない、と。ブッダの像のなかにそれを見つけることはできない。また外側の像によって、それを乱されてもならない。

なぜなら、人間の心は何にでもかき乱され、何にでも執着するからだ…」



仏教徒たち、ブッダの信奉者たちは、

「わたしの像をつくってはならない。わたしを形なきもの、花ではなく、香りそのものの象徴にしなさい」

という、彼の最後の言葉を聞かなかった。今日では、ほかの誰にもまして多くの像が、ブッダのために作られている。














引用:空っぽの鏡・馬祖




舌の先まで出かかって… [OSHO]



話:OSHO(和尚)





仏性は達成ではない。それは単に思い出すことであり、まるで何かを忘れていたかのように、静かなリラックスした状態のなかで、突然、あなたはそれを思い出す。

あなた方もみな一度や二度は、そういった経験をしたことがあるだろう。自分では確かにそれを覚えていて、それはまさに舌の先まで出かかっているのだが、それを思い出すことができない。

そういった時は、実に奇妙で不思議な感覚がするものだ。あなたはその人の名前を知っている。自分がそれを知っていることは絶対に確かで、目を閉じればその人の顔も思い浮かぶ。その名前は、まさに舌の先まで出かかっているのだが、どうしても言葉になって出て来ない。



それは何とも不思議な感覚だ。

自分はそれを知っているし、自分が知っていることもわかっているのに、それでもそれを口に出すことができない。それはまさに舌の先にあるが、努力をすればするほど、いっそうそれは難しくなる。

それは、努力というものがすべて、あなたの心を緊張させてしまうからだ。緊張すればするほど、心はさらに閉じてしまう。



必要なのは…、

庭に行って土いじりをするとか、植物に水をやるとかして、思い出そうとしていることを、まさに舌の上に乗っかっているその人物のことを、きれいさっぱりと忘れてしまうことだ。それは唾と一緒に吐き出してしまうがいい。

なにか単純なことに没頭しなさい。

たとえばバラに水をやるとか。バラに水をやっているうちに、心はリラックスしてくる。閉じていたものが開きはじめ、そして突然、どこからともなくその名前が、心の表面に泡のように浮かび上がってくる。



努力をしているときは、それを捕まえることができなかった。

ところが、何もやろうとしていないとき、それを捕まえようという考えすらも落としてしまったとき、それは猛烈ないきおいで戻ってくる。






ブッダになることも、まったくそれと同じだ。

私があなた方に教えているすべてのことは、哲学ではないし、教えとすら呼べないものだ。わたしは単に、あなたが完璧に忘れ去っていたことを思い出せる地点まで、あなたが寛いでゆくのを助けているだけだ。

それを思い出せば、あなたは自分の仏性に目覚める。その思い出すことは達成ではない。なぜなら、ブッダはすでにあなたの中にあるからだ。「達成」という言葉が正しくないのはそのためだ。












引用:空っぽの鏡・馬祖




送水管へむかった樹 [OSHO]



話:OSHO(和尚)





つい数日前、私は、樹木には水に対する一定の感受性があるということを知った。

それを調査していた科学者は驚いた。その樹のまわりにはまったく水がなかったし、60m離れたところに一本の送水管が走っているだけだった。が、樹はその根をその送水管に向けて伸ばし、それを突き破り、その水を味わい、自らを養っていた。

科学者は、その理由がわからなかった。まわりには水はまったく見当たらなかったし、まさか樹が自分の根で送水管を壊して、そこから水を得ているとは思いもよらなかったからだ。



彼は首をかしげた。

「この樹は、どうやって60mも離れたところにある送水管を知ったのだろう?」

しかもその樹は、ほかのどこにも根を伸ばさずに、一直線にその送水管に向けて根を伸ばしていた。



樹木は水なしでは生きてゆけない。どうやら樹木にはある感受性、ある秘められた知識が備わっているに違いない。

たとえその水がパイプのなかを走っていようと、60mも離れたところにあろうと、樹は水を見つけ出す。






あなか方にとっても情況は同じだ。

あなたの真理の探求が誠実で、ただの好奇心からのものでないなら、何千里も離れたところから、あなたは自分の渇きがいやされる場所へと引き寄せられてゆく。

存在はまず渇きをいやす水を作っておいて、その後で初めて、のどの渇きを作り出す。

弟子、求道者、探求者がいれば、存在は彼らが師を見つけられるように計らい、彼らのなかに宿る未来の可能性を見抜き、彼らが彼ら自身であることを助けることができる師を見つけさせる。












引用:空っぽの鏡・馬祖