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2016年5月12日木曜日

「日常が散文ならば、茶事は詩歌である」[潮田洋一郎]



話:潮田 洋一郎





室町時代に流行した猿楽(さるがく)、連歌(れんが)、茶の湯、お香等に共通する感覚とは、切れ目なく続く世事、日常を意識的に中断して、気持ちをリフレッシュすることのように思える。

目的を記述するための散文を綴(つづ)るのをしばし止め、叙述そのものが目的である詩歌を頭に浮かべて書き留めるのに似ている。

日常が散文ならば、茶事は詩歌である。



坐禅瞑想をすれば痛感するが、人は無心にいまを感じていられない。

心ここにない。

頭はすぐに過去を悔い、未来を憂う。

これを雑念という。



いまの自分に心を引き戻すには、意思と一種のきっかけが必要である。

白隠禅師の軟酥(なんそ)の法もその一つであり、ティク・ナット・ハンの勧めるように、信号が赤に変わったときに息を見つめながら深呼吸を三回するのもよい。

改まって茶を点(た)てるのも、また戻るきっかけになる。









引用:潮田 洋一郎『数寄語り




2016年4月23日土曜日

線路を切断する斧 One Hand Clapping [T.N.Hanh]




話:ティク・ナット・ハン
Thich Nhat Hanh





日本の臨済宗の禅匠である白隠は、片手を上にあげて弟子にこう問いかけたものです。

Hakuin, a Japanese master of the Rinzai Zen sect, used to ask his disciples,

「片手で叩いたときの音(隻手の音声)とは何だ?」

"What is the sound of one hand clapping?"







これは公案です。

This is a kung-an.

こういう問いを与えられて、人はあれこれ思案します。片手が出す音とは何かを知ろうとします。

One reflects; one wants to know what is the sound emitted by one hand.



この質問には何か深遠な意味が秘められているのでしょうか。

Is there a profound significance hidden in this question?

もしないとしたら、白隠はなぜこんな問いを発したのでしょうか。

If not, why has Hakuin asked the question?

もしあるとしたら、どうすればその意味をつかむことができるのでしょうか。

If there is, how can we get at it?



線路をつねに眼の前に見ながら、それにむかって疾走する列車のように、私たちの知性はつねに自分の前に論理的な原理(logical principles)をつくって、それにしたがって真理を探究しようとします。

Like a train that always sees the rail in front of it and rushes forward, our intellect tries to establish logical principles ahead of itself while engaging in the search for truth.

さてここで突然、線路が切断され、とりはらわれます。

Suddenly, the rails are removed.

私たちの習慣の力(habit-energy)はそれでも、想像上の線路(imaginary rails)をつくって、知性という列車がこれまでのように走りつづけられるようにしようとします。

Our habit-energy still tries to establish imaginary rails so that the train of the intellect can rush forward, 

しかし気をつけてください!

but watch out!

その道を行けば深い穴(abyss)に落ちてしまいます。

To continue this way is to fall into the abyss!



「片手の音(the sound of one hand)とは何だ」

"What is the sound of one hand?"

こういう問いは、列車の前にある線路を切断する斧(the ax)なのです。

Such a question is the ax that cuts the rails in front of the train --

それは私たちのなかにある概念化の癖(the habit of conceptualization)を破壊します。

it destroys the habit of conceptualization in us.



もし機が熟していれば、つまり私たちの精神がよく準備できているならば、

If the fruit is ripe, if our spirit is well prepared, 

この斧の一振り(ax-blow)は、「死人のように生きる(live like a corpse)」世界に長年私たちを縛りつけていた束縛から私たちを解き放ち、生きた真実の核心へと連れもどすことができます。

this ax-blow will be able to liberate us from the ties that have bound us for so many years to the world where we "live like a corpse" andbring us to the heart of living reality.

しかし、もしこういう問いを受けとる準備ができていなければ、虚しい概念の世界(the world of concepts)の旅を依然としてつづけることでしょう。

But if we are not ready to receive it, we will continue our journey through the world of concepts.







問いは私たちの目前にあります。

The question is right in front of us,

「片手の音とは何だ?」

"What is the sound of one hand?"

私たちはああでもないこうでもないと、考えられるかぎりのことを考えます。この有名な「隻手の音声」の公案について想像をめぐらし、何千通りもの答えを考えるのです。

We speculate as much as we can, we imagine this famous "sound of one hand" in a thousand different ways, 

そして見いだしたことを師に示してその承認を得ようとします。

and what we find we present to the master with the hope of receiving his approval.

しかし、師はつねに「否!」としか言いません。

But the master always says "No!"



私たちは行きづまり、どうしたらいいかわからなくなります。頭がおかしくなって発狂しそうにさえなります。

We are at an impasse, on the point of losing our mind, 

実は自分自身への立ちもどり(the return to ourself)がはじまるのは、まさにその恐ろしいほどの危機的瞬間においてなのです。

and it is exactly at this point that the return to ourself begins.

そのとき、「隻手の音声」は私たちの全存在(the whole being)をまぶしいほどに照らす太陽となります。

At that moment, "the sound of one hand" can become a sun that dazzles our whole being.












引用:
禅への鍵 〈新装版〉
Zen Keys: A Guide to Zen Practice




2016年4月9日土曜日

刻苦光明かならず盛大なり [白隠]



致知
2016年3月号より






駿河には過ぎたるものが二つあり

富士のお山と、原の白隠


と謳われた名僧・白隠







だが19歳の頃、禅に失望したことがある。中国唐代に巌頭(がんとう)という禅の高僧がいた。この人は賊に殺される。その時の巌頭の叫び声が数里四方に響いたと聞き、

「悟りを開いた和尚でもその程度か」

と禅に不信をもったのである。



白隠は禅の修行に打ち込めなくなり、文学や書画に傾いていく。果ては当時詩文の第一人者とされていた美濃国瑞雲寺の馬翁(ばおう)和尚を訪ね、もっぱら文学作品を読みふけって日を過ごした。

だが、そういう生活に虚しさを覚えていたのだろう。ある日、馬翁和尚の蔵書を虫干しすることになり、白隠は手伝った。うず高く積まれた書物の山。白隠はそれに礼拝し、

「自分の師となる一書を授けたまえ」

と祈祷して、一冊を抜き取った。それが『禅閑策進(ぜんかんさくしん)だった。







その中に慈明(じみょう)という僧の話がでていた。

慈明は徹夜で坐禅を組み、眠くなると、古人は

「刻苦光明かならず盛大なり」

と言っていると自分を叱咤、錐で腿を刺して修行した、とある。



白隠は目が醒めた。

「自分は慈明ほど努力をしているか?」

否である。



それからの白隠は

「刻苦光明かならず盛大なり」

を座右の銘とし、策進(自分をムチ打ち進む)したという。



後年、白隠は「衆生本来仏なり」と説き、禅の教えの真髄をやさしく表現した『坐禅和讃』を著し、一般の人々を覚醒に導くべく願いつづけて、84年の生涯を生きた。衆生済度の願いに生きた人生だった。







註:刻苦光明かならず盛大なり
(骨を折れば折るほど、光明の輝きはいや増す)