致知
2016年3月号より
…
駿河には過ぎたるものが二つあり
富士のお山と、原の白隠
と謳われた名僧・白隠。
だが19歳の頃、禅に失望したことがある。中国唐代に巌頭(がんとう)という禅の高僧がいた。この人は賊に殺される。その時の巌頭の叫び声が数里四方に響いたと聞き、
「悟りを開いた和尚でもその程度か」
と禅に不信をもったのである。
白隠は禅の修行に打ち込めなくなり、文学や書画に傾いていく。果ては当時詩文の第一人者とされていた美濃国瑞雲寺の馬翁(ばおう)和尚を訪ね、もっぱら文学作品を読みふけって日を過ごした。
だが、そういう生活に虚しさを覚えていたのだろう。ある日、馬翁和尚の蔵書を虫干しすることになり、白隠は手伝った。うず高く積まれた書物の山。白隠はそれに礼拝し、
「自分の師となる一書を授けたまえ」
と祈祷して、一冊を抜き取った。それが『禅閑策進(ぜんかんさくしん)』だった。
その中に慈明(じみょう)という僧の話がでていた。
慈明は徹夜で坐禅を組み、眠くなると、古人は
「刻苦光明かならず盛大なり」
と言っていると自分を叱咤、錐で腿を刺して修行した、とある。
白隠は目が醒めた。
「自分は慈明ほど努力をしているか?」
否である。
それからの白隠は
「刻苦光明かならず盛大なり」
を座右の銘とし、策進(自分をムチ打ち進む)したという。
後年、白隠は「衆生本来仏なり」と説き、禅の教えの真髄をやさしく表現した『坐禅和讃』を著し、一般の人々を覚醒に導くべく願いつづけて、84年の生涯を生きた。衆生済度の願いに生きた人生だった。
註:刻苦光明かならず盛大なり
(骨を折れば折るほど、光明の輝きはいや増す)
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