話:ティク・ナット・ハン
Thich Nhat Hanh
無我
Not-Self
習癖(habits)と先入観(prejudices)をゆさぶり、とり除くために、仏教では思いきった方法がしばしば使われます。
Drastic methods are frequently used in Buddhism to uproot habits and prejudices.
仏教のもつこの特色は、禅において最もはっきりと、かつ、力強いかたちで現れています。
This characteristic trait of Buddhism is manifested most energetically in Zen.
はじめ、釈尊はひっくり返し、壊すために、無我(the no-self)の考えを方法として使いました。
The Buddha used the notion of the no-self to upset of all phenomena.
しかし、のちになって彼は、覚りに関する自分の教えを説明するためにも、無我の考えを用いるようになりました。
Later, he usedit to expound his teaching of awakening.
ですから無我(not-self)の考えは、仏教の出発点であるということもいえるのです。
It can thus be said that the notion of not-self is the point of departure of Buddhism.
仏典にはすべての現象は無我(not-self)をその性質としているということが、しばしば述べられています。
Buddhist scriptures often speak of the "not-self" nature of all phenomena.
ものには「我(self)」が無い(一切諸法無我)。
Things do not possess a self (sarvadharma anatmanah).
これが意味するところは、何ものもそれ自体のうちに絶対的な同一性(an absolute idendity, 他と無関係にAがAであるといいうる性質=自性)をもっていないということです。
Nothing in itself contains an absolute identity.
これは、形式論理の基礎になっている同一律(the principle of identity)を拒否するということです。
This means a rejection of the principle of identity, which is the basis of formal logic.
同一律に従えば、AはAであり、BはBでなければならないし、AはBであることはできません。
According to this principle,
A must be A,
B must be B,
and A cannot be B.
それに対して無我(not-self)の教義は、AはAではなく、BはBではない、AはBであることができるというのです。
The doctrine of not-self says:
A is not A,
B is not B,
and A can be B.
これは人々にショックを与え、自分たちの考え方を再吟味するよう促します。
This is something that shocks people and invites them to reexamine themselves.
無我(not-self)という表現を理解するためには、仏教が説く無常(impermanence)という概念も考察しなくてはなりません。
In order to understand not-self, the concept of impermanence (anitya) in Buddhism must also be considered.
すべては無常(impermanent)です。
All is impermanent.
あらゆるものはたえず変化しているからです。
Everything is in a state of perpetual change.
何ものも連続する刹那(ksana、想像しうる時間の最小単位)にわたって同じであることはできません。
Nothing remains the same for two consecutive ksanas (the shortest imaginable periods of time).
二刹那というごく短い時間においてさえも、みずからの同一性(identity)を維持できないのは、ものがとどまることなく変化するからです。
It is because things transform themselves ceaselessly that they cannot maintain their identity, even during two consecutive ksanas.
みずからの同一性(identity)を固定する能力がないがゆえに、ものは無我(not-self)であるといわれるのです。
Not being able to fix their identity, they are not-self;
つまり、ものには絶対的同一性(absolute identity)が無いのです。
that is to say, devoid of absolute identity.
固定的な同一性(a fixed identity)をもっていないがゆえに、いまの刹那のAは、もはや前の刹那のAではないのです。
Not having a fixed identity, A is no longer the A of the preceding ksana;
AがAではないというのはそのためなのです。
this is why one says that A is not A.
無常(impermanence)は無我(not-self)の別名です。
Impermanence is another name for not-self.
ものは時間的にいえば無常であり、空間的にいえば固定的同一性をもたない、つまり無我なのです。
In time, things are impermanent;
in space they are devoid of a fixed identity.
無常で、独立した自性(separate self)をもたないのは、物理的現象だけのことではなく、たとえば、われわれの身体のような生理的現象も、またたとえば、感情などのような精神的現象についても同じことがいえます。
Not only are physical phenomena impermanent and without a separate self, but the same is true of physiological phenomena, for example our body, mental phenomena, and feelings.
しかし、無常と無我は、そのうえに行動の原理を打ち立てるような真理としてあるというのではありません。
多くの人がこのことを知らないために、仏教の無常(anatman)と無我(anitya)の教えが、否定的かつ悲観論的な道徳原理の基礎になっていると考えています。
Many people think that anatman and anitya are the basis for a pessimistic moral doctrine.
そういう人たちは「もしすべてのものが無常で固定的な同一性をもたないのならば、それを得るためにわざわざ一生懸命に頑張ることなどしなくてもいいではないか」と言います。
They say, "If all things are impermanent and devoid of a fixed identity, why bother to struggle so hard to obtain them?"
これは仏教の真の精神を誤解しています。
This is a misunderstanding of the Buddha's teaching.
仏教は本来、智慧(understanding)によって解脱(liberation)にいたることをめざすものです。
Buddhism aims at liberation through understanding.
ですから、釈尊の言葉の真意をよく理解しないまま、文字どおりに受けとり、軽率にそれを行動の原理にしてしまってはいけません。そうではなく、智慧(understanding)という観点から釈尊の教えを深く吟味する必要があるのです。
It is therefore necessary to examine the teaching of the Buddha from the point of view of understanding, and not to take his words too literally without understanding their meaning.
つまり無常と無我は、私たちを深い智慧(deep understanding)へと導く重要な指導原理として学ばれなくてはならないのです。
Impermanence and not-self are important principles that lead to deep understanding.
ものと概念
Things and Concepts
無我(not-self)という原理は、ものそのものと私たちがそれについて抱いている概念(concepts)とのあいだに横たわる大きなへだたりに照明をあててくれます。
The principle of not-self brings to light the gap between things themselves and the concepts we have of them.
ものは動的で生きています。それに対して概念は静止的で貧弱です。
Things are dynamic and alive,
while our concepts are static.
たとえば机を見てください。
Look, for example, at a table.
私たちは、その机そのもの(itself)と心のなかにある机についての概念(concept)とが同一であるかのような印象をもっています。
We have the impression that the table itself and our concept of it are identical.
しかし、実際のところ、私たちが机だと信じているのは、机についての概念(consept)にすぎないのです。
In reality, what we believe to be a table is only our concept.
机それ自体(the table itself)は概念とはまったく異なっています。
The table itself is quite different.
いくつかの貧弱な観念 −−木、茶色、固い、3フィートの高さ、古い、等々−−が私たちの頭のなかに机という概念(a concept of table)を生みだします。
Some notions -- wood, brown, hard, three feet high, old, etc. -- give rise to a concept of table in us.
しかし机それ自体は、それほど貧弱なものではなく、つねにそれ以上のもの(more than that)です。
The table itself is always more than that.
たとえば、原子物理学者のいうところによれば、机というのは一個の静止したものの固まりではなく、そのまわりを電子が蜂の群れのように動いている無数の電子からなりたっており、
For example, a nuclear physicist will tell us that the table is a multitude of atoms whose electrons are moving like a swarm of bees,
それらの原子をぎっしりとくっつけることができるなら、その総量は指より小さいものになるのだそうです。
and that if we could put these atoms next to each other, the mass of matter would be smaller than one finger.
実際には「この机」はつねに変化しています。
This table, in reality, is always in transformation;
時間的にも空間的にも、この机は「非机(机ではない)的要素(non-talbe elements)」からのみ成りたっています。
in time as well as in space it is made only of non-table elements.
机はこの「非机的要素」に依存してなりたっていますから、もし机からそれらの要素をとり除くならば、あとには何も残らないでしょう。
It depends on these elements so much that if we were to remove them from the table, there would be nothing left.
たとえば、森、木、のこぎり、金槌、家具職人は、この「非机的要素(non-table elements)」ですし、
The forest, the tree, the saw, the hammer, and the cabinetmaker are non-table elements,
さらにこれらの要素の関連している他の要素、たとえば家具職人の両親、彼らの食べるパン、金槌をつくる鍛冶屋などもまた「非机的要素(non-table elements)」です。
as are the parents of the cabinetmaker, the bread that they eat, the blacksmith who makes the hammer, and so on.
もし机を深く観る、つまり机をすべての非机的要素との関連において見ることを知っているなら、机のうちに、こうした「非机的要素(non-table elements)」のすべてが存在していることを観ることができるはずです。
If we know how to look deeply at the table, we can see the presence of all these non-table elements in it.
机が存在しているということは、すべての「非机的要素(non-table elements)」が存在しているということ、言い換えれば全宇宙(the entire universe)が存在していることを示しているのです。
The existence of the table demonstrates the existence of all non-table elements, in fact, of the entire universe.
こういう考えは、華厳思想の体系(the Avatamsaka system)のなかでは「重々無尽の縁起」という言葉によって表現されています。「一はすなわちこれ多なり、多はすなわちこれ一なり(一即多、多即一)」ということです。私はそれを「相互依存的存在(inter-being)」という言葉で呼んでいます。
This idea is expressed in the Avatamsaka system of Buddhism by the notion of interbeing.
ものの相互依存的存在性
The Interbeing of Things
ものがどのようにして存在するようになるかということについて、仏教においては、「縁起」あるいは「相互依存的存在(interbeing)」ということがいわれています。
Genesis in Buddhism is called interbeing.
それによれば、ものの発生・成長・衰退は、単一の原因・条件ではなく、無数の因(causes)と縁(conditions)に依存しているとされます。
The birth, growth, and decline of things depend upon multiple causes and conditions and not just a single one.
ですから、ひとつのもの(ダルマ・法)が存在しているということは、他のすべてのものが存在していることを意味しています。
The presence of one thing (dharma) implies the presence of all other things.
悟りを開いた者は、それぞれのものをひとつひとつ独立した実体(a separate entity)とはみなさず、真実全体の顕現(a complete manifestation of reality)として観るのです。
The enlightened man or woman sees each thing not as a separate entity but as a complete manifestation of reality.
12世紀のヴェトナム人禅僧ダオ・ハン(?-1117、道行)は、次のように言いました。
The twelfth-century Vietnamese Zen monk, Dao Hanh, said,
「もしひとつのものが存在するなら、あらゆるものが存在する。それがたとえ一片の塵(a speck of dust)であっても。
"If one thing exists, everything exists, even a speck of dust.
もしひとつのものが空無ならば、すべてのものが空無である、それがたとえ全宇宙(the whole universe)であっても」と。
If one thing is empty, everything is empty, even the whole universe."
無我の教義はものの相互依存的存在性(the interbeing nature)に光をあてることをねらったものです。
The doctrine of not-self aims at bringing to light the interbeing nature of things;
また同時に、私たちがものに関してもっている概念や、有・無、一・多といったカテゴリーは、真実を忠実に反映したものではないし、それを十分に伝えることもできないということを証明するものです。
and, at the same time, demonstrates to us that the concepts we have of things do not reflect and cannot convey reality.
無我の真理は、概念の世界が真実の世界そのものではないことを示しています。
The world of concepts is not the world of reality.
そして概念的知識(conceptual knowledge)は真理を学ぶための完璧な道具ではないこと、究極的真実についての真理(the truth of ultimate reality)を表現するには言葉は不十分であり、不適切だということをあらかじめ警告してくれるのです。
Conceptual knowledge is not the perfect instrument for studying truth. Words are inadequate to express the truth of ultimate reality.
…
引用:
禅への鍵 〈新装版〉
Zen Keys: A Guide to Zen Practice
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