2016年4月23日土曜日

「空」だからこその存在 [T.N.Hanh]




話:ティク・ナット・ハン
Thich Nhat Hanh






ご存知ように、無我の教えは、仏教への道を開くための手段としてのみ用いられます。それはドグマ(教条)ではないのです。無我の教えはいのちをもつ存在(有情)にも、またいのちをもたない存在(非情、無情)にも、同じように適用されます。無我とは、永続的な同一性というものがないということです。

無我とは無常そのものです。あらゆる存在はたえず変化しています。ですから、いかなる存在も固定的な同一性をもっていないのです。あらゆる存在が、無我という原理に従っているのです。

仏教における「空(sunyata)」の考え方は、無我の教義から派生してきたものです。空とは、何かの内部にある空っぽの空間のことでもなければ、そのものの存在性それ自体の否定でもありません。それはものに同一性が欠如していることを意味しているのです。

あらゆる事物は絶対的な同一性を欠いています。ですから私たちはつねに「何が空であるのか」と問わなくてはなりません。ここでは、空というのは、「我」と呼ばれる独立自存の実体がないという意味なのです。しかし、独立した我がないということは、実は、あらゆる存在で満ち満ちているということなのです。



サムユッタ・ニカーヤ(相応部経典)にある次のような引用文を見てみましょう。


教主釈尊よ、なぜ世界は空であるといわれるのですか。

それは、この世界においては、それだけで独立に存在する我も、そういう我を有する物も存在しないからだ。

我をもたないものとは何ですか。

眼、形(色)、視覚は独立した我をもっていないし、我に属するもの(「我所」)ももっていない。

同様に、耳、鼻、舌、身体、意識もまた、その対象も、その知覚も、同様に、我も、我に属するものをもたない。






すべての現象(物理的、心理的、生理的)は、永続的な同一性(「我」)をもっていません。空であるということは非存在(無)ということではありません。永続的な同一性をもたないで存在しているということなのです。この点を説明するために、ナーガルジュナ(龍樹)は『大智度論』(二世紀)のなかでこう言っています。

「すべての現象が存在するのは、それが空だからである」

と。







無常と無我という観点から事物を考察するなら、この言明にはどこにも曖昧なところはありません。絶対的なあり方で、つまり変化せず、生まれず、変わらず、消滅もしないというあり方で、ものが永続的に同一性を保つことは不可能です。もし事物が空ではなく、つまり絶対的な同一性をもっているとするなら、まず存在することそのものが不可能になるでしょう。

もし無常でないとしたら、一粒のトウモロコシが成長して実になることがどうしてできるでしょう。幼い少女が若く美しい女性に成長することがどうして可能になるでしょう。絶対的で永続的な同一性を肯定することは、ものの存在は実は否定することになるのです。

それに対して、無我であるということは、実は、ものの存在を、いのちを肯定することなのです。固定した同一性がない(無我)とき、はじめて物がありうるのです。このことを次のように定式化することができます。


無常=無我=物が存在する

不変(常)=固定的同一性(我)=何も存在できない


ですから、仏教によれば、空というのは、ものの存在の肯定なのであって、否定ではないのです。ものが不変で不壊であるような世界を望んだとしても、実は、それは実現することの不可能な望みですし、そもそも望むことすらできないことなのです。







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