話:室謙二
…
それでは、このところワークショップに通っているベトナムの坊さん、ティク・ナット・ハンは「空(くう)」をなんて説明しているのか?
こちらは実に簡単なゆっくりとした口語英語で、分かりやすく「空(emptiness)」を説明している。彼は分厚いニューヨーク・タイムス紙を手にしながら、私たちのまえでこう語った。
この新聞には、さまざまな事件が書かれています。それではこの新聞の一ページを見ましょう。
文字を読むのではなくて、紙自体をみると、そう、もしあなたが詩人なら新聞が印刷されている紙に、「木」を見ることができる。なぜなら、紙はパルプから作られて、パルプは木から作られるから。
そしてまた、その木が生えていた、うっそうとした「森」を見ることもできます。いや木々のみではない。「太陽」がなくては、「雨」がなくては、「風」がなくては、木は育たなかったのです。
だからこのニューヨーク・タイムスの一ページの紙の向こうに、それらが、木が森が、太陽と雨と風が見えてくるはずです。
もう少し考えましょう。
木はパルプになるために、切り倒されなければならなかったのです。あなたが詩人なら、この新聞の紙のなかに、「キコリ」さえ見ることができるはずです。それらの要素がこの紙を作っているのです。
そう考えていけば、この紙は多くの「紙でない要素(non-paper element)
」によって作られていることが分かりますね。「太陽」も「雨」も「風」もそれに「木」も「キコリ」も、それは紙を作っている「紙でない要素」です。
つまり「紙という要素」は「紙でない要素(non-paper element)」によって作られているといってよいのです。
それでは次に、その「紙でない要素(non-paper element)」を、紙から、もとの場所にもどしてやろうではないか。パルプは木にもどり、それを育てた太陽の光は太陽にもどろ、雨は空に、風も雲も、その元あったところに、キコリはその父親にもどしてあげよう。
つまり紙を形作っていた「紙でない要素」を、そのそれぞれの場所にもどしてやったとすると、あとには「紙そのもの」というものが、残るのであろうか?
「どう思うかな?」
とティク・ナット・ハンは私たちに聞いた。
何も残らない。
So we say, "A sheet of Paper is made of no-paper elements."
A cloud is a no-paper element.
The forest is a non-paper element.
Sunshine is a non-paper element.
The paper is made of all the non-paper elements to the extent that if we return the non-paper elements to their sources,
the cloud to the sky,
the sunshine to the sun,
the logger to his father,
the paper is empty.
というわけで、ついに「空(くう)」、empty が出てきた。
紙そのものは「紙でない要素(non-paper elements)」によって成り立っている。その紙を作る「紙でない要素」を、元のところに戻したとしたら、紙は「からっぽ(空)」になる。ということで、
「それ自体が他と関係なく、独立して成り立っている存在などはない」
と空(くう)と縁起を説明した。
他から独立した自分自身(separate self)ということはない。
自分自身(self)は「自分自身以外の要素(non-self elements)」によって形作られている。
だから、独立した存在と感じられ、思われている自分自身(自我)は、本当は完全な空(くう)なのです。
ところでティク・ナット・ハンは、そういう話を子供たちと共にするのだった。
彼は子供たちをステージに呼び上げて、自分の隣に座らせる。そして、そのひとりひとりに「キミはいくつかな? 誕生日はいつかな?」と聞いていた。
それから
「誕生日のまえにキミはどこにいたのだろう?」
と質問をすすめた。カリフォルニアのカウンター・カルチャーの子供たちだから、みんなそれぞれに、
「お父さんとお母さんがメイク・ラブして、それからお母さんの体の中にいた」
とはっきり言う。
そこでティク・ナット・ハンは話をすすめて
「それじゃあ、お父さんとお母さんがメイク・ラブする前は、キミはどこにいたのかな?」
と聞くのである。子供たちは
「半分はお父さんの中で、半分はお母さんの中だ」
とは言うけど、すでに確信がない。
そこで彼はもうひとつ話を進める。
「お母さんが生まれる前には、キミはどこにいたのかな」
子供たちは答えられない。
このティク・ナット・ハンと子供たちの問答が、禅の公案(修行するものに与えられる課題)から来ていることに、ワークショップが終わって数日たってから気がついた。
それほどその会話は自然で、子供とそれをとりまく大人の聴衆を、不思議な愉快さとともに、公案ということを意識することなしに、仏教の核心的な疑問に連れて行くものだった。
その公案は
「父母(ふぼ)未生(みしょう)以前の本来の面目(めんもく)如何(いかん)」
(父母が生まれる前に、おまえの顔かたちはどこにあったのか?)
である。
こうやって子供たちも、それを取り巻いている大人たちも、
「いったい自分たちはどこから来たのだろう? 今どこにいるのだろう? そして、どこへ行くのだろう?」
という大きな問いを与えられたのだった。
引用:アメリカで仏教を学ぶ (平凡社新書)
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