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2016年5月29日日曜日

Dhammapada「法句経」第一章 [English・パーリ語]



ダンマパダ(真理のことば)
Dhammapada

法句経
dhammapadapāḷi


日本語:中村元(正田大観)
English:Max F. Müller







第一章
Chapter 1

ひと組ずつ
The Twin-Verses

対なるものの章
yamakavagga






チャックパーラ長老の事例
cakkhupālattheravatthu

1.

ものごとは心(thoughts)にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。

All that we are is the result of what we have thought: it is founded on our thoughts, it is made up of our thoughts.

もしも汚れた心(an evil thought)で話したり行ったりするならば、苦しみ(pain)はその人につき従う。

If a man speaks or acts with an evil thought, pain follows him,

(the carriage)をひく〔牛〕の足跡(the foot of the ox)に車輪(the wheel)がついて行くように。

as the wheel follows the foot of the ox that draws the carriage.



諸々の法(dhamma)は、意(mano)を先行〔の因〕とし、意を最勝〔の因〕とし、意をもとに作られる。

manopubbaṃ gamā dhammā, manoseṭṭhā manomayā;

もし、汚れた意で、あるいは、語り、あるいは、為すなら、

manasā ce paduṭṭhena, bhāsati vā karoti vā; 

そのうち、彼に、苦しみ(dukkha)が従い行く。〔荷を〕運ぶ〔牛〕の足跡(pada)に、車輪(cakka)〔付き従う〕ように。

tato naṃ dukkhamanve ti, cakkaṃva vahato padaṃ.



マッタクンダリの事例
maṭṭhakuṇḍalīvatthu

2.

ものごとは心(thoughts)にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。

All that we are is the result of what we have thought: it is founded on our thoughts, it is made up of our thoughts.

もしも清らかな心(a pure thought)で話したり行ったりするならば、福楽(happiness)はその人につき従う。

If a man speaks or acts with a pure thought, happiness follows him,

(a shadow)がそのからだから離れないように。

like a shadow that never leaves him.



諸々の法(dhamma)は、意(mano)を先行〔の因〕とし、意を最勝〔の因〕とし、意をもとに作られる。

manopubbaṃ gamā dhammā, manoseṭṭā manomayā; 

もし、清らかな意で、あるいは、語り、あるいは、為すなら、

manasā ce pasannena, bhāsati vā karoti vā; 

そののち、彼に、楽しみ(sukha)が従い行く。影(chāyā)が離れないように。

tato naṃ sukhamanveti, chāyāva anapāyinī.







ティッサ長老の事例
tissattheravatthu

3.

「かれ(he)は、われ(me)を罵った。

"He abused me,

かれは、われを害した。

he beat me,

かれはわれにうち勝った。

he defeated me,

かれは、われから強奪した」

he robbed me."

という思い(thoughts)をいだく人には、怨み(hatred)はついに息(や)むことがない。

in those who harbour such thoughts hatred will never cease.



〔彼は〕わたしを罵った。

akkocchi maṃ 

〔彼は〕わたしを打った。

avadhi maṃ, 

〔彼は〕わたしに勝った。

ajini maṇ 

〔彼は〕わたしから奪った」〔と〕

ahāsi me; 

しかして、彼らが、彼を怨むなら、彼らの怨み(vera)は静まることがない。

ye ca taṃ upanayhanti, veraṃ tesaṃ na sammati.



4.

「かれは、われを罵った。

"He abused me,

かれは、われを害した。

he beat me,

かれは、われにうち勝った。

he defeated me,

かれは、われから強奪した」

he robbed me,"

という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。

in those who do not harbour such thoughts hatred will cease.



〔彼は〕わたしを罵った。

akkocchi maṃ 

〔彼は〕わたしを打った。

avadhi maṃ, 

〔彼は〕わたしに勝った。

ajini maṇ 

〔彼は〕わたしから奪った」〔と〕

ahāsi me; 

しかして、彼らが、彼を怨まないなら、彼らの怨み(vera)は止み静まる。

ye ca taṃ nupanayhanti, veraṃ tesūpasammati.



カーリー女夜叉の事例
kāḷayakkhinīvatthu

5.

実にこの世においては、怨み(hatred)に報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。

For hatred does not cease by hatred at any time: 

怨みをすててこそ息(や)む。

hatred ceases by love, 

これは永遠の真理である。

this is an old rule.



まさに、〔怨みにたいし〕怨み(vera)をもって〔為すなら〕諸々の怨みは、この〔世において〕、いついかなる時も、静まることがない。

na hi verena verāni, sammantīdha kudācanaṃ; 

しかしながら、〔怨みにたいし〕怨みなきをもって〔為すなら〕〔諸々の怨みは〕静まる。

averena ca sammanti, 

これは、永遠の法(真理)である。

esa dhammo sanantano.



コーサンビーの者たちの事例
kosambakavatthu

6

「われらは、ここにあって死ぬはずのもの(come to an end)である」と覚悟をしよう。このことわりを他の人々(the world)は知っていない。

The world does not know that we must all come to an end here; 

しかし、このことわりを知る人々があれば、争い(quarrels)はしずまる。

but those who know it, their quarrels cease at once.



しかしながら、他者たちは、〔わたしたちが滅び行く存在であることを〕識知しない。

pare ca na vijānanti, 

わたしたちは、ここにおいて、〔自ら滅び行く存在であることを識知して、自らを〕制するのだ。

mayamettha yamāmase; 

しかして、彼らが、そこにおいて〔自らが滅び行く存在であることを〕識知するなら、そののち、諸々の確執(medhaga)は静まる。

ye ca tattha vijānanti, tato sammanti medhagā.



マハーカーラ長老の事例
mahākāḷattheravatthu

7.

この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、

He who lives looking for pleasures only, 

(眼などの)感官(senses)を抑制せず、

his senses uncontrolled, 

食事の節度を知らず、

immoderate in his food, 

怠けて勤めない者は、

idle, and weak, 

悪魔(Mara)にうちひしがれる。

Mara (the tempter) will certainly overthrow him, 

弱い樹木(a weak tree)が風に倒されるように。

as the wind throws down a weak tree.



浄美の随観者(不浄のものを「美しく価値がある」と見る者)として〔世に〕住んでいる者を、

subhānupassiṃ viharantaṃ, 

諸々の〔感官の〕機能(根)において〔自己が〕統制されていない者を、

indriyesu asaṃvutaṃ; 

さらには、食について量を知らない者を、

bhojanamhi cāmattaññuṃ, 

怠惰で精進に劣る者を、

kusītaṃ, hīnavīriyaṃ; 

彼を、まさに、悪魔(māra)は打ち負かす。

taṃ ve pasahati māro,

風が、力の弱い木を〔倒す〕ように。

vāto rukkhaṃva dubbalaṃ.



8.

この世のものを不浄であると思いなして暮らし、

He who lives without looking for pleasures,

(眼などの)感官(senses)をよく抑制し、

his senses well controlled,

食事の節度を知り、

moderate in his food,

信念あり、勤めはげむ者は、

faithful and strong,

悪魔にうちひしがれない。

him Mara will certainly not overthrow,

岩山(a rocky mountain)が風にゆるがないように。

any more than the wind throws down a rocky mountain.



不浄の随観者(不浄のものを「美しくなく価値がない」と見る者)として〔世に〕住んでいる者を、

asubhānupassiṃ viharantaṃ, 

諸々の〔感官の〕機能において〔自己が〕善く統御された者を、

indriyesu susaṃvutaṃ; 

さらには、食について量を知る者を、

bhojanamhi ca mattaññuṃ, 

信があり精進に励む者を、

saddhaṃ āraddhavīriyaṃ; 

彼を、まさに、悪魔は打ち負かさない。

taṃ ve nappasahati māro, 

風が、山の巌を〔倒そうとして倒せない〕ように。

vāto selaṃva pabbataṃ.







デーヴァダッタの事例
devadattavatthu

9.

けがれた汚物(sin)を除いていないのに、黄褐色の法衣(the yellow dress)をまとおうと浴する人は、

He who wishes to put on the yellow dress without having cleansed himself from sin, 

自制が無く真実も無いのであるから、

who disregards temperance and truth, 

黄褐色の法衣(the yellow dress)にふさわしくない。

is unworthy of the yellow dress.



すなわち、無濁ならざる者が、黄褐色の衣(袈裟)をまとうとして、

anikkasāvo kāsāvaṃ, yo vatthaṃ paridahissati; 

調御と真理(諦)から離れた者は、

apeto damasaccena, 

彼は、黄褐色〔の衣〕に値しない。

na so kāsāvamarahati.



10.

けがれた汚物(sin)を除いていて、戒律(virtues)をまもることに専念している人は、

But he who has cleansed himself from sin, is well grounded in all virtues, 

自制と真実とをそなえているから、

and regards also temperance and truth, 

黄褐色の法衣(the yellow dress)をまとうのにふさわしい。

he is indeed worthy of the yellow dress.



しかして、すなわち、汚濁を吐き捨てた者として〔世に〕存し、諸戒において〔心が〕善く定められたなら、

yo ca vantakasāvassa, sīlesu susamāhito; 

調御と真理を具した者は、

upeto damasaccena, 

彼は、まさに、黄褐色〔の衣〕に値する。

sa ve kāsāvamarahati.



サーリプッタ長老の事例
sāriputtattheravatthu

11.

まことではないもの(untruth)を、まことである(truth)と見なし、

They who imagine truth in untruth, 

まことであるもの(truth)を、まことではない(untruth)と見なす人々は、

and see untruth in truth, 

あやまった思い(vain desires)にとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。

never arrive at truth, but follow vain desires.



真髄(実:真実・本質)なきものについて真髄と思い、さらには、真髄あるものについて真髄なきと見る者たち -- 誤った思惟(邪思惟)を境涯とする者たちは、彼らは、〔法の〕真髄に到達しない。

asāre sāramatino, sāre cāsāradassino; te sāraṃ nādhigacchanti, micchāsaṃkappago carā.



12.

まことであるもの(truth)を、まことである(truth)と知り、

They who know truth in truth, 

まことではないもの(untruth)を、まことではない(untruth)と見なす人は、

and untruth in untruth, 

正しき思い(true desires)にしたがって、ついに真実(まこと)に達する。

arrive at truth, and follow true desires.



しかしながら、真髄を真髄と知って、さらには、真髄なきものを真髄なきものと〔知って〕、正しい思惟(正思惟)を境涯とする者たちは、彼らは、〔法の〕真髄に到達する。

sārañca sārato ñatvā, asārañca asārato; te sāraṃ adhigacchanti, sammāsaṃkappago carā






ナンダ長老の事例
nandattheravatthu

13.

屋根を粗雑に葺(ふ)いてある家(an ill-thatched house)には雨が漏れ入るように、

As rain breaks through an ill-thatched house, 

(mind)を修養していないならば、情欲(passion)が心に侵入する。

passion will break through an unreflecting mind.



すなわち、〔屋根が〕だらしなく覆われた家に、雨が漏れ入るように、このように、修められていない心に、貪り〔の思い〕は漏れ入る。

yathā agāraṃ ducchannaṃ, vuṭṭhī samativijjhati; evaṃ abhāvitaṃ cittaṃ, rāgo samativijjhati.



14.

屋根をよく葺(ふ)いてある家(a well-thatched house)には雨の漏れ入ることが無いように、

As rain does not break through a well-thatched house, 

(mind)をよく修養してあるならば、情欲(passion)の侵入することがない。

passion will not break through a well-reflecting mind.



すなわち、〔屋根が〕しっかりと覆われた家に、雨が漏れ入らないように、このように、善く修められた心に、貪り〔の思い〕は漏れ入らない。

yathā agāraṃ suchannaṃ, vuṭṭhī na samativijjhati; evaṃ subhāvitaṃ cittaṃ, rāgo na samativijjhati.



チュンダ屠豚者の事例
cundasūkarikavatthu

15.

悪いことをした人(the evil-doer)は、この世(this world)で憂え、来世(the next)でも憂え、ふたつのところで共に憂える。

The evil-doer mourns in this world, and he mourns in the next; he mourns in both.

かれは、自分の行為(his own work)が汚れているのを見て、憂え、悩む。

He mourns and suffers when he sees the evil of his own work.



悪しき〔行為〕を為す者(悪業を作る者)は、この〔世において〕憂い悲しみ、死してのち憂い悲しむ。〔すなわち〕両所において憂い悲しむ。彼は、〔この世において〕憂い悲しみ、彼は、〔死してのち〕打ちのめされる -- 自己の行為(業)の汚れを見て。

idha socati pecca socati, pāpakārī ubhayattha socati; so socati so vihaññati, disvā kammakiliṭṭhamatta no.



ダンミカ在俗信者の事例
dhammikaupāsakavatthu

16.

善いことをした人(the virtuous man)は、 この世(this world)で喜び、来世(the next)でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。

The virtuous man delights in this world, and he delights in the next; he delights in both.

かれは、自分の行為(his own work)が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。

He delights and rejoices, when he sees the purity of his own work.



善き〔行為〕を為した者は、この〔世において〕歓喜し、死してのち歓喜する。〔すなわち〕両所において歓喜する。彼は、〔この世において〕歓喜し、彼は、〔死してのち〕大いに歓喜する -- 自己の行為の清浄を見て。

idha modati pecca modati, katapuñño ubhayattha modati; so modati so pamodati, disvā kammavisuddhimatt ano.



デーヴァダッタの事例
devadattavatthu

17.

悪いことをした人(the evil-doer)は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。

The evil-doer suffers in this world, and he suffers in the next; he suffers in both.

「わたしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(=地獄など)(the evil path)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。

He suffers when he thinks of the evil he has done; he suffers more when going on the evil path.



悪しき〔行為〕を為す者は、この〔世において〕悩み苦しみ、死してのち悩み苦しむ。〔すなわち〕両所において悩みくる住む。〔この世では〕「わたしは、悪を為した(悪業を作った)」と悩み苦しみ、〔死後は〕悪しき境遇(悪趣)に赴き、より一層、悩み苦しむ。

idha tappati pecca tappati, pāpakārī ubhayattha tappati; "pāpaṃ me katan" ti tappati, bhiyyo tappati duggatiṃ gato.



スマナーデーヴィーの事例
sumanadevīvatthu

18.

善いことをなす者(the virtuous man)は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。

The virtuous man is happy in this world, and he is happy in the next; he is happy in both.

「わたしは善いことをしました」といって歓喜し、幸(さち)あるところ(=天の世界)(the good path)におもむいて、さらに喜ぶ。

He is happy when he thinks of the good he has done; he is still more happy when going on the good path.



善き〔行為〕を為した者(功徳を作った者)は、この〔世において〕愉悦し、死してのち愉悦する。〔すなわち〕両所において愉悦する。〔この世では〕「わたしは、善を為した(功徳を作った)」と愉悦し、〔死後は〕善き境遇(善趣)に赴き、より一層、愉悦する。

idha nandati pecca nandati, katapuñño ubhayattha nandati; "puññaṃ me katan" ti nandati, bhiyyo nandati suggatiṃ gato.



二者の道友の比丘の事例
dvesahāyakabhikkhuvatthu

19.

たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。

The thoughtless man, even if he can recite a large potion (of the law), but is not a doer of it, 

牛飼い(a cowherd)が他人の牛(the cow of others)を数えているように。かれは修行者の部類(the priesthood)には入らない。

has no share in the priesthood, but is like a cowherd counting the cows of others.



たとえ、もし、益を有する〔聖典の言葉〕を多く語るも、それを為す者と成らないなら、怠る人である。他者たちの牛を数えている牛飼いのようなものであり、沙門(修行者)の資質を分け持つ者には成らない。

bahumpi ce saṃhita bhāsamāno, na takkaro hoti naro pamatto; gopova gāvo gaṇayaṃ paresaṃ, na bhāgavā sāmaññassa hoti.



20.

たとえためになることを少ししか語らないにしても、

The follower of the law, even if he can recite only a small potion (of the law)

理法にしたがって実践し、情欲(passion)と怒り(hatred)と迷妄(foolishness)とを捨てて、

but, having forsaken passion and hatred and foolishness, 

正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類(the priesthood)に入る。

possesses true knowledge and serenity of mind, he, caring for nothing in this world or that to come, has indeed a share in the priesthood.



たとえ、もし、益を有する〔聖典の言葉〕を僅かに語るも、法(教え)を法(教え)のままに行じおこなう者として〔世に〕有るなら、貪り(貪)と、怒り(瞋)と、迷い(痴)を捨棄して、心が善く解脱した正知の者は、この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、〔両者ともに〕執取することなく、彼は、沙門の資質を分け持つ者と成る。

appampi ce saṃhita bhāsamāno, dhammassa hoti anudhammacārī; rāgañca dosañca pahāya mohaṃ, sammappajāno suvimuttacitto; anupādiyāno idha vā haraṃ vā, sa bhāgavā sāmaññassa hoti.






対なるものの章が、第一となる。
yamakavaggo paṭhamo.






英語音声↓





パーリ語音声
Dhammapada (Pali) - 1/26.
Yamakavaggo - by Ven. Ariyadhamma Maha Thero



引用:
The Dhammapada (Wisehouse Classics - The Complete & Authoritative Edition)
ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)
小部経典 第一巻 (パーリ語原文付)~正田大観 翻訳集 ブッダの福音~




2016年5月26日木曜日

パーリ語で読む『スッタニパータ』宝経(4/17)




←前へ
宝経 Ratana Suttaṃ(3/17偈)



スッタニパータ Suttanipāta
第二 小さな章
宝経 Ratana Suttaṃ(4/17偈)



カヤン
Khayaṃ 滅尽

ウィラーガン
virāgaṃ 離貪

アマタン
amataṃ 不死

パニータン
paṇītaṃ, 優れた



ヤダッジャガー
Yadajjhagā 所のもの・到達した

サキャムニー
sakyamunī 釈迦牟尼が

サマーヒトー
samāhito; 禅定



[日本テーラワーダ協会訳]
釈迦牟尼が到達されし禅定は、煩悩の滅尽、離貪、不死の境地で、優れたるものなり。

[中村元訳]
心を統一したサキヤムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された。

[正田大観訳]
〔心が〕定められた方であるサキャ〔族〕の牟尼(釈迦牟尼)が到達した、〔まさに〕その、不死にして妙なる滅尽と離貪〔の境処〕




Na ない

テーナ
tena それ

ダンメーネーナ
dhammena 法(禅定)

サマッティ
samatthi 同じで

キンチ
kiñci, 何であれ



[日本テーラワーダ協会訳]
その法(禅定)に等しきものあらず。

[中村元訳]
その理法と等しいものは何も存在しない。

[正田大観訳]
その法(教え)と等しいものは、何であれ、存在しない。



イダンピ
Idampi これも

ダンメー
dhamme 法が

ラタナン
ratanaṃ 宝

パニータン
paṇītaṃ; 優れた



[日本テーラワーダ協会訳]
此の法(ダンマ)が勝宝たる由縁なり。

[中村元訳]
このすぐれた宝は理法のうちに存在する。

[正田大観訳]
これもまた、法(ダンマ)における、妙なる宝である。



エーテーナ
Etena この

サッチェーナ
saccena 真実で

スワティ
suvatthi 幸せで

ホンティ
hotu. あれ



[日本テーラワーダ協会訳]
此の真実により、幸いあらんことを。

[中村元訳]
この真理によって幸せであれ。

[正田大観訳]
この真理によって、安穏有れ。










引用:
困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く
釈迦牟尼が 到達した禅定は 滅尽定 苦のない世界 幸せであれ<225>




2016年5月21日土曜日

パーリ語で読む『スッタニパータ』宝経(3/17)




←前へ
宝経 Ratana Suttaṃ(2/17偈)



スッタニパータ Suttanipāta
第二 小さな章
宝経 Ratana Suttaṃ(3/17偈)



ヤン
Yaṃ もの

キンチ
kiñci いかなる

ウィッタン
vittaṃ 財産

イダ
idha この世の

ワー
 あるいは

フラン
huraṃ あの世の

ワー
, あるいは



[日本テーラワーダ協会訳]
この世、あるいは来世における如何なる富も、

[中村元訳]
この世または来世におけるいかなる富であろうとも、

[正田大観訳]
あるいは、この〔世において〕、あるいは、あの〔世において〕、それが何であれ、富としてあるもので



サゲース
saggesu 天界の

ワー
 あるいは

ヤン
yaṃ もの

ラタナン
ratanaṃ 宝

パニータン
paṇītaṃ; すぐれた



[日本テーラワーダ協会訳]
また天上にある如何なる妙法も、

[中村元訳]
天界における勝れた宝であろうとも、

[正田大観訳]
あるいは、それが、諸々の天上における、妙なる宝であるとして、



Na ない

ノー
no 確かに

サマン
samaṃ 等しい

アッティ
atthi 存在し

タターガテーナ
tathāgatena, 如来



[日本テーラワーダ協会訳]
われらの如来に等しきものあらず、

[中村元訳]
われらの全き人(如来)に等しいものは存在しない。

[正田大観訳]
如来と等しいものは、けっして、存在しない。



イダンピ
idampi これも

ブッデー
buddhe 仏陀の

ラタナン
ratanaṃ 宝

パニータン
paṇītaṃ; 優れた



[日本テーラワーダ協会訳]
此は仏陀の勝宝たる由縁なり。

[中村元訳]
この勝れた宝は、目ざめた人(仏)のうちに存する。

[正田大観訳]
これもまた、覚者(ブッダ)における、妙なる宝である。



エーテーナ
Etena この

サッチェーナ
saccena 真実で

スワッティ
suvatthi 幸せで

ホーティ
hotu. あれよ



[日本テーラワーダ協会訳]
この真実により、幸いがあらんことを。

[中村元訳]
この真理によって幸せであれ。

[正田大観訳]
この真理によって、安穏有れ。







引用:
困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く




2015年11月22日日曜日

パーリ語で読む『スッタニパータ』宝経(2/17)




←前へ
宝経 Ratana Suttaṃ(1/17偈)



スッタニパータ Suttanipāta
第二 小さな章
宝経 Ratana Suttaṃ(2/17偈)



タスマー
Tasmā それ故


hi 実に

ブーター
bhūtā 生きものたちよ

ニサーメータ
nisāmetha 注意する

サッベー
sabbe すべての


[日本テーラワーダ協会訳]
それゆえ、一切の精霊は耳を傾けよ

[中村元訳]
それ故に、すべての生きものよ、耳を傾けよ

[正田大観訳]
それゆえに、まさに、一切の精霊たちよ、こころして聞け



メッタン
mettaṃ 慈しみを

カロータ
karotha 為しなさい

マーヌスィヤー
mānusiyā 人間に

パジャーヤ
pajāya 人々に


[日本テーラワーダ協会訳]
人間に慈しみを垂れるがよい

[中村元訳]
人類に、慈しみを垂れよ

[正田大観訳]
人間たる〔世の〕人々に、慈愛〔の心〕を作り為せ



ディワー
Divā 昼に

チャ
ca また

ラットー
ratto 夜に

チャ
ca また

ハランティ
haranti 運ぶ

イェー
ye 人びと

バリン
baliṃ 供物を


[日本テーラワーダ協会訳]
昼夜に供物を持ち来る人々を

[中村元訳]
昼夜に供物をささげる人類に

[正田大観訳]
彼らは、昼も、夜も、〔あなたたちに〕供物を運ぶ者たちである



タスマー
tasmā それ故


hi 実に

ネー
ne 彼に

ラッカタ
rakkhatha 護りなさい

アッパマッター
appamattā  怠りなく


[日本テーラワーダ協会訳]
怠ることなく護るがよい

[中村元訳]
それ故に、なおざりにせず。かれらを守れ

[正田大観訳]
それゆえに、まさに、怠りなく、彼らを守れ






次へ→
宝経 Ratana Suttaṃ(3/17偈)






引用:
困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く
精霊よ 人間たちを 護りなさい 彼らはいつも 供養している<223>


2015年11月19日木曜日

スッタニパータ 蛇の章「蛇」 対訳[中村元・正田大観]



suttanipātapāḷi
スッタニパータ

namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa
[中村元訳]かの尊き師、尊き人、覚った人に礼したてまつる。
[正田大観訳]阿羅漢にして 正自覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る





第一 蛇の章 uragavagga

一、蛇の経 uragasutta 17偈)

※主たる訳文は中村元氏に拠る。



1

※1.1の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)※1.2は、
yo uppatitaṁ vineti kodhaṁ, visaṭaṁ sappavisaṁv a osadhehi; 

この世とかの世※1.3とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼が、広がった蛇の毒を諸々の薬で〔除き去る〕ように、沸き起こった忿激〔の思い〕(忿)を取り除くなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


中村註1.1:蛇
この聖典の最初に蛇のことばかり出てくるので、日本人は異様な感じを受けるであろう。しかしインドないし南アジアでは、どこへ行っても蛇が多い。従ってインド人にはむしろ親しく感ぜられるのである。こういう風土的背景があるために、仏像やヒンドゥー教の神像には、光背が五頭とか七頭とかの蛇になっている場合が少くない。蛇が霊力を以て神々を、また人々を護ってくれるのである。仏伝にも竜(つまり蛇)がしばしば登場する。

中村註1.2:修行者
bhikkhu. 「乞う者」の意。漢訳では「比丘(びく)」と音写する。当時インドの諸宗教ではすべて家を出た修行者は托鉢によって食物を得ていたので、このようにいう。それのサンスクリット形 bhiksu という語は、インドのどの宗教でも用いられる。在家の人々は修行者に最上の敬意を示して食物を捧げるが、修行者は平然としてこれを受け、挨拶を返さない。

中村註1.3:この世とかの世
orapāraṁ. 註釈には種々の解釈が挙げられている。pāra を「岸」の意味に解すると、orapāraṁ は「此岸」すなわち「下界」の意味になる。



2

池に生える蓮華※2.1を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、
yo rāgamudacc hidā asesaṁ, bhisapuppha ṁva saroruhaṁ vigayha;

この世とかの世とをともに捨てる。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼が、池に生えている蓮の花を〔水に〕入って〔折り取る〕ように、貪欲〔の思い〕(貪)を残りなく断ち切ったなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


中村註2.1:蓮華
蛇が南アジアでよく見かける動物であるのに対して、インドの代表的な花は「蓮華」である。そこで蓮華の例をもち出したのである。



3

奔り流れる妄執(もうしゅう)の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、
yo taṇhamudacc hidā asesaṁ, saritaṁ sīghasaraṁ visosayitvā;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼が、激しく流れる〔渇愛の〕流れを干上がらせて、渇愛〔の思い〕(愛)を残りなく断ち切ったなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。



4

激流が弱々しい葦※4.1の橋※4.2を壊すように、すっかり驕慢を滅し尽した修行者は、
yo mānamudab badhī asesaṁ, naḷasetuṁva sudubbalaṁ mahogho;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼が、極めて力の弱い葦の橋を大激流が〔押し流す〕ように、〔我想の〕思量(慢:自他を比較し価値づける心)を残りなく壊し去ったなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


中村註4.1:葦
裂かれた葦(naḍa)と激流の譬喩は『リグ・ヴェーダ』第一編第三二詩篇の八に出てくる。

中村註4.2:橋
setu. この語を「堤」「堤防」と解することが行われているが、パーリ語では専ら「橋」を意味する、と、スリランカの学僧がわたくしに語った。「堤」はサンスクリットでも、パーリ語でも tīra である。



5

無花果(いちじく)の樹の林の中に花を探し求めても得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なもの※5.1を見出さない修行者は、
yo nājjhagamā bhavesu sāraṁ, vicinaṁ pupphamivā udumbaresu;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼が、〔花なき〕無花果〔の木々〕に花を尋ね求める者のように、諸々の〔迷いの〕生存(有)において真髄(実:真実・本質)に到達しなかったなら(迷いの生存を真実と誤認しなかったなら)、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


中村註5.1:堅固なもの
原語は sāra であるが、註釈は「常住性または本性」と解する。事物のうちに堅固なものを見出さない、というのは、つまり〈空〉であるということである。〈空〉の思想は、最初期にまでたどることができるのである。



6

内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した※6.1修行者は、
yassantarato na santi kopā, itibhavābhav atañca vītivatto;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼に、諸々の〔心の〕動乱が、〔心の〕内から存在しないなら、しかして、かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を超克した者であり、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


中村註6.1:世の栄枯盛衰を超越した
原語の意義は、恐らく「〈このようになりたい 、あのようになりたい〉ということを超越した」の意。



7

想念※7.1を焼き尽して余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、
yassa vitakkā vidhūpitā, ajjhattaṁ suvikappitā asesā;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼の、諸々の思考(尋)が破砕され、内に残りなく善く整えられたなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


中村註7.1:想念
ここで「想念」(vitakkā 複数)というのは、思慮し思考することである。心の静まった修行者には、思慮分別はいらない、というのである。



8

走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく※8.1
すべてこの妄想※8.2をのり超えた修行者は、
yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṁ accagamā imaṁ papañcaṁ;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、この戯論(分別妄想)の一切を超え行ったなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


中村註8.1:走っても…遅れることもなく
註によると、努力精励しすぎることもなく、また怠けることもなくの意。つまり中道の思想を説いている。

中村註8.2:妄想
原語は papañca であり、この語は漢訳仏典ではよく「戯論」と訳される。ヴェーダーンタ哲学では、世界のひろがりの意味。しかし原始仏教聖典では「妄想」の意味か。



9

走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、
「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、
yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṁ vitathamidant i ñatva loke;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と知って、世にあるなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。



10

走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、
「一切のものは虚妄である」と知って貪(むさぼ)りを離れた修行者は、
yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṁ vitathamidant i vītalobho;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と、貪欲を離れた者となるなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。



11

走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、
「一切のものは虚妄である」と知って愛欲を離れた修行者は、
yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṁ vitathamidant i vītarāgo;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と、貪り(貪)を離れた者となるなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。



12

走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、
「一切のものは虚妄である」と知って憎悪(ぞうお)を離れた修行者は、
yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṁ vitathamidant i vītadoso;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と、怒り(瞋)を離れた者となるなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。



13

走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、
「一切のものは虚妄である」と知って迷妄を離れた修行者※13.1は、
yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṁ vitathamidant i vītamoho;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と、迷い(痴)を離れた者となるなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


中村註13.1:迷妄を離れた修行者
以上の四つの詩句においては、それぞれ貪り(lobha)または愛欲(rāga)、憎悪(dosa)、迷妄(moha, 愚癡)という三つの煩悩は、人間にとって根本的なものであるから、古来の仏教の学問では「 貪(とん)(じん)(ち)の三毒」という。rāga は、愛し、むさぼり、執著すること、dosa は(1)嫌悪し、次に(2)憎悪し、さらに(3)打ちのめし害すること、moha とは、真実のすがたを知らず、迷ってぼうとしていること。



14

悪い習性※14.1がいささかも存することなく、悪の根を抜き取った修行者は、
yassānusayā na santi keci, mūlā ca akusalā samūhatāse;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼に、何であれ、諸々の悪習(随眠)が存在せず、しかして、諸々の善ならざる根元(不善根:貪・瞋・痴の三毒)が完破されたなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


中村註14.1:悪い習性
anussaya. 潜在的に潜んでいる性向である。



15

この世に還(かえ)り来る縁となる〈煩悩から生ずるもの〉をいささかももたない修行者は、
yassa darathajā na santi keci, ora"m āgamanāya paccayāse;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観]
彼に、何であれ、諸々の懊悩から生じるものが存在せず、〔迷いの〕此岸に帰り来るための諸々の縁が〔存在しないなら〕、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。



16

ひとを生存に縛りつける原因となる〈妄執(もうしゅう)から生ずるもの〉をいささかももたない修行者は、
yassa vanathajā na santi keci, vinibandhāya hetukappā;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼に、何であれ、諸々の〔欲の〕林の下生えから生じるものが存在せず、〔迷いの〕生存の結縛のための諸々の因となる妄想が〔存在しないなら〕、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。



17

五つの蓋(おお)※17.1を捨て、悩みなく、疑惑を超え、苦悩の矢※17.2を抜き去られた修行者は、
yo nīvaraṇe pahāya pañca, anigho tiṇṇakathaṁk atho visallo;

この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.

[正田大観訳]
彼が、五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・加害の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)を捨棄して、煩悶なく、懐疑を超え、矢を抜いた者となるなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


中村註17.1:五つの蓋(おお)
その原語(nīvaraṇā pañca)は漢訳仏典では「五蓋」と訳される。貪欲と、いかりと、こころのしずむことと、こころのそわそわすることと、疑いとをいう。

中村註17.1:苦悩の矢
欲情(rāga)、嫌悪(dosa)、迷妄(moha)、高慢(māna)、悪い見解(diṭṭhi)の五つを言う。







[日本語訳に関する考察]

中村元訳と正田大観訳を比較してみると、正田大観訳『小部経典 第一巻』の方が、原文(パーリ語)に忠実に、ほぼ逐語訳しているのが分かる。

また、中村元氏ができるだけ仏教用語を避けているのに対して、正田大観氏は正統な仏教用語を適宜用いている。それゆえ、この仏典から初期仏教(テーラワーダ)を学ぼうとされる方にとっては、正田大観訳の方が有益であろう。一方、素朴な仏教を感じたい方には、宗教家ではなく学者であった中村元訳が肌に合うかもしれない。

中村元氏いわく、

「この『ブッダのことば(スッタニパータ)』の主要部分はもともと詩よりなり、読まれるものではなくて、吟詠されたものであった。インドの詩としては簡潔なものであるが、頭韻を踏んだり、押韻や語呂合わせさえも見られる。もとの詩の美しさを伝えることは不可能であるから、むしろ意味を伝えるほうに重点を置いて、全体を散文の口語文で訳出した。… 特に訳文は、かりに耳で聞いても理解しうるものであるように心がけた。もともとインドでは耳で聞いて口づてに伝承されていたものであるから、この性格をやはり保持したいと思った。耳で聞いても解らぬような漢訳語を使うことは、およそ原典の精神から逸脱している。インドの原語を漢字で音写することは、原則として廃止した。この翻訳は簡潔で解りやすいものであるようにと目ざした。世のいわゆる多くの仏典翻訳とは色調の異なることに読者は気づかれるであろう。… 仏教特有の単語は絶無といって差し支えない(中村元『ブッダのことば―スッタニパータ』解説より引用)

正田大観氏いわく、

「そもそも、翻訳なるものは、いかなる天才碩学の手によるものであれ、完全無欠のものとして提供されることはありません。言葉そのものの限界もあります。ましてや、一切知者たる釈尊が残された言葉です。それをそのまま原意を損なわず、他の言語に移し替えるためには、まさに、釈尊と同じレベルの力量が求められるからです。… 訳し手としては、おのれの限界をわきまえ、常に最善を尽くす姿勢を貫くしかなく、読む側としては、書いてあることを鵜呑みにせず、その正邪を自らの頭で吟味し、腑に落ち納得するまで、文字との格闘を続けるしかありません。である以上、パーリ三蔵の和訳テキストは、一つに限らず、できるだけ多くの翻訳が世に提供され、学びのための資糧となるべきなのです。複数のテキストを比較考量することで、より原典に肉薄した理解が得られるからです(正田大観『小部経典 第一巻』序文より)