2019年12月4日水曜日

【原文】正法眼蔵_弁道話_02


← 【原文】正法眼蔵_弁道話_01


道元

辦道話(べんどうわ) [弁道話]02

いまこの坐禅の功徳、高大なることをきゝをはりぬ。おろかならむ人、うたがうていはむ、仏法におほくの門あり、なにをもてかひとへに坐禅(ざぜん)をすゝむるや。

しめしていはく、これ仏法の正門(しょうもん)なるをもてなり。

とうていはく、なんぞひとり正門とする。

しめしていはく、

大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、又三世の如来、ともに坐禅より得道せり。このゆゑに正門なることをあひつたへたるなり。しかのみにあらず、西天(さいてん)東地(とうち)の諸祖、みな坐禅より得道せるなり。ゆゑにいま正門を人天(にんでん)にしめす。

とふていはく、あるいは如来の妙術を正伝し、または祖師のあとをたづぬるによらむ、まことに凡慮(ぼんりょ)のおよぶにあらず。しかはあれども、読経(どきょう)念仏は、おのづからさとりの因縁(いんねん)となりぬべし。たゞむなしく坐してなすところなからむ、なにによりてかさとりをうるたよりとならむ。

しめしていはく、なんぢいま諸仏の三昧(さんまい)、無上の大法(だいほう)を、むなしく坐してなすところなしとおもはむ、これを大乗を(ほう)ずる人とす。まどひのいとふかき、大海(だいかい)のなかにゐながら水なしといはむがごとし。すでにかたじけなく、諸仏(しょぶつ)自受用(じじゅよう)三昧(ざんまい)に安坐せり。これ広大の功徳をなすにあらずや。あはれむべし、まなこいまだひらけず、こころなほゑひにあることを。

おほよそ諸仏の境界は不可思議なり。心識のおよぶべきにあらず。いはむや不信劣智のしることをえむや。ただ正信(しょうしん)大機(だいき)のみ、よくいることをうるなり。不信の人は、たとひをしふともうくべきことかたし。霊山(りょうぜん)になお退亦佳矣(たいやくけい)のたぐひあり。おほよそ心に正信(しょうしん)おこらば、修行し参学すべし。しかあらずは、しばらくやむべし。むかしより法のうるほひなきことをうらみよ。

又、読経・念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや。たゞしたをうごかし、こゑをあぐるを仏事(ぶつじ)功徳(くどく)とおもへる、いとはかなし。仏法に()するにうたゝとほく、いよいよはるかなり。又、経書(きょうしょ)をひらくことは、ほとけ頓漸(とんぜん)修行の儀則ををしへおけるを、あきらめしり、(きょう)のごとく修行すれば、かならず証をとらしめむとなり。いたづらに思量念度(ねんたく)をつひやして、菩提(ぼだい)をうる功徳に擬せんとにはあらぬなり。おろかに千万(じゅ)口業(くごう)をしきりにして、仏道にいたらむとするは、なほこれながえをきたにして、(えち)にむかはんとおもはんがごとし。又、円孔(えんく)方木(ほうもく)をいれんとせんにおなじ。(もん)をみながら(しゅ)するみちにくらき、それ医方(いほう)をみる人の合薬(こうやく)をわすれん、なにの(やく)かあらん。口声(くしょう)をひまなくせる、春の田のかへるの、昼夜になくがごとし、つひに又(やく)なし。いはむやふかく名利にまどはさるゝやから、これらのことをすてがたし。それ利貪(りとん)のこころはなはだふかきゆゑに。むかしすでにありき、いまのよになからむや。もともあはれむべし。

たゞまさにしるべし、七仏の妙法は、得道(とくどう)明心(みょうしん)の宗匠に、契心証会(しょうえ)学人(がくにん)あひしたがうて正伝すれば、的旨(てきし)あらはれて稟持(ひんじ)せらるゝなり、文字(もんじ)習学(しゅうがく)法師(ほっし)のしりおよぶべきにあらず。しかあればすなはち、この疑迷をやめて、正師(しょうし)のをしへにより、坐禅辦道して諸仏(しょぶつ)自受用(じじゅよう)三昧(ざんまい)を証得すべし。

とふていはく、いまわが(ちょう)につたはれるところの法華宗(ほっけしゅう)華厳教(けごんきょう)、ともに大乗(だいじょう)究竟(くきょう)なり。いはんや真言宗のごときは、毘盧遮那(びるしゃな)如来したしく金剛薩(こんごうさった)につたえへて、師資みだりならず。その談ずるむね、即心是仏、是心作仏(さぶつ)というて、多劫(たごう)の修行をふることなく、一座に五仏の正覚(しょうがく)をとなふ、仏法の極妙(ごくみょう)といふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすゝむるや。

しめしていはく、しるべし、仏家(ぶっけ)には(きょう)殊劣(しゅれつ)を対論することなく法の浅深(せんじん)をえらばず、たゞし修行の真偽をしるべし。草花(そうけ)山水(さんすい)にひかれて仏道に流入(るにゅう)することありき、土石(どしゃく)沙礫(しゃりゃく)をにぎりて仏印(ぶっちん)稟持(ひんじ)することあり。いはんや広大の文字(もんじ)万象(ばんぞう)にあまりてなほゆたかなり、(てん)大法輪(だいほうりん)又 一(じん)にをさまれり。しかあればすなはち、即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり。即坐(そくざ)成仏(じょうぶつ)のむね、さらに又かゞみのうちのかげなり。ことばのたくみにかゝはるべからず。いま直証(じきしょう)菩提(ぼだい)の修行をすゝむるに、仏祖単伝の妙道をしめして、真実の道人(どうにん)とならしめんとなり。

又、仏法を伝授することは、かならず証契の人をその宗師(しゅうし)とすべし。文字(もんじ)をかぞふる学者をもてその導師とするにたらず。一盲の衆盲(しゅもう)をひかんがごとし。いまこの仏祖正伝の門下には、みな得道証契の哲匠(てっしょう)をうやまひて、仏法を住持せしむ。かるがゆゑに、冥陽(みょうよう)神道(しんとう)もきたり帰依(きえ)し、証果の羅漢(らかん)もきたり問法(もんぼう)するに、おのおの心地(しんじ)開明(かいみょう)する()をさづけずといふことなし。余門にいまだきかざるところなり、ただ仏弟子(ぶつでし)は仏法をならふべし。

又しるべし、われらはもとより無上(むじょう)菩提(ぼだい)かけたるにあらず、とこしなへに受用(じゅよう)すといへども、承当(じょうとう)することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを(もの)とおふによりて、大道(だいどう)いたづらに蹉過(さこ)す。この知見によりて、空花(くうげ)まちまちなり。あるいは十二輪転(りんでん)、二十五()境界(きょうがい)とおもひ、三乗五乗、有仏(うぶつ)無仏(むぶつ)(けん)、つくる事なし。この知見をならうて、仏道修行の正道(しょうどう)とおもふべからず。しかあるを、いまはまさしく仏印(ぶっちん)によりて万事(ばんじ)放下(ほうげ)し、一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖(ぼんしょう)のみちにかゝはらず、すみやかに格外(かくがい)逍遥(しょうよう)し、大菩提(ぼだい)受用(じゅよう)するなり。かの(もんじ)(せんてい)にかゝはるものの、かたをならぶるにおよばむや。

とうていはく、三学のなかに定学(じょうがく)あり、六度のなかに禅度あり。ともにこれ一切の菩薩(ぼさつ)の、初心よりまなぶところ、利鈍をわかず修行す。いまの坐禅も、そのひとつなるべし。なにによりてか、このなかに如来の正法あつめたりといふや。

しめしていはく、いまこの如来一大事の正法眼蔵 無上の大法(だいほう)を、禅宗となづくるゆゑに、この(もん)きたれり。

しるべし、この禅宗の号は、神丹(しんだん)以東におこれり、竺乾(じくけん)にはきかず。はじめ達磨大師、嵩山(すうざん)の少林寺にして九年(くねん)面壁(めんぺき)のあひだ、道俗いまだ仏正法をしらず、坐禅を(しゅう)とする婆羅門(ばらもん)となづけき。のち代々(だいだい)の諸祖、みなつねに坐禅をもはらす。これをみるおろかなる俗家(ぞくけ)は、実をしらず、ひたゝけて坐禅宗といひき。いまのよには、坐のことばを簡して、ただ禅宗といふなり。そのこゝろ、諸祖の広語(こうご)にあきらかなり。六度および三学の禅定(ぜんじょう)にならべていふべきにあらず。

この仏法の相伝の嫡意(ちゃくい)なること、一代にかくれなし。如来、むかし霊山(りょうぜん)会上(えじょう)にして、正法眼蔵涅槃(ねはん)妙心無上の大法(だいほう)をもて、ひとり迦葉(かしょう)尊者(そんじゃ)にのみ付法せし儀式は、現在して上界にある天衆、まのあたりみしもの存せり、うたがふべきにたらず。おほよそ仏法は、かの天衆、とこしなへに護持するものなり、その功いまだふりず。


まさにしるべし、これは仏法の全道なり、ならべていふべきものなし。





→ 【原文】正法眼蔵_弁道話_03

0 件のコメント:

コメントを投稿