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道元
辦道話 [弁道話]02
いまこの坐禅の功徳、高大なることをきゝをはりぬ。おろかならむ人、うたがうていはむ、仏法におほくの門あり、なにをもてかひとへに坐禅をすゝむるや。
しめしていはく、これ仏法の正門なるをもてなり。
とうていはく、なんぞひとり正門とする。
しめしていはく、
大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、又三世の如来、ともに坐禅より得道せり。このゆゑに正門なることをあひつたへたるなり。しかのみにあらず、西天東地の諸祖、みな坐禅より得道せるなり。ゆゑにいま正門を人天にしめす。
とふていはく、あるいは如来の妙術を正伝し、または祖師のあとをたづぬるによらむ、まことに凡慮のおよぶにあらず。しかはあれども、読経念仏は、おのづからさとりの因縁となりぬべし。たゞむなしく坐してなすところなからむ、なにによりてかさとりをうるたよりとならむ。
しめしていはく、なんぢいま諸仏の三昧、無上の大法を、むなしく坐してなすところなしとおもはむ、これを大乗を謗ずる人とす。まどひのいとふかき、大海のなかにゐながら水なしといはむがごとし。すでにかたじけなく、諸仏自受用三昧に安坐せり。これ広大の功徳をなすにあらずや。あはれむべし、まなこいまだひらけず、こころなほゑひにあることを。
おほよそ諸仏の境界は不可思議なり。心識のおよぶべきにあらず。いはむや不信劣智のしることをえむや。ただ正信の大機のみ、よくいることをうるなり。不信の人は、たとひをしふともうくべきことかたし。霊山になお退亦佳矣のたぐひあり。おほよそ心に正信おこらば、修行し参学すべし。しかあらずは、しばらくやむべし。むかしより法のうるほひなきことをうらみよ。
又、読経・念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや。たゞしたをうごかし、こゑをあぐるを仏事功徳とおもへる、いとはかなし。仏法に擬するにうたゝとほく、いよいよはるかなり。又、経書をひらくことは、ほとけ頓漸修行の儀則ををしへおけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしめむとなり。いたづらに思量念度をつひやして、菩提をうる功徳に擬せんとにはあらぬなり。おろかに千万誦の口業をしきりにして、仏道にいたらむとするは、なほこれながえをきたにして、越にむかはんとおもはんがごとし。又、円孔に方木をいれんとせんにおなじ。文をみながら修するみちにくらき、それ医方をみる人の合薬をわすれん、なにの益かあらん。口声をひまなくせる、春の田のかへるの、昼夜になくがごとし、つひに又益なし。いはむやふかく名利にまどはさるゝやから、これらのことをすてがたし。それ利貪のこころはなはだふかきゆゑに。むかしすでにありき、いまのよになからむや。もともあはれむべし。
たゞまさにしるべし、七仏の妙法は、得道明心の宗匠に、契心証会の学人あひしたがうて正伝すれば、的旨あらはれて稟持せらるゝなり、文字習学の法師のしりおよぶべきにあらず。しかあればすなはち、この疑迷をやめて、正師のをしへにより、坐禅辦道して諸仏自受用三昧を証得すべし。
とふていはく、いまわが朝につたはれるところの法華宗、華厳教、ともに大乗の究竟なり。いはんや真言宗のごときは、毘盧遮那如来したしく金剛薩埵につたえへて、師資みだりならず。その談ずるむね、即心是仏、是心作仏というて、多劫の修行をふることなく、一座に五仏の正覚をとなふ、仏法の極妙といふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすゝむるや。
しめしていはく、しるべし、仏家には教の殊劣を対論することなく法の浅深をえらばず、たゞし修行の真偽をしるべし。草花山水にひかれて仏道に流入することありき、土石沙礫をにぎりて仏印を稟持することあり。いはんや広大の文字は万象にあまりてなほゆたかなり、転大法輪又 一塵にをさまれり。しかあればすなはち、即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり。即坐成仏のむね、さらに又かゞみのうちのかげなり。ことばのたくみにかゝはるべからず。いま直証菩提の修行をすゝむるに、仏祖単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。
又、仏法を伝授することは、かならず証契の人をその宗師とすべし。文字をかぞふる学者をもてその導師とするにたらず。一盲の衆盲をひかんがごとし。いまこの仏祖正伝の門下には、みな得道証契の哲匠をうやまひて、仏法を住持せしむ。かるがゆゑに、冥陽の神道もきたり帰依し、証果の羅漢もきたり問法するに、おのおの心地を開明する手をさづけずといふことなし。余門にいまだきかざるところなり、ただ仏弟子は仏法をならふべし。
又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるにあらず、とこしなへに受用すといへども、承当することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおふによりて、大道いたづらに蹉過す。この知見によりて、空花まちまちなり。あるいは十二輪転、二十五有の境界とおもひ、三乗五乗、有仏無仏の見、つくる事なし。この知見をならうて、仏道修行の正道とおもふべからず。しかあるを、いまはまさしく仏印によりて万事を放下し、一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖のみちにかゝはらず、すみやかに格外に逍遥し、大菩提を受用するなり。かの文字の筌罤にかゝはるものの、かたをならぶるにおよばむや。
とうていはく、三学のなかに定学あり、六度のなかに禅度あり。ともにこれ一切の菩薩の、初心よりまなぶところ、利鈍をわかず修行す。いまの坐禅も、そのひとつなるべし。なにによりてか、このなかに如来の正法あつめたりといふや。
しめしていはく、いまこの如来一大事の正法眼蔵
無上の大法を、禅宗となづくるゆゑに、この問きたれり。
しるべし、この禅宗の号は、神丹以東におこれり、竺乾にはきかず。はじめ達磨大師、嵩山の少林寺にして九年面壁のあひだ、道俗いまだ仏正法をしらず、坐禅を宗とする婆羅門となづけき。のち代々の諸祖、みなつねに坐禅をもはらす。これをみるおろかなる俗家は、実をしらず、ひたゝけて坐禅宗といひき。いまのよには、坐のことばを簡して、ただ禅宗といふなり。そのこゝろ、諸祖の広語にあきらかなり。六度および三学の禅定にならべていふべきにあらず。
この仏法の相伝の嫡意なること、一代にかくれなし。如来、むかし霊山会上にして、正法眼蔵涅槃妙心無上の大法をもて、ひとり迦葉尊者にのみ付法せし儀式は、現在して上界にある天衆、まのあたりみしもの存せり、うたがふべきにたらず。おほよそ仏法は、かの天衆、とこしなへに護持するものなり、その功いまだふりず。
まさにしるべし、これは仏法の全道なり、ならべていふべきものなし。
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