2016年5月7日土曜日
ブッダの四食 [プラユキ・ナラテボー]
話:プラユキ・ナラテボー
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ブッダはその教えのなかで、外界に触れて生ずる感覚など、心身に取りこみ入れられるものをすべて「食」と総称し、それを4種類に分類し、それらを食す瞬間瞬間に明晰に気づき、観察することによって得られる功徳をそれぞれ説かれている。
このいちばん粗大な物質的な食を
「段食(カワリンカ・アハーン)」
と称し、これに関しては次のように説いている。
「これに気づきをもって食することにより、五感に生ずる感覚的な愛欲の生滅についての理解が深まる」
物質食は、私たちの生命を養っていくうえで欠かせないものでありながら、通常は無自覚な状態で取り入れられている。
が、気づきと観察をともなって食してみると、たしかにそこには、色、形、音、香り、味、そして接触感など、私たちの五感を刺戟する強力な情報に満ち満ちていることに気づかされる。
そして、その五感への刺戟は瞬時に心の「食」へと変換され、「快」や「不快」といった感受となっていることに気づく。これをブッダは
「触食(パッサ・アハーン)」
と称し、それら「快」「不快」の感覚に翻弄されることなく、心の滋養となるべく適度に取り入れるように勧める。
また、私たちはある感覚を得ると、それに伴いなんらかの行為をおこなおうとしたり、なにかを話そうとしたり、なにかを考えようとする「意思」が生じてくるが、ブッダはこれを
「意思食(マノーサンチェータナー・アハーン)」
と称し、「快」感覚によって生ずる「もっともっと」と渇望する気持ちや、逆に「不快」な感覚にたいしてそれを遠ざけようとする衝動、あるいは無視してしまおうとする心の動きに注意深く気づくようにと促している。
そしてさらに、これら所縁を認識する作用を
「識食(ヴィンヤーン・アハーン)」
と称し、「これに気づきをもって食することにより、名 色についての理解が深まる」と説く。これはどういうことかと言えば、心がなんあらかの所縁を認識する、たとえばあるものの味を味わう、あるものを見る、ある音を聞くということは、さまざまな「名色」、すなわち色や形、感覚、イメージ、概念といったものを認識することに他ならない。
このとき人にとって物が存在するということは、そのときその人の認識のなかに物がある、あるいはそのときの意識によって色・形が認識されたということになる。すなわち、目のまえの食べものの色や形、味は、脳内で加工・認識された情報ということになる。
このように、ひとつひとつの認識作用について気づき、洞察されることによって、物質と心というものが認識というものと分かちがたく結びついていることが理解されてくるわけである。
また十二因縁では
「行」の生起に縁りて「識」が生ず
「識」の生起に縁りて「名色」が生ず
と説かれている。
これは、その時々に無自覚に生ずる思いによって偏った認識が生じ、それによって、心身がその色合いに添ったものとなると解釈することができる。すなわち、怒りなどの悪心に染まっているときには悪い面や劣った部分の所縁の認識が生じ、顔色も曇り、心も濁ってうまく働かない。
そして引きつづき、そのようなネガティブな心身状態に即した態度や言動が表れてくるということである。その時々の認識がいかに世界の風景を、そして心模様に変化を与えるかということについて理解が深まる。
これが「識食」に気づきをもって食することの功徳である。
このように、ブッダは「食」として、私たちが普通に食として理解している物質的な食「段食」のみならず、感受や意思、認識作用をも「触食」「意思食」「識食」と称して、心の「食」と位置づけた。
そして、それら心の食をも物質食同様に、栄養のある良質なものを適量だけとり、しっかりと心の滋養としていくこと。そして、それら心の食をとるときもその味に翻弄されることなく、明晰に気づきを保ちながら食し、洞察につなげていくことを最重視したのである。
断食のような苦行を極めても苦の終滅には至らず、また、感覚の忌避や思念の停止といったサマタ系の集中修行によっても苦の終滅は起こり得なかった。そのような自身の体験により、究極的には極端を廃して「中道」を基本にすえ、気づきや観察を中心にしたヴィパッサナー系の修行により苦の終滅へといたったブッダならではの知見が、この四食の教えとアプローチにおいても如実にあらわれていると思う。
なにはともあれ、この四食をいちどきにとる食事という時間は、おろそかにするにはもったいない重要なひとときで、心身にかぎりない滋養を与えることのできる絶好の機会なのである。
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引用:「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語
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