2016年5月2日月曜日

ユングと法然[観無量寿経]



話:室謙二





「観無量寿(かんむりょうじゅ)経」は3つの部分に分かれている。

その中心部は浄土を体験するための瞑想ガイドで、最後の部分は、瞑想によって浄土を体験できない人のために書かれている。その最も簡単な方法が、南無阿弥陀(なむあみだぶつ)と唱えること(口唱念仏)で、法然はこれを採用した。







心理学者のユングは、導入部と、ただナムアミダブツと唱えればよろしいという最終部を無視して、中心の瞑想ガイドにのみコメントをくわえた。

私はユングにこのお経の面白さを教わったが、というよりユングにお経一般の読み方を教わったのだが、彼の「浄土の瞑想 観無量寿経によせて」(『東洋的瞑想の心理学 』)を読みながら、観無量寿経の瞑想に入っていこう。

観無量寿経の浄土の思想は、まず西に落ちていく太鼓のように丸い太陽を見ることにはじまる。アミダは光であることはすでに書いた。アミダの浄土が西の方角にあることも書いた。それならば、別の世界(西の地平線の下)に向かう太陽が、何のシンボルであるかが分かるだろう。







ユングはある書物のなかで、

「湖は無意識の象徴である」

と書いていた。水の表面は外の光を反射して、その下に何があるか分からない。表面の下には大きな領域の空間(無意識)がある。

ユングは観無量寿経は、「瞑想者自身がブッダであり、瞑想者の意識がブッダである」ということを発見することによって、個人的無意識の領域ではなくて、集合的無意識の領域に到達すると書いている。







法然は念仏だけでなく、観無量寿経の瞑想を生涯に何度もおこなっている。

三昧発得記(さんまいほっとくき)によれば、1198年(建久九年)の正月一日から観無量寿経で浄土を体験する瞑想をはじめている。

念仏と瞑想をはじめると、すぐにまわりが明るくなった。夕日が見えたのだろう。初観の「日想」である。それから2月7日までの37日間に、水と氷と瑠璃の地をみる第二観の「水想」、浄土の国土をみる第三観の「地想」、宝石がなっている木々をみる第四観の「樹想」、宝石と黄金が底にある池と小川をみる第五観の「八功徳水の想い」、天人が音楽をかなでる宝石に飾られた無数の楼閣をみる第六観の「総の観想」まで進む。







三昧発得記を読んでわかることは、法然のおこなった瞑想が受け身のものではなくて、ユングの言う「能動的想像力」であったことだ。

そこにあらわれる浄土の風景は、観無量寿経(あるいは無量寿経)に描かれたものだけではない。法然の浄土への参加によって、浄土にあるさまざまなものが、動き出して法然には見えてくる。見えるだけではなくて、法然はその環境を現実として生きる。宝樹は法然のこころにしたがって、大きくなったり小さくなったりするし、五つの観想をいつでも、心にしたがって自在に体験できるようになる。

法然は、片方では「ナムアミダブツと唱えるだけでよろしい」と言いながら、もう一方でこういう瞑想をおこない、そこからエネルギーを得ていた。これは宗教者の欺瞞であるか。真実の宗教者は複雑な人間で、複雑な要素をその中にもっている。そこから宗教的情念がでてくる。法然はそれであった。







法然はじつに面白い。いろんな面がある。

生涯厳しく戒を守ったが(親鸞とは違う)、念仏さえ唱えれば、あとはどうでもよろしい。社会の倫理などは守るに越したことはないが、小さなことなのだ。在家には「念仏のみでよろしい」と言って、自分では観無量寿経の瞑想をしている。それは別に矛盾ではない。矛盾というのは、小さなことなのだろう。





観無量寿経での瞑想ガイド(主要部)では、最後に、浄土の中心に座るアミダブツが見えてくる。

ブッダは法身(肉体のない真理そのもの)であり、あらゆる衆生の意識にはいると指摘したあとで「観無量寿経」はこう言う。


是心作仏 是心是仏

結局は、ブッダになるのはお前の意識であり、それどころか、お前の意識が実際はブッダなのだ


ここにおいて、自我(お前の意識)が消え失せる。

自分の意識がブッダをつくり(ブッダになり)、自分の意識がブッダそのもので、自分の意識とブッダは等価になって(完全に平等になって)、自分の意識(自我)は消える。

ユングはこれを、「個人的無意識」が消えて「集合的無意識」が立ち上がってきたのだ、と書いていた。個人が消えて、集団や民族や人類の集合的な時間と空間をふくむ意識(無意識)に到達するのである。

落ちていく夕日を見る瞑想は、ここ(是心作仏、是心是仏)まで至る。








引用:アメリカで仏教を学ぶ (平凡社新書)



0 件のコメント:

コメントを投稿