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禅に
「瞋拳(しんけん)笑面を打せず」
という句があるが、これは合掌の精神である。
瞋(いか)って握り拳を固めて赤ちゃんを撲ろうと思っても、赤ちゃんがニコニコ笑っていると、振り上げた拳が下ろせない。
観音経では、相手が斬ろうと思っても、観音ということを念ずれば、刀が折れてしまうとあるが、これは刀が折れるわけではなくて、こちらが本当に慈悲の心になりきっておれば相手も慈悲心を起こして、斬れなくなってしまうということを言っているのである。
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禅に
「瞋拳(しんけん)笑面を打せず」
という句があるが、これは合掌の精神である。
瞋(いか)って握り拳を固めて赤ちゃんを撲ろうと思っても、赤ちゃんがニコニコ笑っていると、振り上げた拳が下ろせない。
観音経では、相手が斬ろうと思っても、観音ということを念ずれば、刀が折れてしまうとあるが、これは刀が折れるわけではなくて、こちらが本当に慈悲の心になりきっておれば相手も慈悲心を起こして、斬れなくなってしまうということを言っているのである。
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かれ(平山行蔵、ひらやま・こうぞう)がまだ修行中の、ある冬の真夜中のことである。
ふと眼を覚ましたかれの脳裏に、昼間読んだ『長篠軍記』の鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)が、敵の重囲をのがれ出て味方の苦境を岡崎の本陣に知らせた一節が浮かんできた。
あれがもしこんな晩で、しかも長時間、川の中にもぐり込んでいなければならなかったとすればどうだろう、果たして耐えられたろうか。
そんなことを考えだしたらジッと寝ていられなくなった。さっそく起き出して風呂桶に水を汲み込み、ザブンとばかり飛込んでみた。
身を刺すような冷たさに、さすがのかれも二、三十分でとび出してしまった。
こんなことでは!
と、いろいろ考えた末、こんどは下腹を綿で包んで入ったら、何時間か耐えられたので、これで冬の陣にもさしつかえなしと、やっと安心して眠ったという。
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ある人が、鉄舟翁に、
「剣術とはどんなものですか」
とたずねたとき、
翁はその人に向かって、
「仕度をして道場に来なさい」
といって、十分に仕度をさせた上で、自分はコヨリを一本もって立ち向かった。
バカにされたと思って少し気色ばんだその人が、
上段から真っ向に打ち下ろそうとするとその瞬間、
翁は手にしたコヨリをヒョイと相手の鼻の穴にさしこんだ。
「どうです、わかりましたか。
剣術とはこういうものです」
といったそうである。
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山僧(やまぞう)近前(ちか)づきて、
すなわち典座(てんぞ)の法寿(ほうじゅ)を問う。
私が典座和尚に近づいて年齢を尋ねたところ、
座(ぞ)云(い)う、
「六十八歳なり」と。
「六十八歳である」といわれた。
山僧(やまぞう)云う、
「如何ぞ行者(あんじゃ)、人工(にんく)を使わざる」と。
私が「どうして下働きの者にやらせないのですか」というと、
座云う、
「他(かれ)は是(こ)れ吾(わ)れにあらず」と。
「他人に頼んだのでは私の修行にならない」
山僧云う、
「老人家(ろうにんけ)、如法(にょほう)なり。
天日(てんじつ)かつ恁(かく)のごとく熱し、
如何ぞ恁地(かくのごとく)にする」と。
私は、「御老僧のいわれる通りです。それにしても、このように厳しい暑さの中でなされなくてもよいではありませんか」といったが、
座云う、
「更(さら)に何(いず)れの時をか待たん」と。
典座和尚に「今やらないで何時やるのか」といわれ、
山僧、すなわち休(きゅう)す。
私は何もいえなかった。
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【出ず入らずの息】
剣道の稽古は一日に一時間か二時間であるが、一日は二十四時間。その二十四時間、休みなく活動しているのは呼吸である。呼吸は人の命であり、この呼吸を正す工夫をする。これが日常生活の土台となるのである。
呼吸を鼻と喉でしている人を剣道に当てはめてみると、手だけで打っている人と同じこと。これではだめで、呼吸を首でする。そういう修錬をすれば、構えにも繋がってくる。
日本神道では、臍(へそ)で呼吸せよ、臍は一尺位前に出ていると思え、と教えている。臍で呼吸をすると、心火がずーっと下に降ってくる。 小渥愛次郎範士は、「臍を鍔に乗せろ」と言っている。これは落着けという意味であり、呼吸を臍でする。
それから丹田で呼吸する。白隠禅師は『夜船閑話(やせんかんな)』で「心火を降下し、気海丹田の間に充たしむ」と言っている。ただし、無理に力を入れてはいけない。無理に力を入れると力みとなり、技が出なくなる。丹田から呼吸が全体にまわるように修錬すると、相手にも通じるようになる。
それから呼吸を足でする。荘子は「衆人の息は喉を以てし、真人の息は踵を以てす」と言っている。呼吸を足腰でする。剣道は足腰が大事である。足の踏み方の悪いのは、呼吸が乱れる。左足から崩れてくる。
斎村五郎範士は足が良かったが、三十歳位の時から歩き方の工夫をしたという。道を歩いていても呼吸を足でする練習をした。こういうふうに普段から心掛けて呼吸を修錬することが大切である。
剣道は呼吸の乱れたところを打たれる。昔から呼吸を「聞く」というが、相手に呼吸を聞かれたら、打たれてしまう。しかし呼吸を練ると、息をしていながら吐く息、吸う息の切れ目がなくなり、まるで息をしていないようになる。こうなれば呼吸が乱れることはなく、相手に呼吸を「聞かれる」こともない。
持田範士などは隙がないと言われるが、呼吸の修行を積んでいるため打つところがないのである。
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放つ位
柳生連也の至境
尾州の第二代瑞竜公、徳川光友が、その剣道の師、新陰流正統五世の柳生厳包(よしかね)入道連也(れんや)に、自分の悟ったところを呈示したものだといわれている歌に
張れや張れ
ただゆるみなきあづさ弓
放つ矢さきは知らぬなりけり
というのがある。
この歌を、同流第二十世の柳生厳長先生は、日本剣道の真髄たる「真剣の妙趣」を詠じたものとして、これを精進、充実、超絶の三段に分け、大略次のように説いている。
まことに「真剣」は層々向上極り無き精進―向上発展、勤勉、努力そのもの、即ち是れ誠心であります。瑞竜公の「はれやはれ」であります。これを誠にするは「人」にあります。
この精進、誠心による充実―充ち満ちた姿であります。兵法にこれを「勢」と謂ひ「位」とします。「たゞゆるみなきあづさ弓」であります。これは「地」にあり、また「人」にあります。
さらに「真剣」は、この精進、充実を頂上とし、その絶頂からの飛躍であり、擺(はい)脱であり、超絶境であります。生死脱得であります。真に百尺竿頭一歩を放って行くものであります。「はなつ矢さきはしらぬなりけり」であります。兵法にこれを「放ツ位」「一刀両断の位」といふ。これは「天」にあります。(日本剣道の極意)
普通に剣道の教えとしてよく知られている守・破・離という修行の順序も、これにあてはめて考えることができるであろう。その意味では、この三つの次第は、ひとり新陰流あるいは剣の道にかぎるものではない。何の道の修行にしても、この順序でゆくほかはないと思う。
前に書いた正三老人の仁王禅にしても、一生仁王さまのようにしていろということではなく、結局は如来禅という「放ツ位」に至るためには、まず緊張充実の仁王の門をくぐらなければ、本尊の観音様には、お詣りできないということなのである。
晩年には夜中、写経などしていると肩や膝にチョロチョロと鼠がでてきて遊んでいたといわれる山岡鉄舟翁も、若い頃には坐禅をはじめると、不思議や今まで暴れ回っていた鼠が一匹もいなくなったという。夫人がそのことを話すと、翁は「おれの禅は鼠のかがしが相場な」と笑われたと「全生庵記録抜萃」に記されている。
われわれの坐禅は、その鉄舟翁にとってはごく初歩であるところの、鼠のかかしにすらならないのだから情けないものである。試みに天井でガタガタやっているときを選んでグッと坐ってみるが、鼠公は一向に退散しない。要するに、張りかたが足りないのである。
禅は向下を尚ぶという。エックハルトもニイチェも没落、下向を重しとする。わが天孫も高天原から人界に降ってきたものである等々、まさにその通りである。その通りであるが、現実に絶巓に身を置いたことのないものには、向下したいにも降りようがないではないか。はじめから下にいる者が、さらに降りようとすれば地獄よ りほかに行き先はないはずである。「放つ」 ことができるためには、まず「ゆるみなく」「張ら」れていなければならぬ道理である。
さて、尾州侯は右の見所が印可されてか、連也の跡を受けて新陰流正統六世を継いだのであるが、ここでは光友公のことではなく、その師の蓮也についてのべたいのである。連也は、近頃、五味康祐の小説で有名になっているが、この人には小説の種になるような逸話がたくさんある。
かれはいつも門人に向かって「わしに隙があったらいつでも遠慮なく打込むがよい」と言っていたほど絶対の自信をもっていたらしい。
すがすがしく晴れわたった秋の一日、かれは二、三の門人をつれて野外に清遊を試みた。ふと便意を催した彼は、川のほとりで澄みわたった大空を見上げながら、のんびりと小用を足していた。これを見た門下の松井某は「このとき!」とばかり背後から力一杯に連也の腰のあたりを突いた。途端に水音高く、しぶきが散った。
五味康裕の小説ならサテ落ちたのは誰だろうというところだが、連也は依然として両足をふんばり、気持よさそうに川べりに立って用を足していたというから、落ちたのは松井であることは明らかである。
松井君ばかり引合いに出してお気の毒だが、中年以後碁をたしなんだ連也は、今日も朝から松井を相手にパチリパチリと打ちはじめた。松井は川の水を存分に浴びせられた返報をとでも思ってか、容赦なく攻め込む。すでに何局か連敗を喫した連也は、ジッと盤面を見つめてしきりに長考一番、苦吟している。
碁では師匠より強い松井は、好機とばかり、ソッと拳を握り固めた。すると、連也がヒョイと顔を上げて松井を見た。しかし、これは偶然かも知れない。かならずしも察気の法によって、こちらの心気の動きを感知したものとはかぎらない。だから、松井はさらに次の機会を作るべく、しきりに口汚なく師匠を挑発する。
「先生、どうしましたか。もうあきらめて投げますか」
などといいながら、苦慮沈思する連也の顔をねらって、またもや拳を打ち出そうとした。間、髪を容れず、連也は体をそらせながら、
「冗談はよせ!」
としかった。松井はあげた手で自分の頭などをかきながら、
「なんですか」
と、とほけてみせた。
八方破れの中に、みじんも隙のないこれらの作用は、剣の専門語で「拍子を知る」、すなわち機を知るというはたらきであろう。いわゆるきざしを察知することである。連也はのちに松井に向かって
「お前がわしを試みようとするのは、お前がいまだ剣の真意を解しない証拠である。事には必ずきざしというものがある。すでにきざしがあれば相手に察知されるのは必定ではないか。体をかわすというのは術だが、きざしを知るのは術ではない。そのきざし、すなわち機を知ったら、その機に乗ずるというだけでなく、さらにその機をわがものにし、自由に使うようにしなければ駄目である」
とさとしたということである。
その機を知り、機に乗じ、機を使うというはたらきの基調をなすものは一体何であろうか。それはほかでもない。 張りに張って、緊張充実した頂点から、 さらに飛躍した「放つ位」、いいかえれば何ものにも依らない、そして何ものにも滞らないところの無住心でなければならない。仁王の門を通り越した、御本尊の観音の妙智力でなければならない。
柳生に縁のある沢庵の言葉でいえば、それが「不動智」というものであろう。不動智とは、沢庵もいっているように流動して滞らないことであり、分別せずしてしかもよく分別してあやまらないことである。そのような境地が「放つ位」というものであろう。
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相手に打たれるのは
自分の弱点を教えてもらうのだから
有り難いことだ
持田先生は相手から一本打たれると、二度目には決してそこを打たせなかった。
自分の非を教えてもらったのであるから、感謝してその欠点を直して、完全なものに近づいてゆくというのが先生の修行法である。
非を知ることを「ヒジリ」と言う。
漢字で書けば聖と書くのは聖人のことであって、自分の非を知って、その非をなおして完全な人になってゆくのが聖人である。
持田先生は三十歳以後は稽古相手に上がなかった。それにもかかわらず、あそこまで行かれたのは、打たれたところを反省して、「非知り」の稽古をされたから、八十四歳まで停滞することなく進歩されたのである。
単なる攻撃精神は相対なり。
勝負の念がある。
懸待一致は絶対なり。
勝敗の両頭を超越す。
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【一息】
仏が、ある人に
「人の命はどのくらいの長さか」
と聞くと、その人は
「数日の間」
と答えた。すると仏は
「あなたはまだまだ道を知らない」と。
別の人が同じ質問に
「飯食の間」
と答えると、仏はやはり
「あなたもまだ道を知らない」と。
そこでもう一人が
「呼吸の間なり」
と答えると、仏は
「あなたは道を知っている」と。
人の命は、吸う息、吐く息、この一息。
この一息の中に雑念を交えない。座禅でもこの一息に徹することが秘訣である。この一息に徹すれば、一息は同時に無限であり、将来につながっていく。
正受(しょうじゅ)老人はこの一息を一日暮らしの説で
「一大事と申すは今日只今の心なり」
と言っている。
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【真面(まめん)】
剣道はつきつめれば面一本。
面一本を打てればいい。
自然体で構えて、真っ直ぐ上げて真っ直ぐ打つ。その間に雑念を交えない。形(かた)でも、切り返しでも、懸り稽古でもすべて同じ。この面一本を覚える。これを真面(まめん)といって、真面の出るうちは上達すると言われている。
切り返しや懸り稽古をやってやってやり抜く。そうすると手や足が利かなくなり、全身全霊でぶつからなければならなくなる。そうして今まで自分が頼りにしてきた全てのものを投げ出して、最後の面を打つ。
この面が真面であり、すべてを投げ出したところに本当の自分、剣道の本体が悟れるのである。
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『宋名臣言行録』王質
公、相門に在りて驕(おご)らず華やかならず、貧をもって宝となす。
公在相門、而弗矯、弗華、以貧為宝、
文正舎人(しゃじん)たりし時、家はなはだ虚なり。
文正作舎人時、家甚虚、
つねに人に金を貸り、もって昆弟を贍(たらわ)す。
嘗貸人金、以贍昆弟、
期を過ぎて入らざれば、乗るところの馬を輟(てっ)してもってこれを償(つぐな)う。
過期不入、輟所乗馬、以償之、
公、家蔵の書を閲するによりてその券を得、家人を召してこれに示して日く、
公因閲家蔵書、而得其券、召家人、示之日、
「これ前人の清風なり。われらが輩、まさに奉じて墜ざるべし。よろしくこれを秘蔵すべし」と。
此前人清風、吾輩当奉而不墜、宜秘蔵之、
また顔魯公尚書たりし時、米を李大夫に乞いし墨帖(ぼくじょう)を得て、石に刻してもってこれを摸し、逼く親と友の間に遺る。
又得顔魯公為尚書時、乞米干李大夫墨帖、刻石、以摸之、遍遺親友間、
その雅尚かくのごとし。ゆえに終身貧ならざるに、至る所氷蘗の声あり。
其雅尚如此、故終身不貧、所至有氷蘗声。
一法無外
へなへな剣の都治月丹(つじ・げったん)
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これまで何べんとなく述べたように、剣と禅とがその極致、ねらい所において一致することは疑いない。そういう意味でいうならば「諸道に通ず」といわれる禅と一致しないものは、おそらく一つもないであろう。茶も花も書もみな禅と一致する。それをもう一歩ふみこんで、はっきりと自分の剣は禅だと主張したものはないものだろうか。
前に述べた針谷夕雲などはもっとも禅的であるが、それでも剣の道を究尽するための補助手段として禅を用いたというほうが正しいであろう。ところがここに一人、寛文から享保にかけて名を謳われた剣客に都治月丹(つじ・げったん、1727歿、79歳)がいて、明瞭に自分の剣は禅だと主張している。わたくしもかなり多くの伝書類を見たが、かれの伝書ほどその内容、文章等において充実したものはちょっと見当たらないと思う。古今随一だとは言えないまでも、少なくとも一流中の有力な一つであることは疑いない。
一体に剣者には無学なものが多く、勿体ぶった伝書は大てい儒者か僧侶の代筆に成ったものである。一刀流の仮名字目録といわれる免許状が、平仮名のたどたどしい文章であることが、かえって始祖一刀斎自身の手に成ったものだろうと珍重されるなどは、その反証だといってよい。
都治月丹は無外流の創始者で、かれの撰した皆伝の伝書を「無外真伝剣法訣」という。わたくしの想像では、たしかに月丹自身の書いたものだと思う。その伝書の末尾にこう書いている。
右無外真伝の剣法は、禅理を以て教導いたす処、貴殿禅学御了知の上、当流の剣法御懇望、且つ御篤志につき云々。
これらをみても明らかなように、この流儀は禅理をもって教導するのだから、必ず禅をやり、しかもそれが「了知」といえる程度に達していなければ許さないのがたてまえである。明治以後のことは知らないが、それ以前はこのたてまえが厳守されたものと思われる。わたくしの接した、そして伝書を写させてもらった無外流皆伝の前野先生は禅も印可の老居士であった。このように真向うから禅をうたっている流儀、あるいは伝書は、剣禅一致といわれる剣の世界においても稀有のことであろうと思う。わたくしは寡聞にして無外流の外には、まだ一つも見ていない。
月丹の高弟森下権平辰直は「無外流にては術ということを忌む。よって兵法の、兵道の、剣法のというなり。またこの流については、真ということを宗とするなり」と語ったという(平尾道雄氏『土佐武道史話』)。つまり、かれの剣は、それによって宇宙の真理、人間の道を究めるという主旨なのであろう。
おそらく武士とも乞食とも判りかねる異様な風態、頭髪は延びるに任せて蓬の如く乱れ飛び、羽織の肩は摺り切れて下の着物が透いて見え、髪の判らぬよれよれになった木綿の袴を着し、その下の着物の裾から綿がはみ出し、それが地上に引きずっている。云々
小車の夢ばかりなる世の中を何とていとふ身こそつらけれ
一法実無外 乾坤得一貞吹毛方納密 動著則光清
問うて云く、万法、一に帰す、一、いずれのところにか帰す。答えて云く、われ青州に在って一領の布衫(ふさん)を作る、重きこと七斤
「更に参ぜよ三十年」
これのみとおもひきはめつゆくかずも上にありすゐまう(吹毛)のけん(剣)