2021年3月27日土曜日

柳生連也と松井某

 

from:

大森曹玄『剣と禅』



放つ位

柳生連也の至境


尾州の第二代瑞竜公、徳川光友が、その剣道の師、新陰流正統五世の柳生厳包(よしかね)入道連也(れんや)に、自分の悟ったところを呈示したものだといわれている歌に


張れや張れ

ただゆるみなきあづさ弓

放つ矢さきは知らぬなりけり


というのがある。


この歌を、同流第二十世の柳生厳長先生は、日本剣道の真髄たる「真剣の妙趣」を詠じたものとして、これを精進、充実、超絶の三段に分け、大略次のように説いている。


まことに「真剣」は層々向上極り無き精進―向上発展、勤勉、努力そのもの、即ち是れ誠心であります。瑞竜公の「はれやはれ」であります。これを誠にするは「人」にあります。


この精進、誠心による充実―充ち満ちた姿であります。兵法にこれを「勢」と謂ひ「位」とします。「たゞゆるみなきあづさ弓」であります。これは「地」にあり、また「人」にあります。


さらに「真剣」は、この精進、充実を頂上とし、その絶頂からの飛躍であり、擺(はい)脱であり、超絶境であります。生死脱得であります。真に百尺竿頭一歩を放って行くものであります。「はなつ矢さきはしらぬなりけり」であります。兵法にこれを「放ツ位」「一刀両断の位」といふ。これは「天」にあります。(日本剣道の極意)


普通に剣道の教えとしてよく知られている守・破・離という修行の順序も、これにあてはめて考えることができるであろう。その意味では、この三つの次第は、ひとり新陰流あるいは剣の道にかぎるものではない。何の道の修行にしても、この順序でゆくほかはないと思う。


前に書いた正三老人の仁王禅にしても、一生仁王さまのようにしていろということではなく、結局は如来禅という「放ツ位」に至るためには、まず緊張充実の仁王の門をくぐらなければ、本尊の観音様には、お詣りできないということなのである。


晩年には夜中、写経などしていると肩や膝にチョロチョロと鼠がでてきて遊んでいたといわれる山岡鉄舟翁も、若い頃には坐禅をはじめると、不思議や今まで暴れ回っていた鼠が一匹もいなくなったという。夫人がそのことを話すと、翁は「おれの禅は鼠のかがしが相場な」と笑われたと「全生庵記録抜萃」に記されている。


われわれの坐禅は、その鉄舟翁にとってはごく初歩であるところの、鼠のかかしにすらならないのだから情けないものである。試みに天井でガタガタやっているときを選んでグッと坐ってみるが、鼠公は一向に退散しない。要するに、張りかたが足りないのである。


禅は向下を尚ぶという。エックハルトもニイチェも没落、下向を重しとする。わが天孫も高天原から人界に降ってきたものである等々、まさにその通りである。その通りであるが、現実に絶巓に身を置いたことのないものには、向下したいにも降りようがないではないか。はじめから下にいる者が、さらに降りようとすれば地獄よ りほかに行き先はないはずである。「放つ」 ことができるためには、まず「ゆるみなく」「張ら」れていなければならぬ道理である。


さて、尾州侯は右の見所が印可されてか、連也の跡を受けて新陰流正統六世を継いだのであるが、ここでは光友公のことではなく、その師の蓮也についてのべたいのである。連也は、近頃、五味康祐の小説で有名になっているが、この人には小説の種になるような逸話がたくさんある。



かれはいつも門人に向かって「わしに隙があったらいつでも遠慮なく打込むがよい」と言っていたほど絶対の自信をもっていたらしい。


すがすがしく晴れわたった秋の一日、かれは二、三の門人をつれて野外に清遊を試みた。ふと便意を催した彼は、川のほとりで澄みわたった大空を見上げながら、のんびりと小用を足していた。これを見た門下の松井某は「このとき!」とばかり背後から力一杯に連也の腰のあたりを突いた。途端に水音高く、しぶきが散った。


五味康裕の小説ならサテ落ちたのは誰だろうというところだが、連也は依然として両足をふんばり、気持よさそうに川べりに立って用を足していたというから、落ちたのは松井であることは明らかである。



松井君ばかり引合いに出してお気の毒だが、中年以後碁をたしなんだ連也は、今日も朝から松井を相手にパチリパチリと打ちはじめた。松井は川の水を存分に浴びせられた返報をとでも思ってか、容赦なく攻め込む。すでに何局か連敗を喫した連也は、ジッと盤面を見つめてしきりに長考一番、苦吟している。


碁では師匠より強い松井は、好機とばかり、ソッと拳を握り固めた。すると、連也がヒョイと顔を上げて松井を見た。しかし、これは偶然かも知れない。かならずしも察気の法によって、こちらの心気の動きを感知したものとはかぎらない。だから、松井はさらに次の機会を作るべく、しきりに口汚なく師匠を挑発する。


「先生、どうしましたか。もうあきらめて投げますか」


などといいながら、苦慮沈思する連也の顔をねらって、またもや拳を打ち出そうとした。間、髪を容れず、連也は体をそらせながら、


「冗談はよせ!」


としかった。松井はあげた手で自分の頭などをかきながら、


「なんですか」


と、とほけてみせた。



八方破れの中に、みじんも隙のないこれらの作用は、剣の専門語で「拍子を知る」、すなわち機を知るというはたらきであろう。いわゆるきざしを察知することである。連也はのちに松井に向かって


「お前がわしを試みようとするのは、お前がいまだ剣の真意を解しない証拠である。事には必ずきざしというものがある。すでにきざしがあれば相手に察知されるのは必定ではないか。体をかわすというのは術だが、きざしを知るのは術ではない。そのきざし、すなわち機を知ったら、その機に乗ずるというだけでなく、さらにその機をわがものにし、自由に使うようにしなければ駄目である」


とさとしたということである。


その機を知り、機に乗じ、機を使うというはたらきの基調をなすものは一体何であろうか。それはほかでもない。 張りに張って、緊張充実した頂点から、 さらに飛躍した「放つ位」、いいかえれば何ものにも依らない、そして何ものにも滞らないところの無住心でなければならない。仁王の門を通り越した、御本尊の観音の妙智力でなければならない。


柳生に縁のある沢庵の言葉でいえば、それが「不動智」というものであろう。不動智とは、沢庵もいっているように流動して滞らないことであり、分別せずしてしかもよく分別してあやまらないことである。そのような境地が「放つ位」というものであろう。



「ヒジリ」の稽古

 

from:

小川忠太郎『百回稽古』


相手に打たれるのは

自分の弱点を教えてもらうのだから

有り難いことだ



持田先生は相手から一本打たれると、二度目には決してそこを打たせなかった。


自分の非を教えてもらったのであるから、感謝してその欠点を直して、完全なものに近づいてゆくというのが先生の修行法である。


非を知ることを「ヒジリ」と言う。


漢字で書けば聖と書くのは聖人のことであって、自分の非を知って、その非をなおして完全な人になってゆくのが聖人である。


持田先生は三十歳以後は稽古相手に上がなかった。それにもかかわらず、あそこまで行かれたのは、打たれたところを反省して、「非知り」の稽古をされたから、八十四歳まで停滞することなく進歩されたのである。



単なる攻撃精神は相対なり。

勝負の念がある。

懸待一致は絶対なり。

勝敗の両頭を超越す。


2021年3月26日金曜日

一息とは?

 

from:

小川忠太郎『百回稽古』



【一息】


仏が、ある人に


「人の命はどのくらいの長さか」


と聞くと、その人は


「数日の間」


と答えた。すると仏は


「あなたはまだまだ道を知らない」と。


別の人が同じ質問に


「飯食の間」


と答えると、仏はやはり


「あなたもまだ道を知らない」と。


そこでもう一人が


「呼吸の間なり」


と答えると、仏は


「あなたは道を知っている」と。


人の命は、吸う息、吐く息、この一息。


この一息の中に雑念を交えない。座禅でもこの一息に徹することが秘訣である。この一息に徹すれば、一息は同時に無限であり、将来につながっていく。


正受(しょうじゅ)老人はこの一息を一日暮らしの説で


「一大事と申すは今日只今の心なり」


と言っている。





真面(まめん)とは?

 

from:

小川忠太郎『百回稽古』



【真面(まめん)】


剣道はつきつめれば面一本。


面一本を打てればいい。


自然体で構えて、真っ直ぐ上げて真っ直ぐ打つ。その間に雑念を交えない。形(かた)でも、切り返しでも、懸り稽古でもすべて同じ。この面一本を覚える。これを真面(まめん)といって、真面の出るうちは上達すると言われている。


切り返しや懸り稽古をやってやってやり抜く。そうすると手や足が利かなくなり、全身全霊でぶつからなければならなくなる。そうして今まで自分が頼りにしてきた全てのものを投げ出して、最後の面を打つ。


この面が真面であり、すべてを投げ出したところに本当の自分、剣道の本体が悟れるのである。



【宋名臣言行録】「貧をもって宝となす」王質

 

from:

『宋名臣言行録』王質


公、相門に在りて驕(おご)らず華やかならず、貧をもって宝となす。


公在相門、而弗矯、弗華、以貧為宝、


文正舎人(しゃじん)たりし時、家はなはだ虚なり。


文正作舎人時、家甚虚、


つねに人に金を貸り、もって昆弟を贍(たらわ)す。


嘗貸人金、以贍昆弟、


期を過ぎて入らざれば、乗るところの馬を輟(てっ)してもってこれを償(つぐな)う。


過期不入、輟所乗馬、以償之、


公、家蔵の書を閲するによりてその券を得、家人を召してこれに示して日く、


公因閲家蔵書、而得其券、召家人、示之日、


「これ前人の清風なり。われらが輩、まさに奉じて墜ざるべし。よろしくこれを秘蔵すべし」と。


此前人清風、吾輩当奉而不墜、宜秘蔵之、


また顔魯公尚書たりし時、米を李大夫に乞いし墨帖(ぼくじょう)を得て、石に刻してもってこれを摸し、逼く親と友の間に遺る。


又得顔魯公為尚書時、乞米干李大夫墨帖、刻石、以摸之、遍遺親友間、


その雅尚かくのごとし。ゆえに終身貧ならざるに、至る所氷蘗の声あり。


其雅尚如此、故終身不貧、所至有氷蘗声。



2021年3月24日水曜日

都治(辻)月丹の「へなへな剣」

 

大森曹玄『剣と禅』より


一法無外

へなへな剣の都治月丹(つじ・げったん)



これまで何べんとなく述べたように、剣と禅とがその極致、ねらい所において一致することは疑いない。そういう意味でいうならば「諸道に通ず」といわれる禅と一致しないものは、おそらく一つもないであろう。茶も花も書もみな禅と一致する。それをもう一歩ふみこんで、はっきりと自分の剣は禅だと主張したものはないものだろうか。


前に述べた針谷夕雲などはもっとも禅的であるが、それでも剣の道を究尽するための補助手段として禅を用いたというほうが正しいであろう。ところがここに一人、寛文から享保にかけて名を謳われた剣客に都治月丹(つじ・げったん、1727歿、79歳)がいて、明瞭に自分の剣は禅だと主張している。わたくしもかなり多くの伝書類を見たが、かれの伝書ほどその内容、文章等において充実したものはちょっと見当たらないと思う。古今随一だとは言えないまでも、少なくとも一流中の有力な一つであることは疑いない。


一体に剣者には無学なものが多く、勿体ぶった伝書は大てい儒者か僧侶の代筆に成ったものである。一刀流の仮名字目録といわれる免許状が、平仮名のたどたどしい文章であることが、かえって始祖一刀斎自身の手に成ったものだろうと珍重されるなどは、その反証だといってよい。


都治月丹は無外流の創始者で、かれの撰した皆伝の伝書を「無外真伝剣法訣」という。わたくしの想像では、たしかに月丹自身の書いたものだと思う。その伝書の末尾にこう書いている。

右無外真伝の剣法は、禅理を以て教導いたす処、貴殿禅学御了知の上、当流の剣法御懇望、且つ御篤志につき云々。

これらをみても明らかなように、この流儀は禅理をもって教導するのだから、必ず禅をやり、しかもそれが「了知」といえる程度に達していなければ許さないのがたてまえである。明治以後のことは知らないが、それ以前はこのたてまえが厳守されたものと思われる。わたくしの接した、そして伝書を写させてもらった無外流皆伝の前野先生は禅も印可の老居士であった。このように真向うから禅をうたっている流儀、あるいは伝書は、剣禅一致といわれる剣の世界においても稀有のことであろうと思う。わたくしは寡聞にして無外流の外には、まだ一つも見ていない。


月丹の高弟森下権平辰直は「無外流にては術ということを忌む。よって兵法の、兵道の、剣法のというなり。またこの流については、真ということを宗とするなり」と語ったという(平尾道雄氏『土佐武道史話』)。つまり、かれの剣は、それによって宇宙の真理、人間の道を究めるという主旨なのであろう。


さて、その都治月丹であるが、古いものでは「武術流祖禄」に、わずか三行、『撃剣叢談』に「軟弱なる兄弟」に助太刀して仇討の本懐を遂げさせた物語が出ているだけである(いずれも天保十四年刊行)。先師山田先生の『日本剣道史』と、平尾氏の『土佐武道史話』には、若干くわしく出ている。しかしそれにしたところで、もともと大して資料がないのだから、そう詳細な紹介ができるわけがない。その他に昭和十三年に死んだ友人富永阿峡(前東福管長止渇室の縁者で同師に参じた)が、「剣人無外」という短篇を雑誌に発表している。かれがその資料をどこから得たかは、今となっては聞く由もない。

月丹の身許につぃては『撃剣叢談』には「辻無外と云ふ者江戸小石川に住し、一流を弘めて名高し」とあるだけであるが、『武術流祖禄』には「都治月丹資持」(伝書には資茂)は、「近江甲賀郡の人也。京師に到って山口流刀術を学び妙旨を悟る。工夫を加へて無外流と号す。後、東武に来り番町に居る。門人多と云。子孫世々其業を継ぎ山内家に仕」とあるのがその全文である。月丹は近江国甲賀郡馬杉の郷士の出で、はじめは都治でなく辻と書いたものらしい。祖先は佐々木四郎高綱だという。富永阿峡の「剣人無外」によると、享保十九年に七十九歳で死んだことになっているが、『日本剣道史』には享保十二年歿とある。いずれにしても、それを基準に逆算すると、明暦または承応頃の生れということになる。

かれははじめ山口下真斎という者について山ロ口流を学び、延宝三年、二十六歳のときその印可を得たという。ただし『日本剣道史』には、月丹の自記によれば、伊藤大膳という達人から印可を得たとあるが、自ら諸侯に出した願書には山口卜真斎に学ぶ由を述べてあるので、あるいは伊藤は山口の前名かも知れぬ、これらの点は不審であるが後考を倹つ、と記している。その後、諸国を修行して歩いた末、江戸に出て麹町の九丁目に町道場を開いたということになっている。ところがその後になって自分の剣境に疑問を抱き、麻布吸江寺の石還和尚に参禅し、朝参暮請、実に二十年に及んだという。阿峡は主として、その間の辛苦を小説風に描いているのだが、その一説にこう書いている。

おそらく武士とも乞食とも判りかねる異様な風態、頭髪は延びるに任せて蓬の如く乱れ飛び、羽織の肩は摺り切れて下の着物が透いて見え、髪の判らぬよれよれになった木綿の袴を着し、その下の着物の裾から綿がはみ出し、それが地上に引きずっている。云々

若い頃は髪に油もつけず、紙で束ねていたので、ときにはそれが解けて風になびくのが凄味を加えたという。あるとき街を歩いていると、前から七人ほどの荒くれ武士が肩を組みながら大道せましとやってきた。月丹は側らに避けながら、「各々方、通り筋はふさがれまいぞ!」と注意した。

一人の侍が、「編笠をつけたままで物申すとはけしからん。いったいその方は何者だ」と気色ばんでつめよった。

「ごもっともでござる」月丹は、そういいながら悠然と笠をとった。そのとき例の元結がとけて、折からの北風が髪を顔にふきつけた。その顔を見ると侍たちは逃げるように立ち去ったという逸話が残っている。

貧乏時代はこのようにウラぶれた風体であったから、ときには不愉快な思いもしたものとみえる。あるとき門人の家に出稽古にゆき、一通りの稽古をすませて息を休ませていると、その家の下男が飛び出してきて、「先生! 私にも一本お願いします」といった。

無外の心の中を、ふと不倫快な思いが横ぎった。「こやつ、おれの姿が見苦しいので、侮ってくみしやすしと見たか、無札な奴!」。こう感じたが、さりげない様子で、「いや、すこし疲れたからまたにせよ」と、おだやかに断わった。

しかし一服しながら、ひそかに思い返してみると、心中なんとなく安らかでない。「まてよ、これがもし、この家の主人の要求だったら自分はどうしたろう。本当に疲れていたにし
ても、おそらく相手をしたであろうに、相手が下男だからと断わったのは、自らをあぎむき、他をいつわり、かつヒガむというものだ。こんな煩悩があってはとても大道の成就はおぼつかない」。

こう反省した無外は、すぐに木刀を取ってパッと稽古場におどり出た。そしてすがすがしい気持でその下男に稽古をつけたという。

そのときの術壊だというのに、

小車の夢ばかりなる世の中を何とていとふ身こそつらけれ

という一首が残されている。かれには、そういうところがあった。その頃の無外は、友人の好意でその離れに居候をさせてもらい、右のような風体で風の日も雨の夜も吸江寺に通ったのである。

石還和尚が印可したとき、かれに一偶を与えている

一法実無外 乾坤得一貞
吹毛方納密 動著則光清

月丹が無外子または一法居士と号し、その流名を無外流と改めたのはこの偈に由来する。

そのころ、師の卜真斎がたまたま江戸に出てきて月丹を訪い、ひさびさに手練を見たいと仕合を所望したが、三たび立合って三たびとも敗れたという。あるいは無外が師の前で、百目蝋燭をともし、それに向かって抜刀し、刃風でその火を消したので、卜真斎が驚嘆したとも伝えられている。

かれには大名の弟子五十と称されるが、特に土佐山内侯の知遇を受けたので、その門葉が土佐に栄えたのである。かれが江戸の土佐藩邸に出入りをはじめたのは、五代の山内豊房の時代、宝永四年(一七〇七)の頃からだという。



2.

かれは山口流の印可を得たのち、自ら未在と反省してからは、専ら真剣の素振りと坐禅とで練ったようである。二十年もの長い間、一切の欲情を断ち、孤独と貧困に徹し、友人のつけてくれた下男からさえ馬鹿にされながら、ひたすらに精進をつづけたのであった。

かれの剣はへなへなとして、相手には強いのか弱いのかわからなかったという。押してゆけばあとへ退るし、付け入って打とうとすれば風のようにすり抜ける。そのくせ、そのへなへなの袋竹が目の先にちらついて、どうにも打てなかったという。

ちょうど、幕末の男谷下総がどうやらそうだったらしい。相対してみるとさほど強いとも思えないが、いつの間にか雲に包まれたようになってしまって、手も足も出なかったといわれる。

例の島田虎之助もはじめて仕合ったときは自分が勝ったと思ったが、井上伝兵衛に注意されて再び仕合をしたら、その雲気に包まれ、完全に参ってその弟子になったという有名な話がある。

また、清水次郎長が山岡鉄舟に真剣勝負の経験を物語ったとき、自分の刀で相手の刀を押してみて押し返してくる相手は必ず切れる、しかし押してもそのまま押されている相手は恐ろしい、といっている。鉄舟がそんな場合にはどうするかと聞いたら、次郎長は、刃を引いて逃げるのだ、と答えたという。鉄舟もそれより方法はあるまいと笑ったという話もある。

これはひとり剣のみに限ったことではない。後藤象二郎がいつも術懐していたそうである。「自分は西郷南洲とよく議論をしたが、西郷は議論をしている間は黙っているので、いつでも自分が勝ったような気がする。ところがさて家に帰ってよく考えてみると、まるで松の大木に蜂がひとりで鳴いていたようなもので、自分のほうはなっておらんことが多かった」と。

これが道元さんのいわれる柔軟心(にゅうなんしん)というものであろうか、剣のほうで俗に八方破れという「放つ位」なるものが、それであろうか。無外はそのへなへな剣なのである。

けれども、またこんな話も伝わっている。

あるとき、庭で薪を割っている所へ、一人の武士が来てしきりに仕合を求めた。無外は黙々として返事もしない。武士はいらだったのか、「無外流とはどんなものか、ぜひ見せてもらいたい」と詰めよろうとした。その言葉が終わるか終わらぬうちに「こんなものだ!」と、手にした薪で一撃した、と。これは無外は無外でも、初代の月丹でなく、その弟子で二代目をついだ記摩多だともいわれ、正確ではないが、いずれにせよ、ここには禅機と相通ずる無外流の鋭い機鋒がうかがわれる。

わたくしは四十年ほど前、土佐に遊んだとき、高知の小高坂城内に陳列されていた無外愛用の袋竹刀を拝見して、覚えず舌を捲いたことがある。爾来無外の名はわたくしの脳裡に深く刻みつけられ、つねに畏敬して巳まないのである。ビロードか何かの袋で割竹を包んだその袋竹刀は、驚くべし、物打の辺一寸ばかりの間がスリ切れているだけであった。おそらくこれで型を使ったか、あるいは仕合ったかしたのであろうが、敵を打撃したり、敵刀を受け流す場合に、そこだけしか使わなかった証拠である。間づもりの正確というのか、打撃の精錬というのか正に神技というほかには言いようがない。

かれは大名の弟子を持ち、立派な道場の主人たる身分になってからも石運和尚の禅風を慕い、名利を避け枯淡を甘なって、ひと筋に塵外の一剣を磨いていた。その頃のこと、ある日、下谷の車坂付近で一連の美しい女性たちに出逢った。かれは従者に「あれは?」と、目をみはりながら訳ねたそうである。かれは芸者を知らなかったのである。

こうして無外の一法を受用しつつ、享保十二年六月二十三日、彼はいとも静かに床上に坐禅を組んだまま、禅僧のように坐亡してその七十九年の生涯を閉じたのである。ただしこの残年は『日本剣道史』によるもので、富永阿峡は享保十九年説をとっている。

そのどちらにしたところで、伝書を撰した年号から考え合わせると、いささか疑問がある。わたくしの所持する伝書には、明瞭に「延宝八年歳庚申、仲夏望日」とある。歿年が享保十二年で七十九歳とすると、延宝八年はかれが三十一歳のときである。『日本剣道史』には延宝三年に山口卜真斎から印可を受けたことになっており「時に廿六歳」とあるから、何か拠りどころがあるのだろう。

いずれにしても山口流印可ののち参禅二十年にして桶底を脱し、無外流を名乗ったものとすれば、伝書の年月日が早すぎて勘定が合わない。どちらかに間違いがあるものと思うが、しかしこれは、わたくしのいまここでの任務ではないから、後日、心ある人の考証にまつことにしよう。



3.

かれの撰に成る伝書『無外真伝剣法訣』は、壮麗な筆致の序文と「十訣」とから成っている。全文すべて漢文であるが、引用は便宜上仮名交り文に書き下しておく。

「夫れ撃剣の術は鎮国の大権、擬乱の要備也」からはじまり「吾れ焉ぞ庾(かく)さんや、吾れ焉ぞ庾さんや」に終わるその序文は、儒に入り、老荘に触れ、禅に及ぶ名文である。あるいは師の石潭和尚の補筆があったかもしれないが、後に記された「十訣」と相照応するところから見れば、全然門外の他人の筆になるものとも思われない。

その全文をここに引用したいが、長いので割愛することにする。前に引用した「小心手相称い、憶忘一の如し」などという句は、その序文中のものである。

「十訣」には、十本の剣名と、その注解が記されている。その剣名にしても獅王剣とか雛車刀、あるいは神明剣などは、どの流儀にも似たような名称があって珍しくないが、水月感応とか、玉簾不断、万法帰一などは無外流独特の禅的なものではないかと思う。それに注解がことごとく禅語である。

たとえば翻車刀には「互換争う有るに似たり、鼓無、還って動かず」とある。鼓無の「無」は「舞」ではないかとも思われるが、これなど、どういう技のものかは知らなくとも、その剣名と語と照応してみると何となく想像できるような気がする。彼我互いに主となり客となって、双方の太刀があたかも車輪のように回転し、入り乱れて戦う、しかも中心一点の微動もないという技のように想像されるではないか。

獅王剣というのには、踞地の威、出窟の態、返擲の機と語をつけ、その後に「太極より出づる則(とき)んばその象を見難く、気象より発する則(とき)んば厥(そ)の痕(あと)を窮め易し」としてある。これなども臨済の四喝の一つのように、金毛の獅子が地に踞(うずくま)っているような、すさまじい気迫でジッと敵に対して構え、やがてその獅子が窟を出てゆくように敵を威圧しながら歩を進める。間に入った途端、おそらく圧迫された敵が苦しまぎれに打ち出したであろう一撃を、ハッシとばかりに斬り返すといった技のように想像される。その出窟も返擲も、太極と名づけられる絶対無の世界から、無心に音もなく色もなく発するから「その象」を見ることができない。もしそうでなく、ホンのわずかでも動く気配があれば、その痕跡が象を残すからそこをしてやられる、というのが後の対句の意味であろう。

その他、玄夜刀というのには「暗裡に文彩を施し、明中に蹤(あと)を見ず」としている。いくら色彩鮮やかでも真っくらやみでは見ることができない。あれどもなきにひとしい。それに反し蹤形(あとかた)もないものは白昼でも見るわけにはいかない。ないかと思うとあり、あるかと思うとない。全く捉えどころのないかげろうのようなのがこの玄夜刀の妙趣であろう。

水月感応には「氷壷、影像なく、猿猴、水月をとらう」とある。氷壷は心の清いことの形容だから、この語は透きとおって影のない無心の状態をいったものであろう。こういうものには、猿が水中の月を捉えようとするのと同じく、全く処置なしである。いかなる相手も手の下しようもあるまい。しかしまた、そういう心境でおってこそ、水の月を写すように、相手の動きはそのままに感応するわけであろう。

玉簾不断には、「牛頭没し、馬頭還る」「前波後波、相続して絶えず、忽ち没し忽ち回(かえ)る、心心不二」とある。玉簾とは滝のことである。牛頭、馬頭は男波女波のこと。つまり、滝は一滴一滴の水玉が次から次へと無数に連続して流れているのであるが、それがたった一本の線のように見える。われわれの心もそのように「念起念滅、前後別なし」で、男波女波の寄せては返すように「忽ち没し、忽ち回」りつつ、畢意「心心不二」なのである。いわゆる地限り、場限りで、端的只今の無限連続以外のものではない、只今を最高に充実して生きることが、時間を越えて永遠を生きる所以なのである。剣の妙諦は「玉簾不断」に尽きるといってもよい。

鳥王剣には「正令当行、十方坐断」「金翅鳥王、宇宙に当たる、箇中、誰かこれ出頭の人」とある。正令当行云々は、一刀下に迷悟、凡聖の一切を截断することであり、その太刀風の凄じさを金翅鳥王に譬えたものと思う。金翅鳥王というのは双翼の広さを九万里、つねに竜を取って餌としている鳥の王様である。その金翅鳥が両翼を天地一杯に広げて襲いかかったら、何人といえども面出しもならぬこというまでもない。山岡鉄舟翁の無刀流の正五典にも、金翅鳥王剣というのがある。大上段に振り冠って猛然と敵に迫り、運身の力をこめて打ち落とす、さらに力を入れ替えて 刀を揮って敵を仕留めたのち、再び大上段でサラサラと引上げる、と小倉正恒氏は説明している。その技はともかく、無外流の金翅鳥王剣もおそらくは同じ気迫のものであろう。

そのあとに「附」として「短剣法訣」が記され、それが出身、応機、転身の三つに分けられている。まず「出身は水の科(あな)に盈(み)つるが如し」とある。水が高きより低きに流れるように、無理なく自然にサラサラと敵のふところに入って行くことであろう。

次に「応機は鏡の台に当たるが如し一で、明鏡が対象を寸分も誤ることなく写し取るように、相手次第に適応していくことをいう。最後に 「転身は環(たまき)の端なきが如し」で、玉の輪がキレ目なくグルグル回っているように、自由自在に渋滞なく身を転ずる働きをいうものであろう。

これらはすべて禅語であるが、これをみればそれぞれの太刀の心がどんなものか、よくわかるように思われる。それと同時に、その型も大体は推察できそうな気がする。これだけのものが書けるのは、無外によほどの素養があったと見なければならない。また、もし師の石潭が補筆したとすれば、石潭和尚もなかなか剣心の深い理解者だったというほかはな

一番ふるっているのは、最後のしめくくりである。それは「万法帰一刀」と呼ぶ。それに着けた語が、なんと「碧巌録」第四十五則の公案そのままである。すなわち、

問うて云く、万法、一に帰す、一、いずれのところにか帰す。
答えて云く、われ青州に在って一領の布衫(ふさん)を作る、重きこと七斤

とある。ただ「僧、趙州(じょうしゅう)に間う」とか「州云く」という固有名詞が省かれているだけである。万法、つまりすべての存在は結局のところ、一に帰着する。キリスト教でいえば、神に帰着する。科学的にいえば、エネルギーに帰するといってもよい。禅は無の一字に帰するといってもよいであろう。一刀流では万刀一刀の帰すといっている。

それはわかる。ではその一は、いったいどこに帰するのであろうか。こう問いつめられた超州が、「わしが青州にいたときに、一着のころもを作ったが、ナンと重さ七斤じゃったよ」と答えたのである。

万刀は一刀に帰し、その一刀はまた万刀と展開する、ということであろうか。一即多、多即一ということなのだろうか。その一多相即不二の消息をハッキリ承知し、体得し、自由に用いこなすことだろうか。

無外流伝書には、万法帰一の公案を記したあとで、行をかえて、

「更に参ぜよ三十年」

と書き、その次に大きく一円相を描いている。まことに意味深長であり、無外その人の禅心の深さを示すもののようである。

都治月丹が、自鏡流の居合を取入れたといわれる無外流の居合が今日まで伝わっている。もと姫路藩の藩外不出の秘技だったといわれる。その秘太刀三本のうち、一番向上のものを「万法帰一刀」という。数歩あゆんで、腰の高さで横に抜き払うだけのものである。その刃音に逃れ去る敵をダラリと太刀を右手に提げて、魯の如く愚の如く、追いもせずに見送るのみである。この真境がモノになるには「更に参ぜよ三十年」どころか、おそらく生涯百錬万鍛、学び去り、修し来たってもなお容易には至り得ないであろう。

一刀流の仮名字免許に、

これのみとおもひきはめつゆくかずも
上にありすゐまう(吹毛)のけん(剣)

とあるが、おそらくそれと同じ心持だと思う。禅でいう「白雲未在」である。永遠になおこれ未在である。そこではあるが、そこではない。これが極意だ、と思い極めたその境地も、山上更に山ありである。停着することは許されない。「上に上あり吹毛の剣」「更参三十年」、どっかと尻を据えるべき極致とてはない。釈迦も達磨も、修行中である。「尚是未在、尚是未在」と願輪に鞭つのみである。しょせん肯定は、否定そのものの真っ只中にあるのであろう。

剣人無外が一流の奥秘を極め、師の印可を得て一たん教場を開いたのち、更に尚是未在と気づいて再行脚し、苦修二十年にして「一法実に外無し」と悟入した端的は果たして何であったろうか。かれが末期、坐定して入寂するまで一生受用したその吹毛剣は、上に上ありと伊藤一刀斎の詠じたように一生受用不尽底のものであったろう。十訣を撰し、その末尾に「更参三十年」と記し、一円相を画したとき、かれは謙虚にその自己の心境を吐露したのではなかったろうか。


無外流『十剣秘訣』

 

無外流

流祖「辻月丹」

無外流真伝剣法訣『十剣秘訣』


1.

獅王剣 中に三あり


地に曙する威

窟を出る態

返擲の機


大極より出れば 其の象見え難し

気象より発すれば 彼の痕窺い易し


獅子王劍 中有三

踞地威 出窟態 返擲機

自大極出則 難見其象

自氣象發則 易窺彼痕


2.

翻車刀


互換争い有るに似たり

鼓舞還りて動かず


翻車刀

互換似爭 鼓舞還不動


3.

玄夜刀


暗裏に文彩を施し 明中に跡を見ず

隠より見えず 微より顕れはせず

陰陽測らず 之を神と謂う


玄夜刀

暗裡施文彩 明中不見蹤

莫見乎隠 莫顕乎微

陰陽不測 謂之神


4.

神明剣


人は端末も未だ見えず

天地神明 応物運照を知るを能わず

変動に常は無く 敵に因りて転化す

事の先を為きず 動きてすなわち随う


神明劍

端末 未見人 

莫能知天地神明 應物運照

變動無常 因敵轉化

不為事先 動而輙随


5.

虎闌入


形裏に目を注ぐは 象外に神を注ぐにおよばず

面拳頭に在り 之を形裏と謂う

敵無く我も無し 之を象外と謂う

無我の威 虎賁に当たらず


虎闌入

形裡注目 不如 象外注神

面在拳頭 謂之形裡

無敵無我 謂之象外

無我之威 虎賁無當


6.

水月感應


氷壷に影像なく 猿猴 水月をとらう


水月感應

氷壺 無影像

猿猴 捉水月


7.

玉簾不断


牛頭は没し 馬頭は還る

前波後波 相続して絶えず

忽ち没し 忽ち還る 心々不二

この中に三機あり

窮 変 通


玉簾不斷

牛頭没 馬頭回

前波後波 相續不斷

忽没忽回 心々不二

此中有三機

窮 變 通


8.

鳥王剣


正令まさに行われ 十方坐断せらる

金翅鳥王 まさに宇宙に当たる

筒中に誰かこれ出頭する人


鳥王剣

正令當行 十方坐斷

金翅鳥王 當宇宙

筒中誰是 出頭人


9.

無相剣


陰先んずる 之を暗頭と謂い

陽先んずるを 之を明頭という

明頭は見やすく 暗ければ察し難い


無相劍

陰先 謂之暗頭

陽先 謂之明頭

明頭易見 暗頭難察


10.

萬法帰一刀


問うて云わく

萬法一に帰す

一何れの処にか帰す


我答えて云わく

青洲に在って一領の布衫を作る

重きこと七斤


萬法帰一刀

問云

萬法帰一 一帰何處

答云

我在青洲 一領布衫 重七斤


更に参ぜよ三十年


更參 三十年


圓相

文字の沙汰にあらず