2012年10月31日水曜日

不安の正体


崇山の少林寺で面壁していた達磨大師に弟子入りした「慧可」。

ある時、達磨大師にこんな悩みを打ち明けます。

「いくら修行をしても、不安でたまりません。何とかこの不安を取り除いていただけないでしょうか?」



すると達磨大師、事も無げにこう言います。

「そうか、わかった。すぐにでも不安を取り除いてやろう。その不安とやらを、ここに持っておいで」



師に「不安を持っておいで」と言われて、困った慧可。とりあえず探し回るも、どこにも見つかりません。

結局は、「不安を探したのですが、どこにも見つかりませんでした」と師に告げるより他なかった。



すると達磨大師、「さぁ、これでお前の不安は取り除けた」。

ちゃんちゃん。



慧可という人は、この言葉に得心し、のちに禅の二祖となったとのこと。





出典:禅が教えてくれる 美しい人をつくる「所作」の基本

2012年10月30日火曜日

禅の朝


「暁天坐禅」

修行中の雲水さんたちは、まだ朝が明け切らないうち(暁天)から、坐禅をするとのこと。



「良因良果、悪因悪果」

朝が心地良いものであるのなら、そこから「良い縁」が生じるとのこと。



「一掃除、二信心」

最初にやることは「掃除」。仏様に手を合わせたり、お経をあげたりするよりも、まずは「掃除」。部屋や屋敷をキレイにすることで、心に積もった塵や埃もすっかり払われるとのこと。



「喫茶喫飯」

お茶を飲むときは、お茶を飲む。飯を食うときは、飯を食う。「〜しながら」ということなく、自分の今していること一つを、ひたすらにするということ。



「逢花打花、逢月打月」

花に逢えば、花に心打たれ、月に逢えば、月に心打たれる。そのときどきに出会うものを、そのままに受け入れるとのこと。





出典:禅が教えてくれる 美しい人をつくる「所作」の基本

2012年10月28日日曜日

100人のお陰で、食がなる。



禅では、食事が食べられることを「100人の人のお陰」と言うそうです。

というのは、お米一粒にしても100人の人たちの手を経ていると考えるからです。

稲の種籾を作る人、苗を育てる人、田植えをする人、草取りをする人、刈り入れをする人、お米を流通経路に乗せる人、販売する人、買う人、炊く人…。



「この有り難い食事をいただいていい自分なのか?」

「貪(むさぼ)りや怒り、愚かな心がないか?」

それを自問しながら、食をいただく。その心得が「五観の偈(げ)」と呼ばれるものだそうです。





出典:禅が教えてくれる 美しい人をつくる「所作」の基本

2012年10月23日火曜日

質素以下の食事がもたらすもの



〜話:升野俊明〜





食事も修行の禅僧たち。

修行を始めたばかりの雲水たちは、その「量の少なさ」に空腹を抱えることとなります。



朝は「おかゆ」が一杯、しかも新参者は「ほとんど飯粒が見当たらないような薄い上澄み」をいただくのが習い。おかずはと言えば、ゴマ塩とお新香(香彩)が少々。おかわり(再進)もできますが、薄いおかゆが半分ほどいただけるだけ。

昼は点心。麦を混ぜたご飯と香彩、そして味噌汁のみ。夜は別菜という「おかずらしきもの」がつくとのことですが、それはそれは「質素以下」。



こうした「修行」を繰り返すと、一ヶ月もたたないうちに体重は10kgも20kgも落ち、まるで別人に。

ところが不思議なことに、同じ食事を繰り返していると「空腹感が少しずつなくなってくる」。それは胃袋が縮んでいくからでしょうか。体重も次第に戻ってくるのだとか。



変化は「頭」にも現れます。「冴えてくる」のだそうです。

最小限の食事は、胃腸などの消化器への負担が軽いため、あまった血液がどんどん脳に流れて、頭が冴えてくるとのことです。



なるほど、「腹八分」は健康にも頭にも良かったわけです(八分にも満たぬのかもしれませんが…)。

そんな雲水さんたちの肌は透き通るような白さにもなってゆくと言いますから、美容にも良いのでしょう。





出典:禅が教えてくれる 美しい人をつくる「所作」の基本

2012年10月17日水曜日

裸足で生活するということ



厳寒の真冬でも「足袋(たび)」を履くことが許されないという雲水さんたち。

つまり、凍えるような寒さの中、「裸足」でいるということです。



裸足の良さは、その健康効果。「『第二の心臓』といわれる足の血流が促され、全身の血行が良くなる」とのこと。

最近では、「冷やす」ことで健康になるという考え方もあるようです。



ところで、裸足の時の履き物は下駄が草履となりますが、これがまた健康に良いのだそうです。

下駄や草履の「鼻緒」が刺激してくれる「足の親指と人差し指の間」には、「内臓や脳に直結する重要なツボ」が密集しているとのことで、それらのツボが歩いているだけで適度に刺激されるというのです。



なるほど、一年中裸足を通すことは、根性修行だけではなく、科学的なご利益もあったということですね。

よほど寒い日は別にしろ、裸足で生活するのも悪くないかもしれません。





出典:禅が教えてくれる 美しい人をつくる「所作」の基本

2012年10月13日土曜日

雨に濡れない「極意」とは? 沢庵禅師と柳生宗矩


江戸時代、徳川将軍家の剣術師範をつとめた「柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)」は、禅僧・沢庵(たくあん)との出会いによって、剣に開眼したと云います。



ある雨の日、禅問答を仕掛ける沢庵禅師。

「お主、この雨のなか外に出て、濡れない極意を見せてみよ」

柳生宗矩は降りしきる雨のなか、剣で雨をメッタ斬りにして見せます。「どうだ」とばかりにドヤ顔の宗矩に、沢庵は「そんなに濡れていて、何が極意じゃ」とニベもない。



「それなら和尚の極意を見せてくれ」と食ってかかる宗矩。

その言葉を受けて、おもむろに雨のなか外に出た沢庵禅師。何をするでもなく、ただ、じっと雨のなかに立っているばかり。



濡れネズミのようになって戻ってきた沢庵禅師に、宗矩はすかさず突っ込む。「なんだ、和尚だって濡れているじゃないか」。そこで、禅師はこう言うのです。

「まったく違う。お主は濡れまいとして、刀を振り回して雨に立ち向かった。だが、雨はそんなことはお構いなしにお主を濡らしたわけじゃ。わしは雨を受け入れて、ただ立っていた。わしが雨に濡らされたと思うか? わしは雨とひとつになっただけじゃ」

この一言に宗矩は開眼し、剣を極めることとなったのだとか…。



同じ雨のなかにいて、「心を掻き乱して戦った」宗矩と「心穏やかに佇んでいた」沢庵。

「濡れない極意」とは、あるがままを受け入れ、それとひとつになることだったようです。





出典:禅が教えてくれる 美しい人をつくる「所作」の基本

2012年10月11日木曜日

足元の大切さ。「脚下照顧」



「足元を見る」

昔の金融業者の人は、文字通り、お金を借りに来た人の足元、その履き物を見たそうです。

「なにも高級なモノである必要はないし、新しくなくてもいい。手入れが行き届いていることが大事です。靴にホコリがかぶっていたら、それは心のスキを見せるのに等しく、相手はそこで人間性を値踏みするのです。」



それをあらわす禅語が「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」。

「着物は上等なのに、草履はいただけない」と思われるのか、それとも、「この人は履き物にまで気を配っている」と思われるのか。

自分の足元は、思ったよりも雄弁なようです。





出典:禅が教えてくれる 美しい人をつくる「所作」の基本

2012年10月9日火曜日

深く静かな呼吸が、身体を温める


雪ふる厳寒の禅寺で坐する僧たち。

その吐く息は冷たい空気の中を白く伸びる。坐禅に習熟した僧ほど、その息がずっと先まで伸びてゆく…。



深い呼吸のできる禅僧は、一分間あたりの呼吸数が3〜4回と、「深くゆっくり」したものなのだそうです。そして、その呼吸が深いほどに「身体が温まってくる」のだとか。

というのも、腹(丹田)でする呼吸法は、「かつて山中で修行をしていた僧が、厳寒期の洞窟で暖をとっていた方法」なのだそうです。深い呼吸により血行を良くして、身体を温めるというわけです。



あるデータによると、呼吸を整えることにより、「全身の血流が25〜28%アップする」とのことです。逆に呼吸が乱れると、身体も心も硬くなって収縮するために「血流は約15%ほど減る」そうです。

つまり、呼吸の仕方によって、差し引き40%も「血の巡り」が変わってくるということです。



ちなみに、「呼吸」という字の「呼」は吐く、「吸」は吸うことを意味します。つまり、息を「吐くこと」が呼吸の始まりなのです。

できるだけ長い時間をかけて息を吐けば、その息を吐き切った後は、自然と空気が身体に入ってきます。意識せずとも「吸」は始まるのだそうです。






出典:禅が教えてくれる 美しい人をつくる「所作」の基本

禅の「目線」


禅の「目線」

立っている時は「六尺」前(およそ180cm前)、座っている時は「三尺」前(およそ90cm前)に、目線を落とすように教えられているとのことです。

立っている時には「畳の縦一枚分」、座っている時には「畳の横一枚分」となります。



その位置に目線を落とした時、その眼はおのずと「半眼」となります。目が半分閉じた状態です。

カッと目を見開いていると、その全開のまなこからは情報が洪水のように流れ込んできます。いわゆる情報過多で、混乱しやすくもなります。一方の半眼というのは、適度に情報が遮断された状態ですので、より落ち着いた心を保つことができるようになります。

この「半眼」というのは、仏様のまなざしと同じものなのです。





出典:禅が教えてくれる 美しい人をつくる「所作」の基本

行住坐臥(ぎょうじゅうざが)


禅寺では「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」のすべてを修行としているといいます。

「行(ぎょう)」とは歩くこと、「住(じゅう)」とはとどまること、「坐(ざ)」とは座ること、「臥(が)」とは寝ること。

仏教ではこれらを「四威儀」と呼ぶそうで、日常の立ち居振る舞い、その所作の一切合切が修行だと考えている、とのことです。





出典:禅が教えてくれる 美しい人をつくる「所作」の基本