ブッダ・ゴータマの弟子たち
1プンナ(富楼那)
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ともあれ、それらの資料によって、わたしは、いまここに、幾十人かの仏弟子たちについて語ってみたいと思う。その第一にとりあげるものは、仏弟子の一人として、今日なお知る人もすくなくなプンナ(サンスクリットではプールナ、漢訳では富楼那[ふるな])である。
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彼の出身はスナーパランタ(輸那鉢羅説迦)のスッパーラカ(首波羅・しゅはら)であるという。といっただけでは、見当もつかないのであるが、検(しら)べてみると、それはインドの西海岸に面した海港であって、いまのボンベイ(編集部注:ムンバイ)の北方およそ150kmのあたり、のちのソパーラーがそれであると知られる。そのことからすぐに連想されることであるが、彼の前半生の活動の舞台は海であった。
彼の父もまた、当時のいわゆる長者であったという。おそらくは、海洋貿易を業とする大商人であったのであろうが、彼はその第四子として生まれた。ただ彼は、父とその婢とのあいだに生まれた子であったがために、父の死にあたっても、まったく遺産の分与にあずかることをえず、兄たちと争って、無一物のままにして家を出た。
しかるに、彼には父ゆずりの商才がそなわっていたのであろうか、たまたま薪売りから手に入れた牛頭栴檀(ごずせんだん)を元手にして、大いなる資産をなし、父とおなじように大商人となって海洋貿易に従事した。それが計らずも彼をしてブッダ・ゴータマの教えを聞かしめる縁となった。
一つの文献(有部薬事、三)によれば、彼はそれまでに、すでに六度海洋を渡って貿易し、しかも、つねに事なくして大利をあげてきていたので、その噂は遠くサーヴァッティーにまで聞こえていた。それを伝え聞いたサーヴァッティーの商人たちは、財貨をスッパーラカの港にまで運んできて、彼の船によって海外貿易のルートに乗せんことを懇請した。そう頼まれてみると、プンナも満更ではない。心よく承諾して、七度目の航海に出発した。
しかるに彼はその航海中に、彼らが不思議なことをするのを見た。彼らは、毎日朝夕、一緒に集まって、なにか一心に誦(とな)えているのである。
「あんたがたは、なにを歌ってござるのか」
と問うと、
「これは歌ではありませんよ」
という。
「では、いったい、なんですか」
と問うと、
「これはブッダのおしえられたことばです」
という。
だが、中インドから遠くはなれたインドの西海岸に住むプンナは、まだ「ブッダ」という名さえも聞いたこともない。漢訳の経典のことばをもっていえば「何者かこれ仏」――「ブッダとはいったい何ですか」と問うよりほかはなかった。
「沙門ゴータマという方があって、サキャ(釈迦)族から出家され、山林に処して、ついに最高のさとりを得られた。その方をたたえてブッダと申し上げるのです…」
サーヴァッティーの商人たちがかの師について語るのを聞いておるうちに、プンナはなにか身のひきしまり、心に沁みるものを感じた。
「その方は、いま、どこにおられますか」
「サーヴァッティーの南郊のジェータ林に、アナータピンディカ長者が造営したてまつった精舎にあられます」
その時、プンナとサーヴァッティーの商人たちを乗せた船は、いったい、どこの港をゆびさしていたか。経の記述は、そんなことには、一向に無関心であるらしい。だが、『ジャータカ(本生物語)』その他の文献によると、当時の大商人たちは、すでにバベルすなわちバビロンまで渡って、巨利を博していたという。いま、プンナの航海の行先は知られていないが、それもまた、遠く海を渡っての貿易であったらしい。経のことばに「渉海労倦(しょうかいろうけん)」とあるのが、そのことをほのめかしている。
その航海も事なく了(お)えて、ふたたびスッパーラカに帰ってくると、彼は、席のあたたまる暇もなく、今度は陸路サーヴァッティーに向って出発した。かのアナータピンディカ長者を訪ね、その紹介によってブッダ・ゴータマにまみえようがためである。
「貴殿には、とおく海をこえての御商用ときいておりましたが、今度はここまで陸路の御旅行で。さぞお疲れのことでありましょう。いったい、いかなる御商用でございますか」
「いや、今度は商用ではありません。ブッダ・ゴータマの教えをうけ、その許(もと)において出家いたしたく、ついては、御紹介を得たいと思って参上いたしました。
かくして、二人の長者は、相連れだって祇園精舎を訪れ、ブッダを拝して、まもなく、スッパーラカの長者の出家が実現した。
ここまでプンナの生涯のあゆみを辿ってみると、すでに、おおよそ彼の人となりの輪郭をつかむことができる。苦労を積んできた人であったこともわかる。すこぶる商才にとみ、つねに積極的であった人柄もはっきりする。おそらく、一たび決意すれば、断乎としてそれに邁進する人であったにちがいない。それに、ながい海外貿易のあいだに習得した話術は、一挙にして人の復中に飛びこむ底のものであって、それが、やがて、説法第一のプンナを成す重要な由因であったとする理由は充分である。
その人柄とその話術をもって、やがて彼は、一箇の伝道者として、ふたたび西の方スナーパランタに帰ってゆく、その出発をまえにして、彼は、師のブッダ・ゴータマを拝していった。
「大徳よ、願わくはわがために簡略の法を説きたまえ。わたしは、その法を聞きて、しばし一人して遠くにいたり、放逸ならずして住したいと思います」
それは、経のことばがしばしば繰り返す慣用句であって、たとえば、比丘が森林や山岳に独住して修行にいそしもうとする時など、それに先立ってまず師をおとずれ、簡単なおしえを頂いて出発するというのがつねであった。
ブッダは、彼の乞うままに簡単におしえを語ったのち、問うていった。
「プンナよ、なんじは、いったい、何処にゆこうとするのか」
「大徳よ、スナーパランタという地方がございます。わたしはそこに参りたいと思います」
それは、彼の生まれた海港スッパーラカのある地方である。彼がその地に帰って、この師のおしえを弘めようとしていることも、ブッダ・ゴータマはよく知っている。だがブッダはまだその地方には行ったことがない。ブッダの伝道の舞台である中インドからは、はるか西の方に離れた土地だからである。ただ噂にきくと、民度もひくく、荒々しい気風のところであるという。ブッダ・ゴータマには、それが気になるのである。
「プンナよ、スナーパランタの人々は気が荒いということであるが、プンナよ、もし、彼らがなんじを嘲ったり、罵ったりしたら、なんじはどうするか」
「大徳よ、もしそのようなことがあらば、わたしはかように考えます。――まったくスナーパランタの人たちはいい。彼らは掌(て)をもってわたしを打擲(ちょうちゃく)するにはいたらないから――と。わたしは、そう考えたいと思います」
「ではプンナよ、もし彼らが掌をもってなんじを打ったなら、なんじはどうするか」
「大徳よ、その時には、わたしはかく考えます。――まったくスナーパランタの人たちはいい。彼らは土塊(つちくれ)をもってわたしを打擲するにいたらないから――と。わたしはそう考えたいと思います」
「ではプンナよ、もしも彼らが土塊をなんじに投ずるにいたったなら…」
「大徳よ、その時には、わたしはかく考えます。――まったくスナーパランタの人々はいい。彼らはいまだ杖(つえ)をもってわたしを打つにいたらない――と。わたしはそう考えたいと思います」
「ではプンナよ、もしも杖をもってなんじを打ったら…」
「大徳よ、その時には、わたしはかく考えます。――まったくスナーパランタの人々はいい。彼らはいまだ刀剣をもってするにいたらず――と。わたしはそう考えたいと思います」
「だが、プンナよ、もしも彼らが刀剣をもってなんじの生命をうばいなば…」
「大徳よ、世尊の弟子中には、その身をいとい、その命になやみ、みずから剣をとろうとしたものもあったやに聞いております。しかるに、もしそのようなことあらば、わたしは、みずから求めずして、そのことを成就しうるのであります。大徳よ、わたしはそのように考えたいと思います」
「善いかなプンナ、なんじにその覚悟がある。いまは、安んじて、行かんと欲するところに行くがよい」
さきにも言うがごとく、初期の経典には、プンナに関する言及は比較的すくない。この一経(相応部経典、三五、八八「富楼那」)のしるすところは、その稀なる言及の一つである。しかも、この烈々たる対話は、初期の全経典のなかにおいても、もっとも輝かしい章節の一つをなしているといって、誰も異論を挿(さしはさ)むものはないであろう。
ともあれ、かくしてスナーパランタにいたったプンナは、その第一年にして早くもブッダの教法に帰依するもの五百人を得たという。しかるに、何たることぞ、そのおなじ年の雨期のおわり、彼はなお年壮(としさか)んにして、かの地において没した。まことに惜しみてもあまりあることであった。
プンナ(富楼那)
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