2021年3月24日水曜日

『百足伝』道歌40首


自鏡流祖

多賀自鏡軒盛政

『百足(ひゃくそく)伝』


1.

稽古には 清水の末の細々と 絶へす流る々心こそよき


2.

夕立の せきとめかたきやり水は やがて雫もなきものぞかし


3.

うつるとも月も思わず うつすとも水も思わぬ 猿澤の池


4.

幾千度(いくちたび) 闇路をたどる小車の 乗得てみれば輪のあらばこそ


5.

稽古には 山澤河原 崖や淵 飢えも暑寒も身は無きものにして 


6.

吹けば行く 吹かねば行かぬ浮き雲の 風に任する身こそやすけれ


7.

山河に 落ちて流る々栃殻も 身を捨て々こそ浮かぶ瀬もあれ


8.

わけ登る 麓の道は多けれど 同じ雲井の月をこそ見れ


9.

兵法は 立たざる前に先づ勝ちて 立合てはや敵はほろぶる 


10.

體と太刀と 一致に成りてまん丸に 心も丸き是(これ)ぞ一圓 


11.

稽古にも 立たざる前の勝にして 身は浮島の松の色かな 


12.

曇りなき 心の月の晴やらば なす業々も清くこそあれ 


13.

軍にも まけ勝あるは常の事 まけて負けざることを知るべし 


14.

とにかくに 本を勤めよ末々は ついに治るものと知るべし 


15.

兵法の 奥義は睫(まつげ)のつる々(如く)もの あまり近くて迷いこそすれ 


16.

我流を つかはば常に心還(また) 物云ふ迄も執行(修行)ともなせ 


17.

我流を 使ひて見れば 何もなくして勝つ道を知れ 


18.

兵法の 先(せん)は早きと心得て 勝を急(あせ)って危うかりけり 


19.

兵法は つよきを能きと思なば 終には負けと成ると知るべし 


20.

兵法の 強き内にはつよみなし 強からずして負けぬものなり 


21.

立会は 思慮分別に離れつ々 有そ無きぞと思ふ可(べか)らず 


22.

兵法を 使へば心治まりて 未練のことは露もなきもの 


23.

朝夕に 心にかけて稽古せよ 日々に新たに徳を得るかな 


24.

長短を 論することをさて置て 己が心の利剣にて斬れ 


25.

前後左右 心の枝直くならば 敵のゆがみは天然と見ゆ 


26.

雲霧は 稽古の中の転変そ 上は常住すめる月日ぞ 


27.

兵法は 行術も知らず果てもなし 命限りの勤とぞ知れ 


28.

我流を 教へしま々に直にせば 所作鍛練の人には勝べし 


29.

麓なる 一本の花を知り顔に 奥もまだ見ぬ三芳野の春 


30.

目には見えて 手には取れぬ 水の中の月とやいはん流儀なるべし 


31.

心こそ 敵と思ひてすり磨け 心の外に敵はあらじな 


32.

習より 慣るるの大事願くは 数をつかふにしくことはなし


33.

馴るるより 習の大事願くは 数もつかへよ理を責めて問へ


34.

屈たくの 起る心の出るのは すは剣術になるとしるべし 


35.

世の中の 器用不器用異ならず 只真実の勤めにそあり 


36.

兵法を あきらめぬれはもとよりも 心の水に波は立つまじ 


37.

剣術は 何に譬へん岩間もる 苔の雫に宿る月影 


38.

性(さが)を張る 人と見るなら前方に 物あらそひをせぬが剣術 


39.

兵法は 君と親との為なるを 我身の芸と思ふはかなさ 


40.

一つより 百まで数へ学びては もとの初心となりにけるかな 



2021年3月21日日曜日

”いま”なる時

 

”いま”といふ

”いま”なる時は

なかりけり


”ま”の時くれば

”い”の時は去る


古歌


山田一徳斎、石火のはたらき

 

from: 『剣と禅』大森曹玄




先師山田一徳斎先生が、まだ榊原鍵吉先生の門下生として修行中のこと、一日、大雪の降る中を先生のお伴をして九段坂上にさしかかったとき、どうしたハズミか榊原先生の足駄の鼻緒がプツリと切れた。


さすがの剣豪もこの不意打ちには身をかわす間もなく、横倒しにドッと投げ出された、と見えた一刹那、ヌッと片腕をのばして倒 んとする師の巨賑を支えたのが、お伴の山田次朗吉であった。


しかも一方の手ですばやく自分の下駄をとって、榊原先生の足の下にさしこんだ。有名な頑固者の榊原先生もこの石火のはたらきには辞する余裕もなく、ノメル足を弟子の下駄の上でふみこたえるほかはなかった。


このときの気合、間髪を容れざる動作、これこそ剣の至極であるとして、そのことがすぐれた剣技とともに、のちに山田先生が直心影流十五世の的伝者となる一因をなしたのである。


このように前後を際断して、絶対現在になりきり、そこに全生命力を最高度に発揮する剣境を、辻月丹の無外流では「玉簾不断」と呼んでいる。


玉簾とはいうまでもなく滝のことである。滝は一条の連続した水流のように見えるが、実は一滴一滴断絶した水滴の重なり合ったものである。その一滴一滴を充実することによって、はじめて連続不断の渥流が成り立つのである。


白隠和尚が正念相続とは、数珠王の一顆一顆になりきることで、それに通してある紐のようにのべつまくなしになることではない、という意味のことをいっているのも、思い合わされて興味深いものがある。


剣と禅とはここでも一致するようである。





「睡中かゆきをなづ」伊藤一刀斎


from: 『剣と禅』大森曹玄




かれがまだ鬼夜叉と呼ばれた青年のころ、ある日、師の鐘捲自斎に向かってこういったものである。

「先生、わたくしは剣の妙機を自得しました」

これを聞いた自斎は大いに怒って「未熟者が何をいうか」とののしったが、かれは平然として、

「しかし先生、妙とは心の妙である以上、自分みずから悟る外はないではありませんか。決して、師から伝えられるものではないと思います」

と抗弁して一歩もゆずらなかった。


こんな押し問答がなんべんか繰り返されたのち、それではというので師弟の間で技をたたかわせることになった。ところが師の自斎は三度たたかって三度とも敗れてしまったので、大いに驚いてそのわけを聞くと、かれはいわく、

「人は睡っている間でも、足のかゆいのに頭をかく馬鹿はありません。人間には自然にそういうはたらきをする機能が具わっているのです。その機能を完全にはたらかせることが剣の妙機というものだと思います。先生が私を打とうとされるとき、先生の心は虚になっています。それに反し、わたくしはいま申したような自然の機能で危害をふせぎますから実です。実をもって虚に対すれば勝つのは当然でしょう」

そう説明されてみれば、いかにも当然の理窟なので、自斎もうなずくほかはなかった。


この「睡中かゆきをなづ」という言葉は、千葉周作の「剣法秘訣」の中にもあったと記憶するが

鏡が物体を写すような無心のはたらきを表わす言葉として、古来の剣客が好んで用いたものかもしれない。






2021年3月9日火曜日

源信「白骨観」原文

 

源信「白骨観」



此の骨、

我とや為(せ)ん、

我に非ずとや為(せ)ん。


答えて謂う


「我に非ずと、身を離れず。

自他彼此共に白骨なり。


身と命と財との三つ、離散の時、ただ白骨を残し野外に在り。

予が年齢、既に七旬に満つ。

既に此の白骨を顕さん須臾なり。


悲しい哉、此の白骨を顧みず、名利の心地常に断ぜず、手を以て摩で触るるに何ぞ穏やかなること有らん。

倩(つらつら)、一期の栄華を思案するに、ただ白骨を帯して歳月を送る。白骨上に衣裳を荘(かざ)り著(き)て、白骨の身を以て、ただ世を渡る。


此の白骨久しく世に在らず。

憑(たの)みても憑(たの)み難(がた)きは、薄皮の白骨なり。


願わくは仏神よ、

此の白骨を哀れみ、

臨終正念に往生を遂げしめたまへ」


恵心僧都全集. 第3巻
国立国会図書館デジタルライブラリーより


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蓮如上人『白骨の章』原文

 

蓮如上人「白骨の章」



それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。

されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。

今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。

我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。

されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。

既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。

あわれというも中々おろかなり。

されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。

あなかしこ あなかしこ



2021年3月7日日曜日

【空也】彼を先にし我を後にする

 

彼を先にし

我を後にするの思いをもって

思いとなし


他を利し

己を忘るるの情(こころ)をもって

情(こころ)となす


『三善道統「為空也上人供養金字大般若経願文」本朝文粋』