2020年10月22日木曜日

【総ルビ原文訓読】碧巌録 第19則

 

第一九則

「倶胝指頭禅」

 

【垂示】

垂示(すいじ)(いわ)く、一塵(いちじん)(あが)って大地(だいち)(おさ)まり、一花(いっか)(ひら)いて世界(せかい)(おこ)る。()(ちり)(いま)(あが)らず(はな)(いま)(ひら)かざる(とき)(ごと)きは、如何(いかに)(まなこ)()けん。所以(ゆえ)()う。「一綟絲(いちれいし)()るが(ごと)し、一斬(いちざん)すれば一切斬(いっさいざん)一綟絲(いちれいし)()むるが(ごと)し、一染(いっせん)すれば一切(いっさい)(せん)」と。()如今(いま)便(すなわ)葛藤(かっとう)截断(せつだん)して、自己(じこ)家珍(かちん)運出(うんしゅつ)せば、高低(こうてい)(あまね)(おう)じ、前後(ぜんご)(たが)うこと()く、各各(おのおの)現成(げんじょう)せん。儻或(もし)(いま)(しか)らずんば、下文(かぶん)看取()

 

【本則】

()す。俱胝(ぐてい)和尚(おしょう)(およ)所問(しょもん)あれば、()一指(いっし)()つ。

 

【頌】

対揚(たいよう)(ふか)(あい)(ろう)俱胝(ぐてい)宇宙(うちゅう)(くう)()たって(さら)(たれ)()る。(かつ)滄溟(うみ)浮木(ふぼく)(おろ)して、夜濤(やとう)(あい)(とも)盲亀(もうき)(せっ)す。


2020年9月4日金曜日

焼け野のキギス、夜のツル


話:大西良慶 


焼け野の雉(キギス)

夜の鶴


雉(きじ)がタマゴを抱いているとき、春の野が焼けると、親の雉は、自分の身を犠牲にしてタマゴを守る。


鶴はタマゴを抱くとき、夜も寝ずに夫婦交代で番をしている。生まれてからも、大きくなるまでは夜、見張っていて、知らん顔を見ると、あの長いクチバシでつつく。「夜の鶴」やね。


2020年9月2日水曜日

「啐啄同機」大西良慶

 

話:大西良慶



禅に「啐啄(そつたく)同機」という言葉がある。


鶏がタマゴを抱いている。中で雛が育っている。もう出る、という時期が来る。世に出てもいいという時機が熟している。中で雛が「チュッ」という。「チュッ」といいながら、内側から、タマゴの殻をつつく。これが「啐(そつ)」やの。


同時に、抱いている母鶏の方でも、機の熟しているのがわかっている。「チュッ」という声が聞こえるのかどうか、中からたたいているのがわかるのかどうか、母鶏も、同じように外側から強いくちばしで、殻をつつく。「啄(たく)」しよるの。


この、啐(そつ)と啄(たく)との呼吸がぴったり合って、雛という一つの生命が、この世に誕生してくる。ちょっとでも遅れたら、中の雛は死んでしまう。「啐啄異時」になる。あくまで「啐啄同機」でなければならない。



2020年8月31日月曜日

鬼婆ァと人はいうらん

 

話:大西良慶



鹿児島には、お母さんが独り居た。お姑さんやね。

この人が、一昔前の士(さむらい)の奥さんやったから、気位が高かったのかね、鬼婆ァといわれるぐらいこわい人やった。事毎に嫁の敦子さんをいじめるの。敦子さんは、泣くような目にあいながら、毎日、お母さんに背かんように、機嫌を損ぜぬようにつかえていた。


ある日、お母さんは敦子さんに、あなたは歌人やというから、これを歌にしてほしいといって、下の句を出さはった。なんとそれは、

「鬼婆ァと人はいうらん」

とある。その短冊を見て、敦子さんは、ははァと思うた。またいじめはる、と思うた。そう思うたが、そんなこと言えたものではない。早速、上の句をつけはった。

「仏にも似たる心と知らずして」

と詠んだ。ひっくりかえってしまったのやね。「鬼婆ァ」が実は仏にも似たる心やったと、そう理解していると、せい一ぱいの意思表示やった。

さすがのお母さんも、これには泣いた。泣いて、「済まなんだ、済まなんだ、堪忍してくれ」と詫びた。鬼の角が一遍に折れたのやね。


それで、本当のお母さんみたいになって、それからは、敦子さん、敦子さん。敦子さんでなければ夜も日もあけんようになった。

お母さんは死に際に、敦子さんの膝の上に首をのせて、息をひきとったという。




2020年8月29日土曜日

「忘れても構わない」大西良慶

 

話:大西良慶



禅宗では、題をもろうたら、ずっと同じ題で座禅する。

無なら無という題もらって、五年でも十年でも座る。


忘れても構わない、という。

一遍入れといたら、忘れても必ず出てくるときがある。

よそで聞いて、ああそうやったのかと思い出す。


とにかく忘れても構わないから聞け、

するとものが見えてくる。



2020年8月27日木曜日

白隠禅師の「片手の声」

 

話:大西良慶



白隠禅師は、何をいうても「片手の声を聞いてこい」といわはった。

人が「白隠が片手の声を聞くよりも、両手たたいて商いをせよ」とひやかしたら、

禅師は、「両手たたいて商いがなるならば、片手の声は聞くにおよばぬ」と答えたという。


禅師のいう片手の声とは、どういうつもりでやっておられるのか、それはわからない。

人によって「悟り」が違うものね。

悟りは自分の智恵で悟るものであって、子どもには子どもの悟りがあり、お婆さんにはお婆さんの悟りがある。


そこで、白隠さんは、一人一人の「片手の声」を聞いておられたのやないか。

心が静まって、心が練れてくると、人の片手の声が聞こえてくる。

人間の世界、片手の声が聞こえてくると一人前やね。


本来、片手から声なんて出ない。

片手の声を聞こうと思ったら、もう一つの手をもっていったらいいの。

このように、片手と片手を合わせればいいの。

片手が指をそろえているのに、ゲンコツをもっていったり、バラバラの指をもっていってもあかんの。

ちゃんとこう、片手に相応した手をもっていくの。そ

れが合掌なの。


片手の声とは、相手の声。

相手の声を聞くのは、相手の心になること。

心の中で、自我ばっかり渦巻いていては、指をそろえた片手にゲンコツをもっていくようなもので、ちゃんと寸法に合うようにもっていかねばならない。


寸法に合うと、声が出るの。

相手に返事のできないような声をもっていっても、声は出ない。

親の心のとおりになったら、親の声が出る。


国際間でもそうなの。

向こうに片手の声がある。

友達同士でも、そうやの。

向こうの気持でいったら、ウンウンという返事がかえってくる。

気に入らなんだら、黙っている。合わんものをもっていっても、片手の声は聞けないの。


神様や仏様の心に、御利益があるかないかと問うのは、こっちから神様や仏様の心に合わないものをもっていくから、心が通らない。

むつかしい問題ではない。

ちょっと仏法の話を聞いたら、間違いはないの。




大西良慶の「天竜一指」

 

話:大西良慶



指といえば、中国に天竜という禅宗の和尚が居た。

この和尚、問答のとき、誰が出てきても、指を一本、立てはるの。

「天竜一指」という。


この一本の指で、多くの人を教化したという話が、『無門関』に書いてある。

面白いのはそのあとの余談で、修行中の小僧が、これを真似して、誰にも彼にも、指を一本立ててみせた。

天竜和尚は怒らはった。

怒って、手荒い話やが、小僧の指を切ってしまはった。


小僧は泣くわね。

泣きながら、逃げた。

逃げる小僧に、天竜和尚は声かけて呼ばはったの。


小僧はいつもの癖で、指を一本、立てようとしたら、その指がない。

指がない、ということに気づいたとき、小僧は悟ったという。


話は、それだけやの。

それだけやからいいの。