話:大西良慶
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白隠禅師は、何をいうても「片手の声を聞いてこい」といわはった。
人が「白隠が片手の声を聞くよりも、両手たたいて商いをせよ」とひやかしたら、
禅師は、「両手たたいて商いがなるならば、片手の声は聞くにおよばぬ」と答えたという。
禅師のいう片手の声とは、どういうつもりでやっておられるのか、それはわからない。
人によって「悟り」が違うものね。
悟りは自分の智恵で悟るものであって、子どもには子どもの悟りがあり、お婆さんにはお婆さんの悟りがある。
そこで、白隠さんは、一人一人の「片手の声」を聞いておられたのやないか。
心が静まって、心が練れてくると、人の片手の声が聞こえてくる。
人間の世界、片手の声が聞こえてくると一人前やね。
本来、片手から声なんて出ない。
片手の声を聞こうと思ったら、もう一つの手をもっていったらいいの。
このように、片手と片手を合わせればいいの。
片手が指をそろえているのに、ゲンコツをもっていったり、バラバラの指をもっていってもあかんの。
ちゃんとこう、片手に相応した手をもっていくの。そ
れが合掌なの。
片手の声とは、相手の声。
相手の声を聞くのは、相手の心になること。
心の中で、自我ばっかり渦巻いていては、指をそろえた片手にゲンコツをもっていくようなもので、ちゃんと寸法に合うようにもっていかねばならない。
寸法に合うと、声が出るの。
相手に返事のできないような声をもっていっても、声は出ない。
親の心のとおりになったら、親の声が出る。
国際間でもそうなの。
向こうに片手の声がある。
友達同士でも、そうやの。
向こうの気持でいったら、ウンウンという返事がかえってくる。
気に入らなんだら、黙っている。合わんものをもっていっても、片手の声は聞けないの。
神様や仏様の心に、御利益があるかないかと問うのは、こっちから神様や仏様の心に合わないものをもっていくから、心が通らない。
むつかしい問題ではない。
ちょっと仏法の話を聞いたら、間違いはないの。
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