suttanipātapāḷi
スッタニパータ
namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa
[中村元訳]かの尊き師、尊き人、覚った人に礼したてまつる。
[正田大観訳]阿羅漢にして 正自覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
第一 蛇の章 uragavagga
一、蛇の経 uragasutta (17偈)
※主たる訳文は中村元氏に拠る。
1
蛇※1.1の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)※1.2は、
yo uppatitaṁ vineti kodhaṁ, visaṭaṁ sappavisaṁv a osadhehi;
この世とかの世※1.3とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼が、広がった蛇の毒を諸々の薬で〔除き去る〕ように、沸き起こった忿激〔の思い〕(忿)を取り除くなら、
その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
中村註1.1:蛇
この聖典の最初に蛇のことばかり出てくるので、日本人は異様な感じを受けるであろう。しかしインドないし南アジアでは、どこへ行っても蛇が多い。従ってインド人にはむしろ親しく感ぜられるのである。こういう風土的背景があるために、仏像やヒンドゥー教の神像には、光背が五頭とか七頭とかの蛇になっている場合が少くない。蛇が霊力を以て神々を、また人々を護ってくれるのである。仏伝にも竜(つまり蛇)がしばしば登場する。
中村註1.2:修行者
bhikkhu. 「乞う者」の意。漢訳では「比丘
(びく)」と音写する。当時インドの諸宗教ではすべて家を出た修行者は托鉢によって食物を得ていたので、このようにいう。それのサンスクリット形
bhiksu という語は、インドのどの宗教でも用いられる。在家の人々は修行者に最上の敬意を示して食物を捧げるが、修行者は平然としてこれを受け、挨拶を返さない。
中村註1.3:この世とかの世
orapāraṁ. 註釈には種々の解釈が挙げられている。
pāra を「岸」の意味に解すると、
orapāraṁ は「此岸」すなわち「下界」の意味になる。
2
池に生える蓮華※2.1を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、
yo rāgamudacc hidā asesaṁ, bhisapuppha ṁva saroruhaṁ vigayha;
この世とかの世とをともに捨てる。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼が、池に生えている蓮の花を〔水に〕入って〔折り取る〕ように、貪欲〔の思い〕(貪)を残りなく断ち切ったなら、
その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
中村註2.1:蓮華
蛇が南アジアでよく見かける動物であるのに対して、インドの代表的な花は「蓮華」である。そこで蓮華の例をもち出したのである。
3
奔り流れる妄執(もうしゅう)の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、
yo taṇhamudacc hidā asesaṁ, saritaṁ sīghasaraṁ visosayitvā;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼が、激しく流れる〔渇愛の〕流れを干上がらせて、渇愛〔の思い〕(愛)を残りなく断ち切ったなら、
その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
4
激流が弱々しい葦※4.1の橋※4.2を壊すように、すっかり驕慢を滅し尽した修行者は、
yo mānamudab badhī asesaṁ, naḷasetuṁva sudubbalaṁ mahogho;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼が、極めて力の弱い葦の橋を大激流が〔押し流す〕ように、〔我想の〕思量(慢:自他を比較し価値づける心)を残りなく壊し去ったなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
中村註4.1:葦
裂かれた葦(naḍa)と激流の譬喩は『リグ・ヴェーダ』第一編第三二詩篇の八に出てくる。
中村註4.2:橋
setu. この語を「堤」「堤防」と解することが行われているが、パーリ語では専ら「橋」を意味する、と、スリランカの学僧がわたくしに語った。「堤」はサンスクリットでも、パーリ語でも tīra である。
5
無花果(いちじく)の樹の林の中に花を探し求めても得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なもの※5.1を見出さない修行者は、
yo nājjhagamā bhavesu sāraṁ, vicinaṁ pupphamivā udumbaresu;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼が、〔花なき〕無花果〔の木々〕に花を尋ね求める者のように、諸々の〔迷いの〕生存(有)において真髄(実:真実・本質)に到達しなかったなら(迷いの生存を真実と誤認しなかったなら)、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
中村註5.1:堅固なもの
原語は sāra であるが、註釈は「常住性または本性」と解する。事物のうちに堅固なものを見出さない、というのは、つまり〈空〉であるということである。〈空〉の思想は、最初期にまでたどることができるのである。
6
内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した※6.1修行者は、
yassantarato na santi kopā, itibhavābhav atañca vītivatto;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼に、諸々の〔心の〕動乱が、〔心の〕内から存在しないなら、しかして、かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を超克した者であり、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
中村註6.1:世の栄枯盛衰を超越した
原語の意義は、恐らく「〈このようになりたい 、あのようになりたい〉ということを超越した」の意。
7
想念※7.1を焼き尽して余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、
yassa vitakkā vidhūpitā, ajjhattaṁ suvikappitā asesā;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼の、諸々の思考(尋)が破砕され、内に残りなく善く整えられたなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
中村註7.1:想念
ここで「想念」(vitakkā 複数)というのは、思慮し思考することである。心の静まった修行者には、思慮分別はいらない、というのである。
8
走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく※8.1、
すべてこの妄想※8.2をのり超えた修行者は、
yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṁ accagamā imaṁ papañcaṁ;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、この戯論(分別妄想)の一切を超え行ったなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
中村註8.1:走っても…遅れることもなく
註によると、努力精励しすぎることもなく、また怠けることもなくの意。つまり中道の思想を説いている。
中村註8.2:妄想
原語は papañca であり、この語は漢訳仏典ではよく「戯論」と訳される。ヴェーダーンタ哲学では、世界のひろがりの意味。しかし原始仏教聖典では「妄想」の意味か。
9
走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、
「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、
yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṁ vitathamidant i ñatva loke;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と知って、世にあるなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
10
走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、
「一切のものは虚妄である」と知って貪(むさぼ)りを離れた修行者は、
yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṁ vitathamidant i vītalobho;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と、貪欲を離れた者となるなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
11
走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、
「一切のものは虚妄である」と知って愛欲を離れた修行者は、
yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṁ vitathamidant i vītarāgo;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と、貪り(貪)を離れた者となるなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
12
走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、
「一切のものは虚妄である」と知って憎悪(ぞうお)を離れた修行者は、
yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṁ vitathamidant i vītadoso;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と、怒り(瞋)を離れた者となるなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
13
走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、
「一切のものは虚妄である」と知って迷妄を離れた修行者※13.1は、
yo nāccasārī na paccasārī, sabbaṁ vitathamidant i vītamoho;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と、迷い(痴)を離れた者となるなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
中村註13.1:迷妄を離れた修行者
以上の四つの詩句においては、それぞれ貪り(lobha)または愛欲(rāga)、憎悪(dosa)、迷妄(moha, 愚癡)という三つの煩悩は、人間にとって根本的なものであるから、古来の仏教の学問では「 貪(とん)瞋(じん)癡(ち)の三毒」という。rāga は、愛し、むさぼり、執著すること、dosa は(1)嫌悪し、次に(2)憎悪し、さらに(3)打ちのめし害すること、moha とは、真実のすがたを知らず、迷ってぼうとしていること。
14
悪い習性※14.1がいささかも存することなく、悪の根を抜き取った修行者は、
yassānusayā na santi keci, mūlā ca akusalā samūhatāse;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼に、何であれ、諸々の悪習(随眠)が存在せず、しかして、諸々の善ならざる根元(不善根:貪・瞋・痴の三毒)が完破されたなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
中村註14.1:悪い習性
anussaya. 潜在的に潜んでいる性向である。
15
この世に還(かえ)り来る縁となる〈煩悩から生ずるもの〉をいささかももたない修行者は、
yassa darathajā na santi keci, ora"m āgamanāya paccayāse;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観]
彼に、何であれ、諸々の懊悩から生じるものが存在せず、〔迷いの〕此岸に帰り来るための諸々の縁が〔存在しないなら〕、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
16
ひとを生存に縛りつける原因となる〈妄執(もうしゅう)から生ずるもの〉をいささかももたない修行者は、
yassa vanathajā na santi keci, vinibandhāya hetukappā;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼に、何であれ、諸々の〔欲の〕林の下生えから生じるものが存在せず、〔迷いの〕生存の結縛のための諸々の因となる妄想が〔存在しないなら〕、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
17
五つの蓋(おお)い※17.1を捨て、悩みなく、疑惑を超え、苦悩の矢※17.2を抜き去られた修行者は、
yo nīvaraṇe pahāya pañca, anigho tiṇṇakathaṁk atho visallo;
この世とかの世とをともに捨て去る。
so bhikkhu jahāti orapāraṁ,
−−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
urago jiṇṇamivattac aṁ purāṇaṁ.
[正田大観訳]
彼が、五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・加害の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)を捨棄して、煩悶なく、懐疑を超え、矢を抜いた者となるなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する。−−蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
中村註17.1:五つの蓋(おお)い
その原語(nīvaraṇā pañca)は漢訳仏典では「五蓋」と訳される。貪欲と、いかりと、こころのしずむことと、こころのそわそわすることと、疑いとをいう。
中村註17.1:苦悩の矢
欲情(rāga)、嫌悪(dosa)、迷妄(moha)、高慢(māna)、悪い見解(diṭṭhi)の五つを言う。
[日本語訳に関する考察]
中村元訳と正田大観訳を比較してみると、正田大観訳『
小部経典 第一巻』の方が、原文(パーリ語)に忠実に、ほぼ逐語訳しているのが分かる。
また、中村元氏ができるだけ仏教用語を避けているのに対して、正田大観氏は正統な仏教用語を適宜用いている。それゆえ、この仏典から初期仏教(テーラワーダ)を学ぼうとされる方にとっては、正田大観訳の方が有益であろう。一方、素朴な仏教を感じたい方には、宗教家ではなく学者であった中村元訳が肌に合うかもしれない。
中村元氏いわく、
「この『ブッダのことば(スッタニパータ)』の主要部分はもともと詩よりなり、読まれるものではなくて、吟詠されたものであった。インドの詩としては簡潔なものであるが、頭韻を踏んだり、押韻や語呂合わせさえも見られる。もとの詩の美しさを伝えることは不可能であるから、むしろ意味を伝えるほうに重点を置いて、全体を散文の口語文で訳出した。… 特に訳文は、かりに耳で聞いても理解しうるものであるように心がけた。もともとインドでは耳で聞いて口づてに伝承されていたものであるから、この性格をやはり保持したいと思った。耳で聞いても解らぬような漢訳語を使うことは、およそ原典の精神から逸脱している。インドの原語を漢字で音写することは、原則として廃止した。この翻訳は簡潔で解りやすいものであるようにと目ざした。世のいわゆる多くの仏典翻訳とは色調の異なることに読者は気づかれるであろう。… 仏教特有の単語は絶無といって差し支えない(中村元『ブッダのことば―スッタニパータ』解説より引用)」
正田大観氏いわく、
「そもそも、翻訳なるものは、いかなる天才碩学の手によるものであれ、完全無欠のものとして提供されることはありません。言葉そのものの限界もあります。ましてや、一切知者たる釈尊が残された言葉です。それをそのまま原意を損なわず、他の言語に移し替えるためには、まさに、釈尊と同じレベルの力量が求められるからです。… 訳し手としては、おのれの限界をわきまえ、常に最善を尽くす姿勢を貫くしかなく、読む側としては、書いてあることを鵜呑みにせず、その正邪を自らの頭で吟味し、腑に落ち納得するまで、文字との格闘を続けるしかありません。である以上、パーリ三蔵の和訳テキストは、一つに限らず、できるだけ多くの翻訳が世に提供され、学びのための資糧となるべきなのです。複数のテキストを比較考量することで、より原典に肉薄した理解が得られるからです(正田大観『小部経典 第一巻』序文より)」