ブッダ・ゴータマの弟子たち
増谷文雄
16 愚かなる弟子たち
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もう一つ、愚かなる弟子といえば、どうしても思い出さざるをえない人物がある。それは、チューラ・パンタカ(周利槃特・しゅりはんどく)と称せられる人物である。
「チューラ」とは「小」という意味のことばである。彼には一人の兄があって、その兄をマハー・パンタカ、すなわち「大なるパンタカ」と称するにたいして、これなる弟のパンタカをチューラ・パンタカ、すなわち「小なるパンタカ」と称するのである。さらにいえば、この兄弟二人のパンタカは、いずれも出家してブッダ・ゴータマにしたがう沙門となった。だが、その兄なるパンタカは、その頭脳すぶれ、はやくも阿羅漢すなわち尊敬すべき聖者の境地に達することをえたのに、これなる弟のパンタカは、稀代の物覚えのわるい人物であって、そのために、これから述べるようなあわれな物語の主人公となったのである。しかるところ、後代のわたくしどもは、かえって、この愚かなるチューラ・パンタカのうえに、万斛(ばんこく)の涙をそそぎながらも、ふかい親しみを感じる。まことに不思議な人のこころの動きというものではないか。
では、『テーラ・ガーター(長老偈経)』や『ジャータカ(本生物語)』などが彼について記しのこすところによって、その物語をつづってみよう。
「わが進歩遅々たりしため
われは人々に軽賤(けいせん)せられたり
兄はわれを追い出していいぬ
『なんじ今は去りて家に帰れ』と」
(『テーラ・ガーター』557偈)
兄弟二人のなかで、さきに出家したのは、兄なるマハー・パンタカであった。かれは、すでにいったように頭のよい生まれで、よくブッダの教えるところを理解し、すぐれた成果をあげることができた。「このすばらしい教えを弟にも味わわせてやりたい」。それが兄弟の情というものである。そこで、兄は、弟なるチューラ・パンタカをも、勧めて出家させたのであるが、彼はすっかり兄の期待を裏切ってしまった。さきにもいったように、稀なる物覚えのわるい頭の持ち主であったからである。
ブッダ・ゴータマは、彼に四句の一偈を与えたもうた。だが、彼は、どうしてもそれを暗記することができない。一句を憶えようとすれば、もうさきの一句を忘れてしまうという有様であった。『ジャータカ』のいうところによると、四ヶ月かかっても、その偈を暗記できなかったという。人々は、彼を軽蔑した。それを見ていると、兄もたまらない思いにかられた。
「これでは、とても駄目だ。おまえは、もう家に帰ったほうがよい」
たよりに思う兄からも見はなされて、精舎の門のあたりに、茫然と立ちすくんでいると、そこにブッダ・ゴータマが現れて、その頭を撫で、その手をとって、精舎に連れかえった。
「チューラ・パンタカよ、失望することはない。なんじはわたしによって出家したのであるから、わたしの許におればよいのだ」
そして、師は、彼に布切れをあたえ、それで人々の履物(はきもの)をぬぐうことを命じたという。
「チューラ・パンタカよ、なんじは、なんにも憶えないでもよい。ただ、この布切れをもって、人々の履物を浄めることに専念するがよろしい」
わたしは、当時の比丘たちが、どんな履物をはいていたかを知りたいと思うのであるが、どうしても、的確にしることができない。奈良・興福寺に蔵するところの十大弟子の像によると、その履物は、わた国の草履(ぞうり)や足駄(あしだ)に似ている。それが、かの時代のかの地の比丘たちの履物をうつしたものであるかどうかは知るよしもないのであるが、
ともあれ、履物というものは、靴にあれ、足駄にあれ、人間が身につけている物のなかでは、いちばん汚れやすい。きれいに磨きあげられた靴を履くのは気もちがよい。足駄の清らかなのもよい気もちである。だが、靴を磨くことはなかなかやれない。足駄の掃除もめったにしないのが、わたしどもの常である。磨いてもまたすぐ汚れるのだと思うと、いやになってしまうからである。だが、また汚れるからといって、磨き清めることを怠っていたら、どういうことになるのか。
ブッダ・ゴータマが彼に「専念する」ことを命じたのは、そのような仕事であった。チューラ・パンタカは、師の仰せをかしこんで、そのわざに専念した。そのうちに、彼がふと気がついたことは、人間もまたそうであるということであった。人の心ほど汚れやすいものはない。それを浄めることは難しい。だが、だからこそ、人は、われとわが心を清めることに専念しなければならない。そのことに気がついた時、彼は一偈を諳んずることもなくして、ブッダの教えのなんたるかを会得することができたのであった。
つまり、仏教とは、なによりもまず清浄な人生のたっとさを知ることであり、それにまさる人生はないと思いさだめて、力をつくしてそのような人生を生きる。それを他にして仏教はないのである。仏教とは所詮そのことに尽きるのである。そして、いま、かの愚かなるチューラ・パンタカは、智識によらず、理解によらずして、端的にそのことを把握しえたのである。
そこで、もう一度さきの道元のことばを思い出していただきたい。そこには、この道は「有智高才を用いず」とあった。また、「霊利聡明によらぬは、まことの学道なり」とあった。それを、このチューラ・パンタカの生涯は、文字通りに実現しているのであり、みごとに証明しているのである。
わたしが、ここに、あえて「愚かなる弟子たち」を語る所以もまた、そのことを証しせんがために他ならない。
チューラ・パンタカ
増谷文雄