2018年5月13日日曜日

「無知の知、すなわち般若である」【鈴木大拙】


From:
鈴木大拙
『禅百題』




身と心


さきに身体と精神、色(ルーパ)と心(チッタ)というようなものを区別して、それが別々の個在であるかのごとく記したが、事実の上では心も身も一種の抽象で、そんなものが個として別在するわけでない。

ただ、一般的に実用向きに話して便利がよいので、むかしからそんなふうに見て来ただけのことである。これが心で、あれが身だといって、別個の実体を認めるのは、まだ深く考えない結果である。われらはいずれも無始劫来(むしごうらい)といってよいほど、その迷夢から醒めないでいる。

われらの経験事実そのものには身も心もない、主観も客観もない、我も非我もない。これらはいずれも反省の結果である。再構成である、分極化である。経験事実の端的は無分別の分別、分別の無分別というよりほかない。

経験といわれるからには何か経験するものがなくてはならぬ。しかし経験というときにはすでに分別性がはいっている。この分別性の出所をつきとめなければならぬ。が、出所は『無住の住』で無出の出である。来去することない来去である。これを無分別の分別という、また了了として常に知るという。

この知は分別性の知でなくて、無知の知、即ち般若(はんにゃ)である。人間の分別知は一たびはこの根本智の無分別に還元せられなくてはならぬ。この還元によって分別の意味が了解せられる。

しかし無分別への還元は論理上のアプリオリではない、ポスチュレートではない。分別そのものが無分別なのである。還元というと、過程が考えられ、時間がその間にはいって来るようであるが、無分別の分別には時間はない、同一時である、一念の上に成就するのである。これを心心不異ともいう。また一即多、多即一の形式で表現せられる。

上記のように『一』が大地で象徴せられ、『多』が個々の身で象徴せられると見てもよい。坐禅終局の目的は上記の理を体得するところにある。



From:
鈴木大拙
『禅百題』



0 件のコメント:

コメントを投稿