2014年11月21日金曜日

諸行無常と毒矢 [小林秀雄]




〜話:小林秀雄〜



 諸行無常という言葉も、誤解されている様です。現代人だから誤解するのではない、昔から誤解されていた。平家にある様に「おごれる人も久からず、唯春の夜の夢の如し」、そういう風に、つまり「盛者(しょうじゃ)必衰のことわりを示す」ものと誤解されて来た。

 太田道灌が未だ若い頃、何事につけ心おごれる様があったのを、父親が苦が苦がしく思い、おごれる人も久からず、と書いて与えたところが、道灌は、早速筆をとって、横に、おごらざる人も久からず、と書いたという逸話があります。

 この逸話は、次のような事を語っている。因果の理法は、自然界の出来事のみならず、人間の幸不幸の隅々まで滲透しているが、人間については、何事も知らぬ。常無しとは又、心なしという事であって、全く心ない理法というものを、人間の心が受容れる事はまことに難しい事である、そういう事を語っております。





 肯定が否定を招き、否定が肯定を生むという果てしない精神の旅は、哲学的思惟の常であり、そういう精神の運動は、あたかも蚕が糸を吐くが如く、つまる処、己れを自足的な体系の中に閉じこめて了う。般若経を土台として、哲学というか神学というか、精緻な観念論の体系が、其後仏教史上にいろいろ現れた、そういうものに関する詳しい知識は、私にはないが、恐らく自足した思弁的汎神論の性質をいよいよ帯びたものになったと推察されます。だが、そういうものの中に、釈迦という人間を閉じ込める事は出来ますまい。彼は寧ろ逆の道を歩いた人だと思われます。

 阿含経の中に、こういう意味の話がある。ある人が釈迦に、この世は無常であるか、常住であるか、有限であるか、無限であるか、生命とは何か、肉体とは何か、そういう形而上学的問題をいろいろ持ち出して解答を迫ったところが、釈迦は、そういう質問には自分は答えない、お前は毒矢に当たっているのに、医者に毒矢の本質について解答を求める負傷者の様なものだ。どんな回答が与えられるにせよ、それはお前の苦しみと死とには何の関係もない事だ。自分は毒矢を抜く事を教えられるだけである、そう答えた。これが所謂”如来の不記”であります。

 つまり、不記とは形而上学の不可能を言うのであるが、ただ、そういう消極的な意味に止まらない。空の形而上学は不可能だが、空の体験というものは可能である、空は不記だが、行う事によって空を現す事は出来る。本当に知るとは、行う事だ、そういう積極的な意味合いも含まれている様であります。釈迦の哲学的思弁が、遂に空という哲学的観念を得たのではない。いや、それよりも、彼にとって、空とは哲学的観念と呼ぶべきものではなかったのでありましょう。ただ、彼の絶対的な批判力の前で、人間が見る見る崩壊して行く様を彼は見たのだ、と言った方がよい様に思われる。見るとは行う第一歩であります。






出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)




鑑真と明恵上人 [小林秀雄]




〜話:小林秀雄〜



 観というのは見るという意味であるが、そこいらのものが、電車だとか、犬ころだとか、そんなものがやたらに見えたところで仕方ない、極楽浄土が見えて来なければいけない。無量寿経(むりょうじゅきょう)という御経に、十六観というものが説かれております。それによりますと極楽浄土というものは、空想するものではない。まざまざと観えて来るものだという。観るという事には順序があり、順序を踏んで観る修練を積めば当然観えて来るものだと説くのであります。

 先ず日想観とか水想観とかいうものから始める。日輪に想いを凝らせば、太陽が没しても心には太陽の姿が残るであろう。清冽(せいれつ)珠(たま)の如き水を想えば、やがて極楽の宝の池の清澄な水が心に映じて来るであろう。水底にきらめく、色とりどりの砂の一粒一粒も見えて来る。池には七宝の蓮華が咲き乱れ、その数六十億、その一つ一つの葉を見れば、八万四千の葉脈が走り、八万四千の光を発しておる、という具合にやって行って、今度は、自分が蓮華の上に坐っていると想え、蓮華合する想を作(な)し、蓮華開く想を作せ、すると虚空に仏菩薩が遍満する有様を見るだろう、と言うのです。



 



 文学的に見てもなかなか美しいお経でありますが、もともとこのお経は、或る絶望した女性の為に、仏が平易に説かれたものという事になっているので、お釈迦様が菩提樹の下で悟りを開いたのはこんな方法ではなかっただろう、禅観というもっと哲学的な観法によって覚者となったと言われているが、しかしこの観という意味合いは恐らく同じ事であろうと思われます。禅というのは考える、思惟(しい)する、という意味だ、禅観というのは思惟するところを眼で観るという事になる。だから仏教でいう観法とは単なる認識論ではないのでありまして、人間の深い認識では、考える事と見る事とが同じにならねばならぬ、そういう身心相応した認識に達する為には、又身心相応した工夫を要する。そういう工夫を観法というと解してよかろうと思われます。



 禅宗というものが宋から這入って来て拡った後は、禅観の観の方を略して、禅という様になったが、それ以前の日本の仏教では、寧ろ禅の方を略して観と言っていた、止観と言っていた様である。 止という言葉には強い意味はないそうです。観をする為に、心を静かにする、観をする為の心の準備なのであって、例えば、法華経の行者が山にこもる、都にいては心が散って雑念を生じ易いから山に行く、平たく言えばそれが止であります。

 止観の法が伝来したのは余程古い事です、天平時代である。唐招提寺に行かれた方は、開基鑑真(がんじん)の肖像を御覧になっているでしょうが、あの人が支那から伝えたものだそうです。あの坐像は、肖像彫刻として比類なく見事な出来で、勿論日本一でしょうが、世界一かも知れぬと思われる。瞑目端座して微笑しているが、実はこの和尚様は眼が見えない。日本の学問僧の懇望によって、日本における仏教の布教を思い立ったのであるが、暴風とかその他いろいろの障碍の為に五回も渡航を失敗している。揚州から薩摩まで来るのに十二年もかかっている。その間に日本の学問僧も死に先方の弟子も死に、和尚も船が南方に流された時病気にかかって失明された。あの国宝の坐像は、そういう坐像であります。彼が招来した摩訶止観は、今日では、もう死語と化しているかも知れないが、坐像は生きております。あの坐像が私達に与える感銘は、私達が止観というものについて、何か肝腎なものを感得している証拠ではあるまいか。美術品というものは、まことに不思議な作用をするものです。







 これは絵であるが、坊様の坐像で、もう一つ私の非常に好きなものがあります。これも日本一だと言っていいかも知れませんが、それは高山寺にある明恵(みょうえ)上人の像である。御覧になった方も多かろうと思いますが、一面に松林が描かれ、坊様が木の股の恰好なところへチョコンと乗って坐禅を組んでいる。数珠も香炉も木の枝にぶら下がっていて、小鳥が飛びかい、木鼠が遊んでいる。まことに穏やかな美しい、又異様な精神力が奥の方に隠れている様な絵であります。

 この絵は空想画ではないので、上人の伝記を読むと、ほぼこの通りの坊様であった事がわかる。この絵は高山寺の裏山を描いたものだが、木の股でも木の空洞(うろ)でも石の上でも、坐禅をするに恰好なところには、昼でも夜でも坐っていた坊様です。この裏山で、「面一尺ともある石に、我坐せずという石、よもあらじ」と語ったと伝記は言っております。この坊様は戯れに自ら無耳法師と言っていた如く、絵では少々横を向いているから解らないが、向う側の耳はないのです。未だ二十歳くらいの頃ですが、こんな安穏な修行をしていては、到底真智を得る事は出来ぬ、眼を抉(えぐ)ろうとした、併し眼がつぶれたら経文を読むことが出来ぬ、では鼻にしようかと考えたが、しまりなく鼻水がたれては経文を汚すかも知れない、耳なら穴さえあれば仔細はないと考えて、耳を切りました。

 そういう烈しい気性の人でしたが、兼好が徒然草で書いている有名な阿字の逸話の様に、子供の様に天真爛漫な人であった。よく独りで石をひろっては、石打をしていたという、石打というのはどういう遊びかはっきりわからないが、無論石蹴りの様な子供の遊びだったでしょう。何故そんな事をするかときかれて、難しい経文が心に浮かんで来てたまらぬからだ、と答えた。



 



 若い頃から、天竺に行ってお釈迦様の跡を弔いたいという熱望を持っていたが、中年になってからこれを決行しようとしました。いろいろ旧記を調べて印度行の旅程を立てた。この旅程表は今も高山寺に遺っているそうですが、長安の都から天竺の王舎城まで八千三百三十三里十二町、十二町まで調べあげた、一日に八里では何日、七里では何日、五里ずつ歩けば五年目の何月何日午(うま)の刻に向うへつく予定である、と書いてある。旅装までととのえたが、春日大明神の夢のお告げがあって、思いとどまった。まあ思いとどまってよかった。行ったら虎にでも喰われるのが落ちだったでしょう。

 天竺に行けなくなって口惜しいので、紀州の鷹島という島で坐禅をした時、海岸の石を一つひろって来た、天竺の水もこの海岸に通じている、仏跡を洗った水はこの磯辺の石も洗っている筈である。してみれば、この石も仏跡の形見である、と言って生涯肌身を離さず愛玩した。死ぬ時には、小石に向って辞世の歌を詠んでおります。「我ナクテ後ニシヌバン人ナクバ飛ンデカヘレネ鷹島ノ石」というのです。屹度(きっと)石は飛んで帰りたかったに違いなかったろうが、飛んで帰れず、今も猶高山寺に止っている。何もおかしな話ではない。考えようによっては、人間とても同じ事だ。人間は何と人間らしからぬ沢山の望みを抱き、とどのつまりは何んとただの人間で止まる事でしょうか。専門歌人が、こんな歌はつまらぬなどと言っても作者の人格に想いを致さねば意味のない事です。この人は実に無邪気な歌を詠んでいる。序でに一つあげておきましょうか。「マメノコノ中ナルモチヰトミユルカナ白雲カカル山ノ端ノ月」

 石に向って歌をよむなどという事は、この坊様には、朝飯前の事で、島に手紙を出しております。これも紀州にある苅磨島という、しばらくの間修行していた島なのであるが、その島に手紙を出した、宛名は島殿とある。御無沙汰をしているが其後お変りはないか、桜の頃になったが、貴方の処の桜が思い出されて、恋慕の情止み難いものがある。物言わぬ桜に文をやれば物狂いと世人は言うだろう。ここで上人は面白い言葉を使っている、「非分ノ世間ノ振舞ニ同ズル程ニ、乍思ツツミテ候也」、非分というのは物の道理を弁えぬという意味だ、どうせ理屈のわからん世間だ、仕方がないと我慢していた、というのです。処が今はもう我慢がならぬ、「物狂ハシク思ハン人」こそ本当の友達にすべきである。衆生を摂護する身で傍の友の心を守らぬとは心ないわざである、とりあえず御機嫌を伺う事とする、「併期後信候、恐惶敬白」−−弟子が驚いて、誰方にお渡しすればよいかと聞くと、何、島の何処かに置いてくればよいと答えた。

 そういう伝記を心に思い浮かべて明恵上人の画像を見ると、この大自然をわがものとした、いかにも美しい人間像が、観というものについて、諸君に言葉以上のものを伝える筈であります。






出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)



2014年11月3日月曜日

プラトンと書物 [小林秀雄]



〜話:小林秀雄〜




 田中美知太郎さんがプラトンの事を書いていたのを、いつか読んで大変面白いと思った事がありますが、プラトンは、書物というものをはっきり軽蔑していたそうです。

 彼の考えによれば、書物を何度開けてみたって、同じ言葉が書いてある、一向面白くもないではないか、人間に向って質問すれば返事をするが、書物は絵に描いた馬の様に、いつも同じ顔をして黙っている。人を見て法を説けという事があるが、書物は人を見るわけにはいかない。だからそれをいい事にして、馬鹿者どもは、生齧(なまかじ)りの智識を振り廻して得意になるものである。

 プラトンは、そういう考えを持っていたから、書くという事を重んじなかった。書く事は文士に任せて置けばよい。哲学者には、もっと大きな仕事がある。人生の仕事とは、物事を辛抱強く吟味する人が、生活の裡に、忽然と悟るていのものであるから、たやすくは言葉に現せぬものだ、ましてこれを書き上げて書物という様な人に誤解されやすいものにして置くという様な事は、真っ平である。そういう意味の事を、彼は、その信ずべき書簡で言っているそうです。従って彼によれば、ソクラテスがやった様に、生きた人間が出会って、互に全人格を賭して問答をするという事が、真智を得る道だったのです。

 そういう次第であってみれば、今日残っている彼の全集は、彼の余技だったという事になる。彼の、アカデミアに於ける本当の仕事は、皆消えてなくなって了ったという事になる。そこで、プラトン研究者の立場というものは、甚だ妙な事になる、と田中氏は言うのです。プラトンは、書物で本心を明かさなかったのだから、彼自ら哲学の第一義と考えていたものを、彼がどうでもいいと思っていた彼の著作の片言隻句からスパイしなければならぬ事情にあると言うのです。

 今日の哲学者達は、哲学の第一義を書物によって現し、スパイの来るのを待っている。プラトンは、書物は生きた人間の影に過ぎないと考えていたが、今日の著作者達は、影の工夫に生活を賭している。習慣は変わって来る。ただ、人生の大事には汲み尽くせないものがあるという事だけが変わらないのかも知れませぬ。









出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)
喋ることと書くこと