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サンガジャパンVol.29
プラ・アキラ・アマロー(笹倉明)
『タイ上座仏教への道』
…
テーラワーダ(上座部)仏教では、僧になるのはさほど簡単ではありません。ひと昔前は、いまよりむずかしく、たくさんなパーリ語の経を憶えるのに少なくとも一年は要したそうです。
私が所属する寺の副住職(36歳)が20歳を迎えて
サーマネーン(未成年僧)から正式な僧になるときは、やはりそれくらいの時間を訓練のために費やさねばならなかったといいます。近年は、必要な準備が緩められたとはいえ、それでも一定のバリアは設けられていて、伝統的な出家式(「
ウパサンパダ」と呼ばれる受具足戒式)がなくなったわけではありません。
また、僧たるものはすべからく所属の寺院をもたねばならず(昔のカタチであった遊行僧〈自由に方々を旅して歩く〉は認められず)、プラユット政権になってからは、正式な得度を経ずして僧を名乗っている者(ニセ僧)がいないかどうか、寺の内外、巷の隅々まで警察がみてまわり、僧になりたてだった私もパスポートや出家証明書なるものを提出させられたものです。
これもいわゆる管理ストレス社会へ向かう時代の一面であり、経済が発展するにつれ同時にそういう窮屈さを強いられるというのは避けられないことのようです。したがって、僧になりたいという希望はあっても、所属寺院はどこにするのかを決めることからはじめて、いくつかのハードルを越えなければ出家(得度)式に臨むこともできません。
私の場合、それを教えてもらったのは、最初にチェンマイの寺院を打ち合わせに訪れたとき、一人の僧からでした。そこに至る経緯については後に述べることにして、いくつかの条件をクリアすれば受け入れるという住職の回答をメールでくれたのがその僧(仏教大学生)であり、はじめて訪れた私にさまざま指示を出してくれたのでした。
”エーサーハン パンテー スチラパリニップタンピー タンパカワンタン サラナン ガッチャーミ タンマンチャ ピクサンカンチャ …(以下略)”
(尊師よ、般涅槃されてから久しいといえども、かの世尊と法とサンガ〈僧伽〉に私は帰依いたします。尊師よ、私は世尊の法と律のもとに出家したいのです)
出家式で唱えるパーリ語は、このような出家嘆願(最初は沙弥出家)に始まり、一連のプロセスを経ることになるのですが、それらをテープに吹き込んでくれたのも、その大学生僧(僧歴は12年〈未成年僧の時代も含め〉で27歳)でした。
最後まで通しで唱えると30分ほどかかる文言を、ぜんぶ空で憶えることが最初のハードルであり、バンコクに戻ってアパートを片付けるまでの一ヶ月と、チェンマイへ来てから出家式までの二ヶ月余り、計三ヶ月間をそれに当てることになります。
私にとってはまるで馴染みのない、生まれてはじめて耳にする言語であり、最初はガクゼンとしたものです。ゼツボウ的な気分に陥りながら、これをどうにかしなければ何も始まらない、いまさら後戻りはできないという思いから、実に久しぶりの本気でもって取り組んだものです。
これまでいかに弛んだ生活をしていたかを自覚しながら、ナマケ症になじんだ心身にムチを打ち、おさな子が言葉を覚えるときの精神に立ち返り、まさに一歩ずつ、くり返し唱えることで、やっと予定の日時に間に合ったような次第でした。
この出家式を待つ約二ヶ月が、その他の準備にも大事な期間で、私の場合、寺院にほど近い安宿(ゲストハウス)に宿泊しながらの日々――、朝は6時過ぎに托鉢に出る僧(世話人の大学生僧)につき従って街を歩き、それが休みの日は自分のお堀端(旧市街を取り囲む)を歩いて足裏を鍛えたものです。これもはじめのうちは、やわな皮膚が小石を踏むたびにヒメイを上げて、ときにふらつき、よろけながら、だんだんと皮が地面に馴染んできたのは、やはり慣れというものでしょう。
テーラワーダ仏教は、いわゆる苦行を強いることはなく、つまり、とくに肉体の試練を求めることはなく、この点で誤解している人もいるようです。釈尊自身がそれでは悟りをひらけなかったことが、テーラワーダ(「原始仏教〈第一結集での決定事項〉を守るサンガ(僧集団)の意)の方針として生きているといえます。
ただ、ゼイタクなるものを極限まで戒める、つまり何であれ(衣食住にわたり)必要最小限のものでよしとする、戒律や教戒におけるその徹底ぶりは他に類をみないといってよいかと思います。むろん、そうすることが民衆の信頼と尊敬を得、最終的に目指すところの悟り、解脱なるものに到達するための必要な条件であるからにほかならず、僧である以上は文句の一つも許されません。
私が出家を決意してから苦労したのは、先ほどのようなパーリ文の暗唱とは別にもう一つ、ほかでもない断酒でした。どれほど質素な暮らしようであっても、それだけは欠かしたことのなかった私が、テーラワーダ僧となる以上、断念しなければならないのはある意味で難行だったといえます。
これまた先のパーリ文と同様、少しずつ、一滴ずつ酒量を減らしていくしかないと心得て、きっちりと六ヶ月をかけ(これは出家を決心してからの月日)、出家式の前日に最後の飲みおさめを一週間ぶりに上等なビールひと瓶でやるまでに体質改善をなしたのでした。
出家(得度)式へ
そして翌日には、以降の断酒(その他)を本堂における出家式で誓うことになります。むろんその前には、いわゆる三帰依(仏、法、僧〈サンガ〉へ)の誓いがあり、ふだんの読経でも必ず冒頭に置かれる文言です。
まずは、独りで正しく悟りを開いて阿羅漢となった世尊への礼拝
ナモー タッサ パカワトー アラハトー サンマー サンプタッサ
に続いて、
ブッタン サラナン ガッチャーミ
(私は仏に帰依いたします)
から始まり、
タンマン(法)…
サンカン(サンガ)…
と順に「三宝」への帰依を唱えるもので、それも三度までくり返します。
再度(トゥティヤンピー)…
再々度(タティヤンピー)…
と、このような反復もまた、やはり三度の五体投地(
ベンチャーン・カプラディット)の礼など、さまざまな場面で徹底しています。
”パーナーティパーター ウェラマニー”
(私は殺生から離れます)
から始まる十戒の唱えは、ほんの基本にすぎないとはいえ、戒全体のあり方を示すものといえます。盗み、嘘偽り、非梵行〈性交〉の禁、あらゆる種類の飲酒や麻薬類の禁、非時(午後)の食事の禁、等々。
これらは和尚の代理を務める式師(
カンマワーチャーチャリヤ)の導きで唱えるものながら、まる暗記していなければとててもついてはいけません。
”ナッチャキータワーティタ ウィスーカタッサナー”
(演奏や舞踏など享楽的なものから離れる)
とか、
”マーラーカンタ ウィレーパナ ターラナ マンダナ ウィプーサナッタナー”
(香水や花輪などで身を飾ることから離れる)
などは最後まで舌がもつれそうになったものです。が、その発音は日本人に不可能なものが一つもなく、はじめは奇怪に聞こえた言語も、馴れてくると親近感をおぼえるところがあって、日本語がタミール語を起源にもつことを唱えた学者の説(大野晋
『日本語はどこからきたのか』)は、その通りのように思います。
その日(午後3時より)の列席は、比丘がふつう10名以上(5名以上なら可)の規則に従い、わが寺院からは住職を含めて3名、他寺からは戒和尚、式師、教戒師役ほか7名、それぞれが縦二列に配置されます。
正面の戒和尚の前に私がいて、はじめは白衣(
チュット・ブワットナーク)を着けて、先の出家嘆願を唱えます。これは、まだ沙弥出家の段階であり、人によっては別の日にすませていたり、未成年僧の場合は沙弥(
サーマネーン)の名で呼ばれる通り、すでにその出家(これを
パッパチャー〈タイ語では
バンパチャー〉といい7歳から可)時にすませているわけです。
このあたりの、正式な具足戒を受けた僧か、そうでないか(20歳を過ぎても沙弥のままでいることも可)は守るべき戒律の数からして相当な違い(僧は227戒律、
サーマネーンは十戒のみ)があり、私の場合、前後して同時にやってしまう出家式であったことから、両者の境界が式次第に設けられていました。
ともあれ、先の沙弥出家の請願は、合唱した両腕にやがて着ることになる三種の衣(
パー・トライ、この黄衣はふつう
チーウォン〈三衣のうちの上衣のこと〉と呼称)を抱えて唱えます。
これがずっしりと重く、しかも足のつま先を反る形で床にひざまずいているため、そのプレッシャーから、カンペキを期したはずのパーリ文言がときに調子を乱し、二度目(
トゥティヤー)と三度目(
タティヤー)を逆にしてしまうなどして、そばの教戒師(
アヌサーサナーチャリヤ)から援け舟を出されて事なきを得る始末でした。
一応の定年である60歳でもって念願の出家を果たすタイ人はいるけれども、それから7年も経ってからの出家は聞いたことがない(老いぼれて体力がない者は出家の資格外ゆえ)といわれたもので、まさに最後のもっとも遅れてきたランナーであることを初っ端から思い知らされたものです。
話は前後しますが、出家(この段階ではまだ沙弥出家)を嘆願して三衣を膝の前に置いた後、戒和尚から
「タチャパンチャカ・カンマッターナ(皮五業処)」
というものが説かれます。これは、人体の各部分、つまり、頭髪(
ケーサー)、体毛(
ローマ)、爪(
ナーカー)、歯(
タンター)、皮膚(
タチョー)の5ヵ所を指し、和尚について順に(二度目は順序を逆にして)唱えていきます。これは釈尊があみだした根本業処(
ムーラ・カンマッターナ)と呼ばれる行法の一で、その意は、それぞれを不浄なものとしてよく観察するように、よく念じて心を静め揺るがさないように、というもの。
とりわけ出家する者に向けたもので、俗世を離れた当初は、残してきた人々や財産ほか物ごとに未だ縛られて心を乱しがちな者が少なからずいる(私自身もそうでしたが)ために、例えばとらわれる相手が人(愛憎こもごも)の場合、ただ対象を人体の5ヵ所のみとして観ることによって、考えすぎてしまう妄想や精神の錯綜から逃れ、心が静まり定(
サマーディ)が得られる、というものです。
これは、さらに人体を諸々の内蔵を含めた三十二相として観る法「身至念(
カヤーガターサティ)」や死についての「死念(
マラナサティ)」などと共に、サマタ瞑想(ヴィパッサナー瞑想は次のステップ)なるものや、教理としての「無常」「無我」の法とも関わってきます。人はいずれ老いて滅び、こういう姿になるのだという、避け得ない理を認識することの大事につながるわけです。
そうしてやっと、戒和尚は、黄衣を着てよろしい。という許可を与えます。と、私は再び三衣を抱え、ひざまずいたまま後退して場の外へと出ていきます。
といっても、すぐの裏手(黄金の仏陀像の背後)で先輩僧ふたりに助けられて着替えをし、今度は白衣から黄衣姿になって座に戻ります。このときも、場の入口からは膝をつかって歩かねばならず、膝当てをしていなければとても耐えられない(用心してスポンジ布を当てていました)、またも老いを自覚させられる時間であったのです。
…
三帰依と十戒の唱えが終わると、戒和尚とのやりとりがつづきます。
「依止(えじ)」(新参比丘を教戒すること)を乞い求める文言につづき――
ウパチャヨーメー パンテー ホーヒ
(尊師よ、願わくば私の戒和尚になってください)
を私が三度まで、そしてそれを受けて戒和尚が――
パーサーティケーナ サンパテーヒ
(信を生じさせる努力をもって帰依しなさい)
と応えます。続いて、
アチャッタッケー ターニーテーロー マイハンパーロー アハンピ テーラッサ パーロー
(今日ただいまより、私は長老のお世話を致します。私もまた長老のお世話になります)
とやはり三度まで唱えます。これでもって、いわば師弟関係が成立したことになるわけです。僧の上下関係は、テーラワーダ(上座部)仏教の世界ではしっかりあって、一日でも一時間でも出家が早いほうが上にくる仕来りであり(法臘〈ほうろう〉の上下という)、年齢は関係ありません。
この師弟関係が成立した時点で、単なる沙弥から「仏教比丘」として認める段階に入ったことを戒和尚が告げます。そして、
バート(鉢)を肩から吊るすように、という指示を出します。私が手元のそれを手にして肩に掛けると、式師がそれに手をふれて、
アヤンテー パットー
(これはあなたの鉢である)
と問いかけます。
アーマ パンテー
(はい、尊師よ)
と私が答えた後は、三衣(
チーウォン他)にも順に手をふれて、同じ問いを口にしていきます。このような確認は、三衣をはじめとする僧の持ち物について必要とされるもので、新しいものを使用するときなどにも様々な戒律があり、その細かさは世尊時代の伝統を継いできた上座部の真骨頂といえそうです。
クッタン?
(あなたはハンセン病ですか)
ナッティ パンテー
(いいえ、尊師よ)
次に始まる「遮法試問」なる問答(本堂の最後部で式師と教戒師の両師が私を前にして問う)で、いきなりライ病か否かの問いが発せられるところも古来のままで、いまはそんな病が絶滅に近いことなど関係ありません。
カンドー(腫瘍病)、
キラーソー(天然痘)などの伝染病がないかどうか、かつて罹って完治していない場合も、出家の資格外となります。
マヌッソースィー?
(あなたは人間ですか)
アーマ パンテー
(はい、尊師よ)
それまでは、いいえ、と答えていたのが、ここからは肯定形になるので、いささか戸惑います。この問いの意味するところは浅からず、親を殺した者や僧(阿羅漢)殺しなど、最低限、出家資格者でないことを確かめるものといえそうです。また、人間(
マヌット)が六道の基軸であり、これからニンゲンとしての資質が問われて死後に行く世界が決まることを示唆するものでもあるでしょう。
あとは、男性であること、自由者であること、が確かめられます。現代のサンガでは女性は認められておらず、黄門(同性愛者)も出家できません。自由な者というのは、雇われの身であるなら主人の許可を得ているかどうかの問いであると同時に、出家の束縛となるものから逃れられているかどうかの問いでもあります。
なかでも最大の束縛である配偶者(および家族)をもつ場合は、その了解を得ているかどうか(これは一時出家者の場合)、長期の出家であれば、子供はいても妻と正式に別れる(離婚に相当する)などして自由の身であるかどうかが問われるわけです。これは、家庭を捨ててまで強引に家を出ることは好ましくない(絶対に不可とはいえないまでも)という考えに基づくもので、私の場合、この点だけはタイへ移住するときの条件でもあって、皮肉な取り柄といえたでしょうか。
続いて、負債のない身であること、公務に関わっていない(その職務を忌避していない)こと、両親の許可を得ていること、20歳に達していること(未成年僧は7歳から可で正式な僧は成人してから)、鉢と衣が完備されていること、などが質(ただ)されます。
そして、最後に、名前の確認です。
キンナーモースィー
(あなたの名前は何ですか)
アハン パンテー アマロー〈ビク〉 ナーマ
(尊師よ、私の名前はアマロー〈比丘〉です)
加えて、戒和尚の名前も聞かれて、
ウパチャヨーメー スィリパットー ナーマ
(スィリパットー〈ビク〉です)
と答えます。あとは、冒頭に唱えた出家請願(今度は正式な僧としての出家で、セリフが少し変わる)を三度までくり返します。
サンカンパンテー ウパサンパタン ヤーチャーミ ウンルムパトゥ マンパンテー アヌカンパン ウパーターヤ
(サンガの諸尊師よ、私は具足戒を求めます。どうかサンガは慈悲心をもって私の出家を認めてください)
そこではじめて、戒和尚は、列席のサンガ衆に向かって、具足戒を求めているこの者(アマロー)を認めるかどうか、全員一致での決議(白四羯磨、ぴゃくしこんま)をするようにと告げます。そして、
それを受けて式師が、この者(アマロー)は所々の遮法(先の問答)から「清浄」であり、かつサンガに具足戒を求めているので、サンガ(衆)はスィリパットー様を和尚として具足戒を授けてほしい、と告げ(これを「白〈告知〉」と呼ぶ)、続いて、そのことを認める方は沈黙し、そうでない方はその旨を述べてほしい(これを「唱説〈確認〉」という)と告げます。
このような文言もすべてパーリ語であり、やはり三度まで同じセリフを一語の省略もなく、くり返し確認します。
そして最後に、アマロー・ビクは具足戒を授けられました、サンガはそれを容認していることから沈黙しています、と述べて結語とします。沈黙をもって肯定の法とするのは、これも世尊の採った方式であり、手間のない効率的な法といえます。
よほどの失敗がないかぎり、それは予定されていたことであり、出家証明書なるものもすでに用意されていました。ふつうの額縁に入れて飾っておける大きさ(タイ人はそのようにする)のもので、これにはすべてタイ語で記されています。私の本名と生年(仏暦2491)月日に加えて、日曜日(生まれた曜日)と両親の名前が書いてあるところ(これはいろんな公式の場で必要)が特徴的です。
アマローなる法名は、日曜日生まれにつく一群の名の一つで、天人(
テーワダー)を意味します。死後にゆく世界の一つ、天界の入口にある領域ながら、不死の水(
アマリット)を飲むことができ、最低でも天界齢で500年(人間界でいえば900万年)の命がある、といわれます。ほぼ永遠といっていいかもしれず、しかし、ついに尽きる日がくると、次にどこに生まれ変わるかは、命がある間の行いしだい、もっと上にいくこともあるし、奈落へ落ちる可能性もあるそうです。このテーラワーダ仏教における宇宙観は果てしなく壮大なもので、いずれそのチャートを描いてみたいものです。
儀式は、その後もしばらく続く「教戒」(ニサヤ4と呼ばれる「四依」〈僧生活の基本である衣食住薬〉と最低限の犯してはならない「四堕」〈殺、非梵行、盗、妄語の禁〉と呼ばれる戒律について、すべてパーリ語で告げられる)と一連の祝福の誦経の後、やっと終わります。
名も知らない幾人かの観客(「ヨーム」と呼ばれるお寺の信者)から、さっそくバートに小額の紙幣が入れられて、最初の喜捨となったのでした。
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From:
サンガジャパンVol.29
プラ・アキラ・アマロー(笹倉明)
『タイ上座仏教への道』