2018年5月30日水曜日

パーリ語から読む仏典案内


From:
インド最初期仏教(パーリ仏典)への誘い
インド最初期『仏教』を語る時、「僕が」引用する現在購入できる経典群。







長部(ディーガニカーヤ) 戒蘊篇I (パーリ仏典 第2期1) 
2003/4/21
片山 一良 (翻訳)

パーリ仏典シリーズ(大蔵出版)の中部経典6冊、長部経典6冊シリーズの特徴としては、 もとのパーリ原文をビルマ(ミャンマー)版を主に採用されているようで、それぞれの経典をどう解釈するか?という解説文(後世の仏教僧のブッダゴーサ長老による註釈書の部分的紹介)が豊富です。 片山一良(駒沢大教授)お一人で訳されており、訳は原文に出来るだけ近く、逐語訳(直訳)です。





原始仏典〈第1巻〉長部経典1 
2003/2/1
監修:中村 元
翻訳:森 祖道, 橋本 哲夫, 浪花 宣明, 渡辺 研二

もとのパーリ原文をPTS(イギリス)版を主に採用されているようで、註釈が少ない分、一冊に多くの経典が詰め込まれているようです。多くの学者による訳で、同じ単語でも学者により様々な訳語になっており、できるだけ専門用語を使わず、「わかり易い現代日本語訳」を目指したものになっているようです。



『原子仏教』中山書房

一冊の値段が高い、片山一良の「パーリ仏典 中部経典 長部経典 大蔵出版」の前に、発行されたものです。訳は、同じ片山一良でやはり原文に出来るだけ近い、逐語訳(直訳)です。こちらの冊子には総説と欄外に少な目の註釈が付いている(最後に付録として他の筆者によるジャータカ物語、仏教語メモ等が少し入っているのもあり。)います。






パーリ原典対照 南伝大蔵経総目録
2004/4/1
大蔵出版編集部 (編集)

現代語訳ではなく、すべて文語訳です。当時で総勢51人の学者を要し、昭和10年4月から昭和16年2月にかけて発行。全65巻70冊。2千年以上の長きに渡って南方上座仏教に営々と伝えられてきたとされる、現、上座仏教教団(スリランカ・タイ・ミャンマー国etc)が保持してきたパーリ仏典の全訳です。この『南伝大蔵経』はイギリスのパーリ聖典協会発行のパーリ・テキスト・ソサエティ (Pali Text Society)版のパーリ語原文からの文語訳です。





ジャータカ全集〈1〉
2008/10/1
藤田 宏達 (翻訳), 中村 元

近年復刊されました。ブッダの前世物語で、第一巻の中村元先生のまえがきの最後に
「仏教経典の一部としてのジャータカは、韻文の詩の部分だけであり、散文の部分は後代の注解的説明である」とありますが、散文の部分がどれほど仏説に忠実なのか?はわかりませんが、読めばかなり面白いです!ジャータカは物語に入る前にいろいろ、当時の経典背景が書かれていて、(註釈書からだと思います。)参考になります。





仏法―テーラワーダ仏教の叡智
2008/2/25
ポー・オー・パユットー (著)
野中 耕一 (翻訳)

この方の凄いところは仏教を語るとき、出典を明確に明示してあるところです。ブッダ直々の説とされる経典から引用してるのか?、後世成立の上座仏教僧の註釈書から引用しているのか?はっきり分けて書いてあるところが、素晴らしいですね。自分の意見と伝統的に伝わっている仏説をきちんと分けているところが「理性的」で信頼おける文献だと思います。

2018年5月14日月曜日

タイの出家式【もっとも遅れてきたランナー】


From:
サンガジャパンVol.29
プラ・アキラ・アマロー(笹倉明)
『タイ上座仏教への道』





テーラワーダ(上座部)仏教では、僧になるのはさほど簡単ではありません。ひと昔前は、いまよりむずかしく、たくさんなパーリ語の経を憶えるのに少なくとも一年は要したそうです。

私が所属する寺の副住職(36歳)が20歳を迎えてサーマネーン(未成年僧)から正式な僧になるときは、やはりそれくらいの時間を訓練のために費やさねばならなかったといいます。近年は、必要な準備が緩められたとはいえ、それでも一定のバリアは設けられていて、伝統的な出家式(「ウパサンパダ」と呼ばれる受具足戒式)がなくなったわけではありません。

また、僧たるものはすべからく所属の寺院をもたねばならず(昔のカタチであった遊行僧〈自由に方々を旅して歩く〉は認められず)、プラユット政権になってからは、正式な得度を経ずして僧を名乗っている者(ニセ僧)がいないかどうか、寺の内外、巷の隅々まで警察がみてまわり、僧になりたてだった私もパスポートや出家証明書なるものを提出させられたものです。

これもいわゆる管理ストレス社会へ向かう時代の一面であり、経済が発展するにつれ同時にそういう窮屈さを強いられるというのは避けられないことのようです。したがって、僧になりたいという希望はあっても、所属寺院はどこにするのかを決めることからはじめて、いくつかのハードルを越えなければ出家(得度)式に臨むこともできません。

私の場合、それを教えてもらったのは、最初にチェンマイの寺院を打ち合わせに訪れたとき、一人の僧からでした。そこに至る経緯については後に述べることにして、いくつかの条件をクリアすれば受け入れるという住職の回答をメールでくれたのがその僧(仏教大学生)であり、はじめて訪れた私にさまざま指示を出してくれたのでした。

エーサーハン パンテー スチラパリニップタンピー タンパカワンタン サラナン ガッチャーミ タンマンチャ ピクサンカンチャ …(以下略)”

(尊師よ、般涅槃されてから久しいといえども、かの世尊と法とサンガ〈僧伽〉に私は帰依いたします。尊師よ、私は世尊の法と律のもとに出家したいのです)

出家式で唱えるパーリ語は、このような出家嘆願(最初は沙弥出家)に始まり、一連のプロセスを経ることになるのですが、それらをテープに吹き込んでくれたのも、その大学生僧(僧歴は12年〈未成年僧の時代も含め〉で27歳)でした。

最後まで通しで唱えると30分ほどかかる文言を、ぜんぶ空で憶えることが最初のハードルであり、バンコクに戻ってアパートを片付けるまでの一ヶ月と、チェンマイへ来てから出家式までの二ヶ月余り、計三ヶ月間をそれに当てることになります。

私にとってはまるで馴染みのない、生まれてはじめて耳にする言語であり、最初はガクゼンとしたものです。ゼツボウ的な気分に陥りながら、これをどうにかしなければ何も始まらない、いまさら後戻りはできないという思いから、実に久しぶりの本気でもって取り組んだものです。

これまでいかに弛んだ生活をしていたかを自覚しながら、ナマケ症になじんだ心身にムチを打ち、おさな子が言葉を覚えるときの精神に立ち返り、まさに一歩ずつ、くり返し唱えることで、やっと予定の日時に間に合ったような次第でした。

この出家式を待つ約二ヶ月が、その他の準備にも大事な期間で、私の場合、寺院にほど近い安宿(ゲストハウス)に宿泊しながらの日々――、朝は6時過ぎに托鉢に出る僧(世話人の大学生僧)につき従って街を歩き、それが休みの日は自分のお堀端(旧市街を取り囲む)を歩いて足裏を鍛えたものです。これもはじめのうちは、やわな皮膚が小石を踏むたびにヒメイを上げて、ときにふらつき、よろけながら、だんだんと皮が地面に馴染んできたのは、やはり慣れというものでしょう。

テーラワーダ仏教は、いわゆる苦行を強いることはなく、つまり、とくに肉体の試練を求めることはなく、この点で誤解している人もいるようです。釈尊自身がそれでは悟りをひらけなかったことが、テーラワーダ(「原始仏教〈第一結集での決定事項〉を守るサンガ(僧集団)の意)の方針として生きているといえます。

ただ、ゼイタクなるものを極限まで戒める、つまり何であれ(衣食住にわたり)必要最小限のものでよしとする、戒律や教戒におけるその徹底ぶりは他に類をみないといってよいかと思います。むろん、そうすることが民衆の信頼と尊敬を得、最終的に目指すところの悟り、解脱なるものに到達するための必要な条件であるからにほかならず、僧である以上は文句の一つも許されません。

私が出家を決意してから苦労したのは、先ほどのようなパーリ文の暗唱とは別にもう一つ、ほかでもない断酒でした。どれほど質素な暮らしようであっても、それだけは欠かしたことのなかった私が、テーラワーダ僧となる以上、断念しなければならないのはある意味で難行だったといえます。

これまた先のパーリ文と同様、少しずつ、一滴ずつ酒量を減らしていくしかないと心得て、きっちりと六ヶ月をかけ(これは出家を決心してからの月日)、出家式の前日に最後の飲みおさめを一週間ぶりに上等なビールひと瓶でやるまでに体質改善をなしたのでした。


出家(得度)式へ



そして翌日には、以降の断酒(その他)を本堂における出家式で誓うことになります。むろんその前には、いわゆる三帰依(仏、法、僧〈サンガ〉へ)の誓いがあり、ふだんの読経でも必ず冒頭に置かれる文言です。

まずは、独りで正しく悟りを開いて阿羅漢となった世尊への礼拝

ナモー タッサ パカワトー アラハトー サンマー サンプタッサ

に続いて、

ブッタン サラナン ガッチャーミ

(私は仏に帰依いたします)

から始まり、

タンマン(法)…

サンカン(サンガ)…

と順に「三宝」への帰依を唱えるもので、それも三度までくり返します。

再度(トゥティヤンピー)…

再々度(タティヤンピー)…

と、このような反復もまた、やはり三度の五体投地(ベンチャーン・カプラディット)の礼など、さまざまな場面で徹底しています。

パーナーティパーター ウェラマニー

(私は殺生から離れます)

から始まる十戒の唱えは、ほんの基本にすぎないとはいえ、戒全体のあり方を示すものといえます。盗み、嘘偽り、非梵行〈性交〉の禁、あらゆる種類の飲酒や麻薬類の禁、非時(午後)の食事の禁、等々。

これらは和尚の代理を務める式師(カンマワーチャーチャリヤ)の導きで唱えるものながら、まる暗記していなければとててもついてはいけません。

ナッチャキータワーティタ ウィスーカタッサナー

(演奏や舞踏など享楽的なものから離れる)

とか、

マーラーカンタ ウィレーパナ ターラナ マンダナ ウィプーサナッタナー

(香水や花輪などで身を飾ることから離れる)

などは最後まで舌がもつれそうになったものです。が、その発音は日本人に不可能なものが一つもなく、はじめは奇怪に聞こえた言語も、馴れてくると親近感をおぼえるところがあって、日本語がタミール語を起源にもつことを唱えた学者の説(大野晋『日本語はどこからきたのか』)は、その通りのように思います。


その日(午後3時より)の列席は、比丘がふつう10名以上(5名以上なら可)の規則に従い、わが寺院からは住職を含めて3名、他寺からは戒和尚、式師、教戒師役ほか7名、それぞれが縦二列に配置されます。

正面の戒和尚の前に私がいて、はじめは白衣(チュット・ブワットナーク)を着けて、先の出家嘆願を唱えます。これは、まだ沙弥出家の段階であり、人によっては別の日にすませていたり、未成年僧の場合は沙弥(サーマネーン)の名で呼ばれる通り、すでにその出家(これをパッパチャー〈タイ語ではバンパチャー〉といい7歳から可)時にすませているわけです。

このあたりの、正式な具足戒を受けた僧か、そうでないか(20歳を過ぎても沙弥のままでいることも可)は守るべき戒律の数からして相当な違い(僧は227戒律、サーマネーンは十戒のみ)があり、私の場合、前後して同時にやってしまう出家式であったことから、両者の境界が式次第に設けられていました。

ともあれ、先の沙弥出家の請願は、合唱した両腕にやがて着ることになる三種の衣(パー・トライ、この黄衣はふつうチーウォン〈三衣のうちの上衣のこと〉と呼称)を抱えて唱えます。

これがずっしりと重く、しかも足のつま先を反る形で床にひざまずいているため、そのプレッシャーから、カンペキを期したはずのパーリ文言がときに調子を乱し、二度目(トゥティヤー)と三度目(タティヤー)を逆にしてしまうなどして、そばの教戒師(アヌサーサナーチャリヤ)から援け舟を出されて事なきを得る始末でした。

一応の定年である60歳でもって念願の出家を果たすタイ人はいるけれども、それから7年も経ってからの出家は聞いたことがない(老いぼれて体力がない者は出家の資格外ゆえ)といわれたもので、まさに最後のもっとも遅れてきたランナーであることを初っ端から思い知らされたものです。


話は前後しますが、出家(この段階ではまだ沙弥出家)を嘆願して三衣を膝の前に置いた後、戒和尚から

タチャパンチャカ・カンマッターナ(皮五業処)」

というものが説かれます。これは、人体の各部分、つまり、頭髪(ケーサー)、体毛(ローマ)、爪(ナーカー)、歯(タンター)、皮膚(タチョー)の5ヵ所を指し、和尚について順に(二度目は順序を逆にして)唱えていきます。これは釈尊があみだした根本業処(ムーラ・カンマッターナ)と呼ばれる行法の一で、その意は、それぞれを不浄なものとしてよく観察するように、よく念じて心を静め揺るがさないように、というもの。

とりわけ出家する者に向けたもので、俗世を離れた当初は、残してきた人々や財産ほか物ごとに未だ縛られて心を乱しがちな者が少なからずいる(私自身もそうでしたが)ために、例えばとらわれる相手が人(愛憎こもごも)の場合、ただ対象を人体の5ヵ所のみとして観ることによって、考えすぎてしまう妄想や精神の錯綜から逃れ、心が静まり定(サマーディ)が得られる、というものです。

これは、さらに人体を諸々の内蔵を含めた三十二相として観る法「身至念(カヤーガターサティ)」や死についての「死念(マラナサティ)」などと共に、サマタ瞑想(ヴィパッサナー瞑想は次のステップ)なるものや、教理としての「無常」「無我」の法とも関わってきます。人はいずれ老いて滅び、こういう姿になるのだという、避け得ない理を認識することの大事につながるわけです。


そうしてやっと、戒和尚は、黄衣を着てよろしい。という許可を与えます。と、私は再び三衣を抱え、ひざまずいたまま後退して場の外へと出ていきます。

といっても、すぐの裏手(黄金の仏陀像の背後)で先輩僧ふたりに助けられて着替えをし、今度は白衣から黄衣姿になって座に戻ります。このときも、場の入口からは膝をつかって歩かねばならず、膝当てをしていなければとても耐えられない(用心してスポンジ布を当てていました)、またも老いを自覚させられる時間であったのです。





三帰依と十戒の唱えが終わると、戒和尚とのやりとりがつづきます。

「依止(えじ)」(新参比丘を教戒すること)を乞い求める文言につづき――

ウパチャヨーメー パンテー ホーヒ

(尊師よ、願わくば私の戒和尚になってください)

を私が三度まで、そしてそれを受けて戒和尚が――

パーサーティケーナ サンパテーヒ

(信を生じさせる努力をもって帰依しなさい)

と応えます。続いて、

アチャッタッケー ターニーテーロー マイハンパーロー アハンピ テーラッサ パーロー

(今日ただいまより、私は長老のお世話を致します。私もまた長老のお世話になります)

とやはり三度まで唱えます。これでもって、いわば師弟関係が成立したことになるわけです。僧の上下関係は、テーラワーダ(上座部)仏教の世界ではしっかりあって、一日でも一時間でも出家が早いほうが上にくる仕来りであり(法臘〈ほうろう〉の上下という)、年齢は関係ありません。

この師弟関係が成立した時点で、単なる沙弥から「仏教比丘」として認める段階に入ったことを戒和尚が告げます。そして、バート(鉢)を肩から吊るすように、という指示を出します。私が手元のそれを手にして肩に掛けると、式師がそれに手をふれて、

アヤンテー パットー

(これはあなたの鉢である)

と問いかけます。

アーマ パンテー

(はい、尊師よ)

と私が答えた後は、三衣(チーウォン他)にも順に手をふれて、同じ問いを口にしていきます。このような確認は、三衣をはじめとする僧の持ち物について必要とされるもので、新しいものを使用するときなどにも様々な戒律があり、その細かさは世尊時代の伝統を継いできた上座部の真骨頂といえそうです。

クッタン?

(あなたはハンセン病ですか)

ナッティ パンテー

(いいえ、尊師よ)

次に始まる「遮法試問」なる問答(本堂の最後部で式師と教戒師の両師が私を前にして問う)で、いきなりライ病か否かの問いが発せられるところも古来のままで、いまはそんな病が絶滅に近いことなど関係ありません。カンドー(腫瘍病)、キラーソー(天然痘)などの伝染病がないかどうか、かつて罹って完治していない場合も、出家の資格外となります。

マヌッソースィー?

(あなたは人間ですか)

アーマ パンテー

(はい、尊師よ)

それまでは、いいえ、と答えていたのが、ここからは肯定形になるので、いささか戸惑います。この問いの意味するところは浅からず、親を殺した者や僧(阿羅漢)殺しなど、最低限、出家資格者でないことを確かめるものといえそうです。また、人間(マヌット)が六道の基軸であり、これからニンゲンとしての資質が問われて死後に行く世界が決まることを示唆するものでもあるでしょう。

あとは、男性であること、自由者であること、が確かめられます。現代のサンガでは女性は認められておらず、黄門(同性愛者)も出家できません。自由な者というのは、雇われの身であるなら主人の許可を得ているかどうかの問いであると同時に、出家の束縛となるものから逃れられているかどうかの問いでもあります。

なかでも最大の束縛である配偶者(および家族)をもつ場合は、その了解を得ているかどうか(これは一時出家者の場合)、長期の出家であれば、子供はいても妻と正式に別れる(離婚に相当する)などして自由の身であるかどうかが問われるわけです。これは、家庭を捨ててまで強引に家を出ることは好ましくない(絶対に不可とはいえないまでも)という考えに基づくもので、私の場合、この点だけはタイへ移住するときの条件でもあって、皮肉な取り柄といえたでしょうか。

続いて、負債のない身であること、公務に関わっていない(その職務を忌避していない)こと、両親の許可を得ていること、20歳に達していること(未成年僧は7歳から可で正式な僧は成人してから)、鉢と衣が完備されていること、などが質(ただ)されます。



そして、最後に、名前の確認です。

キンナーモースィー
(あなたの名前は何ですか)

アハン パンテー アマロー〈ビク〉 ナーマ

(尊師よ、私の名前はアマロー〈比丘〉です)

加えて、戒和尚の名前も聞かれて、

ウパチャヨーメー スィリパットー ナーマ

(スィリパットー〈ビク〉です)

と答えます。あとは、冒頭に唱えた出家請願(今度は正式な僧としての出家で、セリフが少し変わる)を三度までくり返します。

サンカンパンテー ウパサンパタン ヤーチャーミ ウンルムパトゥ マンパンテー アヌカンパン ウパーターヤ

(サンガの諸尊師よ、私は具足戒を求めます。どうかサンガは慈悲心をもって私の出家を認めてください)

そこではじめて、戒和尚は、列席のサンガ衆に向かって、具足戒を求めているこの者(アマロー)を認めるかどうか、全員一致での決議(白四羯磨、ぴゃくしこんま)をするようにと告げます。そして、

それを受けて式師が、この者(アマロー)は所々の遮法(先の問答)から「清浄」であり、かつサンガに具足戒を求めているので、サンガ(衆)はスィリパットー様を和尚として具足戒を授けてほしい、と告げ(これを「白〈告知〉」と呼ぶ)、続いて、そのことを認める方は沈黙し、そうでない方はその旨を述べてほしい(これを「唱説〈確認〉」という)と告げます。

このような文言もすべてパーリ語であり、やはり三度まで同じセリフを一語の省略もなく、くり返し確認します。

そして最後に、アマロー・ビクは具足戒を授けられました、サンガはそれを容認していることから沈黙しています、と述べて結語とします。沈黙をもって肯定の法とするのは、これも世尊の採った方式であり、手間のない効率的な法といえます。

よほどの失敗がないかぎり、それは予定されていたことであり、出家証明書なるものもすでに用意されていました。ふつうの額縁に入れて飾っておける大きさ(タイ人はそのようにする)のもので、これにはすべてタイ語で記されています。私の本名と生年(仏暦2491)月日に加えて、日曜日(生まれた曜日)と両親の名前が書いてあるところ(これはいろんな公式の場で必要)が特徴的です。

アマローなる法名は、日曜日生まれにつく一群の名の一つで、天人(テーワダー)を意味します。死後にゆく世界の一つ、天界の入口にある領域ながら、不死の水(アマリット)を飲むことができ、最低でも天界齢で500年(人間界でいえば900万年)の命がある、といわれます。ほぼ永遠といっていいかもしれず、しかし、ついに尽きる日がくると、次にどこに生まれ変わるかは、命がある間の行いしだい、もっと上にいくこともあるし、奈落へ落ちる可能性もあるそうです。このテーラワーダ仏教における宇宙観は果てしなく壮大なもので、いずれそのチャートを描いてみたいものです。

儀式は、その後もしばらく続く「教戒」(ニサヤ4と呼ばれる「四依」〈僧生活の基本である衣食住薬〉と最低限の犯してはならない「四堕」〈殺、非梵行、盗、妄語の禁〉と呼ばれる戒律について、すべてパーリ語で告げられる)と一連の祝福の誦経の後、やっと終わります。

名も知らない幾人かの観客(「ヨーム」と呼ばれるお寺の信者)から、さっそくバートに小額の紙幣が入れられて、最初の喜捨となったのでした。





From:
サンガジャパンVol.29
プラ・アキラ・アマロー(笹倉明)
『タイ上座仏教への道』

「オイ」と「ハイ」【鈴木大拙】


From:
鈴木大拙
『禅百題』




「オイ」と「ハイ」


身心不二とか身心格別とかいって、身と心との実在を論ずることが、古来心理学の課題であった。単に学問としてだけでなく、一般知識人の間にも、これは興味ある問題として取り扱われた。最後の解決に達したか否かはもとより問題ではあるが。

禅はいつも窮極の経験事実そのものに留意する。そして禅の問答はここから出発するのである。


石霜慶諸(せいきそうけいしょ)は道吾円智(どうごえんじ)を師とする唐末の人であった。

僧あり問う、

「先師(道吾)一片の霊骨は黄金色で、撃(たた)くと鐘の声が出るとききますが、さて(先師その人は)どこへ行かれたものでしょうか」

石霜は別になんらの説明も与えなかった。ただ、「オイ」と言ってその僧の名を呼んだ。僧は「ハイ」と答えた。石霜すなわちいわく。

「お前にはわしの言うことがわからぬ、出て行かっしゃれ(儞不会我語、去)」

石霜は何を言ったか。相手の坊さんの名を呼んで、その人は応諾しただけだ。彼の問いに対しては、われらが分別智上で言挙げするような返事も何もなかった。それで「お前にゃわからぬ、そっちへ行け」と言うこと、はなはだ無理な申し分のようにも見える。


この問答は、黄檗(おうばく)と斐休(ひきゅう)との間にとりかわされたものと一般である。「先師」の行くえ、「其人」の去処はもとより空間的に規定すべきものでないのである。彼とか此とかの分別がまだつかぬ以前の経験事実そのものに顧みて、はじめて解決がつくのである。

それ故、それは他から聞いて覚えるべきものでなくて、「オイ」と言い、「ハイ」と答えるその刹那の覚知に見て取るべきものなのである。ここで霊明の知、無知の知の働きに徹することができる。見聞覚知に即して見聞覚知でないものを認得する時、心といい身というものの元来抽象であったことがわかるのである。

窮極の経験事実には主客彼此などというものがない、が、それはそこから出るのである、出て出ないのである。そこを見よと石霜は言う。それがわからぬとなれば、ますます坐禅すべきことになろう。



From:
鈴木大拙
『禅百題』



2018年5月13日日曜日

「無知の知、すなわち般若である」【鈴木大拙】


From:
鈴木大拙
『禅百題』




身と心


さきに身体と精神、色(ルーパ)と心(チッタ)というようなものを区別して、それが別々の個在であるかのごとく記したが、事実の上では心も身も一種の抽象で、そんなものが個として別在するわけでない。

ただ、一般的に実用向きに話して便利がよいので、むかしからそんなふうに見て来ただけのことである。これが心で、あれが身だといって、別個の実体を認めるのは、まだ深く考えない結果である。われらはいずれも無始劫来(むしごうらい)といってよいほど、その迷夢から醒めないでいる。

われらの経験事実そのものには身も心もない、主観も客観もない、我も非我もない。これらはいずれも反省の結果である。再構成である、分極化である。経験事実の端的は無分別の分別、分別の無分別というよりほかない。

経験といわれるからには何か経験するものがなくてはならぬ。しかし経験というときにはすでに分別性がはいっている。この分別性の出所をつきとめなければならぬ。が、出所は『無住の住』で無出の出である。来去することない来去である。これを無分別の分別という、また了了として常に知るという。

この知は分別性の知でなくて、無知の知、即ち般若(はんにゃ)である。人間の分別知は一たびはこの根本智の無分別に還元せられなくてはならぬ。この還元によって分別の意味が了解せられる。

しかし無分別への還元は論理上のアプリオリではない、ポスチュレートではない。分別そのものが無分別なのである。還元というと、過程が考えられ、時間がその間にはいって来るようであるが、無分別の分別には時間はない、同一時である、一念の上に成就するのである。これを心心不異ともいう。また一即多、多即一の形式で表現せられる。

上記のように『一』が大地で象徴せられ、『多』が個々の身で象徴せられると見てもよい。坐禅終局の目的は上記の理を体得するところにある。



From:
鈴木大拙
『禅百題』



2018年5月9日水曜日

「大地から遠ざからぬ」【鈴木大拙】


From:
鈴木大拙
『禅百題』





筋肉生活と思想


ガンディーが手車の紡績を主唱するのは、主として近代文明の機械主義に対抗しようとの意味を持つものであるが、その心理的根底は筋肉の直接的な運動から離れたくないというところにある。筋肉の直接的な労働ということは、大地との交渉から遠ざからぬという意味である。

なんといっても人間は倒れても、起きても、大地の上を離れられぬ。漢民族の強靭性・実際性・悠揚性・永遠性は、実にかれらがいつも「その於いて在る」ところを忘れぬからであろう。インドは坐禅観念のうちに永遠を包もうとするが、漢民族は刀耕火種(とうこうかしゅ)の上に永遠に働く。この二つのものが禅という精神的訓練の中に織りこまれて、今日わが日本人の間に現存しているのである。

禅がただ棒であったり、喝であったり、また祇管打坐(しかんたざ)であったりしたなら、或はわれらの生活と没交渉なものになってすんだかもしれぬ。幸いにいつも大地を踏みしめているので、風船玉のようにふらふらと上昇するばかりでなくて済んだ。

しかしまた大地にのみくっついていて、大空を見上げることを知らないでもいけない。即ち禅には思想的背景または源泉というものがなくてはならぬ。

『我這裡種田飯搏喫』

では一般の農家以上に出られぬ。どうしても

『汝喚什麼作三界』

という透徹した見処なかるべからずである。



この因縁は次のごとくであった。

地蔵桂琛(けいちん)という禅坊さんが、鋤(すき)を使って田んぼの草取りか苗植えをやっているとき、雲水が現れた。それでいつもの

「君はどこからやって来たか」

を放出した。答えは

「南方から来ました」

であった。それで琛(ちん)和尚は南方の禅法はどんなものだいと尋ねた。

「商量浩浩地」

たりで、問答商量はなかなか盛んに行われていますと、雲水の坊さんは答えた。琛和尚いわく、

「それも悪くはなかろうが、こっちでは、田を作って、それから米を刈り入れ、そしてそれをご飯にして皆がいただいている。そのほうがよいな」

と。雲水の坊さんには、これが解りにくかったとみえて、

「それでは三界(さんがい)をどうなさいますか」

と問うた。その意は教化をやらなくてはならぬ、三界出没の自分らはじめ世間の人々を救う方法、これはどうなさいますか、というのである。

琛和尚には思想があった、洞察があった。深い宗教観に徹したものがあった。

「その三界というのは、いったい何んだい。そんなものがどこにあるのだ」

これと彼の農業生活とを照らし合わしてみることによって、はじめて彼の日常を指導しているものが何であるかを知ることができる。

われらも瑞穂の国の住民であるからには、刀耕火種、栽植林木、漑灌蔬果、服田力穡を忘れてはならぬ、怠ってはならぬ。それと同時にまた思想がなくてはならぬことを忘れるべきでない。



牛頭山(ごずせん)の法融(ほうゆう)禅師は隋代の人で、いわゆる牛頭禅(ごずぜん)の開祖である。

彼は般若(はんにゃ)の空観において大いに徹したが、空を学して空を証せずで、但空に落在することをしなかった。彼は空を働いた、空を学した(学はここでは学ぶではなくして、働くの義である)。

彼に随従して来る者が多くなるにしたがって、供給が十分でなくなった。それで彼らは山を下りて丹陽(たんよう)の町に出て托鉢(たくはつ)をやった。それは八十里を隔てていた(日本里数でも、これは二里や三里ではあるまい)。

法融ももとより一行の中に加わって、そのうえ自らも米を背負って来た。本には一石五斗と記してあるが、それは日本ではどれほどになるのかわからぬ。またこれを法融だけがかついだか、それもわからぬ。

とにかく、朝からでかけて暮れに帰山して、毎日二時の食糧を欠かさず、三百の雲水が養われたというのである。

いかにもありがたい思いがする。



From:
鈴木大拙
『禅百題』