2016年5月6日金曜日

Case 2  Hyakujo’s Fox 百丈の野狐 [無門関]




Case 2
Hyakujo’s Fox

二 百丈の野狐(やこ)



When Hyakujo Osho delivered a certain series of sermons, an old man always followed the monks to the main hall and  listened to him.

百丈和尚、凡參次、有一老人常隨衆聽法。

百丈和尚、凡そ参の次(つい)で、一老人有って常に衆に随って法を聴く。

百丈和尚の説法があると、いつも一人の老人が大衆の後ろで聴聞していた。



When the monks left the hall, the old man would also leave.

衆人退、老人亦退。

衆人退けば老人も亦た退く。

そして修行僧たちが退場すると、老人もまた出ていくのであった。



One day, however, he remained behind.

忽一日不退。

(たちま)ち一日退かず。

ところがある日、彼はひとりその場に居残って出ていこうとしない。






Hyakujo asked him, “Who are you, standing here before me?”

師遂問、面前立者復是何人。

師、遂に問う、「面前に立つ者は復(ま)た是れ何人ぞ」。

そこで百丈が、「そこにいるのは誰か」と聞かれた。



The old man replied, “I am not a human being.

老人云、諾。某甲非人也。

老人云く、「諾(だく)、某甲(それがし)は非人(ひにん)なり。

老人は言った、「はい、私は人間ではありません。



In the old days of Kashyapa Budda, I was a head monk, living here on this mountain.

於過去迦葉佛時曾住此山。

過去、迦葉仏(かしょうぶっ)の時に於いて曾(か)つて此の山に住す。

大昔、仏陀もまだこの世に出られない頃、この山に住んでいましたが、



One day a student asked me, ‘Does a man of enlightenment fall under the yoke of causation or not?’

因學人問、大修行底人還落因果也無。

因みに学人問う、『大修業底(てい)の人還(かえ)って因果に落ちるや』。

ある日弟子の一人が、『仏道修行を完成した人でも、やはり因果の法則に落ちて苦しむものでしょうか』と尋ねるので、



I answered, ‘No, he does not.’

某甲對云、不落因果。

某甲(それがし)(こた)えて云く、『因果に落ちず』。

『いや、因果の法に落ちることはない』と答えました。



Since then I have been doomed to undergo five hundred rebirths as a fox.

五百生墮野狐身。

五百生(しょう)野狐身(やこしん)に堕す。

するとそれ以来、五百生の長い間、私は野狐の身に堕ちてしまい、生まれ変わり死に変わりして今日に至りました。



I beg you now to give the turning word to release me from my life as a fox.

今請、和尚代一轉語貴脱野狐。

今請う、和尚一転語を代わって貴(ひと)えに野狐を脱せしめよ」と。

どうか、私に代わって正しい答えとなる一句によって、この野狐の身から脱出させていただきたい」と。






Tell me, does a man of enlightenment fall under the yoke of causation or not?”

遂問、大修行底人、還落因果也無。

遂に問う、「大修業底の人、還(かえ)って因果に落ちるや」。

そして改めて、「仏道修行を完成した人でも、やはり因果の法則に落ちて苦しむものでしょうか」と質問した。



Hyakujo answered, “He does not ignore causation.”

師云、不昧因果。

師云く、「因果を昧(くらま)さず」。

すると百丈和尚は、「因果の法を昧(くらま)さない」と答えられた。



No sooner had the old man heard these words than he was enlightened.

老人於言下大悟。

老人言下(ごんか)に大悟。

その途端に、老人は大悟した。



Making his bows, he said, “I am emancipated from my life as a fox. I shall remain on this mountain.

作禮云、某甲、已脱野狐身住在山後。

作礼(されい)して云く、「某甲(それがし)、已に野狐身(やこしん)を脱して山後に住在す。

百丈和尚に礼拝して言った、「私は已に野狐の身を脱することができました。脱け殻となってこの山の後ろにおります。



I have a favor to ask of you: would you please bury my body as that of a dead monk.”

敢告和尚。乞、依亡僧事例。

敢えて和尚に告ぐ。乞うらくは、亡僧(もうそう)の事例に依(よ)れ」。

どうか坊さん並みのお葬式を営んでください」






Hyakujo had  the director of the monks strike with the gavel and inform everyone that after the midday meal there would be a funeral service for a dead monk.

師、令維那白槌告衆、食後送亡僧。

師、維那(いのう)をして白槌(びゃくつい)して衆に告ぐしむ、「食後(じきご)に亡僧(もうそう)を送らん」と。

一山を取り締まる維那(いのう)に命じて衆僧を集めさせ、昼食の後に亡くなった僧の葬式を行うと告げた。



The monks wondered at this, saying, “Everyone is in good health; nobody is in the sick ward. What does this mean?”

大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無人病。何故如是。

大衆言議(ごんぎ)すらく、「一衆皆な安(やす)し、涅槃堂に又た人の病む無し。何が故ぞ是(かく)の如くなる」と。

大衆は「皆こうして元気だし、病気で臥せているものもいないはずだが」と不思議に思い、あれこれ噂した。



After the meal Hyakujo led the monks to the foot of a rock on the far side of the mountain and with his staff poked out the dead body of a fox and performed the ceremony of cremation.

食後只見師領衆至山後嵒下、以杖挑出一死野狐、乃依火葬。

食後に只だ師の衆を領して山後の嵒下(がんか)に至って、杖を以て一死野狐を挑出(ちょうしゅつ)し、乃(すなわ)ち火葬に依らしむるを見る。

食後になると百丈和尚は大衆を引き連れて裏山の岩窟のところに行き、杖をもって一匹の死んだ野狐を引っ張りだし、直ちに火葬に付した。






That evening he ascended the rostrum and told the monks the whole story.

師、至晩上堂、擧前因縁。

師、晩に至って上堂、前の因縁を挙(こ)す。

晩になると百丈和尚は威厳を整えて壇上に登り、昼間の出来事の一切を語ってきかせた。



Obaku thereupon asked him, 

“The old man gave the wrong answer and was doomed to be a fox for five hundred rebirths. Now, suppose he had given the right answer, what would have happened then?”

黄蘗便問、古人錯祗對一轉語、墮五百生野狐身、轉轉不錯合作箇甚麼。

黄蘗便ち問う、「古人、錯(あやま)って一転語を祇対(しつい)し、五百生(しょう)野狐身に堕す。転々錯らざれば合(まさ)に箇の甚麼(なに)にか作(な)るべき」。

すると一番弟子の黄蘗が質問した、「老人はその昔、答えを誤ったばかりに、五百生もの長いあいだ野狐の身に転落したということですが、もし彼が常に正しい答えを出していたとしたら、いったいその老人は何に成っていたでしょうか」。



Hyakujo said, “You come here to me, and I tell you.”

師云、近前來與伊道。

師云く、「近前来(きんぜんらい)、伊(かれ)が与(た)めに道(い)わん」。

百丈和尚は、「ここへ来るがいい。あの老人のために言ってやろう」と言われた。



Obaku went up to Hyakujo and boxed his ears.

黄蘗遂近前、與師一掌。

黄蘗遂に近前、師に一掌(いっしょう)を与う。

黄蘗は百丈和尚の側へ近寄ると、いきなり師の横っ面をぶん殴った。



Hyakujo clapped his hands with a laugh and exclaimed, 

“I was thinking that the barbarian had a red beard, but now I see before me the red-bearded barbarian himself.”

師拍手笑云、將謂、胡鬚赤。 更有赤鬚胡。

師、手を拍(う)って笑って云く、「将謂(おもえ)らく、胡鬚(こしゅ)(しゃく)と。更に赤鬚胡(しゃくしゅこ)有り」。

百丈和尚は手を拍(う)って笑い、「達磨の鬚は赤いと思ってはいたが、なんとここにも赤鬚の達磨がおったわい」と言われた。






Mumon’s Comment

Not falling under causation: how could this make the monk a fox? Not ignoring causation: how could this make the old man emancipated?

無門曰、不落因果、爲甚墮野狐。不昧因果、爲甚脱野狐。

無門曰く、「不落(ふらく)因果(いんが)、甚(なん)と為(し)てか野狐に堕す。不昧(ふまい)因果(いんが)、甚(なん)と為(し)てか野狐を脱す。

無門は言う、「『因果に落ちず』でどうして野狐に堕ち、『因果を昧(くらま)さず』だと何故に野狐を離脱しうるのか。



If you come to understand this, you will realize how old Hyakujo would have enjoyed five hundred rebirths as a fox.

若向者裏著得一隻眼、便知得前百丈贏得風流五百生。

(も)し者裏(しゃり)に向かって一隻眼(いっせきげん)を著得(じゃくとく)せば、便(すなわ)ち前百丈の風流五百生を贏(か)ち得ることを知り得ん」。

もしこの大切な一点を見抜く第三の眼を持つことができるならば、あの百丈山の老人も何のことはない、じつは五百生という長いあいだを風流のなかに生きていたんだと分かるであろう」。






Mumon’s Verse

頌曰

 頌(じゅ)に曰く、

頌(うた)って言う、



Not falling, not ignoring: 
Two faces of one die.

不落不昧 兩采一賽

不落と不昧と、両采一賽

不落と不昧、賽ひと振りに目が二つ。




Not ignoring, not falling: 
A thousand errors, a million mistakes.

不昧不落 千錯萬錯

不昧と不落と、千錯万錯

不昧と不落、どんなに見ても勝ち目なし。









語彙

Hyakujo
百丈懐海(ひゃくじょう・えかい)
唐代の禅僧。馬祖道一の法を嗣ぐ。

the yoke of causation
因果の法則

Kashyapa Budda
迦葉仏(かしょうぶっ)
釈尊以前の過去七仏の第六番目の仏。これが生まれ変わって釈尊となった。

five hundred rebirths
五百回の生まれ変わり

the turning word
一転語
一語によって相手を転迷開悟せしめるような力をもつ語句。

the sick ward
涅槃堂
病僧が休養する堂舎。延寿堂とも。

Obaku
黄蘗(おうばく)
唐時代の禅僧。百丈懐海の法を嗣ぐ。

the barbarian
「胡」は中国語で野蛮人を意味する。
ここでは仏や達磨を指すといわれる。「賊のみ賊を知る」の意。






英語:Two Zen Classics: The Gateless Gate and The Blue Cliff Records
日本語:無門関 (岩波文庫)




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