2016年5月26日木曜日

ナラテボーの「影」と「大笑い」




話:プラユキ・ナラテボー





最後に「意」、すなわち心についてだが、人間の心の闇、とりわけシャドウ(影)への取り組みを重要視するようになった。

影(シャドウ)とは、自我構造内部に組み込みきれずに疎外された自身の一部である。人は通常、意識において、固定した自己イメージを選択している。そのイメージに対立し、意識によって許容されない部分は無意識に抑圧され、生理的に受けつけられない人物として夢に登場してきたり、現実の人物に投影されたりする。すなわち、自己イメージと合わないがゆえに、「私ではないもの」として、二人称化、三人称化されてしまったものが影(シャドウ)である。

たとえば、「怒り」が内部に生じてきたとき、それを自身の「怒り」と自覚できれば、その時点で私に組み込めたので「影」化することはない。しかしこの時点で「怒り」を無視したり、抑圧したりすると、その瞬間に怒りは「影」化し、たとえば、親や上司など、自分にたいして怒りを向けてくると思われる人に投影され、その(実際はみずからの)「怒り」の攻撃を受けて、憂鬱になる。あるいは、他者に投影されずに、自己の内部で引き受け、それを自覚できなければ、「おまえは何やってるんだ!」「おまえはダメだ!」といったような内部の声の攻撃にさらされ続けることになる。

これは心を病む人だけでなく、瞑想に取り組む人もよく陥りがちな陥穽(かんせい)である。一般的に瞑想修行において、影の問題に無頓着なまま、「我を捨てよ」「怒りを捨てよ」といったことがことのほか強調されがちである。そのため、「我」や「怒り」を否定しながら瞑想修行を進めていった結果、独善的になり、みずからが否定し、抑圧した怒りを他者に投影し、他者から攻撃を受けているとの妄想に襲われる。あるいは、投影する他者を見つけられずに、自己の内部に無自覚のうちに影を引き受けた場合、その影に自己同一化し、自傷行為に走るか、あるいは、その影からの攻撃にさらされ、鬱になるといったことがしばしば見受けられる。これは、もともとわれ知らずに抑圧し影化させてしまった怒りを、いったん「私」のなかに組み込むという作業を怠った結果である。

ヴィパッサナー系の瞑想を行うことによって、「今、ここに怒りが生じている」と観察することはできる。しかし、じつはその客観的な対象として見つめているその怒りという症状自体が、そもそも影化して分離してしまった自身の一部なのである。したがって、それを「私」のなかに組み込まずに、ただ客観的な観察をしているだけでは、問題を棚上げし、さらなる影の安定化に寄与するだけになってしまうのである。

私自身も影の問題にまだ着目していなかった頃には、やはりこの問題に引っかかっていた。そういった意味で、フロイトが言った「イド(es = it)をエゴ(ich = I)にあらしめよ」という影の統合作業は、心を病む人だけでなく、瞑想修行に取り組む人にとっても、とても重要な意味合いをもっていると思う。






瞑想時の「影」との取り組み方



影との具体的な取り組みとしては、瞑想時に心身に生じてくるさまざまなイメージや気分、感情などを、みずからのエネルギーとして認め、体験し、親しみ、そこから学ぶというスタンスを取る。そのような作業を通して、かつて疎外され、敵対してきていた影(シャドウ)と和解し、平和的な関係を築けるようになっていくのである。

この作業において、私が大事にしていることは、心身に生じてくるあらゆる現象を明確に自覚し、感じ尽くし、洞察し、慈しむことである。このときのポイントは、心を大きく開いておくことである。すなわち、最初から「考えてはいけない」「感じてはいけない」「怒ってはいけない」などといった価値判断による構えを作らないということが大事である。

たとえば、ヴィパッサナー瞑想のやり方のひとつとして、「音が聞こえてきたら、音、音、音と唱えなさい」といった指導のされ方がある。しかし、これは一歩間違えると、人間の自然な感受作用を否定してしまうことにもなりかねない。なぜなら、音が聞こえてきたら、それにしたがった快や不快の感覚や、イメージ、想念といったものが生じてくるのは人間の自然なあり方だからである。そうあるものを強引に「音、音、音」とラベリングしてしまうと、実際は生じてきている快や不快の感覚やイメージを、知らず知らずのうちに否定、抑圧し、影化させてしまいかねない。

さらに、指導者によってはそういった快や不快の感覚が生じてくることさえも否定し、また、イメージや思考すべてを一緒くたに「妄想」、さらには「汚物」などとレッテルを貼ったりすることさえある。そういった指導を受けているうちに、自然と人間的な感情や思考を否定する姿勢が生まれ、さらには、そのような感情や思考が生じてくる自分自身を非難したり、あるいは世間一般にたいして否定的になったり、あるいは、影化した自身の拒絶感や怒りによって、攻撃されることにもなる。

このような無理が長期間つづくと、いわゆる「リバウンド」現象のようなものが生じ、食事のところで言及した「触食(パッサ・アハーン)」や「意思食(マノーサンチェータナー・アハーン)」といったものを猛烈に欲する気持ちに襲われたりすることにもなる。このときに感覚や思考を吸収する機能が働かなくなってしまっていると、自然と現実の食事への渇望となり、結果的に過食に走ったりして、摂食障害などの症状に至ることもある。とりわけ、女性の場合、男性よりも生理的に肉体性と緊密なゆえに、食事にしろ、喜びなどの感情にしろ、この世にある豊かさをなんらかの強い思い込みにより拒否した場合に、心身にいろいろな症状が出てきやすいようだ。

そんな意味で、ブッダの「中道」にしたがって、極端な拒否の姿勢は避けることが大事である。そして、オープンマインド、オープンハートな自然体で、適度な量の外部、そして内部からの情報を取り込み、しっかりと受容し、自覚的な意識をもって感じ取り、慈悲をもって洞察していくのがよい。これが感情やイメージ、思考といった情報を適切に消化し、心身の栄養に変えていく秘訣である。そうすれば、いったん影化したみずからのネガティブな感情やイメージとも仲直りができる。影は理解と慈しみをもって「仲間」として迎え入れられ、統合されたとき、ネガティブだった敵対的なエネルギーがポジティブな力やイメージへと転換するのである。






このような注意と理解をもって自身の修行に取り組みはじめてから少しして、自身の肉体感覚や気分、感情といったものと親しみ、理解を深めていく大きなきっかけとなる出来事が私に起こった。そしてそれはやがて、他者の気分や感情をあるがままに受け入れ、共感し、理解を深めることへとつながっていったのだった。



ある日のことだった。私は友人から借りていた南米のシャーマンの詠ずるチャンティング(詠唱歌)のテープを聴きながら、音に身体全身を浸すようにしていた。基本的に上座仏教の僧侶の戒律において歌舞演劇系に耽るのはすべて戒律違反ではあるのだが、ヒーリング・ミュージック系のものであればいいとか、その辺はフレキシブルなところもある。

その身体全体をくすぐってくるような数人のシャーマンたちの詠唱を集中して聞き入っていると、そのうちに身体全体になにやらこそばゆいような感覚が生じてきた。気分も非常に楽しくなった。そして、笑いが込み上げてくるのだった。一方で、笑ってはいけない。笑ってしまったら、こういった外部的な影響による身体感覚や気分に負けることになる。そう思う自分がいた。

じつを言えば、そのころはまだ私のなかでは「空」への志向性がだいぶ強かったのである。もちろん夢への関心や探求を通して、感覚的なもの、気分的なものを認めつつはあったが、それでもまだ、そういった類のものを低次なものとみなし、それらを良しとしない自分がいたのである。



だから、その込み上げてくる笑いを必死でこらえていた。そうしているうちにも、どんどんどんどんすのむずがゆい可笑しさは強く強くなってきた。やがてその可笑しさは胸の部分だけでなく、強烈にお腹の奥のほうを動かしてきた。

いけない、わ、笑ってしまう…。

しかし、このまま耐えれば、耐えきれそうにも思った。

ど、どうしよぅ…?

選択が迫られた。このままこの強烈な感覚に負けて笑ってしまうか、それとも意識をできるだけそらし、感覚に負けずに耐えきり、笑わずに済ますか…。



しかしそのときパッと閃いたのは第三の選択だった。

それは「意識的に明け渡してみよう」というものだった。それは勝ち負けではない、「受容」という選択だった。そして、可笑しさの感覚と楽しい気分にみずからを明け渡した。次の瞬間、

「ぐわっはっはっはー!」

腹の底をドドーンと突き抜けたような深く大きな笑いが起こった。生まれて初めて、お腹の底から、いや、お腹の底を突き抜けた笑いというものを体験した。これまでいかに胸で、あるいはお腹の浅いところで笑っていたかということに気づかされた。



その突き抜けた笑いはそのまま止まらなくなった。

シャーマンの詠唱テープが止まったあともなお、面白おかしい感覚が身体じゅうに充満し、そうなるともう何を見ても、何を聞いても、何を感じても、何を考えても、何をイメージしても、面白おかしくてたまらなくなったのだった。そうやって数時間笑い転げた。それはそれは愉しい時間だった。

これまでどれだけ身体を緊張させ、身体を閉じて過ごしていたのか…。この大笑い体験を終えると、身体が一気に緩まり、開いたのを感じた。同時に、これまでネガティブなもの、あるいは低次なものとみなしていた身体感覚やさまざまなイメージにたいして、それらがあるがままのエネルギーの一形態であり、中立のものであるということを理解し、慈しみを感じることができたのだった。









引用:「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語




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