2014年11月21日金曜日

諸行無常と毒矢 [小林秀雄]




〜話:小林秀雄〜



 諸行無常という言葉も、誤解されている様です。現代人だから誤解するのではない、昔から誤解されていた。平家にある様に「おごれる人も久からず、唯春の夜の夢の如し」、そういう風に、つまり「盛者(しょうじゃ)必衰のことわりを示す」ものと誤解されて来た。

 太田道灌が未だ若い頃、何事につけ心おごれる様があったのを、父親が苦が苦がしく思い、おごれる人も久からず、と書いて与えたところが、道灌は、早速筆をとって、横に、おごらざる人も久からず、と書いたという逸話があります。

 この逸話は、次のような事を語っている。因果の理法は、自然界の出来事のみならず、人間の幸不幸の隅々まで滲透しているが、人間については、何事も知らぬ。常無しとは又、心なしという事であって、全く心ない理法というものを、人間の心が受容れる事はまことに難しい事である、そういう事を語っております。





 肯定が否定を招き、否定が肯定を生むという果てしない精神の旅は、哲学的思惟の常であり、そういう精神の運動は、あたかも蚕が糸を吐くが如く、つまる処、己れを自足的な体系の中に閉じこめて了う。般若経を土台として、哲学というか神学というか、精緻な観念論の体系が、其後仏教史上にいろいろ現れた、そういうものに関する詳しい知識は、私にはないが、恐らく自足した思弁的汎神論の性質をいよいよ帯びたものになったと推察されます。だが、そういうものの中に、釈迦という人間を閉じ込める事は出来ますまい。彼は寧ろ逆の道を歩いた人だと思われます。

 阿含経の中に、こういう意味の話がある。ある人が釈迦に、この世は無常であるか、常住であるか、有限であるか、無限であるか、生命とは何か、肉体とは何か、そういう形而上学的問題をいろいろ持ち出して解答を迫ったところが、釈迦は、そういう質問には自分は答えない、お前は毒矢に当たっているのに、医者に毒矢の本質について解答を求める負傷者の様なものだ。どんな回答が与えられるにせよ、それはお前の苦しみと死とには何の関係もない事だ。自分は毒矢を抜く事を教えられるだけである、そう答えた。これが所謂”如来の不記”であります。

 つまり、不記とは形而上学の不可能を言うのであるが、ただ、そういう消極的な意味に止まらない。空の形而上学は不可能だが、空の体験というものは可能である、空は不記だが、行う事によって空を現す事は出来る。本当に知るとは、行う事だ、そういう積極的な意味合いも含まれている様であります。釈迦の哲学的思弁が、遂に空という哲学的観念を得たのではない。いや、それよりも、彼にとって、空とは哲学的観念と呼ぶべきものではなかったのでありましょう。ただ、彼の絶対的な批判力の前で、人間が見る見る崩壊して行く様を彼は見たのだ、と言った方がよい様に思われる。見るとは行う第一歩であります。






出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)




鑑真と明恵上人 [小林秀雄]




〜話:小林秀雄〜



 観というのは見るという意味であるが、そこいらのものが、電車だとか、犬ころだとか、そんなものがやたらに見えたところで仕方ない、極楽浄土が見えて来なければいけない。無量寿経(むりょうじゅきょう)という御経に、十六観というものが説かれております。それによりますと極楽浄土というものは、空想するものではない。まざまざと観えて来るものだという。観るという事には順序があり、順序を踏んで観る修練を積めば当然観えて来るものだと説くのであります。

 先ず日想観とか水想観とかいうものから始める。日輪に想いを凝らせば、太陽が没しても心には太陽の姿が残るであろう。清冽(せいれつ)珠(たま)の如き水を想えば、やがて極楽の宝の池の清澄な水が心に映じて来るであろう。水底にきらめく、色とりどりの砂の一粒一粒も見えて来る。池には七宝の蓮華が咲き乱れ、その数六十億、その一つ一つの葉を見れば、八万四千の葉脈が走り、八万四千の光を発しておる、という具合にやって行って、今度は、自分が蓮華の上に坐っていると想え、蓮華合する想を作(な)し、蓮華開く想を作せ、すると虚空に仏菩薩が遍満する有様を見るだろう、と言うのです。



 



 文学的に見てもなかなか美しいお経でありますが、もともとこのお経は、或る絶望した女性の為に、仏が平易に説かれたものという事になっているので、お釈迦様が菩提樹の下で悟りを開いたのはこんな方法ではなかっただろう、禅観というもっと哲学的な観法によって覚者となったと言われているが、しかしこの観という意味合いは恐らく同じ事であろうと思われます。禅というのは考える、思惟(しい)する、という意味だ、禅観というのは思惟するところを眼で観るという事になる。だから仏教でいう観法とは単なる認識論ではないのでありまして、人間の深い認識では、考える事と見る事とが同じにならねばならぬ、そういう身心相応した認識に達する為には、又身心相応した工夫を要する。そういう工夫を観法というと解してよかろうと思われます。



 禅宗というものが宋から這入って来て拡った後は、禅観の観の方を略して、禅という様になったが、それ以前の日本の仏教では、寧ろ禅の方を略して観と言っていた、止観と言っていた様である。 止という言葉には強い意味はないそうです。観をする為に、心を静かにする、観をする為の心の準備なのであって、例えば、法華経の行者が山にこもる、都にいては心が散って雑念を生じ易いから山に行く、平たく言えばそれが止であります。

 止観の法が伝来したのは余程古い事です、天平時代である。唐招提寺に行かれた方は、開基鑑真(がんじん)の肖像を御覧になっているでしょうが、あの人が支那から伝えたものだそうです。あの坐像は、肖像彫刻として比類なく見事な出来で、勿論日本一でしょうが、世界一かも知れぬと思われる。瞑目端座して微笑しているが、実はこの和尚様は眼が見えない。日本の学問僧の懇望によって、日本における仏教の布教を思い立ったのであるが、暴風とかその他いろいろの障碍の為に五回も渡航を失敗している。揚州から薩摩まで来るのに十二年もかかっている。その間に日本の学問僧も死に先方の弟子も死に、和尚も船が南方に流された時病気にかかって失明された。あの国宝の坐像は、そういう坐像であります。彼が招来した摩訶止観は、今日では、もう死語と化しているかも知れないが、坐像は生きております。あの坐像が私達に与える感銘は、私達が止観というものについて、何か肝腎なものを感得している証拠ではあるまいか。美術品というものは、まことに不思議な作用をするものです。







 これは絵であるが、坊様の坐像で、もう一つ私の非常に好きなものがあります。これも日本一だと言っていいかも知れませんが、それは高山寺にある明恵(みょうえ)上人の像である。御覧になった方も多かろうと思いますが、一面に松林が描かれ、坊様が木の股の恰好なところへチョコンと乗って坐禅を組んでいる。数珠も香炉も木の枝にぶら下がっていて、小鳥が飛びかい、木鼠が遊んでいる。まことに穏やかな美しい、又異様な精神力が奥の方に隠れている様な絵であります。

 この絵は空想画ではないので、上人の伝記を読むと、ほぼこの通りの坊様であった事がわかる。この絵は高山寺の裏山を描いたものだが、木の股でも木の空洞(うろ)でも石の上でも、坐禅をするに恰好なところには、昼でも夜でも坐っていた坊様です。この裏山で、「面一尺ともある石に、我坐せずという石、よもあらじ」と語ったと伝記は言っております。この坊様は戯れに自ら無耳法師と言っていた如く、絵では少々横を向いているから解らないが、向う側の耳はないのです。未だ二十歳くらいの頃ですが、こんな安穏な修行をしていては、到底真智を得る事は出来ぬ、眼を抉(えぐ)ろうとした、併し眼がつぶれたら経文を読むことが出来ぬ、では鼻にしようかと考えたが、しまりなく鼻水がたれては経文を汚すかも知れない、耳なら穴さえあれば仔細はないと考えて、耳を切りました。

 そういう烈しい気性の人でしたが、兼好が徒然草で書いている有名な阿字の逸話の様に、子供の様に天真爛漫な人であった。よく独りで石をひろっては、石打をしていたという、石打というのはどういう遊びかはっきりわからないが、無論石蹴りの様な子供の遊びだったでしょう。何故そんな事をするかときかれて、難しい経文が心に浮かんで来てたまらぬからだ、と答えた。



 



 若い頃から、天竺に行ってお釈迦様の跡を弔いたいという熱望を持っていたが、中年になってからこれを決行しようとしました。いろいろ旧記を調べて印度行の旅程を立てた。この旅程表は今も高山寺に遺っているそうですが、長安の都から天竺の王舎城まで八千三百三十三里十二町、十二町まで調べあげた、一日に八里では何日、七里では何日、五里ずつ歩けば五年目の何月何日午(うま)の刻に向うへつく予定である、と書いてある。旅装までととのえたが、春日大明神の夢のお告げがあって、思いとどまった。まあ思いとどまってよかった。行ったら虎にでも喰われるのが落ちだったでしょう。

 天竺に行けなくなって口惜しいので、紀州の鷹島という島で坐禅をした時、海岸の石を一つひろって来た、天竺の水もこの海岸に通じている、仏跡を洗った水はこの磯辺の石も洗っている筈である。してみれば、この石も仏跡の形見である、と言って生涯肌身を離さず愛玩した。死ぬ時には、小石に向って辞世の歌を詠んでおります。「我ナクテ後ニシヌバン人ナクバ飛ンデカヘレネ鷹島ノ石」というのです。屹度(きっと)石は飛んで帰りたかったに違いなかったろうが、飛んで帰れず、今も猶高山寺に止っている。何もおかしな話ではない。考えようによっては、人間とても同じ事だ。人間は何と人間らしからぬ沢山の望みを抱き、とどのつまりは何んとただの人間で止まる事でしょうか。専門歌人が、こんな歌はつまらぬなどと言っても作者の人格に想いを致さねば意味のない事です。この人は実に無邪気な歌を詠んでいる。序でに一つあげておきましょうか。「マメノコノ中ナルモチヰトミユルカナ白雲カカル山ノ端ノ月」

 石に向って歌をよむなどという事は、この坊様には、朝飯前の事で、島に手紙を出しております。これも紀州にある苅磨島という、しばらくの間修行していた島なのであるが、その島に手紙を出した、宛名は島殿とある。御無沙汰をしているが其後お変りはないか、桜の頃になったが、貴方の処の桜が思い出されて、恋慕の情止み難いものがある。物言わぬ桜に文をやれば物狂いと世人は言うだろう。ここで上人は面白い言葉を使っている、「非分ノ世間ノ振舞ニ同ズル程ニ、乍思ツツミテ候也」、非分というのは物の道理を弁えぬという意味だ、どうせ理屈のわからん世間だ、仕方がないと我慢していた、というのです。処が今はもう我慢がならぬ、「物狂ハシク思ハン人」こそ本当の友達にすべきである。衆生を摂護する身で傍の友の心を守らぬとは心ないわざである、とりあえず御機嫌を伺う事とする、「併期後信候、恐惶敬白」−−弟子が驚いて、誰方にお渡しすればよいかと聞くと、何、島の何処かに置いてくればよいと答えた。

 そういう伝記を心に思い浮かべて明恵上人の画像を見ると、この大自然をわがものとした、いかにも美しい人間像が、観というものについて、諸君に言葉以上のものを伝える筈であります。






出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)



2014年11月3日月曜日

プラトンと書物 [小林秀雄]



〜話:小林秀雄〜




 田中美知太郎さんがプラトンの事を書いていたのを、いつか読んで大変面白いと思った事がありますが、プラトンは、書物というものをはっきり軽蔑していたそうです。

 彼の考えによれば、書物を何度開けてみたって、同じ言葉が書いてある、一向面白くもないではないか、人間に向って質問すれば返事をするが、書物は絵に描いた馬の様に、いつも同じ顔をして黙っている。人を見て法を説けという事があるが、書物は人を見るわけにはいかない。だからそれをいい事にして、馬鹿者どもは、生齧(なまかじ)りの智識を振り廻して得意になるものである。

 プラトンは、そういう考えを持っていたから、書くという事を重んじなかった。書く事は文士に任せて置けばよい。哲学者には、もっと大きな仕事がある。人生の仕事とは、物事を辛抱強く吟味する人が、生活の裡に、忽然と悟るていのものであるから、たやすくは言葉に現せぬものだ、ましてこれを書き上げて書物という様な人に誤解されやすいものにして置くという様な事は、真っ平である。そういう意味の事を、彼は、その信ずべき書簡で言っているそうです。従って彼によれば、ソクラテスがやった様に、生きた人間が出会って、互に全人格を賭して問答をするという事が、真智を得る道だったのです。

 そういう次第であってみれば、今日残っている彼の全集は、彼の余技だったという事になる。彼の、アカデミアに於ける本当の仕事は、皆消えてなくなって了ったという事になる。そこで、プラトン研究者の立場というものは、甚だ妙な事になる、と田中氏は言うのです。プラトンは、書物で本心を明かさなかったのだから、彼自ら哲学の第一義と考えていたものを、彼がどうでもいいと思っていた彼の著作の片言隻句からスパイしなければならぬ事情にあると言うのです。

 今日の哲学者達は、哲学の第一義を書物によって現し、スパイの来るのを待っている。プラトンは、書物は生きた人間の影に過ぎないと考えていたが、今日の著作者達は、影の工夫に生活を賭している。習慣は変わって来る。ただ、人生の大事には汲み尽くせないものがあるという事だけが変わらないのかも知れませぬ。









出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)
喋ることと書くこと



2014年10月22日水曜日

般若の心、人の心 [足立大進]



〜話:足立大進〜


般若心経のなかに

菩提薩埵(ぼーだいさったー)
依般若波羅蜜多故(えーはんにゃーはーらーみーたーこ)
心無罣礙(しんむーけーげー)
無罣礙故(むーけーげーこ)
無有恐怖(むーうーくーふー)

とあります。「菩提薩埵(ぼだいさった)」は仏教において成仏をもとめる修行者です。「般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)」は智慧の完成されたもの、お悟りを開いた人の智慧です。「無罣礙(むけいげ)」の罣の字の、冠の部分「罒」は「あみがしら」と言いまして、網を張った状態を示すことから、「引っかかる」ということです。

 ですから、この一文は「仏教の修行者は、真実の智慧によって、心に引っかかりが何もない。だから何も怖いことはない」と言っています。



 薬師寺にいらした故・高田好胤さんは、よく次のようにお説きになった。

「人間の心は、とらわれやすい心、こだわりやすい心、かたよりやすい心。般若心経の心は、とらわれない心、こだわらない心、かたよらない心」


 王陽明の有名な言葉に

山中の賊を破ることは易(やす)く
心中の賊を破ることは難(かた)し

とあります。山の中の賊を退治するにはいくつも方法があり易しい。ところが、心の中の賊を破ることはなかなか難しい、と。


 とらわれやすくて、こだわりやすくて、かたよりやすい心。

 人間の心というものは、そういうもの、と初めから諦めていたら、皆さんの「心に引っかかっているもの」も、少しは楽になる。「ま、そんなこともあるわいな」と、心の引っかかりを大目に見てやってください。



出典:足立大進「即今只今




眼裏の塵、心頭無事 [夢窓国師]



〜話:足立大進〜


 夢窓国師(疎石)は、円覚寺の第十五世であり、京都にお出でになり天龍寺をお開きになった方です。その夢窓国師に

極楽に 行かんと思う 心こそ

地獄に落つる 初めなりけり

という歌があります。


 夢窓国師は、四国の土佐の山中に籠っていらっしゃいました。ところが、たいへん偉い方でしたから、京都の有名な寺から、出て来て住職をしてほしいと、ずいぶんたくさんの依頼があった。そのときにお作りになった「山居(さんきょ)の詩」というものがあります。


青山幾度変黄山
世上粉紜総不干
眼裏有塵三界窄
心頭無事一牀寛

青山(せいざん)、幾度(いくたび)か黄山(こうざん)と変ず、
浮世(ふせい)の粉紜(ふんうん)、総に干(かか)わらず。

眼裏(がんり)に塵(ちり)有れば、三界(さんがい)窄(すぼ)く、
心頭(しんとう)無事なれば、一牀(いっしょう)寛(ひろ)し。


 青い山が何度も秋の黄色い山に変わる、毎年、年が変わる。そのときに、この山の中に住んでいる私にとって、世の中の争いごとなんて知ったことではない。眼の中に埃(ほこり)が入って心が濁っていれば、世の中はすべて不幸せに見える。心に引っかかるものが何もなければ、粗末な寝床だって寛げる。

と、このような意味の詩です。この詩から、私はいつも「心が生きていなきゃいかん」と強く感じさせられます。心が本当に充足するとき、生き生きとしているときは、案外何気ない瞬間にあるようです。皆さんも「心が生きる瞬間」探しをしてみてください。





出典:足立大進「即今只今




2014年10月20日月曜日

光境倶亡 [小川隆]


〜話:小川隆(おがわ・たかし)駒澤大学外国語部講師〜


 さて、禅の語録によく出る言葉の一つに「光境倶亡」というのがある。これには他に「心境双亡」とか「心法双亡」等の言い方があり、「亡」が「忘」と書かれる場合もある。いずれも見る者(光・心)と見られる者(境・法)がともに滅却ないし忘却された世界、いわゆる主客の対立が完全に解消された世界の謂いであり、基本的には、かく主客の対立が消滅したところこそ一真実の世界に外ならぬとされていた。

 永嘉玄覚(ようかげんかく)の『証道歌』に「心と法と双(なら)び亡ずれば性は即ち真」とあり、黄檗希運(おうばくきうん)の『伝心法要』に「凡夫は境を取り、道人は心を取る。心と境と双び忘ずれば、乃ち是れ真法なり」とあるの等がその例である。


 そして、これらを前提としつつ、そこに新たな表詮を与えたものとして、最も名高いのが盤山宝積(ばんざんほうしゃく)の次の語であった。

夫れ心月は孤(ひと)り円(まどか)にして、光は万象を呑む。光は境を照らすに非ず、境も亦た存するに非ず。光と境と倶に亡ず、復(は)た是れ何物(なん)ぞ。禅徳よ、譬えば剣を擲(ふり)あげ空に揮(ふる)うが如し、及ぶと及ばざるとを論ずる莫く、斯乃(すなわ)ち空論に迹(あと)無く、剣刃も虧(か)くること無し。…

(『景徳伝灯録』巻七)

 まず、あまねき月光(光)と万物(境)との融和が提示され、それがすぐさま刃で虚空を斬る如しという、鋭い一瞬の閃きに転ぜられている。ここで「光境倶亡」の語は、もはや字面から想像されるような、模糊として縹渺たる一面無意識の広がり、そうしたイメージのうちにとどまってはいない。主客がともに空ぜられたその中に在って、なお一刹那のうちに鮮やかにはたらき、しかも些かの痕跡をもとどめぬ、いわば空を以て空を斬るとでも言うべき認識の冴えが、ここに描き出されているのである。空寂を基調としつつ、そこに一瞬の鋭利で鮮明なはたらきを対比させることによって、「光境倶亡」の語は、静的な観照の中に新たに動的な精彩と活機を得ているように思われる(『正法眼蔵』都機(つき)の巻にもこの話が引かれるが、前半の心月の喩の部分のみである)。


 それゆえか、この語は、この後しばしば禅者、とくに雪峯下の人々の採り上げる所となる。たとえば『祖堂集』巻十の長生皎然章に次のように見える。

ある日のこと、雪峯は古人の語を読んでいて、「光境倶亡、復(は)た是何ぞ」のところに読み到り、長生にこう問うた、「ここにいかなる一語を加えるべきか」。長生、「それがしの過(とが)をお赦し下さるなら、一言申し上げましょう」。雪峯、「汝の過を赦さば、何と言うか」。長生、「それがしも和尚の過を赦して差し上げます」。

 ここでいう「過(とが)」とは、「光境倶亡」について語ること。言葉でそれを説明しようとすれば、それはただちに「光境倶亡」を対象として措定し、主客の分別を設けることとなる、老師はすでにその過誤を犯しておられます、と言うわけであろう(『肇論』にいわく、「心を擬すれば己に差(たが)う、況んや乃ち言有るをや」)。だが、言語を絶すれば主客の対立は回避しうるとしても、ならば盤山によって提示された、あの、主客倶亡のうちに活きてはたらく空観の冴えは、どこへ往ってしまうのであろうか。


 そこで次に、保福従展(ほふくじゅうてん)の語を読んでみる。

盤山は「光境倶亡、復(は)た是れ何物(なん)ぞ」と言い、洞山は「光境未亡、復(は)た是れ何物ぞ」と言っている。それについて保福いわく、「この二尊者の見解では、なお主客を滅しきることができぬ」。そして長慶慧稜(ちょうけいえりょう)に問うた、「今なんと言えば、それを滅しきることができるか」。長慶はしばしの沈黙を以て、それに応えた。保福、「そなたが幽鬼の住む暗黒の世の住人であることが、見て取れた」。そこで長慶が問い返すと、保福はこう言った—— 両手に犂を扶(ささ)え水は膝を過ぐ

(『景徳伝灯録』巻十九)

 長慶は、言語を用いることによって主客の分別に渉ることを拒み、完全なる沈黙(原文は「良久」)によって「光境倶亡」そのものを体現してみせた。これは先の長生の所説をさらに徹底したものと言えよう。しかし、保福はこれを「幽鬼の住む暗黒の世の住人(山鬼窟裏に活計を作(な)す)」と断ずる。活きた人間の心のはたらきを死滅させ、無間の暗闇のうちに自らを閉ざす者、という批判であろう。そして、これに対する保福じしんの言は、こうであった。

わしは膝まで泥水につかりながら、牛とともに田を耕しておるよ


 先の盤山の語の透き徹った明晰さに比べ、こちらはなんと平凡で泥くさい風景であろう。だが、これは「光境倶亡」を放棄して、現世に埋没してしまったさまを言うのではあるまい。蓋し現世に在って光と境とを亡じつつ、なお現実の泥田に足をとられながら一歩ずつ歩みを進めている、そうした実地の生きざまを開示したのがこの言であるまいか。

 先の盤山の語が空を以て空を斬るという瞬間的な冴えを提示したものであったとすれば、こちらは空を以て現実の汚濁・矛盾の中を歩むという、持続的な生きる姿の描写であると言えよう。保福の語が「両手扶犂水過膝」という、平仄の整った、簡潔で余韻のある七言の詩句として結晶していることは、これが単に泥田に埋もれた風景でなく、そこに盤山が捉えたのと同じ空観の冴えが貫かれていること、言いかえればこの一句が「空霊」を止揚した「充実」の表現であることの表れのように思われる(宋白華「論文芸的空霊与充実」参照)。

 保福よりすれば、盤山の語はなお認識の領域にとどまるものであり、しかも、長生や長慶がそうであったように、ともすれば沈黙の闇の中に人を引きこもうとする傾きをもつものであった。彼は自らの生きる姿によって「光境倶亡」の語にずしりとした内実を与え、内に閉じようとする輪を、強く現実に向けて開け放っているのではないか。







出典:句双紙 (新日本古典文学大系 52)



2014年10月17日金曜日

みづのたたえの [高橋元吉]


みづのたたえのふかければ

おもてにさわぐなみもなし


ひともなげきのふかければ

いよよおもてぞしづかなる



高橋元吉




2014年6月13日金曜日

お茶における主客


賓主互換 賓主歴然

ひんじゅごかん ひんじゅれきねん



千宗屋「お茶における究極的な主客のあり方は『賓主互換(ひんじゅ・ごかん)』とその対をなす『賓主歴然(ひんじゅ・れきねん)』という言葉で表します。

「『賓主互換』とは、賓が主になり、主が賓になる、つまり自他の区別が渾然となってしまうということです。濃茶を練り上げるまでの時間、あそこでは無言です。言葉を介した時点で、もう自他の別ができてしまう。『賓主歴然』は、主と客が歴然と分かたれること。その感応こそが、お茶における主客の理想的なありようだというのです」






出典:内田樹『日本の身体




2014年5月22日木曜日

無門関 第一則 趙州狗子 [原文+訓読]




一 趙州狗子



趙州和尚、因僧問、狗子還有佛性也無。

趙州和尚、因(ちな)みに僧問う、「狗子、還(は)た仏性(ぶっしょう)有りや」。



州云、無。

州云く、「無」。



無門曰、參禪須透祖師關、

無門曰く、「参禅は須(すべから)く祖師の関を透(とお)るべし。



妙悟要窮心路絶。

妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。



祖關不透心路不絶、盡是依草附木精靈。

祖関透らず心路絶せずんば、尽(ことごと)く是れ依草附木(えそうふぼく)の精霊ならん。



且道、如何是祖師關。

且(しば)らく道(い)え、如何が是れ祖師の関。



只者一箇無字、乃宗門一關也。

只(た)だ者(こ)の一箇の無字、乃(すなわ)ち宗門の一関なり。



遂目之曰禪宗無門關。

遂に之れを目(なず)けて禅宗無門関と曰(い)う。



透得過者、非但親見趙州、便可與歴代祖師把手共行、眉毛厮結同一眼見、同一耳聞。

透得(とうとく)過(か)する者は、但(た)だ親しく趙州に見(まみ)えるのみに非(あら)ず、便(すなわ)ち歴代の祖師と手を把(と)って共に行き、眉毛(びもう)厮(あ)い結んで同一眼(どういつげん)に見、同一耳(どういつに)に聞く可(べ)し。



豈不慶快。

豈(あ)に慶快(けいかい)ならざらんや。



莫有要透關底麼。

透関を要する底(てい)有ること莫(な)しや。



將三百六十骨節、八萬四千毫竅、通身起箇疑團參箇無字。

三百六十の骨節、八萬四千の毫竅を将(も)って、通身に箇の疑団を起して箇の無の字に参ぜよ。



晝夜提撕、莫作虚無會、莫作有無會。

昼夜提撕(ていぜい)して、虚無(きょむ)の会(え)を作(な)すこと莫(なか)れ、有無(うむ)の会(え)を作(な)すこと莫(なか)れ。



如呑了箇熱鐵丸相似、吐又吐不出。

箇の熱鐵丸(ねつてつがん)を呑了(どんりょう)するが如くに相い似て、吐けども又た吐き出さず。



蕩盡從前惡知惡覚、久久純熟自然内外打成—片、如啞子得夢、只許自知。

従前の悪知悪覚を蕩尽(とうじん)して、久々に純熟して自然(じねん)に内外(ないげ)打成(だじょう)一片ならば、啞子(あし)の夢を得るが如く、只(た)だ自知することを許す。



驀然打發、驚天動地。

驀然(まくねん)として打発せば、天を驚かし地を動ぜん。



如奪得關將軍大刀入手、逢佛殺佛、逢祖殺祖、

関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏(ぶつ)に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、



於生死岸頭得大自在、向六道四生中遊戲三昧。

生死(しょうじ)岸頭(がんとう)に於いて大自在を得、六道(ろくどう)四生(ししょう)の中に向かって遊戯(ゆげ)三昧(ざんまい)ならん。



且作麼生提撕。

且(しば)らく作麼生(そもさん)か提撕(ていぜい)せん。



盡平生氣力擧箇無字、

平生(へいぜい)の気力を尽くして箇の無の字を挙(こ)せよ。



若不間斷、好似法燭一點便著。

若(も)し間断(けんだん)せずんば、好(はなは)だ法燭の一点すれば便ち著(つ)くに似ん。



頌曰

頌(じゅ)に曰く



狗子佛性

狗子仏性



全提正令

全提(ぜんてい)正令(しょうれい)



纔渉有無

纔(わずか)に有無(うむ)に渉(わた)れば



喪身失命

喪身(そうしん)失命(しつみょう)せん。






出典:無門関 (岩波文庫)



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無門関 第一則 趙州狗子 [原文]




無門関 第一則 趙州狗子 [原文]



一 趙州狗子



趙州和尚、因僧問、狗子還有佛性也無。

州云、無。



無門曰、參禪須透祖師關、妙悟要窮心路絶。

祖關不透心路不絶、盡是依草附木精靈。

且道、如何是祖師關。

只者一箇無字、乃宗門一關也。

遂目之曰禪宗無門關。

透得過者、非但親見趙州、便可與歴代祖師把手共行、眉毛厮結同一眼見、同一耳聞。

豈不慶快。

莫有要透關底麼。

將三百六十骨節、八萬四千毫竅、通身起箇疑團參箇無字。

晝夜提撕、莫作虚無會、莫作有無會。

如呑了箇熱鐵丸相似、吐又吐不出。

蕩盡從前惡知惡覚、久久純熟自然内外打成—片、如啞子得夢、只許自知。

驀然打發、驚天動地。

如奪得關將軍大刀入手、逢佛殺佛、逢祖殺祖、於生死岸頭得大自在、向六道四生中遊戲三昧。

且作麼生提撕。

盡平生氣力擧箇無字、若不間斷、好似法燭一點便著。






頌曰



狗子佛性

全提正令

纔渉有無

喪身失命






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2014年5月21日水曜日

Mumon's Preface 無門慧開の自序 [無門関]


Buddhism makes mind its foundation and no-gate its gate.

仏語心為宗、無門為法門。

仏たちの説く清浄な心こそを要とし、入るべき門の無いのを法門とするのである。



Now, how do you pass through this no-gate?

既是無門、且作麽生透。

さて、入るべき門がないとすれば、そこをいかにして透過すべきであるか。



It is said that things coming in through the gate can never be your own treasures. What is gained from external circumstances will perish in the end.

豈不見道、従門入者不是家珍、従縁得者始終成壊。

「門を通って入ってきたようなものは家の宝とはいえないし、縁によって出来たものは始めと終わりがあって、成ったり壊れたりする」というではないか。



However, such a saying is already raising waves when there is no wind. It is cutting unblemished skin.

恁麼説話、大似無風起浪好肉剜瘡。

私がここに集めた仏祖の話にしても、風も無いのに波を起したり、綺麗な肌にわざわざ瘡を抉(えぐ)るようなもの。



As for those who try to understand through other people's words, they are striking at the moon with a stick; scratching a shoe, whereas it is the foot that itches. What concern have they with the truth?

何況滞言句覓解会。掉棒打月、隔靴爬痒、有甚交渉。

まして言葉尻に乗って何かを会得しようとするようなことなど、もってのほかであろう。棒を振り回して空の月を打とうとしたり、靴の上から痒みを掻くようなことで、どうして真実なるものと交わることができよう。



In the summer of the first year of Jotei, Ekai was in Ryusho Temple and as head monk worked with the monks, using the cases of the ancient masters as brickbats to batter the gate and lead them on according to their respective capacities.

慧開、紹定戊子夏、首衆于東嘉龍翔。因衲子請益、遂將古人公案作敲門瓦子、随機引導学者。

私は紹定元年(1228)の安居(あんご)を、東嘉の竜翔寺で過ごし、学人を指導する立場にあったが、学人たちがそれぞれ悟りの境地について個人的な指導を求めてきたので、思いついて古人の公案を示して法門を敲(たた)く瓦とし、それぞれ学人の力量に応じた指導をすることにしたのである。



The text was written down not according to any scheme, but just to make a collection of forty-eight cases. It is called Mumonkan, "The Gateless Gate."

竟爾抄録、不覚成集。初不以前後叙列、共成四十八則、通曰無門関。

それらの中のいくつかを選んで記録するうちに、思いがけなくも一つの纏(まと)まったものができあがった。もともと順序だてて並べたわけではないが、全体で四十八則になったので、これを『無門関』と名付けた。



A man of determination will unflinchingly push his way straight forward, regardless of all dangers.

若是箇漢、不顧危亡単刀直入。

もし本気で禅と取り組もうと決意した者ならば、身命を惜しむことなく、ずばりこの門に飛び込んでくることであろう。



Then even the eight-armed Nata cannot hinder him.

八臂哪吒、攔他不住。

その時は三面八臂の哪吒(なた)のような大力鬼王でさえ彼を遮(さえぎ)ることはできまい。



Even the four sevens of the West and the two threes of the East would beg for their lives.

縦使西天四七、東土二三、只得望風乞命。

インド二十八代の仏祖や中国六代の禅宗祖師でさえ、その勢いにかかっては命乞いをするばかりだ。



If one has no determination, then it will be like catching a glimpse of a horse galloping past the window: in the twinkling of an eye it will be gone.

設或躊躇、也似隔窓看馬騎、眨得眼来、早已蹉過。

しかし、もし少しでもこの門に入ることを躊躇するならば、まるで窓越しに走馬を見るように、瞬きのあいだに真実はすれ違い去ってしまうであろう。



頌曰

頌(うた)って言う



The Great Way is gateless,

大道無門

大道に入る門は無く、



Approached in a thousand ways.

千差有路

到るところが道なれば、



Once past this checkpoint

透得此関

無門の関を透過して、



You stride through the universe.

乾坤独歩

あとは天下の一人旅。






英語:Two Zen Classics: The Gateless Gate and The Blue Cliff Records
日本語:無門関 (岩波文庫)


2014年5月14日水曜日

分かりすぎて分からぬ




只為分明極 翻令所得遅

ただ分明(ぶんみょう)に極まれるがために 翻(かえ)って所得をして遅からしむ

あまりにはっきりしすぎたことで、かえって得るのに時間がかかる






出典:『無門関 (岩波文庫)




人は忙しい




人向静中忙

人は静中(じょうちゅう)に向かって忙(いそがわ)し






出典:大川普済語録

2014年5月11日日曜日

止水と流水




人莫鑑於流水 而鑑於止水

人は流水に鑑(かがみ)することなくして、止水に鑑す






出典:『荘子』徳充符篇




能あるゆえに苦しむ




以其能 苦其生

その能をもって その生を苦しむ



桂可食故伐之 漆可用故割之

桂(けい)は食らうべきがゆえに伐られ

漆(うるし)は用ふべきがゆえに割(さ)かる






出典:『荘子』人間世篇




文字に在らず 文字を離れず




不在文字 不離文字

文字に在らず 文字を離れず






出典:『碧巌録』三教老人序



2014年5月10日土曜日

馬追えぬ一言




一言既出駟馬難追

一言(いちごん)すでに出づれば、駟馬(しめ)も追い難し






出典:『虚堂智愚和尚語録』




誤り背く口舌




開口即錯 動舌即乖

口を開けば即ち錯(あやま)り

舌を動(どう)ずれば即ち乖(そむ)く






出典:『大灯国師語録』

人馬なし




鞍上無人 鞍下無馬

鞍上(あんじょう)人なく 鞍下(あんか)馬なし







翻覆、雲雨




翻手作雲覆手雨

手を翻(ひるがえ)せば雲となり

手を覆(くつがえ)せば雨となる



杜甫




ものいへば唇さむし秋のかぜ




ものいへば

唇さむし

秋のかぜ



芭蕉

咲かぬ先に香る




梅花未動意先香

梅花 未だ動かざるも 意まず香(かんば)し



出典:陸游「初冬」




カエル、仏心を抱く




青蛙抱仏心

青蛙(せいあ)仏心を抱き

踏上蓮花坐

踏んで蓮花(れんげ)に上(のぼ)って坐す






出典:袁枚「雨中即時」

『碧巌録』方回序




本来無一物(慧能)

ほんらいむいちもつ



時時勤払拭(神秀)

時時に勤めて払拭(ほっしき)せよ



呵仏罵祖

仏を呵(しか)り祖を罵(ののし)る



第一義焉用言句

第一義は焉(いずく)んぞ言句(ごんく)を用いん






出典:『碧巌録(上)』方回序



2014年5月9日金曜日

形したがい、心和する [荘子]




形莫若就 心莫若和

形は就(つ)くに若(し)くはなく、心は和するに若くはなし

形のうえでは相手に従うのが一番、心も相手に調子を合わせるのが第一。



雖然 就不欲入 和不欲出

然り雖(いえど)も、就(つ)くも入るを欲せず、和するも出(い)づるを欲せざれ

そうはいっても、相手に従っても相手とまったく同じになってはいけないし、相手に調子を合わせても相手に認められるほどになってはいけない。






出典:『荘子 第1冊 内篇』人間世篇

『碧巌録』普照序




烹仏煆祖鉗鎚

烹仏煆祖(ほうぶつかそ)の鉗鎚(けんつい)



蚊咬鉄牛

蚊の鉄牛を咬(か)む



趙璧本無瑕類

趙璧(ちょうへき)は本(も)と瑕類(きず)無し



泥句沈言

句に泥(なず)み言に沈む






出典:『碧巌録〈上〉 (岩波文庫)』普照序