2012年11月4日日曜日

日本人にとっての「しあわせ」とは?



「そもそも『しあわせ』という和語は、奈良時代に『為合』という字を当てたのが始まりです。これは『天に合わせる』という意味ですが、日本人は自然は人間の手に負えないものと考えていましたから、ほとんど『運命』のような意味だったんです。

 これが室町時代に入ると、『仕合』、つまり人間対人間の話になる。相手にどのように『仕合わせる』か、ということで試合(仕合)という言葉も生まれてくるんです。

 武道では、相手より先に攻めることを『先の先』、相手の出方を待って応ずるのを『後の先』と言いますが、『後の先』は相手に仕合わせるやり方です」



僧・玄侑宗久さんの幸福論。

相手の幸せに合わせていく「後の先(ごのせん)」、それが日本人の「仕合わせ」であると説いています。



「これは、お金やモノの量などで量れる『西洋的なハピネス』とは大きく違います(玄侑宗久)」





出典:致知2012年12月号
「無常の中の幸福を探る」

2012年11月2日金曜日

「即今、当処、自己」


「即今(そっこん)、当処(とうしょ)、自己」


これは、「今、ここ、自分」の大切さを示す禅語です。

「いつやる? どこでやる? 誰がやる?」

その答えが「いま(即今)、ここで(当処)、自分が(自己)」というわけです。



「放下着(ほうげちゃく)」というのも、また禅語。

「何もかも捨ててしまえ」というのが、その意味です。

「即今、当処、自己」と合わせて考えれば、「今、ここ、自分」以外を考えるなとということにでもなりますか。





出典:禅が教えてくれる 美しい人をつくる「所作」の基本

甕(かめ)への執着


「甕(かめ)」をコレクションしていた大変偉い聖(ひじり)。

いろいろな甕を集めて大事にしていたのですが、ある時、その大事な甕を縁側に並べたまま奥の院へと修行に出かけてしまいました。修行先でそのことを思い出した偉い聖、気になって仕方がありません。

「あぁ、甕を出しっぱなしにして来てしまった…。もし、盗まれでもしたら…」



修行が終わり、ようやく甕の並ぶ縁側へと帰ってきた偉い聖。

なんとなんと、片っ端から大事な甕を石に打ちつけてブチ割っているではありませんか。

慌てる弟子たち、「これはまた、なんと無体な! 気でも違ったのではありませんか!」



すると偉い聖は、弟子たちにこう答えました。

「これが自分の修行の妨げになることが分かった。だから、こうして全部壊してしまうのだ」



これは鴨長明の仏教説話集である「発心集」にみられる話。

「執着」ということを考えさせる説話の一つです。





出典:鴨長明『方丈記』 2012年10月 (100分 de 名著)