2016年4月13日水曜日

お園の空念仏 [柳宗悦]



話:柳宗悦





幕末の頃、三州の田原というところにお園(その)という妙好人があった。何につけても南無阿弥陀と口づさんで日々を暮した。

ある日いつものごとく念仏を称えながら歩いていると、行きずりの女が、

「ああ、また空(から)念仏か」

と嘲(あざけ)った。

お園は踵(きびす)を返して女の後を追った。これを知った女、

「そんなに怒らんでもよいが」

というと、お園

「いやいや、怒るどころではありませぬ。お礼が申したくて後を追いました。空(から)念仏とはよくも言ってくだされた。もしも私の如き愚かな者の申す念仏が功(てがら)になるならどう致しましょう。何も残らぬ空念仏ということをお教え下されました。どこに善知識(ぜんちしき)があることやら。まとこにもったいなくて、一言お礼を申させて下さいませ」

そういって厚い礼を述べた。





念仏の意味を示す忘れ難い対話である。ここに他力の他力がある。念仏の念仏がある。

禅語を借りて「只麼(しも)の念仏」とでもいおうか。只麼(しも)とは「ただ」である。少しでも何かが混ってはならぬ。さもなくば念仏はその光芒を十二分に輝かすことはないであろう。

一遍上人はこれを「独一なる名号」といわれた。また「名号の位、すなわち往生なり」ともいわれた。

一遍上人の法語に、

「名号は義によらず、心によらざる法なれば、称すれば必ず往生するぞと信じたるなり。


たとへば火を物につけんに、心には、な焼きそ(焼けるな)と思ひ、口には、な焼きそ(焼けるな)といふとも、この詞(ことば)にもよらず、念力にもよらず、ただ火のおのれなりの徳として物を焼くなり。


水の物をぬらすも同じ事なり。


さのごとく名号も、おのれなりと往生の功徳をもちたれば、義にもよらず、心にもよらず、詞にもよらず、称ふれば往生するを、他力不思議の行と信ずるなり」


(『一遍上人語録』下巻)








引用:南無阿弥陀仏―付・心偈 (岩波文庫)



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