2016年4月30日土曜日

魚と亀と、ハチミツとヨーグルト [スマナサーラ]



話:アルボムッレ・スマナサーラ





ここで一言、申し上げておきたいことがあります。

お釈迦さまが体験した世界を聞きたいとのことですが、その前提からして、すでに乗り越えるべき壁があります。それは言語には関係ない世界といいますか、言語のすべて、一切の概念の終わったところのものですから、言葉で説明するのは大変むずかしいことです。

お釈迦さまは

「すべての言葉、すべての概念、すべての思考はここまでだ」

と、おっしゃっています。人間の頭で理解できるのは「ここまで」で、それ以上の言葉はない、と。お釈迦さまはそれを、「世間的」「出世間(しゅっせけん)的」という、2つの明確な言葉にわけて説明されています。

「世間的」という言葉がおよぶ範囲は、「すべての生命、一切の生命に関係がある」ところです。そこを超えたところ、つまり「出世間的」な世界が、解脱の境地なのです。







よく物語をつかって説明するのですが、ここにとても分かりやすい例があります。

あるところに、仲良しの魚と亀がいました。ずいぶん親しい友達で、毎日水の中で一緒に遊んでいました。けれどもある日、亀がいなくなってしまいました。それからずいぶん長いこと魚は亀を探しましたが、どこにも見あたりません。

あるとき、ふたたび亀が姿をあらわしたので、魚は聞きました。

「君、どこに行っていたの?」

「陸の上にいっていたんだ」

「えっ、陸ってなに?」

魚は理解できません。おたがい友達ですから、亀は一生懸命、魚に陸のことを説明し、魚もなんとか理解しようとしました。けれども、まったく話がかみあいません。魚は陸の話を、「水の中の常識」で理解しようとしていたからです。



「陸はとてもいいところだよ。こことは比較にならないほど大きいんだ」

「水はきれいなの?」

「いや、水はまったくない」

魚はびっくりします。

「水がないのにキレイでいいところなど、あるわけがない。おまえが言うことはおかしい」

波どころか水もない。あれもない、これもない。泳げもしない。「そうとう危険なところ」ではないか、あるいは「まったく存在しないところ」ではないかと、魚は結論せざるをえませんが、亀はあくまで「ある」「いいところだ」と言い張ります。







これはつまり、亀は2つの世界を経験していて、魚は世界を一つしか経験していない、ということに他なりません。大乗仏教でもこの物語はつかっていると思いますけれども、お釈迦さまが教えたかったこの「出世間の境地」は、「あなたが経験するしかない」ということです。

さらに私は、その物語のつづきをつくります。

「魚にも陸を知る方法がありあす。それは、魚が進化すればいい、ということです。最低でもカエルぐらいに進化すれば、きっとわかりますよ」と。







たとえば

「ハチミツの味を、言葉で説明してください」

と言われたれた、どのような説明をしますか?

自分はハチミツの味をたしかに知っています。ハチミツをなめたことがない人に、「ハチミツは甘い」と言った場合、その人は「甘い」というラベルが貼られた、「別のなにか」と比較することになります。







もっと面白い話があります。

生まれつき目が見えない人のところに、

「新鮮な牛乳でつくったヨーグルト、いかがですか。おいしい、おいしいヨーグルト、いかがですか?」

と叫びながら、ヨーグルト売りがやってきます。それを聞いて、目が見えない人は、

「ヨーグルトとは、どういうものですか?」

とヨーグルト売りにたずねます。

「まっ白いものです」

「『まっ白い』とは、どういうことですか?」

「まっ白を知らないのですか? 『シラサギ』っているでしょう? それの色です」



「シラサギとは、どんなものですか?」

「シラサギはこんな形をしています」

そう言って、手でシラサギの形をつくったところ、その人はそれを触ってみて、

「いや、おれはそれは食べない」

と結論づけるのです。このように人は、「自分のこれまでの経験」で理解しようとするのです。







お釈迦さまの言葉でいえば、

「経験しなくてはなりません」

われわれは基本的に、そういうやり方でやっています。

「とにかく何でもいいから、なめてみて」



経典というのは、言ってみれば「はしご」です。「はしご崇拝主義」ではだめで、はしごを使って、実際に昇れなくてはいけません。

お釈迦さまは「はしご」ではなくて、「いかだ」という喩えをつかっています。

「自分の教えは『いかだ』である。いかだで、この激流をわたれ」

と。そして、

「安全な境地に着いたら、いかだは捨てていきなさい。いかだを運んではいけないよ」

と、さらっと、こともなげに語るのです。結局、教えは「いかだ」なのです。用が済んだら捨てるのです。



もっとも、

「経典はどうでもいい」

と言ったら、ちょっと言い過ぎですね。

「経典はただの『はしご』ですから、要りません」

というわけにもいきません。はしごがなければ上へは行けないわけですから。でも、「はしごは、はしご」なのです。目的ではありません。はしごを拝んでも意味がない。使わなくてはいけないのです。





引用:仏教と脳科学: うつ病治療・セロトニンから呼吸法・坐禅、瞑想・解脱まで (サンガ新書)



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