2016年4月15日金曜日

「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」



話:魚川祐司





子供の頃に読んだ本の中で、

「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」

と、小さな王子さまが言っていた。

この言葉を借りて比喩とするならば、「苦はないのではない、苦はあるのだ」と言い、また、「私は苦を、私は苦を見る」とも言ったゴータマ・ブッダは、「砂漠なんて実は存在しない」とか、「この世は実はオアシスだ」とか、そういうごまかしを語っていたわけではない。

「砂漠はあくまで砂漠である。その現状認識からはじめなさい」

と、彼は最初の説法から、繰り返し語っていた。



だが同時にゴータマ・ブッダは、「この世はしょせん砂漠だから、さっさと死ぬのがいちばんです」というような、単純な厭世主義やペシミズムを語ったわけでも決してない。そのような仏教の解釈は、単に「現代的ニヒリズム」に冒された私たちが、「ゴータマ・ブッダも全ては無意味だと語ったに違いない」というバイアスによって、彼の教説を判断してしまうところから出てきているに過ぎないものである。

実際のゴータマ・ブッダが語ったことを見るならば、彼は「砂漠だ」と明言しただけではなくて、そこにきちんと「井戸」が隠されていることも教えており、また、その「井戸」の存在を知る者にとっては、「砂漠」は「砂漠」のままに「美しい」ということも、伝えられてきたテクストとそれに沿った実践から、正しく引き出して知ることができる。これらのことは、いずれも仏教の本質的な内容であって、そのどれかを欠いた形で語ってしまうのであれば、それらはいずれにせよゴータマ・ブッダの仏教の解釈としては不十分だ。

言わずもがなのことであるが、上の比喩に言う「井戸」とは、もちろん「仏教思想のゼロポイント」である解脱・涅槃のことであり、そこから反照したときに覚者の眼(buddhacakkhu)に映じる「砂漠」、即ち、苦なる現象の世界の風光が、悟後のゴータマ・ブッダに死ではなく説法を選ばせたものである。そして、その風光はまた、後の時代にゴータマ・ブッダの教えを実践した者たちに、彼らの住まう地域や歴史的状況の文脈に応じて、新しく「仏教」について語らせる原動力、もしくは原風景ともなった。





引用:仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か



0 件のコメント:

コメントを投稿