2016年4月27日水曜日

「懈怠比丘、不期明日」 [裏千家]



話:土門拳


千利休の孫元伯宗旦は、正保五年(1648)71歳のとき、不審庵を嫡子江岑宗左(こうしんそうさ)に相続させて、自分はその北裏に隠居所用の茶室を建てた。一畳台目の閑寂そのものの如き会心の茶室ができた。

そこで、かねて師事する大徳寺の清 巌和尚に席名をたのんだ。さてその約束の朝、何時間待っても和尚は現れなかった。午後には他の約束があったので、

「もし和尚が来られたら、明日改めてお越し下さるように伝えよ」

と命じて、宗旦は出掛けた。



一足違いに清巌和尚は来たが、その伝言を聞くと、ツカツカと茶室へ入ったが、また直ぐ出て来ると、家人の引き留めるのを振り切って、帰ってしまった。

やがて帰って来た宗旦は、その話を聞いて、急いで茶室へ行って見た。

壁に墨の色も生々しく

「懈怠比丘、不期明日」

と書き残してあった。



宗旦は大徳寺へ飛んでいって、詫びた。

そして席名は、叱られた「不期明日」に因んで、今日庵(こんにちあん)と命名した。







その今日庵を、宗旦の第三子仙叟(せんそう)宗室が承けて、連綿として今日に続いているのが、すなわち裏千家である。

当代の宗室宗匠は、流祖利休十四代の後裔にあたる。

「君子の交、淡々として水の如し」

から取って、淡々斎と号していられるが、誠にこだわりのない気さくな人だった。

「さあ、どこがですかな。どこでもいいですよ」

と邸内を自分で案内して下すった。

露地を飛石伝いに、利休小袖の手水鉢(ちょうずばち)、宗旦手植えの公孫樹(いちょう)、光悦の灯篭、それに今日庵、又隠(ゆういん)、寒雲亭(かんうんてい)の茶室など、いずれも300百年の由緒ある遺跡だったが、僕は結局、一番広い書院造りの寒雲亭を選んだ。襖に点々と墨が飛び散ったようなのは、狩野探幽の「八仙人図」だった。



茶筌をあつかう作法を撮ったとき、宗匠の真上に配置した特大の閃光電球が爆発した。轟然とガラスの破片が座敷一面に飛び散った。近年に珍しい大爆発だった。

宗匠は破片を頭から浴びたが、茶筌を拭う姿勢のまま坐っていられた。顔色一つ変えず、そんな突発事故など、どこにもないみたいだった。

僕は「ウム、これはホンモノだ」と感動した。



宗匠は静かに破片を払い落としながら

「まだ写真は終わらないのでしょう?」

と僕に聞かれた。

「ハア、まだです」

と答えると、騒ぐ人々を皆座敷から退かせた。そして座敷の破片を丁寧に掃き取られた。宗匠が自分で箒を手にするなどということは、何年に一度もないことなのではないか、と僕は見ていた。

掃き終ると、宗匠は元の位置にキチンと坐り直して、撮影を待っていられた。










引用:土門拳全集〈9〉風貌「千宗室」




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