2016年4月30日土曜日

紙でない要素 non-paper element [T.N.Hanh]



話:室謙二





それでは、このところワークショップに通っているベトナムの坊さん、ティク・ナット・ハンは「空(くう)」をなんて説明しているのか?

こちらは実に簡単なゆっくりとした口語英語で、分かりやすく「空(emptiness)」を説明している。彼は分厚いニューヨーク・タイムス紙を手にしながら、私たちのまえでこう語った。



この新聞には、さまざまな事件が書かれています。それではこの新聞の一ページを見ましょう。

文字を読むのではなくて、紙自体をみると、そう、もしあなたが詩人なら新聞が印刷されている紙に、「木」を見ることができる。なぜなら、紙はパルプから作られて、パルプは木から作られるから。

そしてまた、その木が生えていた、うっそうとした「森」を見ることもできます。いや木々のみではない。「太陽」がなくては、「雨」がなくては、「風」がなくては、木は育たなかったのです。



だからこのニューヨーク・タイムスの一ページの紙の向こうに、それらが、木が森が、太陽と雨と風が見えてくるはずです。

もう少し考えましょう。

木はパルプになるために、切り倒されなければならなかったのです。あなたが詩人なら、この新聞の紙のなかに、「キコリ」さえ見ることができるはずです。それらの要素がこの紙を作っているのです。



そう考えていけば、この紙は多くの「紙でない要素(non-paper element) 
によって作られていることが分かりますね。「太陽」も「雨」も「風」もそれに「木」も「キコリ」も、それは紙を作っている「紙でない要素」です。

つまり「紙という要素」は「紙でない要素(non-paper element)によって作られているといってよいのです。



それでは次に、その「紙でない要素(non-paper element)」を、紙から、もとの場所にもどしてやろうではないか。パルプは木にもどり、それを育てた太陽の光は太陽にもどろ、雨は空に、風も雲も、その元あったところに、キコリはその父親にもどしてあげよう。

つまり紙を形作っていた「紙でない要素」を、そのそれぞれの場所にもどしてやったとすると、あとには「紙そのもの」というものが、残るのであろうか?

「どう思うかな?」

とティク・ナット・ハンは私たちに聞いた。

何も残らない。



So we say, "A sheet of Paper is made of no-paper elements." 

A cloud is a no-paper element.

The forest is a non-paper element.

Sunshine is a non-paper element.



The paper is made of all the non-paper elements to the extent that if we return the non-paper elements to their sources, 

the cloud to the sky, 

the sunshine to the sun, 

the logger to his father, 

the paper is empty.



というわけで、ついに「空(くう)」、empty が出てきた。

紙そのものは「紙でない要素(non-paper elements)」によって成り立っている。その紙を作る「紙でない要素」を、元のところに戻したとしたら、紙は「からっぽ(空)」になる。ということで、

「それ自体が他と関係なく、独立して成り立っている存在などはない」

と空(くう)と縁起を説明した。



他から独立した自分自身(separate self)ということはない。

自分自身(self)は「自分自身以外の要素(non-self elements)」によって形作られている。

だから、独立した存在と感じられ、思われている自分自身(自我)は、本当は完全な空(くう)なのです。







ところでティク・ナット・ハンは、そういう話を子供たちと共にするのだった。

彼は子供たちをステージに呼び上げて、自分の隣に座らせる。そして、そのひとりひとりに「キミはいくつかな? 誕生日はいつかな?」と聞いていた。

それから

「誕生日のまえにキミはどこにいたのだろう?」

と質問をすすめた。カリフォルニアのカウンター・カルチャーの子供たちだから、みんなそれぞれに、

「お父さんとお母さんがメイク・ラブして、それからお母さんの体の中にいた」

とはっきり言う。



そこでティク・ナット・ハンは話をすすめて

「それじゃあ、お父さんとお母さんがメイク・ラブする前は、キミはどこにいたのかな?」

と聞くのである。子供たちは

「半分はお父さんの中で、半分はお母さんの中だ」

とは言うけど、すでに確信がない。



そこで彼はもうひとつ話を進める。

「お母さんが生まれる前には、キミはどこにいたのかな」

子供たちは答えられない。



このティク・ナット・ハンと子供たちの問答が、禅の公案(修行するものに与えられる課題)から来ていることに、ワークショップが終わって数日たってから気がついた。

それほどその会話は自然で、子供とそれをとりまく大人の聴衆を、不思議な愉快さとともに、公案ということを意識することなしに、仏教の核心的な疑問に連れて行くものだった。

その公案は

「父母(ふぼ)未生(みしょう)以前の本来の面目(めんもく)如何(いかん)
(父母が生まれる前に、おまえの顔かたちはどこにあったのか?)

である。



こうやって子供たちも、それを取り巻いている大人たちも、

「いったい自分たちはどこから来たのだろう? 今どこにいるのだろう? そして、どこへ行くのだろう?」

という大きな問いを与えられたのだった。







引用:アメリカで仏教を学ぶ (平凡社新書)



0 件のコメント:

コメントを投稿