tag:blogger.com,1999:blog-83195924386725087652024-03-14T08:14:07.708+09:00ひとり ZEN 寺道へ道へ、1.5Unknownnoreply@blogger.comBlogger212125tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-42972903094157691212022-09-01T13:40:00.003+09:002022-09-01T13:40:32.181+09:00[テーラ・ガーター]チューラ・パンタカ<p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8F%E5%BC%9F%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%91%8A%E7%99%BD%E2%80%95%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%9D%92-327-1-%E4%B8%AD%E6%9D%91/dp/4003332717?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=2O160CY61DEAM&keywords=%E4%BB%8F%E5%BC%9F%E5%AD%90&qid=1662007195&sprefix=%E4%BB%8F%E5%BC%9F%E5%AD%90%2Caps%2C277&sr=8-4&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=17ec63ddf45cd12889887b6cbd2b988d&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4003332717&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4003332717" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /><br /></p><p> </p><p>『テーラガーター』</p><p>仏弟子の告白</p><p>中村元</p><p><br /></p><p>チューラパンタカ長老</p><p><br /></p><p>557</p><p>わたしの進歩は遅かった。わたしは以前には軽蔑されていた。兄はわたしを追い出した。――「さあ、お前は家へ帰れ!」といった。</p><p><br /></p><p>558</p><p>こうして、追い出されて、わたしは僧園の通路の小屋に、がっかりして、静かに立っていた。――なお教えのあることを期待して。</p><p><br /></p><p>559</p><p>そこへ尊き師が来られて、わたしの頭を撫でて、わたしの手を執って、僧園のなかに連れて行かれた。</p><p><br /></p><p>560</p><p>慈しみの念をもって師はわたしに足拭きの布を与えられた。――「この浄らかな物をひたすらに専念して、気をつけていなさい」といって。</p><p><br /></p><p>561</p><p>わたしは師のことばを聞いて、教えを楽しみながら、最上の道理に到達するために、精神統一を実践した。</p><p><br /></p><p>562</p><p>わたしは過去世の状態を知った。見通す眼(天眼・てんげん)は浄められた。三つの明知は体得された。ブッダの教えはなしとげられた。</p><p><br /></p><p>563</p><p>パンタカは、千度も(神通力によって)千度も自分のすがたをつくり出し、楽しいマンゴーの林のなかで坐していた。――〔供養するための〕時が告げられるまで。</p><p><br /></p><p>564</p><p>次いで、師は、時を告げる使者をわたしのところへ派遣された。時が告げられたときに、わたしは〔跳び上って〕空中を通って〔師のもとに〕近づいた。</p><p><br /></p><p>565</p><p>師の御足(みあし)に敬礼して、わたしは一方の側(かたわら)に坐した。わたしが坐したのを知って、そこで師は〔わたしの帰依を〕受けた。</p><p><br /></p><p>566</p><p>全世界の布施(尊敬)を受ける人、もろもろの献供を受ける人、人間どもの福田(福を生ずる田)は、供物を受けたもうた。</p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-52589909725715529832022-09-01T13:27:00.002+09:002022-09-01T13:27:40.126+09:00[増谷文雄]チューラ・パンタカの話<p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%BC%9F%E5%AD%90%E3%81%9F%E3%81%A1-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%95%99%E9%A4%8A%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%A2%97%E8%B0%B7-%E6%96%87%E9%9B%84/dp/4390116185?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=10P6OQ20SD0YC&keywords=%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80+%E5%BC%9F%E5%AD%90+%E5%A2%97%E8%B0%B7%E6%96%87%E9%9B%84&qid=1662006389&sprefix=%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80+%E5%BC%9F%E5%AD%90+%E5%A2%97%E8%B0%B7%E6%96%87%E9%9B%84%2Caps%2C172&sr=8-4&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=75cdb3b76af0273c90607578332af6a4&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4390116185&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4390116185" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>ブッダ・ゴータマの弟子たち</p><p>増谷文雄</p><p><br /></p><p>16 愚かなる弟子たち</p><p><br /></p><p>3</p><p><br /></p><p> もう一つ、愚かなる弟子といえば、どうしても思い出さざるをえない人物がある。それは、チューラ・パンタカ(周利槃特・しゅりはんどく)と称せられる人物である。</p><p><br /></p><p> 「チューラ」とは「小」という意味のことばである。彼には一人の兄があって、その兄をマハー・パンタカ、すなわち「大なるパンタカ」と称するにたいして、これなる弟のパンタカをチューラ・パンタカ、すなわち「小なるパンタカ」と称するのである。さらにいえば、この兄弟二人のパンタカは、いずれも出家してブッダ・ゴータマにしたがう沙門となった。だが、その兄なるパンタカは、その頭脳すぶれ、はやくも阿羅漢すなわち尊敬すべき聖者の境地に達することをえたのに、これなる弟のパンタカは、稀代の物覚えのわるい人物であって、そのために、これから述べるようなあわれな物語の主人公となったのである。しかるところ、後代のわたくしどもは、かえって、この愚かなるチューラ・パンタカのうえに、万斛(ばんこく)の涙をそそぎながらも、ふかい親しみを感じる。まことに不思議な人のこころの動きというものではないか。</p><p><br /></p><p> では、『テーラ・ガーター(長老偈経)』や『ジャータカ(本生物語)』などが彼について記しのこすところによって、その物語をつづってみよう。</p><p><br /></p><p>「わが進歩遅々たりしため</p><p> われは人々に軽賤(けいせん)せられたり</p><p> 兄はわれを追い出していいぬ</p><p>『なんじ今は去りて家に帰れ』と」</p><p>(『テーラ・ガーター』557偈)</p><p><br /></p><p> 兄弟二人のなかで、さきに出家したのは、兄なるマハー・パンタカであった。かれは、すでにいったように頭のよい生まれで、よくブッダの教えるところを理解し、すぐれた成果をあげることができた。「このすばらしい教えを弟にも味わわせてやりたい」。それが兄弟の情というものである。そこで、兄は、弟なるチューラ・パンタカをも、勧めて出家させたのであるが、彼はすっかり兄の期待を裏切ってしまった。さきにもいったように、稀なる物覚えのわるい頭の持ち主であったからである。</p><p><br /></p><p> ブッダ・ゴータマは、彼に四句の一偈を与えたもうた。だが、彼は、どうしてもそれを暗記することができない。一句を憶えようとすれば、もうさきの一句を忘れてしまうという有様であった。『ジャータカ』のいうところによると、四ヶ月かかっても、その偈を暗記できなかったという。人々は、彼を軽蔑した。それを見ていると、兄もたまらない思いにかられた。</p><p><br /></p><p>「これでは、とても駄目だ。おまえは、もう家に帰ったほうがよい」</p><p><br /></p><p> たよりに思う兄からも見はなされて、精舎の門のあたりに、茫然と立ちすくんでいると、そこにブッダ・ゴータマが現れて、その頭を撫で、その手をとって、精舎に連れかえった。</p><p><br /></p><p>「チューラ・パンタカよ、失望することはない。なんじはわたしによって出家したのであるから、わたしの許におればよいのだ」</p><p><br /></p><p> そして、師は、彼に布切れをあたえ、それで人々の履物(はきもの)をぬぐうことを命じたという。</p><p><br /></p><p>「チューラ・パンタカよ、なんじは、なんにも憶えないでもよい。ただ、この布切れをもって、人々の履物を浄めることに専念するがよろしい」</p><p><br /></p><p> わたしは、当時の比丘たちが、どんな履物をはいていたかを知りたいと思うのであるが、どうしても、的確にしることができない。奈良・興福寺に蔵するところの十大弟子の像によると、その履物は、わた国の草履(ぞうり)や足駄(あしだ)に似ている。それが、かの時代のかの地の比丘たちの履物をうつしたものであるかどうかは知るよしもないのであるが、</p><p><br /></p><p>ともあれ、履物というものは、靴にあれ、足駄にあれ、人間が身につけている物のなかでは、いちばん汚れやすい。きれいに磨きあげられた靴を履くのは気もちがよい。足駄の清らかなのもよい気もちである。だが、靴を磨くことはなかなかやれない。足駄の掃除もめったにしないのが、わたしどもの常である。磨いてもまたすぐ汚れるのだと思うと、いやになってしまうからである。だが、また汚れるからといって、磨き清めることを怠っていたら、どういうことになるのか。</p><p><br /></p><p> ブッダ・ゴータマが彼に「専念する」ことを命じたのは、そのような仕事であった。チューラ・パンタカは、師の仰せをかしこんで、そのわざに専念した。そのうちに、彼がふと気がついたことは、人間もまたそうであるということであった。人の心ほど汚れやすいものはない。それを浄めることは難しい。だが、だからこそ、人は、われとわが心を清めることに専念しなければならない。そのことに気がついた時、彼は一偈を諳んずることもなくして、ブッダの教えのなんたるかを会得することができたのであった。</p><p><br /></p><p> つまり、仏教とは、なによりもまず清浄な人生のたっとさを知ることであり、それにまさる人生はないと思いさだめて、力をつくしてそのような人生を生きる。それを他にして仏教はないのである。仏教とは所詮そのことに尽きるのである。そして、いま、かの愚かなるチューラ・パンタカは、智識によらず、理解によらずして、端的にそのことを把握しえたのである。</p><p><br /></p><p> そこで、もう一度さきの道元のことばを思い出していただきたい。そこには、この道は「有智高才を用いず」とあった。また、「霊利聡明によらぬは、まことの学道なり」とあった。それを、このチューラ・パンタカの生涯は、文字通りに実現しているのであり、みごとに証明しているのである。</p><p><br /></p><p> わたしが、ここに、あえて「愚かなる弟子たち」を語る所以もまた、そのことを証しせんがために他ならない。</p><p><br /></p><p>チューラ・パンタカ</p><p>増谷文雄</p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-3878951429355987842022-08-31T08:37:00.002+09:002022-08-31T08:37:47.030+09:00[相応部]プンナ<p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%9B%B8%E5%BF%9C%E9%83%A8%E7%B5%8C%E5%85%B8-%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%B7%BB-%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E4%BB%8F%E5%85%B8II-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E5%85%83/dp/4393113047?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=ZDG69KHDUA5A&keywords=%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E4%BB%8F%E5%85%B8+%E7%9B%B8%E5%BF%9C%E9%83%A8&qid=1661902569&sprefix=%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E4%BB%8F%E5%85%B8+%E7%9B%B8%E5%BF%9C%E9%83%A8%2Caps%2C302&sr=8-4&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=25390d4e00cd92b76973cb6207a5f1d9&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4393113047&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4393113047" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>原始仏典Ⅱ</p><p>相応部経典 第四巻</p><p><br /></p><p>第2部 第二の50節</p><p>第4章 チャンナの章</p><p><br /></p><p>第5節 プンナ</p><p><br /></p><p>ある時、プンナ尊者が、世尊のいるところへ近づいた。近づいて、〔世尊に礼拝し、一方に坐った〕。一方に坐ったプンナ尊者は、世尊にこう申しあげた。</p><p><br /></p><p>「尊き方よ、どうぞ、わたしに、簡略に教えをお説きください。その教えを聞いて、わたしは、独り遠くはなれたところで、怠けることなく、熱心に、自ら努力して暮らそうと思います」と。</p><p><br /></p><p>「プンナよ、眼によって識別される色があり、〔それらは〕望ましく、欲しがられ、好みにあい、愛らしく、欲をともない、魅力的なものである。もし、比丘がこれに対して、おおいに喜び、迎え入れて、執着するならば、それをおおいに喜び、迎え入れ執着するところの彼に、喜びが生じる。プンナよ、喜びが生じることにより苦しみが生じる、とわたしは説く。</p><p><br /></p><p> プンナよ、耳によって識別される声があり、〔それらは〕望ましく、欲しがられ、好みにあい、愛らしく、欲をともない、魅力的なものである。もし、比丘がこれに対して、おおいに喜び、迎え入れて、執着するならば、それをおおいに喜び、迎え入れ執着するところの彼に、喜びが生じる。プンナよ、喜びが生じることにより苦しみが生じる、とわたしは説く。</p><p><br /></p><p> プンナよ、鼻によって識別される香があり、〔それらは〕望ましく、欲しがられ、好みにあい、愛らしく、欲をともない、魅力的なものである。もし、比丘がこれに対して、おおいに喜び、迎え入れて、執着するならば、それをおおいに喜び、迎え入れ執着するところの彼に、喜びが生じる。プンナよ、喜びが生じることにより苦しみが生じる、とわたしは説く。</p><p><br /></p><p> プンナよ、舌によって識別される味があり、〔それらは〕望ましく、欲しがられ、好みにあい、愛らしく、欲をともない、魅力的なものである。もし、比丘がこれに対して、おおいに喜び、迎え入れて、執着するならば、それをおおいに喜び、迎え入れ執着するところの彼に、喜びが生じる。プンナよ、喜びが生じることにより苦しみが生じる、とわたしは説く。</p><p><br /></p><p> プンナよ、身によって識別される触があり、〔それらは〕望ましく、欲しがられ、好みにあい、愛らしく、欲をともない、魅力的なものである。もし、比丘がこれに対して、おおいに喜び、迎え入れて、執着するならば、それをおおいに喜び、迎え入れ執着するところの彼に、喜びが生じる。プンナよ、喜びが生じることにより苦しみが生じる、とわたしは説く。</p><p><br /></p><p> プンナよ、意によって識別される法があり、〔それらは〕望ましく、欲しがられ、好みにあい、愛らしく、欲をともない、魅力的なものである。もし、比丘がこれに対して、おおいに喜び、迎え入れて、執着するならば、それをおおいに喜び、迎え入れ執着するところの彼に、喜びが生じる。プンナよ、喜びが生じることにより苦しみが生じる、とわたしは説く。</p><p><br /></p><p>プンナよ、眼によって識別される色があり、〔それらは〕望ましく、欲しがられ、好みにあい、愛らしく、欲をともない、魅力的なものであり。もし、比丘がこれに対して、おおいに喜ばず、迎え入れず、執着することがないならば、それをおおいに喜ばず、迎え入れず、執着することのない彼に、喜びが滅する。プンナよ、喜びが滅することにより苦しみが滅する、とわたしは説く。</p><p><br /></p><p>プンナよ、耳によって識別される声・鼻によって識別される香・舌によって識別される味・身によって識別される触があり、〔それらは〕望ましく、欲しがられ、好みにあい、愛らしく、欲をともない、魅力的なものであり。もし、比丘がこれに対して、おおいに喜ばず、迎え入れず、執着することがないならば、それをおおいに喜ばず、迎え入れず、執着することのない彼に、喜びが滅する。プンナよ、喜びが滅することにより苦しみが滅する、とわたしは説く。</p><p><br /></p><p>プンナよ、意によって識別される法があり、〔それらは〕望ましく、欲しがられ、好みにあい、愛らしく、欲をともない、魅力的なものであり。もし、比丘がこれに対して、おおいに喜ばず、迎え入れず、執着することがないならば、それをおおいに喜ばず、迎え入れず、執着することのない彼に、喜びが滅する。プンナよ、喜びが滅することにより苦しみが滅する、とわたしは説く。</p><p><br /></p><p>〔ところで〕プンナよ、あなたは、わたしから、この簡略な教えによって教戒を受けて、〔これから〕どこの地方に滞在しようとするのか」</p><p><br /></p><p>「尊き方よ、スナーパランタという地方があります。わたしは、そこに滞在しようと思います」</p><p><br /></p><p>「プンナよ、スナーパランタの人たちは粗暴である。スナーパランタの人たちは〔粗暴である〕。もし、スナーパランタの人たちがあなたを罵り、悪口をいうなら、プンナよ、そのとき、あなたはどうするのか」</p><p><br /></p><p>「尊き方よ、もし、スナーパランタの人たちがわたしを罵り、悪口をいうなら、そのときには、わたしはこのように考えます。『このスナーパランタの人たちはじつに善い人たちだ、このスナーパランタの人たちはてても善い人たちだ、〔なぜなら〕彼らはわたしを手で打ったりしないから』と。そのときには、世尊よ、このように考えます。そのときには、幸いな人(善逝)よ、このように考えます」</p><p><br /></p><p>「では、プンナよ、もし、スナーパランタの人たちが、あなたを手で打ったならば、そのときは、あなたはどうするのか」</p><p><br /></p><p>「尊き方よ、もし、スナーパランタの人たちが、わたしを手で打ったならば、そのときには、わたしはこのように考えます。『このスナーパランタの人たちはじつに善い人たちだ、このスナーパランタの人たちはとても善い人たちだ、〔なぜなら〕彼らはわたしに土塊を投げたりしないから』と。そのときには、世尊よ、このように考えます。そのときには、幸いな人よ、このように考えます」</p><p><br /></p><p>「では、プンナよ、もし、スナーパランタの人たちが、あなたに土塊を投げたならば、そのときは、あなたはどうするのか」</p><p><br /></p><p>「尊き方よ、もし、スナーパランタの人たちが、わたしに土塊を投げたならば、そのときには、わたしはこのように考えます。『このスナーパランタの人たちはじつに善い人たちだ、このスナーパランタの人たちはとても善い人たちだ、〔なぜなら〕彼らはわたしを棒でたたいたりしないから』と。そのときには、世尊よ、このように考えます。そのときには、幸いな人よ、このように考えます」</p><p><br /></p><p>「では、プンナよ、もし、スナーパランタの人たちがあなたを棒でたたいたならば、そのときは、あなたはどうするのか」</p><p><br /></p><p>「もしスナーパランタの人たちが、わたしを棒でたたいたならば、そのときには、わたしはこのように考えます。『このスナーパランタの人たちは善い人たちだ、このスナーパランタの人たちはとても善い人たちだ、〔なぜなら〕彼らはわたしを刀で打ったり(斬りつけたり)しないから』と。そのときには、世尊よ、このように考えます。そのときには、幸いな人よ、このように考えます」</p><p><br /></p><p>「では、プンナよ、もし、スナーパランタの人たちがあなたを刀で打ったならば、そのときは、あなたはどうするのか」</p><p><br /></p><p>「尊き方よ、もし、スナーパランタの人たちがわたしを刀で打ったならば、そのときには、わたしはこのように考えます。『このスナーパランタの人たちは善い人たちだ、このスナーパランタの人たちはとても善い人たちだ、なぜなら、彼らはわたしを、鋭利な刃物で殺したりしないから』と。そのときには、世尊よ、このように考えます。そのときには、幸いな人よ、このように考えます」</p><p><br /></p><p>「では、プンナよ、もし、スナーパランタの人たちが、鋭利な刃物であなたを殺したならば、そのときは、あなたはどうするのかね」</p><p><br /></p><p>「尊い方よ、もし、スナーパランタの人たちが鋭利な刃物でわたしを殺したならば、そのときには、わたしはこのように考えます。『尊師の弟子たちには、身体や生命に悩み、恥じて、厭い、自分を殺してくれる人を求める人さえいる。それなのに、わたしは求めることなく、まさにその自分を殺してくれる人を得た』と。そのときには、世尊よ、このように考えます。そのときには、幸いな人よ、このように考えます」</p><p><br /></p><p>「プンナよ、よろしい。みごとである。それほどの自制と忍耐をそなえるあなたなら、スナーパランタの地方に住むことができるだろう。プンナよ、あなたがちょうどよい時だとおもうなら〔出かけなさい〕」</p><p><br /></p><p>そこで、プンナ尊者は、世尊の説かれたことにおおいに喜び、感謝し、座より立ちあがって、世尊を礼拝し、右回りの礼をおこなって、臥坐具を収め、外衣と鉢を取って、スナーパランタの地方へと遊行に出発した。順次に遊行をしながら、スナーパランタの地方へ入った。そこで、プンナ尊者は、まさにそのスナーパランタの地方に滞在した。</p><p><br /></p><p>そして、プンナ尊者は、その年の雨期の安居のあいだに、五○○人の在家信者(優婆塞)と五○○人の在家信女(優婆夷)を仏の教えに導き実践させた。また、その年の雨期の安居のあいだに、三つの明知をさとった。そして、その雨期の安居のあいだに完全な安らぎ(般涅槃)に入った。</p><p><br /></p><p>さて、多くの比丘たちは、世尊のいるところへ近づいた。〔近づいて、世尊に礼拝し、一方に坐った〕。一方に坐ったかれら比丘たちは、世尊にこう申しあげた。</p><p><br /></p><p>「尊い方よ、プンナという名の立派な人(良家の子)は、世尊によって、簡潔な教えにより教戒されましたが、その彼は亡くなりました。彼の赴くところはどのようなところでしょうか、彼の未来の運命はどのようなものでしょうか」</p><p><br /></p><p>「比丘たちよ、プンナという立派な人は賢者であった。教えにしたがって〔正しく〕実践し、教えに関しての議論で、わたしを悩ましたことはない。比丘たちよ、立派な人であるプンナ比丘は完全なる安らぎに入ったのである」</p><p><br /></p><p>原始仏典Ⅱ</p><p>相応部経典 第四巻</p><p><br /></p><p>第2部 第二の50節</p><p>第4章 チャンナの章</p><p>第5節 プンナ</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BC%9F%E5%AD%90%E2%80%9589%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E8%8F%85%E6%B2%BC-%E6%99%83/dp/4831823007?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=1QZ3TZRT7K4ZJ&keywords=%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80+%E5%BC%9F%E5%AD%90&qid=1661902615&sprefix=%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80+%E5%BC%9F%E5%AD%90%2Caps%2C196&sr=8-6&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=04fa1a2cdf30f86be3e8863d70514091&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4831823007&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4831823007" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-76355297142594738062022-08-29T08:37:00.001+09:002022-08-31T08:38:10.924+09:00[増谷文雄]プンナの話<p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%BC%9F%E5%AD%90%E3%81%9F%E3%81%A1-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%95%99%E9%A4%8A%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%A2%97%E8%B0%B7-%E6%96%87%E9%9B%84/dp/4390116185?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=1RWPTYV3AJB4K&keywords=%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%BC%9F%E5%AD%90&qid=1661729675&sprefix=%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80+%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%BC%9F%E5%AD%90%2Caps%2C201&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=e063a0838452e792948f884b767d8da0&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4390116185&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4390116185" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>ブッダ・ゴータマの弟子たち</p><p><br /></p><p>1プンナ(富楼那)</p><p><br /></p><p>…</p><p><br /></p><p>ともあれ、それらの資料によって、わたしは、いまここに、幾十人かの仏弟子たちについて語ってみたいと思う。その第一にとりあげるものは、仏弟子の一人として、今日なお知る人もすくなくなプンナ(サンスクリットではプールナ、漢訳では富楼那[ふるな])である。</p><p><br /></p><p>…</p><p><br /></p><p> 彼の出身はスナーパランタ(輸那鉢羅説迦)のスッパーラカ(首波羅・しゅはら)であるという。といっただけでは、見当もつかないのであるが、検(しら)べてみると、それはインドの西海岸に面した海港であって、いまのボンベイ(編集部注:ムンバイ)の北方およそ150kmのあたり、のちのソパーラーがそれであると知られる。そのことからすぐに連想されることであるが、彼の前半生の活動の舞台は海であった。</p><p><br /></p><p> 彼の父もまた、当時のいわゆる長者であったという。おそらくは、海洋貿易を業とする大商人であったのであろうが、彼はその第四子として生まれた。ただ彼は、父とその婢とのあいだに生まれた子であったがために、父の死にあたっても、まったく遺産の分与にあずかることをえず、兄たちと争って、無一物のままにして家を出た。</p><p><br /></p><p>しかるに、彼には父ゆずりの商才がそなわっていたのであろうか、たまたま薪売りから手に入れた牛頭栴檀(ごずせんだん)を元手にして、大いなる資産をなし、父とおなじように大商人となって海洋貿易に従事した。それが計らずも彼をしてブッダ・ゴータマの教えを聞かしめる縁となった。</p><p><br /></p><p>一つの文献(有部薬事、三)によれば、彼はそれまでに、すでに六度海洋を渡って貿易し、しかも、つねに事なくして大利をあげてきていたので、その噂は遠くサーヴァッティーにまで聞こえていた。それを伝え聞いたサーヴァッティーの商人たちは、財貨をスッパーラカの港にまで運んできて、彼の船によって海外貿易のルートに乗せんことを懇請した。そう頼まれてみると、プンナも満更ではない。心よく承諾して、七度目の航海に出発した。</p><p><br /></p><p>しかるに彼はその航海中に、彼らが不思議なことをするのを見た。彼らは、毎日朝夕、一緒に集まって、なにか一心に誦(とな)えているのである。</p><p><br /></p><p>「あんたがたは、なにを歌ってござるのか」</p><p><br /></p><p>と問うと、</p><p><br /></p><p>「これは歌ではありませんよ」</p><p><br /></p><p>という。</p><p><br /></p><p>「では、いったい、なんですか」</p><p><br /></p><p>と問うと、</p><p><br /></p><p>「これはブッダのおしえられたことばです」</p><p><br /></p><p>という。</p><p><br /></p><p> だが、中インドから遠くはなれたインドの西海岸に住むプンナは、まだ「ブッダ」という名さえも聞いたこともない。漢訳の経典のことばをもっていえば「何者かこれ仏」――「ブッダとはいったい何ですか」と問うよりほかはなかった。</p><p><br /></p><p>「沙門ゴータマという方があって、サキャ(釈迦)族から出家され、山林に処して、ついに最高のさとりを得られた。その方をたたえてブッダと申し上げるのです…」</p><p><br /></p><p> サーヴァッティーの商人たちがかの師について語るのを聞いておるうちに、プンナはなにか身のひきしまり、心に沁みるものを感じた。</p><p><br /></p><p>「その方は、いま、どこにおられますか」</p><p><br /></p><p>「サーヴァッティーの南郊のジェータ林に、アナータピンディカ長者が造営したてまつった精舎にあられます」</p><p><br /></p><p> その時、プンナとサーヴァッティーの商人たちを乗せた船は、いったい、どこの港をゆびさしていたか。経の記述は、そんなことには、一向に無関心であるらしい。だが、『ジャータカ(本生物語)』その他の文献によると、当時の大商人たちは、すでにバベルすなわちバビロンまで渡って、巨利を博していたという。いま、プンナの航海の行先は知られていないが、それもまた、遠く海を渡っての貿易であったらしい。経のことばに「渉海労倦(しょうかいろうけん)」とあるのが、そのことをほのめかしている。</p><p><br /></p><p> その航海も事なく了(お)えて、ふたたびスッパーラカに帰ってくると、彼は、席のあたたまる暇もなく、今度は陸路サーヴァッティーに向って出発した。かのアナータピンディカ長者を訪ね、その紹介によってブッダ・ゴータマにまみえようがためである。</p><p><br /></p><p>「貴殿には、とおく海をこえての御商用ときいておりましたが、今度はここまで陸路の御旅行で。さぞお疲れのことでありましょう。いったい、いかなる御商用でございますか」</p><p><br /></p><p>「いや、今度は商用ではありません。ブッダ・ゴータマの教えをうけ、その許(もと)において出家いたしたく、ついては、御紹介を得たいと思って参上いたしました。</p><p><br /></p><p> かくして、二人の長者は、相連れだって祇園精舎を訪れ、ブッダを拝して、まもなく、スッパーラカの長者の出家が実現した。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p> ここまでプンナの生涯のあゆみを辿ってみると、すでに、おおよそ彼の人となりの輪郭をつかむことができる。苦労を積んできた人であったこともわかる。すこぶる商才にとみ、つねに積極的であった人柄もはっきりする。おそらく、一たび決意すれば、断乎としてそれに邁進する人であったにちがいない。それに、ながい海外貿易のあいだに習得した話術は、一挙にして人の復中に飛びこむ底のものであって、それが、やがて、説法第一のプンナを成す重要な由因であったとする理由は充分である。</p><p><br /></p><p> その人柄とその話術をもって、やがて彼は、一箇の伝道者として、ふたたび西の方スナーパランタに帰ってゆく、その出発をまえにして、彼は、師のブッダ・ゴータマを拝していった。</p><p><br /></p><p>「大徳よ、願わくはわがために簡略の法を説きたまえ。わたしは、その法を聞きて、しばし一人して遠くにいたり、放逸ならずして住したいと思います」</p><p><br /></p><p> それは、経のことばがしばしば繰り返す慣用句であって、たとえば、比丘が森林や山岳に独住して修行にいそしもうとする時など、それに先立ってまず師をおとずれ、簡単なおしえを頂いて出発するというのがつねであった。</p><p><br /></p><p> ブッダは、彼の乞うままに簡単におしえを語ったのち、問うていった。</p><p><br /></p><p>「プンナよ、なんじは、いったい、何処にゆこうとするのか」</p><p><br /></p><p>「大徳よ、スナーパランタという地方がございます。わたしはそこに参りたいと思います」</p><p><br /></p><p> それは、彼の生まれた海港スッパーラカのある地方である。彼がその地に帰って、この師のおしえを弘めようとしていることも、ブッダ・ゴータマはよく知っている。だがブッダはまだその地方には行ったことがない。ブッダの伝道の舞台である中インドからは、はるか西の方に離れた土地だからである。ただ噂にきくと、民度もひくく、荒々しい気風のところであるという。ブッダ・ゴータマには、それが気になるのである。</p><p><br /></p><p>「プンナよ、スナーパランタの人々は気が荒いということであるが、プンナよ、もし、彼らがなんじを嘲ったり、罵ったりしたら、なんじはどうするか」</p><p><br /></p><p>「大徳よ、もしそのようなことがあらば、わたしはかように考えます。――まったくスナーパランタの人たちはいい。彼らは掌(て)をもってわたしを打擲(ちょうちゃく)するにはいたらないから――と。わたしは、そう考えたいと思います」</p><p><br /></p><p>「ではプンナよ、もし彼らが掌をもってなんじを打ったなら、なんじはどうするか」</p><p><br /></p><p>「大徳よ、その時には、わたしはかく考えます。――まったくスナーパランタの人たちはいい。彼らは土塊(つちくれ)をもってわたしを打擲するにいたらないから――と。わたしはそう考えたいと思います」</p><p><br /></p><p>「ではプンナよ、もしも彼らが土塊をなんじに投ずるにいたったなら…」</p><p><br /></p><p>「大徳よ、その時には、わたしはかく考えます。――まったくスナーパランタの人々はいい。彼らはいまだ杖(つえ)をもってわたしを打つにいたらない――と。わたしはそう考えたいと思います」</p><p><br /></p><p>「ではプンナよ、もしも杖をもってなんじを打ったら…」</p><p><br /></p><p>「大徳よ、その時には、わたしはかく考えます。――まったくスナーパランタの人々はいい。彼らはいまだ刀剣をもってするにいたらず――と。わたしはそう考えたいと思います」</p><p><br /></p><p>「だが、プンナよ、もしも彼らが刀剣をもってなんじの生命をうばいなば…」</p><p><br /></p><p>「大徳よ、世尊の弟子中には、その身をいとい、その命になやみ、みずから剣をとろうとしたものもあったやに聞いております。しかるに、もしそのようなことあらば、わたしは、みずから求めずして、そのことを成就しうるのであります。大徳よ、わたしはそのように考えたいと思います」</p><p><br /></p><p>「善いかなプンナ、なんじにその覚悟がある。いまは、安んじて、行かんと欲するところに行くがよい」</p><p><br /></p><p> さきにも言うがごとく、初期の経典には、プンナに関する言及は比較的すくない。この一経(相応部経典、三五、八八「富楼那」)のしるすところは、その稀なる言及の一つである。しかも、この烈々たる対話は、初期の全経典のなかにおいても、もっとも輝かしい章節の一つをなしているといって、誰も異論を挿(さしはさ)むものはないであろう。</p><p><br /></p><p> ともあれ、かくしてスナーパランタにいたったプンナは、その第一年にして早くもブッダの教法に帰依するもの五百人を得たという。しかるに、何たることぞ、そのおなじ年の雨期のおわり、彼はなお年壮(としさか)んにして、かの地において没した。まことに惜しみてもあまりあることであった。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%A2%97%E4%B8%8A%E5%AF%BA-%E5%AE%9D%E7%89%A9%E5%B1%95%E7%A4%BA%E5%AE%A4%E9%99%90%E5%AE%9A-%E4%BB%A4%E5%92%8C3%E5%B9%B42%E6%9C%88-%E5%8D%81%E5%A4%A7%E5%BC%9F%E5%AD%90-%E5%AF%8C%E6%A5%BC%E9%82%A3%E5%BE%A1%E6%9C%B1%E5%8D%B0/dp/B09TFTT9PB?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=1AAGKV1GW8ZK5&keywords=%E5%AF%8C%E6%A5%BC%E9%82%A3&qid=1661729754&sprefix=%E5%AF%8C%E6%A5%BC%E9%82%A3%2Caps%2C185&sr=8-3&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=bfed1b044c79956e8a31e9bd6821a133&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B09TFTT9PB&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B09TFTT9PB" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p><p><br /></p><p>プンナ(富楼那)</p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-84236964265304831802022-08-29T07:54:00.000+09:002022-08-29T07:54:07.670+09:00[阿含経典]プンナ<p> <a href="https://www.amazon.co.jp/%E9%98%BF%E5%90%AB%E7%B5%8C%E5%85%B8%E3%80%881%E3%80%89%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87-%E7%B8%81%E8%B5%B7-%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E7%B5%8C%E5%85%B8%E7%BE%A4-%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E5%88%86%E6%9E%90-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB/dp/4480094717?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=362B7GR3DZKRT&keywords=%E9%98%BF%E5%90%AB%E7%B5%8C%E5%85%B8&qid=1649675299&sprefix=%E3%81%82%2Caps%2C808&sr=8-1&linkCode=li2&tag=airroomcom-22&linkId=8b4b11ee96b7bcb4f24931a4251e1a02&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4480094717&Format=_SL160_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li2&o=9&a=4480094717" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>23 プンナ(富楼那)</p><p><br /></p><p>南伝 相応部経典 三五、八八、富楼那</p><p>漢訳 雜阿含経 一三、八、富楼那</p><p><br /></p><p> かようにわたしは聞いた。</p><p> ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の園にましました。</p><p> その時、長老プンナ(富楼那)は、世尊のましますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。</p><p> 傍らに坐した長老プンナは、世尊に申しあげた。</p><p>「大徳よ、願わくは、わがために簡略に法を説きたまわんことを。わたしは、世尊よりその法を聞いて、ただひとり静処にいたって、放逸ならず、熱心に、専念して住したいと思います」</p><p>「プンナよ、眼は色(物体)を見る。その色は、心地よく、愛すべく、心を浮きたたせ、その形もうるわしくして、魅惑的である。もし比丘が、それを喜び、それに心を奪われて、執著していると、やがて彼には、喜悦する心がおこる。そして、喜悦する心がおこると、プンナよ、苦が生起するのだ、とわたしはいう。</p><p> プンナよ、また、耳は声を聞く。……鼻は香を嗅ぐ。………舌は味をあじわう。……身は接触を感ずる。……</p><p> さらに、プンナよ、意は法(観念)を感知する。その法には、心地よく、愛すべく、心を浮きたたせ、その形もうるわしくして、魅惑的なものがある。だが、もし比丘が、それを喜び、それに心を奪われて、執著していると、やがて彼には、喜悦する心が生ずる。そして、喜悦する心が生ずると、プンナよ、苦が生ずるのだ、とわたしはいう。</p><p> だが、プンナよ、眼をもって色を見る。その色は、心地よく、愛すべく、心を浮きたたせ、その形もうるわしくして、魅惑的であるが、もし比丘が、それを喜ばず、それに心を奪われず、執著することがなければ、いつしか彼には、喜悦する心が滅する。そして、喜悦する心が滅すると、プンナよ、苦は滅する、とわたしはいう。</p><p> また、プンナよ、耳は声を聞く。……鼻は香を嗅ぐ。……舌は味をあじわう。……身は接触を感ずる。……</p><p> さらに、プンナよ、意は法を感知する。その法には、心地よく、愛すべく、心を浮きたたせ、その形もうるわしくして、魅惑的なものがある。だが、もし比丘が、それを喜ばず、それに心を奪われず、執著することがなければ、いつしか彼には、喜悦する心が滅する。そして、喜悦する心が滅すると、プンナよ、苦もまた滅する、とわたしはいう。</p><p> ところで、プンナよ、そなたは、わたしのこの簡略な法を聞いて、いったい、いずれの処に行こうとするのであるか」</p><p>「大徳よ、スナーパランタ(輸那鉢羅得迦)というところがございます。わたしは、そこに参りたいと思います」</p><p>「プンナよ、スナーパランタの人々は激しやすい。プンナよ、スナーパランタの人々は荒々しい。プンナよ、もし、スナーパランタの人が、そなたを嘲りののしったならば、プンナよ、そなたはどうするか」</p><p>「大徳よ、もしスナーパランタの人が、わたしを嘲りののしったならば、それを、わたしは、こう考えましょう。〈まったく、このスナーパランタの人は善良である。まったく、このスナーパランタの人は素晴らしい。彼は、わたしを拳をもって打つにいたらない〉と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取ります」</p><p>「だが、プンナよ、もし、スナーパランクの人が、その拳をもってそなたを打ったならば、プンナよ、そなたはどうするか」</p><p>「大徳よ、もしスナーパランタの人が、その拳をもってわたしを打ったならば、それを、わたしは、こう考えましょう。〈まったく、このスナーパランタの人は善良である。まったく、このスナーパランタの人は素晴らしい。彼は、わたしを土塊をもって打つにいたらない〉と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取ります」</p><p>「だが、プンナよ、もしスナーパランタの人が、土塊をもってそなたを打ったならば、プンナよ、そなたはどうするであろうか」</p><p>「大徳よ、もしスナーパランタの人が、土塊をもってわたしを打ったならば、それを、わたしは、こう考えましょう。〈まったく。このスナーパランタの人は善良である。まったく、このスナーパランタの人は素晴らしい。彼は、わたしを杖をもって打つにいたらない〉と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取ります」</p><p>「だが、プンナよ、もしスナーパランタの人が、その杖をもってそなたを打ったならば、プンナよ、そなたは、どうするであろうか」</p><p>「大徳よ、もしスナーパランタの人が、杖をもってわたしを打ったならば、それを、わたしは、こう考えましょう。〈まったく、このスナーパランタの人は善良である。まったく。このスナーパランタの人は素晴らしい。彼は、わたしを刀剣をもって打つにはいたらない〉と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取ります」</p><p>「だが、プンナよ、もしステーパランタの人が、刀剣をもってそなたを打ったならば、プンナよ、そなたは、どう考えるであろうか」</p><p>「大徳よ、もしスナーパランタの人が、刀剣をもってわたしを打ったならば、それを、わたしは、こう考えましょう。〈まったく、このスナーパランタの人は善良である。まったく、このスナーパランタの人は素晴らしい。彼は、いまだ、鋭き刃をもってわたしの生命を奪うにはいたらない〉と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取ります」</p><p>「だが、プンナよ、もしスナーパランタの人が、鋭き刃をもってそなたの生命を奪うにいたったならば、プンナよ、そなたは、それをどう考えるであろうか」</p><p>「大徳よ。もしスナーパランタの人が、鋭き刃をもってわたしの生命を奪ったならば、それを、わたしは、かように考えるでありましょう。〈かの世尊の弟子たちのなかには、その身、その命について、悩み、恥じ、厭うて、みすがら刃をとらんとするものさえあるのに、いま、わたしは、求めずしてその刃をうるのである〉と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取るでありましょう」</p><p>「善いかな、善いかな、プンナよ。汝はすでにかくのごとき自己調御を具有せり。汝は、よくスナーパランタの地に住することをうるであろう。プンナよ、いまは、汝の思うままになすがよろしい」</p><p> その時、長老プンナは、世尊のことばを歓び受け、心に喜びをいだいて、座より起ち、世尊を礼拝して右繞し、坐具をおさめ、衣鉢をたずさえて、スナーパランタの地にむかって出発した。しだいに旅をかさねて、スナーパランタの地につくと、長老プンナはその地に住した。</p><p> そして、長老プンナは、そこで、その年のあいたに、五百の在家信者を法に導き、また、その年のあいだに三明を実現し、また、そのおなじ年に完全なる涅槃に入った。</p><p> そこで、おおくの比丘たちは、世尊のましますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。</p><p> 傍らに坐したそれらの比丘たちは、世尊に申しあげた。</p><p>「大徳よ、かのプンナと名づける良家の子は、世尊より簡略なる法を説きあたえられましたが、彼は、ついにその生を終りました。彼が趣くところは、いずこでございましょうか。また、彼のうくる来世はいかがなものでありましょうか」</p><p>「比丘たちよ、良家の子なるプンナは聡明であった。彼は法にあらがって、わたしを傷つけるようなことはなかった。比丘たちよ。良家の子なるプンナは、完全なる涅槃に入ったのである」</p><p><br /></p><p>注解</p><p>この経題は「プンナ」(富楼那)である。彼は、後世、仏十大弟子の一人として、説法第一と称せられる。彼もまた、釈尊を拝して、簡略の法を賜わらんことを乞うた。彼が、スナーパランタヘ趣く覚悟として師のまえに披瀝したことばは、まことに感銘ふかいものであった。</p><p><br /></p><p>*完全なる涅槃 漢訳では「般涅槃」と音写した。入滅すなわち死を意味する。だが、この用法は初期の経にはすくない。</p><div><br /></div>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-14928142895584956402022-08-28T13:37:00.004+09:002022-08-28T13:44:51.257+09:00[中部経典86]アングリマーラ<p>原始仏典 第6巻</p><p>中部経典Ⅲ</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E4%BB%8F%E5%85%B8%E3%80%88%E7%AC%AC6%E5%B7%BB%E3%80%89%E4%B8%AD%E9%83%A8%E7%B5%8C%E5%85%B83-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E5%85%83/dp/4393112261?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=2Y47DPQ87CVYL&keywords=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9&qid=1661661329&sprefix=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%2Caps%2C513&sr=8-5&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=34d3cf3f6ce3b45db2a03612ec4197b4&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4393112261&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4393112261" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>第86経</p><p>残忍な盗賊アングリマーラの帰依</p><p>央掘摩経</p><p><br /></p><p>わたしはこのように聞いた。あるとき、世尊はサーヴァッティーにあるジェータ林のアナータピンディカの森に住んでおられた。その頃、パセーナディコーサラ王の国には、アングリマーラという名の盗賊がいた。かれは残忍で、手は血塗られており、人を殺すことに固執しており、生きとし生けるものに対してあわれみをもたずにいた。それゆえに村々も村ではなくなり、多くの町も町ではなくなり、国々も国ではなくなった。その男は、人々を殺しに殺して〔その人たちの〕指で作った首飾りを身につけていた。</p><p><br /></p><p>そのとき世尊は、朝早く内衣を着て鉢を手にもち、上衣を着てサーヴァッティーに托鉢に入った。サーヴァッティーで托鉢にまわった後、臥座所をたたんで鉢を手にとり、上衣を着て盗賊アングリマーラがいる道に進んだ。そのとき、牛飼いや山羊飼いや農夫や走っている人々が、盗賊アングリマーラがいる道に進んで行く世尊を見た。世尊を見て、こういった。</p><p><br /></p><p>「沙門よ、この道を行かない方がいい。沙門よ、この道には、アングリマーラという名の盗賊がいます。かれは残忍で手は血塗られており、人を殺すことに夢中になり、生きとし生けるものにあわれみをもたずにいました。だから村々も村ではなくなり、多くの町も町ではなくなり、国々も国ではなくなりました。その男は、人々を殺しに殺して指で作った首飾りを身につけているのです。</p><p><br /></p><p> じつに沙門よ。この道を十人の人々も、二十人の人々も、三十人の人々も、四十人の人々も集まって進みました。かれらもまた、盗賊アングリマーラの手中におちたのです」</p><p><br /></p><p> こういったとき世尊は、沈黙されて行った。二度目にも、牛飼いや山羊飼いや農夫や走っている人々は世尊にこういった。</p><p><br /></p><p>「沙門よ、この道を行かない方がいい。沙門よ、この道には、アングリマーラという名の盗賊がいます。かれは残忍で手は血塗られており、人を殺すことに夢中になり、生きとし生けるものにあわれみをもたずにいました。だから村々も村ではなくなり、多くの町も町ではなくなり、国々も国ではなくなりました。その男は、人々を殺しに殺して指で作った首飾りを身につけているのです。</p><p><br /></p><p> じつに沙門よ。この道を十人の人々も、二十人の人々も、三十人の人々も、四十人の人々も集まって進みました。かれらもまた、盗賊アングリマーラの手中におちたのです」</p><p><br /></p><p> 二度目もまた世尊は、沈黙されて行った。三度目にも、牛飼いや山羊飼いや農夫や走っている人々は世尊にこういった。</p><p><br /></p><p>「沙門よ、この道を行かない方がいい。沙門よ、この道には、アングリマーラという名の盗賊がいます。かれは残忍で手は血塗られており、人を殺すことに夢中になり、生きとし生けるものにあわれみをもたずにいました。だから村々も村ではなくなり、多くの町も町ではなくなり、国々も国ではなくなりました。その男は、人々を殺しに殺して指で作った首飾りを身につけているのです。</p><p><br /></p><p> じつに沙門よ。この道を十人の人々も、二十人の人々も、三十人の人々も、四十人の人々も集まって進みました。かれらもまた、盗賊アングリマーラの手中におちたのです」</p><p><br /></p><p> そこで世尊は、沈黙されて行った。</p><p><br /></p><p> 盗賊アングリマーラは、世尊が遠くからやって来るのを見た。見てかれはこう思った。</p><p><br /></p><p>「じつに不思議なことだ。じつに未曾有のことだ。じつにこの道を十人の人々も、二十人の人々も、三十人の人々も、四十人の人々も五十人の人々も集まりに集まって進んだ。かれらもまたわたしの手中におちた。ところがこの沙門は、一人で連れもなく無理やりやって来ているように思う。一体わたしは、この沙門の命を奪うげきかどうか」と。</p><p><br /></p><p> そのとき盗賊アングリマーラは、刀と盾を取って弓矢をつけて、世尊を背後から追いかけた。すると世尊は、盗賊アングリマーラが自然に歩いている世尊を、全力で追いかけても追いつくことができないように、神通の行為をはした。そのとき盗賊アングリマーラにはこの思いが起こった。</p><p><br /></p><p>「じつに不思議なことだ。じつに未曾有のことだ。なぜならわたしは、昔、走っている象をも追いかけてつかまえた。走っている馬をも追いかけてつかまえた。走っている車をも追いかけてつかまえた。走っている鹿をも追いかけてつかまえた。ところがわたしは自然に歩いているこの沙門を、全速力で追いかけても追いつくことができないのだ」</p><p><br /></p><p> 立ちどまって世尊にこういった。</p><p><br /></p><p>「沙門よ、止まれ。沙門よ、止まれ」</p><p><br /></p><p>「アングリマーラよ、わたしは立ち止まっている。汝こそ止まれ」</p><p><br /></p><p> すると盗賊アングリマーラには、この思いが起こった。</p><p><br /></p><p>「シャカ族の息子であるこれらの沙門たちは、真実を語り、真実の誓いをもっている。ところがこの沙門は歩いているのに、『アングリマーラよ、わたしは立ち止まっている。汝こそ止まれ』といった。よし、わたしは、この沙門に尋ねてやろう」と。</p><p><br /></p><p> そこで盗賊アングリマーラは、世尊に偈文をもって話しかけた。</p><p><br /></p><p>「沙門よ、お前は、歩いているのに立ち止まっている、といっている。</p><p>そして、わたしが立ち止まっているのに立ち止まっていないとお前はいう。</p><p>お前にわたしはこの意味を尋ねる。</p><p>どうしてお前は立ち止まっていて、わたしは立ち止まっていないのか」</p><p><br /></p><p>「アングリマーラよ、わたしは立ち止まっている。</p><p> つねに一切の生きとし生けるものに対して害心を捨てて。</p><p> ところが汝は、生きものに対して抑制をもっていない。</p><p> だから、わたしは立ち止まっているが、汝は立ち止まっていないのだ」</p><p><br /></p><p>「じつに、久しくして、わたしが尊敬する大仙人である、</p><p> この沙門が森に現れた。</p><p> わたしは、長いあいだ悪を捨てましょう。</p><p> 心理にかなったあなたの偈文を聞いて」</p><p><br /></p><p>こういって盗賊は、刀と武器とを、</p><p>深い山あいや崖や岩の割れ目に投げ捨てた。</p><p>盗賊は、如来の足元にひれ伏した。</p><p>そこでかれに出家を願い出た。</p><p>また、慈しみ深い仏、大仙人、</p><p>天人を含む世間の師は、</p><p>かれに、「来れ、比丘よ」とそのときいった。</p><p>このことばは、じつにかれが比丘となることであった。</p><p><br /></p><p> ときに世尊は、長老アングリマーラ随従沙門とともに、サーヴァッティーに向かって遊行にいった。次々と遊行を行いつつサーヴァッティーに至った。そこでまさに世尊は、ジェータ林のアナータピンディカ園に止まった。</p><p><br /></p><p> ところがその頃、パセーナディコーサラ王の王宮の入口に多くの人々が集まって、高声、大声を立てていた。</p><p><br /></p><p>「王様、あなたの国には、アングリマーラという名の盗賊がいます。かれは残忍で、手は血塗られており、人を殺すことに夢中になり、生きとし生けるものに対してあわれみをもたずにいます。それゆえに村々も村ではなくなり、多くの町も町ではなくなり、国々も国ではなくなってしまったのです。その男は、人々を殺しに殺して指でつくった首飾りを身につけているのです。王様、その男を防いで下さいますように」と。</p><p><br /></p><p> そこでパセーナディコーサラ王は、五百頭の馬とともにサーヴァッティーから出て、早朝に森に向かって出発した。乗り物のための道があるかぎり乗り物で行ったあと、乗り物から下りて歩兵のごとく世尊のもとに近づいた。近づいて世尊を礼拝して一隅に座った。ときに一隅に座ったパセーナディコーサラ王に世尊はこういった。</p><p><br /></p><p>「大王よ、あなたはマガダ国のセーニヤビンビサーラ王を攻めようとしているのですか。あるいはヴェーサーリーのリッチャヴィー族をですか。あるいは他の敵王たちをですか」</p><p><br /></p><p>「尊者よ。わたしはマガダ国のセーニヤビンビサーラ王を攻めようとしているのではありません。あるいはヴェーサーリーのリッチャヴィー族をでもありません。あるいは他の敵王たちをでもありません。</p><p> 尊者よ、わたしの国にアングリマーラという名の盗賊がいます。かれは残忍で、手は血塗られており、人を殺すことに夢中になり、生きとし生けるものに対してあわれみをもたずにいます。それゆえに村々も村ではなくなり、多くの町も町ではなくなり、国々も国ではなくなってしまったのです。その男は、人々を殺しに殺して指でつくった首飾りを身につけているのです。わたしは逃しません」と。</p><p><br /></p><p>「大王よ、でも、もしもあなたが、髪と髭を剃って袈裟衣をまとい、家ある状態から家なき状態に出家し、生きものを傷つけることをやめ、与えられないものを盗むことをやめ、うそをつくことをやめ、一日に一回だけの食事をし、梵行を行じ、つつしみをもち、善い性質をもっているアングリマーラを見たなら、あなたはどうしますか」</p><p><br /></p><p>「わたしは敬礼いたしましょう。尊者よ、立って迎えましょう。座をすすめて招待しましょう。また、法衣と托鉢食と臥坐具と病人の資具である薬と必需品をかれに供養しましょう。かれのためにふさわしい保護と覆いと警護を用意しましょう。しかし、いましめを守らず、悪い性質のかれに、このようなつつしみ深い抑制がどうしてできるでしょうか」</p><p><br /></p><p> そのとき、長老アングリマーラは、世尊から遠くないところに座っていた。そこで世尊は、右手を差し出してパセーナディコーサラ王にこういった。</p><p><br /></p><p>「大王よ、これがアングリマーラです」</p><p><br /></p><p> すると、パセーナディコーサラ王には、恐れが生じた。体が硬直するような状態になった。身の毛がよだった。そこで世尊は、パセーナディコーサラ王が恐れ、身の毛がよだつほど驚いているのを知って、パセーナディコーサラ王にこういった。</p><p><br /></p><p>「恐れることはないのです。大王よ、恐れなくてもよいのです。大王よ。あなたにはかれからの恐れはないのです」</p><p><br /></p><p> そのとき、パセーナディコーサラ王にとっての、恐れであり。体が硬直することであり、身の毛のよだつことであるものは静まった。</p><p><br /></p><p> そのとき、パセーナディコーサラ王は、長老アングリマーラのもとに近づいた。近づいて長老アングリマーラにこういった。</p><p><br /></p><p>「尊者よ、長老アングリマーラですか」</p><p><br /></p><p>「その通りです。大王よ」</p><p><br /></p><p>「尊者よ、長老の父上は、なんという姓ですか。母上は、なんという姓ですか」</p><p><br /></p><p>「大王よ、父は、ガッガといいます。母はマンターニーです」</p><p><br /></p><p>「尊者よ、聖者ガッガマンターニーの子息は、お喜びください。わたしは、聖者ガッガマンターニーの子息のために、法衣と托鉢食と臥坐具と病人の資具である薬と必需品のための努力をしましょう」</p><p><br /></p><p> ところでそのとき、長老アングリマーラは、林住者であり、乞食者であり、糞掃衣者であり、三衣者となっていた。長老アングリマーラは、パセーナディコーサラ王にこういった。</p><p><br /></p><p>「大王よ、十分です。わたしにとっては三衣で十分です」</p><p><br /></p><p> それから、パセーナディコーサラ王は、世尊のもとに近づいた。近づいて世尊を礼拝して一隅に座った。時に一隅に座ったパセーナディコーサラ王は世尊にこういった。</p><p><br /></p><p>「不思議なことです、尊者よ。未曾有のことです、尊者よ。これはそれほどのことです。尊者よ。世尊は、調御されない人々を調御する人であり、静まっていないものたちを静める人であり、涅槃に入っていない人々を涅槃に入らせる人です。なぜなら尊者よ、わたしたちが罰則でも刀でも調御できなかった人が、世尊によって罰則も与えられず、刀も与えられずに調御されたのですから」</p><p><br /></p><p>「尊者よ、いまや、わたしたちは参ります。わたしたちには多くのなさねばならない仕事があります」</p><p><br /></p><p>「いまそのときだと、あなたはお考えなのですね。大王よ」</p><p><br /></p><p>そのとき、パセーナディコーサラ王は、座から立ち上がって世尊に挨拶をして右遶して立ち去った。</p><p><br /></p><p> 時に、長老アングリマーラは、早朝に衣をつけて鉢を手にもち上衣を着てサーヴァッティーに托鉢に入った。時に、アングリマーラは、サーヴァッティーで順次に托鉢のために歩いていくうち、異常妊娠で、難産の一人の婦人を見た。見て、かれにはこういう思いが起こった。</p><p><br /></p><p>「ああじつに、人々は苦しんでいる。ああじつに、人々は苦しんでいる」と。</p><p><br /></p><p> 長老アングリマーラは、サーヴァッティーで托鉢にまわった後、食後に托鉢から戻って世尊のもとに近づいた。近づいて世尊を礼拝して一隅に座った。一隅に座った長老アングリマーラは世尊にこういった。</p><p><br /></p><p>「尊師よ、いま、わたしは、早朝に衣をつけて鉢を手にもち上衣を着てサーヴァッティーに托鉢に入りました。そのとき、わたしは、サーヴァッティーで順次に托鉢に歩いているうち、異常妊娠で、難産の一人の婦人を見ました。見て、わたしにはこういう思いが起こりました。</p><p><br /></p><p>『ああじつに、人々は苦しんでいる。ああじつに、人々は苦しんでいる』と」</p><p><br /></p><p>「それでは、アングリマーラよ、汝はサーヴァッティーに近づきなさい。近づいてその婦人にこういいなさい。『姉妹よ、わたしは生まれてこのかた、故意に生きものの命を奪ったということを認めません。その真実にかけてあなたに幸せがあるように。胎児に幸せがあるように』と」</p><p><br /></p><p>「尊師よ、それでは、わたしが意識的にうそをついたことになるのではないですか。尊師よ、なぜなら、わたしによって、故意に多くの生きものの生命が奪われているのですから」</p><p><br /></p><p>「それでは、アングリマーラよ、汝はサーヴァッティーに近づきなさい。近づいてその婦人にこういいなさい。『姉妹よ、わたしは聖なる生まれに生まれてこのかた、故意に生きものの命を奪ったということを認めません。その真実にかけてあなたに幸せがあるように』と」</p><p><br /></p><p>「そのようにいたします。尊師よ」</p><p><br /></p><p>と、そのとき、長老アングリマーラは同意して、サーヴァッティーに近づいた。近づいてその婦人にこういった。</p><p><br /></p><p>「姉妹よ、わたしは、聖なる生まれに生まれてこのかた、故意に生きものの命を奪ったということを認めません。その真実にかけてあなたに幸せがあるように。胎児に幸せがあるように」と。</p><p><br /></p><p> すると、婦人は安楽になった。胎児も安楽になった。</p><p><br /></p><p>そのとき、長老アングリマーラは、一人離れて精進し、努力し、専念して住していた。まもなく、そのために良家の息子たちが正しく家から家なき状態に出家する、その無上なる梵行の究極を、現実世界において自ら証知し、体験し、会得して住していた。「生は尽きた、梵行は完成した。なさるべきことは、なされた。さらにこの状態には戻らない」と、証知した。</p><p><br /></p><p> そのとき、長老アングリマーラは、朝早く衣を着て鉢をもってサーヴァッティーに托鉢のため入った。</p><p><br /></p><p> しかし、そのとき、他の人が投げた土塊が、長老アングリマーラの体にあたった。また他の人が投げた棒が、長老アングリマーラの体にあたった。他の人が投げた小石が、長老アングリマーラの体にあたった。そのとき、長老アングリマーラは、頭が傷つき、血が流れ落ち、鉢が壊れ、大衣がびりびりになって世尊のもとに近づいた。そのとき世尊は、長老アングリマーラが遠くから戻って来るのをご覧になった。御覧になって、長老アングリマーラにこういった。</p><p><br /></p><p>「婆羅門よ、そなたは忍受せよ。婆羅門よ、そなたは忍受せよ。そなたがその行為の果報として何年、何百年、何千年、地獄で苦しむであろう、その行為の果報を現在に受けているのだよ」</p><p><br /></p><p> そこで、独りいて、独り定に入り、解脱の楽しみを受けていた長老アングリマーラは、そのときこの感興の偈をとなえた。</p><p><br /></p><p>以前には放逸であったが、その人が不放逸になり、</p><p>かれはこの世を照らす。雲を離れた月のように。</p><p>なされた悪い行為も、その人の善によってつぐなわれるなら、</p><p>かれはこの世を照らす。雲を離れた月のように。</p><p>じつに若い比丘で、仏の教えに努力している者、</p><p>かれはこの世を照らす。雲を離れた月のように。</p><p>わたしの敵たちは、法話を聞け。</p><p>わたしの敵たちは、仏の教えのもとで努めよ。</p><p>わたしの敵たちは、善き人たちが方に導いているが、</p><p>その人たちに親近せよ。</p><p>わたしの敵たちは、忍耐を説く人々の、慈悲を称賛する人々の法を聞くがよい。</p><p>ときどき法を聞け、そしてそれを遵奉せよ。</p><p>かれは疑いなくわたしを傷つけない。しかも他の誰をも傷つけない。</p><p>最高の寂静に到って動くものも動かないものをも守るであろう。</p><p>水の導き手は、水を導き、矢の作り手は、矢を矯正する。</p><p>大工は、木材を矯正し、賢者は、自己を調える。</p><p>ある人々は、杖や鉤やむちで調練する。</p><p>杖ももたず、剣ももたないそのような人によって、わたしは調練された。</p><p>以前に傷害者であったのにわたしの名前は、アヒンサカ(不傷害者)であった。</p><p>いまはわたしは、名前の通りである。わたしはどんな人をも傷つけない。</p><p>わたしは以前に盗賊であり、アングリマーラとして有名であった。</p><p>大洪水によって運ばれて仏に帰依した。</p><p>わたしは以前には手が血塗られ、アングリマーラとして有名であった。</p><p>帰依するところを見よ。生存に導く絆は根絶やしにされた。</p><p>そのような多くの悪しき世界に導く行為を行った後、</p><p>業果によって影響され、わたしは負債なく、食を享受する。</p><p>明知なき愚かな人々は放逸にふける。</p><p>しかし聡明な人々は、つとめはげむことを護る。最上の財産を守るように。</p><p>放逸にふけってはならない。愛欲と喜びに親しんではならぬ。</p><p>不放逸で禅定に入るものは、広大なる楽しみに至る。</p><p>よく来て、離れない、これは、わたしにとって悪く考えられたことではない。</p><p>詳説された教えの中で、すぐれたもの、それにわたしは到達した。</p><p>よく来て、離れない、これは、わたしにとって悪く考えられたことではない。</p><p>三明が体得された。仏の教えが成しとげられた。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%82%82%E3%81%86%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%84-%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%81%A8%E3%83%86%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88-%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB/dp/4862380956?crid=2DPGP4XD35UUD&keywords=%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB&qid=1661661805&sprefix=%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%2Caps%2C185&sr=8-20&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=1e0ef3321a447726a6c69b7f985709a7&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4862380956&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4862380956" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p><p><br /></p><p><a href="https://amzn.to/3CD77si" target="_blank">原始仏典 第六巻</a></p><p>訳:田辺和子</p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-49374392334427315932022-08-28T11:34:00.004+09:002022-08-28T11:34:54.704+09:00[増谷文雄]アングリマーラの話<p> </p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%81%93%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%88-%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%A2%97%E8%B0%B7%E6%96%87%E9%9B%84-ebook/dp/B0B38W43B2?_encoding=UTF8&qid=1661653934&sr=8-4&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=71c7dc186344a3905072329ea48ec1ea&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B0B38W43B2&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B0B38W43B2" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>20 盗賊とブッダ</p><p><br /></p><p>1</p><p><br /></p><p>ブッダ・ゴータマの説法、伝道の生涯は、すでにいうがごとく、四十五年のながきにわたった。そのながい伝道活動のなかにも、ドラマティックな物語はあまりおおくはない。それも道理である。なんとなれば、この師はいつも静かな平和をもたらす人として振舞い、激情に身をまかせて行動するということの、いたってすくない人であったからである。</p><p><br /></p><p>それにもかかわらず、わたしどもはなお、いくつかの、この師をめぐる劇的な物語を知っている。その一つに、わが国では、指鬘外道(しまんげどう)の名をもってよく知られている一人の盗賊を教化する物語があって、今日もなお、それを読む人々のこころを揺り動かしてやまない。一つの経典(中部経典、八六、鴦掘魔(おうくつま)経。漢訳同本、雑阿含経、三一、一六、「盗賊」)は、その物語をおおよそつぎのように叙している。</p><p><br /></p><p>それは、ブッダ・ゴータマが、サーヴァッティー(舎衛城)の郊外の、かのジェータヴァナ(祇陀林)の精舎に止(とど)まり住しているときのことであった。そのころ、その国コーサラ(拘薩羅)にはアングリマーラ(鴦掘魔)と呼ばれる盗賊が横行して、人々を戦慄せしめていた。人々の伝聞するところによると、かの賊は、その性(しょう)はなはだ残忍にして、人々を殺すと、その指を切り、それを糸でつないで首飾りとしていたという。それがアングリマーラすなわち指鬘外道の名のいづるいわれであった。</p><p><br /></p><p>しかるに、ある朝のこと、ブッダ・ゴータマは、衣鉢(えはつ)をととのえてサーヴァッティー(舎衛城)に入り、托鉢をおえると、かのアングリマーラが住むという方向にむかって大道(だいどう)をあるいていった。サーヴァッティーの都門をでると、城外に市場がある。野菜や魚などがそこで売られている。もっとすすむと、ひろびろとした耕地や牧場がある。そこではたらく農夫や牛飼いなどは、ブッダ・ゴータマのすがたをみると、おどろいて呼びかけていった。</p><p><br /></p><p>「ご出家よ、その道はゆかれぬがよろしい。このむこうには、アングリマーラと呼ばれるおそろしい盗賊が住んでおります。ひどいやつで、人を殺すと、その指をとり、糸につないで首にかけているということです。その道だけは、ご出家よ、いってはなりませんぞ」</p><p><br /></p><p> だが、ブッダ・ゴータマは、それが聞こえたのか聞こえないのか、あいかわらず黙然として、ゆっっくりとその道をすすんでいった。</p><p><br /></p><p>2</p><p><br /></p><p>経の叙述は、そこで舞台を一転して、アングリマーラ(鴦掘魔)のがわを描きはじめる。</p><p><br /></p><p> 彼は、はるか彼方(かなた)に、一人の沙門がやってくる姿をみつける。だが彼は、しきりに首をひねって考えている。どうもおかしいというのである。そのころでは、もう彼のことがひろく知れわたっていたので、その道をたった一人でやってくるなどというものはまったくない。商用やなにかで、どうしてもその道をゆかねばならないものは、十人も二十人もが、武器をたずさえ、団体を組んで通ろうとする。それでも、やっぱり、アングリマーラの餌食(えじき)になったものもすくなくない。</p><p><br /></p><p>「それなのに、あの沙門は、たったひとりで供(とも)もなく、悠然としてやってくる」</p><p><br /></p><p> それが彼にはふしぎに思えて仕方がなかったのである。だが、ここのところしばらく獲物(えもの)がなかったのでもあろうか、彼は、やっぱり、「あの沙門のいのちを貰おうか」と決心する。そこで彼は、剣と盾、弓と矢をとって、沙門をやりすごすと、そのうしろから尾行した。</p><p><br /></p><p> その辺りから、経典の描写は、すこし不思議をまじえてくる。悠然とあるいている沙門のあとをつけるアングリマーラが、どうしても近づくことができないのである。速力をはやめ、全力をあげて追うけれども、二人の距離はいつまでたっても同じである。その時、アングリマーラが心のなかで考えたことを、経のことばはこんなふうに記している。</p><p><br /></p><p>「まったく不思議だ。こんなことってないぞ。これまでわたしは、馳(か)ける馬をおうて捉えたこともある。また、はしる車においついたこともある。それなのに、いまわたしは、悠然とあるくあの沙門に、どうしても追いつくことができない。こりゃどうしたことだ」</p><p><br /></p><p> そこで彼は、とうとう立ちどまって、呼びかけていった。</p><p><br /></p><p>「とまれ、沙門。沙門よ、とまれ」</p><p><br /></p><p>すると、かの沙門からも、間髪いれぬ答えがあった。</p><p><br /></p><p>「わたしはとまっている。アングリマーラよ、なんじもとまるがよい」</p><p><br /></p><p> ここでは、ちょっと注釈をさしはさんでおかねばならない。それは「とまる」ということばのことであるが、わたしどもの日本語では、「とまる」と「やめる」とは別のことばであるが、彼らのことばでは、それはおなじである。それは、たとえば英語で「ストップ(stop)」といえば、「とまる」ことであるとともに、また「やめる」ことでもあるのとおなじである。そして、いまアングリマーラは、ブッダ・ゴータマに歩行の停止を要求したのにたいして、ブッダは彼に悪事の停止を忠告したのである。</p><p><br /></p><p> だが、アングリマーラは、それに気づかなかったので、また折り返していった。そこが大事なところなので、経典のことばは、それを韻文をもって綴っている。</p><p><br /></p><p>「沙門よ、なんじは歩きながら、われはとまれりという</p><p> われはとまれるに、なんじはなおわれにとまれという</p><p> 沙門よ、われはいまその意味をとわんと欲す</p><p> いかなれば、なんじはとまり、われはとまらずとなすや」</p><p><br /></p><p> それにたいするブッダ・ゴータマのことばもまた、韻文をもって綴られてある。</p><p><br /></p><p>「アングリマーラよ、われはまことにとどまりてあるなり</p><p> 生きとし生ける者のうえに害心(がいしん)をはすることなし</p><p> しかるに、なんじはいまだ生ける者にたいして自制することなし</p><p> されば、われはとどまれり、なんじはいまだとどまらずという」</p><p><br /></p><p>それが彼の決定的瞬間であった。彼は、ただちに凶器を深き谷間に投じ、ひざまずいてブッダ・ゴータマの足を拝して、その場において出家のゆるしを乞うた。</p><p><br /></p><p>3</p><p><br /></p><p>ブッダ・ゴータマは、アングリマーラ(鴦掘魔)をしたがえて、サーヴァッティー(舎衛城)にかえり、その郊外のジェータヴァナ(祇陀林)の精舎に入った。その姿を見かけた人々の気もちは、はなはだ複雑であった。きのうまで人々におそれられていた盗賊が、きょうは羊のようにおとなしくなって、かの師のあとについてゆく。それは人々の心中に感動を催さしめるに足るものであった。だが、考えてみると、彼はけっして、きのうまで残忍の悪事をかさねてきたあのアングリマーラとまったく別人ではない。それを思いおこすと、やっぱり、ぞっと背筋に冷たいものを感じるのである。あの男をあのままにしておいてよいものか。そう思うのもまた人の心というものである。</p><p><br /></p><p>コーサラ(拘薩羅)の王パセーナディ(波斯匿・はしのく)の宮殿の門前には、いつの間にか、おおぜいの人々が集まっていた。彼らは声をはりあげて、口々に王に訴えていった。</p><p><br /></p><p>「大王よ、領内にアングリマーラという盗賊があって、残忍にして殺戮をこととし、人々を殺しては、その指をとって首飾りとした。彼のために村や町の平和はかきみだされてすでに久しい。彼はいまだジェータヴァナ(祇陀林)にある。大王よ、かの盗賊を捕まえたまえ」</p><p><br /></p><p> 王のしごとは、民をまもり、領内の平和と秩序を維持することをもって第一とする。そこで、パセーナディは五百騎をしたがえてかの林園におもむき、まずブッダ・ゴータマに会見した。いつもとちがう王のこわばった顔をみながら、かの師は、いささかユーモアをまじえて、語りかけた。</p><p><br /></p><p>「大王よ、おんみはマガダ(魔掲陀)をでも攻めようというのですか。それともヴェーサーリ(毘舎離)をでも撃たんとせられるのか。あるいは、さらに他の王とでも戦わんとするのか」</p><p><br /></p><p>「大徳よ、そうではない。大徳よ、わが領内にアングリマーラという凶悪な盗賊があり、残忍にして殺戮をこととしているという。わたしはその凶賊を捕えようとして来たのである」</p><p><br /></p><p> 彼奴(かやつ)があなたのところにかくまわれているそうだが、お出しねがいたいという訳である。王もきょうは必死である。その時、かの師が王に問うていったことばを、経のことばは、つぎのように綴っている。</p><p><br /></p><p>「大王よ、もし彼がいま、鬚髪(しゅはつ)をそりおとし、袈裟の衣をまとい、出家せる沙門となって、生けるものを害することをやめ、他人の財貨を盗ることもせず、いつわりを語ることもない持戒者(じかいしゃ)となっているとしたならば、おんみは彼をいかがされるぞ」</p><p><br /></p><p> この王が熱心な仏教者であったことは、すでにしばしば述べたところである。そして、いまこの師の問いは、あきらかに、仏教者の精神をもってこの事件を処理すべきことを、パセーナディに要請しているのであった。</p><p><br /></p><p>「大徳よ、もしそのようなことであれば、わたしは彼を尊敬し、彼を供養し、彼を保護しなければならぬ。だが、あの極悪無道の盗賊が、どうしてそのような持戒者となる道理があろうか」</p><p><br /></p><p> その時、ブッダ・ゴータマはやおら右手をあげて、かたわらに居並ぶ随待(ずいじ)の比丘たちのなかの一人をゆびさしていった。</p><p><br /></p><p>「大王よ、この比丘がアングリマーラである」</p><p><br /></p><p> はっとした思いが、王の全身をかけめぐった。その顔はみるみる蒼白となり、そのはだえには粟を生じ、その手と足はわなわなと震えた。かの師はそれをみて、静かに王にいった。</p><p><br /></p><p>「大王よ、恐れることはない。恐れる道理はない」</p><p><br /></p><p> なんとなれば、そこに坐するものは、もはやかの極悪無道の盗賊ではなくして、ブッダ・ゴータマにしたがう新参の比丘であったからである。それによって、王はようやく平静をとりもどし、彼に語りかけていった。</p><p><br /></p><p>「尊者よ、なんじがアングリマーラであったか」</p><p><br /></p><p>「大王よ、さようであります」</p><p><br /></p><p>「尊者よ、どうぞもう安心してください。わたしはこれから、なんじに衣料や飲食(おんじき)などを供養するであろう」</p><p><br /></p><p>「大王よ、わたしには三衣(さんえ)があります。わたしはそれで満足であります」</p><p><br /></p><p> それは、なんとも不思議な光景であった。兵をひきいて、極悪無道の盗賊を逮捕しようとやってきた王は、いまやその当人としたしげに語り、その供養者となろうといっている。それも、彼がまったく新しき人としてよく生まれかわることをえたからに他ならない。そして、そのような新生を可能にするのが、真の宗教というものである。</p><p><br /></p><p> やがて王は、ブッダ・ゴータマのまえに深々と頭をさげて、申していった。</p><p><br /></p><p>「大徳よ、まことに稀有のことである。世尊は、調伏(ちょうぶく)しがたいものをよく調伏したまい、荒れくるうものをよく静めたもう。大徳よ、われらが武器をもって降伏(ごうぶく)しえざるものを、世尊は武器なくしてよく降伏したもう」</p><p><br /></p><p> それが、その時、この王のいつわりない感慨であったにちがいあるまい。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E4%BB%8F%E5%85%B8%E3%80%88%E7%AC%AC6%E5%B7%BB%E3%80%89%E4%B8%AD%E9%83%A8%E7%B5%8C%E5%85%B83-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E5%85%83/dp/4393112261?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=2OABT7G8SDNFJ&keywords=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9&qid=1661653877&sprefix=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%2Caps%2C485&sr=8-5&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=d3c21a946e15c1224a318b6cb2f9f09d&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4393112261&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4393112261" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p><p><br /></p><p>4</p><p><br /></p><p>だが、アングリマーラ(鴦掘魔)にとっては、それからが苦しい試練の日々であった。なんとなれば、彼が今日まで犯しつづけけてきた悪業はあまりにも大きかったからである。</p><p><br /></p><p>ある日、朝はやく、アングリマーラは、衣鉢をととのえ、サーヴァッティー(舎衛城)の町に入って、托鉢を行じた。その時、あるものの投じた土くれに彼はあたった。また、あるもののなげた石は彼をうち、あるものの投じた棒は彼をきずつけた。サーヴァッティーの人々は、いつまで経っても、彼がおかした過去の悪業をわすれないのである。</p><p><br /></p><p>彼の頭からは血がながれていた。彼の鉢はこわされ、彼の衣はひきさかれていた。それはまったくみじめな姿であった。そんな姿をして帰ってきたアングリマーラをみて、ブッダ・ゴータマは彼をはげましていった。</p><p><br /></p><p>「比丘よ、忍べ。忍んで受けるがよい。なんじは、なんじの行為によって、いくとせも、いくとせも、他生(たしょう)にわたって受けねばならぬであろう業果(ごうか)を、いま現在において受けているのである。比丘よ、忍べ。忍んで受けるがよい」</p><p><br /></p><p> 彼は、師の激励を謝して、退いてひとり坐していた。その心は、とうぜんみじめであったにちがいない。だが、彼は挫けなかった。師の激励が彼をささえてくれた。そのとき、彼の口からは、おのずからにして、つぎのような独語がたれたという。それを、この経のことばは、例によって、また韻文をもって記しのこしている。それがこの経の最後のクライマックスをなしているからなのであろう。</p><p><br /></p><p>さきには放逸(ほういつ)であったけれども</p><p>のちには放逸ならざる人は</p><p>雲を離れた月のごとく</p><p>この世を照らすであろう</p><p><br /></p><p>もし人よく善をもって</p><p>そのなせる悪業を覆わば</p><p>その人は、この世を照らすこと</p><p>雲を離れた月のごとくであろう。</p><p><br /></p><p>さきにわれは凶賊にして</p><p>アングリマーラとして知られた</p><p>いまや、おおいなる流れにながされ</p><p><br /></p><p>ブッダに帰依するものとなった</p><p><br /></p><p>さきにわれは手を血塗(ちぬ)らし</p><p>指鬘外道(しまんげどう)として恐れられた</p><p>いまは、ブッダに帰依したれば</p><p>さらに悪業をかさぬることなし</p><p><br /></p><p>水を導くものは水路をつくり</p><p>箭(や)づくる工は箭柄(やがら)を矯(た)め</p><p>木工をいとなむものは木をただす</p><p>智ある者はおのれを調(ととの)える</p><p><br /></p><p>ある者は杖をもって調伏(ちょうぶく)する</p><p>またある者は鞭(むち)をもって調伏する</p><p>されど、かかる杖、鞭をもちいずして</p><p>われはかく調伏せられた</p><p><br /></p><p>さきには殺害者であったわれは</p><p>いまは不害(ふがい)者なりと称せられる</p><p>われはいま真実の名を得て</p><p>もはや何びとをも害せじ</p><p><br /></p><p> この最後の一偈については、またすこし注釈を附しておかねばならない。それは、そこに見える「殺害者」および「不害者」という、一対(いっつい)をなすことばについてである。</p><p><br /></p><p> 彼ははじめ凶悪な盗賊として、おそるべき「殺害者」であった。しかるに彼は、ブッダ・ゴータマによって教化をうけてより以後は、生きとし生けるものに害意をもたぬ仏教者となった。その時、かの「殺害者」は一転して「不害者」となったのである。彼のほんとうの名は「アヒムサカ(不害者の意)」であって、「アングリマーラ(指鬘の魔の意)」とは、世の人々が、彼の所行によって彼に与えた名であった。しかるにいま彼は、ブッダ・ゴータマによって、「アングリマーラ」たることをやめ、「アヒムサカ」となることを得た。それが「われはいま真実の名を得て」という所以である。そこにも、彼があたらしい自分の生き方によせる感慨を読みとることができるというものである。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9-%E7%BD%AA%E3%81%A8%E8%A8%B1%E3%81%97%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E-BOOKS-%E5%A4%A7%E5%B7%9D-%E7%B4%AB%E5%A4%AE/dp/4823301080?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=2OABT7G8SDNFJ&keywords=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9&qid=1661653877&sprefix=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%2Caps%2C485&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=883d282fd3343ef2daaae267d83b6481&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4823301080&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4823301080" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>増谷文雄名著選</p><p><a href="https://amzn.to/3R6e60O" target="_blank">「この人を見よ ブッダ・ゴータマの生涯」</a>より</p><div><br /></div>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-82503551844397851862022-05-24T08:09:00.005+09:002022-05-24T08:09:57.271+09:00「バケツを水に下ろせ」<p> </p><p>柴山全慶<a href="https://amzn.to/3lCHY77" target="_blank">『無門関講話』</a>より</p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%84%A1%E9%96%80%E9%96%A2%E8%AC%9B%E8%A9%B1-%E6%9F%B4%E5%B1%B1-%E5%85%A8%E6%85%B6/dp/4422141058?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=3G21YHHLE690B&keywords=%E6%9F%B4%E5%B1%B1%E5%85%A8%E6%85%B6&qid=1653347303&sprefix=%E6%9F%B4%E5%B1%B1%E5%85%A8%E6%85%B6%2Caps%2C200&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=22d7a7684615dc0a6e71b89757c32d4b&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4422141058&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4422141058" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>…</p><p><br /></p><p>南米のアマゾン河は河口の川幅が320kmもある大河である。</p><p><br /></p><p>このアマゾンの下流にさしかかりながら、まだ海だと思っていた日本の船が、はるか向こうに見えた英国船に信号を送り、少し水を分けてほしいと頼んだ。</p><p><br /></p><p>すると驚いたことに英国船は、「バケツを水に下ろせ」と通信してきた、という古い笑い話がある。</p><p><br /></p><p>「お前は今そのただ中に居るではないか。向おうとすればかえって背いてしまう。」</p><p><br /></p><p>なんという親切な指示であろう。</p><p><br /></p><p>…</p><p><br /></p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%84%A1%E9%96%80%E9%96%A2%E8%AC%9B%E8%A9%B1-%E6%9F%B4%E5%B1%B1-%E5%85%A8%E6%85%B6/dp/4422141058?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=3G21YHHLE690B&keywords=%E6%9F%B4%E5%B1%B1%E5%85%A8%E6%85%B6&qid=1653347303&sprefix=%E6%9F%B4%E5%B1%B1%E5%85%A8%E6%85%B6%2Caps%2C200&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=22d7a7684615dc0a6e71b89757c32d4b&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4422141058&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4422141058" style="border: none; margin: 0px;" width="1" />Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-8641083240249510022021-08-07T08:41:00.001+09:002021-08-07T08:41:02.655+09:00悪事を己に向え【最澄】<p> </p><p><b><span style="color: #2b00fe;"></span></b></p><blockquote><p><b><span style="color: #2b00fe;">悪事を己に向え、</span></b></p><p><b><span style="color: #2b00fe;">好事を他に与え、</span></b></p><p><b><span style="color: #2b00fe;">己を忘れて他を利するは</span></b></p><p><b><span style="color: #2b00fe;">慈悲の極なり。</span></b></p></blockquote><p><b><span style="color: #2b00fe;"></span></b></p><p><br /></p><p>悪いことは自分でひきうけ、</p><p>良いことは他人の利益として与え、</p><p>自分を忘れて他人のために行うことは</p><p>慈悲の極みである。</p><p><br /></p><p>最澄『山家学生式』</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-%E6%9C%80%E6%BE%84-%E5%A4%9A%E7%94%B0-%E5%AD%9D%E6%AD%A3/dp/4422800582?_encoding=UTF8&qid=1628293135&sr=8-5&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=d73c0ec590f546c76d184c6de9433b80&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4422800582&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4422800582" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-38659766726454752232021-08-07T08:30:00.001+09:002021-08-07T08:30:19.256+09:00一隅を照らす【最澄】<p> </p><p><b></b></p><blockquote><p><b><span style="color: #2b00fe;">径寸十枚、是れ国宝に非ず</span></b></p><p><b><span style="color: #2b00fe;">一隅を照らす、此れ則ち国宝なり</span></b></p></blockquote><p><span style="color: #2b00fe;"><b></b></span></p><p><br /></p><p>一寸の玉十枚は国の宝ではない。</p><p>一隅を照らすものが国の宝である。</p><p><br /></p><p>最澄『山家学生式』</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%80%E9%9A%85%E3%82%92%E7%85%A7%E3%82%89%E3%81%99-%E4%BC%9D%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%B8%AB%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%81%A8%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D-%E7%BE%85%E6%BC%A2%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E7%B5%B5%E8%AA%AC%E6%B3%95%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E8%8D%92%E4%BA%86%E5%AF%9B/dp/489806471X?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%B1%B1%E5%AE%B6%E5%AD%A6%E7%94%9F%E5%BC%8F&qid=1628292527&sr=8-15&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=0c302a9cc0fc5261a92d59da3670afcc&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=489806471X&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=489806471X" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-51416092392963632932021-04-09T09:18:00.004+09:002021-04-09T09:18:42.223+09:00五蘊と剣道<p> </p><p>from:</p><p><a href="https://amzn.to/3t2IyNJ" target="_blank">小川忠太郎『百回稽古』</a></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4-%E5%B0%8F%E5%B7%9D-%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4884582438?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%80%8E&qid=1617927415&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=e89d45706b81a17e798078935ac261db&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4884582438&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4884582438" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p><b>想蘊・行蘊・一息載断の息</b></p><p><br /></p><p>般若心経の眼目に「五蘊皆空」がある。五種の五とは色・受・想・行・識の五つの心身のはたらき。</p><p><br /></p><p>「色」というのは形あるもののことで、人間で言えば身体にあたる。</p><p>「受」というのは外界のものを五官を通じて受け入れること。眼で見、耳で聞き、鼻で嘆ぎ、舌で味わい、身体では触れている。</p><p>「想」というのは内なる思い。想像紛飛の念、意馬心猿、五蘊の中で一番激しい念慮である。</p><p>「行」とは細かい念慮、連想。</p><p>「識」は、朝起きてきれいに心が澄んでいるような時にポツンと湧く一念を言う。</p><p><br /></p><p>人間はこういう五つの内容で構成されているという考え方である。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p>蘊とは集積の意で、心の垢、雲のこと。生まれたままならば五つが備わっているだけだからそれでいいが、これに心の垢、雲がかかる。人間本来の心は明鏡のようなものであるが、それに雲がかかると無明となり迷いとなる。</p><p><br /></p><p>この雲は大雑把に言えば「我」という雲。この無縄自縛の我という雲を体と心にかけて苦しんでいるのが人間である。この雲を無くす、空ずる(五蘊皆空)。これが般若心経の眼目であり、剣道修行の基本である。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p>○第一の「色蓋」を剣道に当てはめると、色とは構え、正しい構え。この構えに雲がかかる。自分に構えがあるから相手にも構えがあると見て、そこで相手とは対立となり争いとなる。これを構えに雲がかかったと言う。その雲を取って本当の構えにしなくてはいけない。それが剣道の最初の修行である。</p><p><br /></p><p>打込み三年の懸り稽古。我を許さないで、懸かって懸かって懸かり抜く。そのうちに懸り稽古三昧に入る。これを儒教では “己に克つ“と言う。打込み三年で克己の修行をやる。当てっこの修行ではない。全身全力でやる。これを禅では“己を殺す”と言う。これが三昧。殺すから大きな自己が生まれてくる。それを「大死一番絶後に再蘇する」と言う。</p><p><br /></p><p>剣道を打込み三年、本気でやり三味力を養えば、そこから自然に本当の構えが生まれる。山岡鉄舟はこれを三角矩の構えと言い、苦修三年にして本体(構え)が得られると入門規則で言い切っている。そこには雑念が入っていない。「俺が」というものが入っていない。自分が無いから相手が無い。自分と相手が一つである。自他不二。これが構えである。自分の構えの中に相手が入る。相手の構えの中に自分がある。自分と相手は一つ、一如である。</p><p><br /></p><p>ここが剣道の第一基本であり、これが人間形成の土台になる。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p>〇第二は「受蘊」。これは相手からの働きかけに対する心構えであるが、互いに一足一刀に剣を交えた場合、未熟の者はここに雲がかかって迷う。相手から色をしかけられると色に迷わされる。 少し上達した者は色には着かないが無念無想の穴倉に入り働きがない。恐ろしい境涯である。</p><p><br /></p><p>この雲を取るにはどうしたらよいか。それは第一の構え、即ち自他不二の本体に立てば、ありのままが写る。写ったままで二念を継がなければよい。その働きは、相手と対した時に、面と思ったら思った時に面を打つ。小手と思う。思った時に小手を打てばよい。思った時に体はそこに出てしまっているのが自然の技というものである。</p><p><br /></p><p>それを思ってから打つのでは人為的であり、後れてしまう。思ってから打つのでは遅い。だが思ってもだめなのであるから、思わずにやってはなおさらだめである。それはでたらめ。思ったら打つ。これを一念不生という。二念以下をぶち切ってしまう。</p><p><br /></p><p>処世法もこれでいけばよい。自分でこれが赤だと思ったら誰が何と言っても赤は赤。白と思ったら誰が何と言っても白。これで行けばよい。これが剣道。それを赤だから赤だと言いたいけれど周囲を見て、白と言った方がよいのではなどと考えて、二念を継ぐからいけない。ぐずぐずしてはだめ。善いことは善い、悪いことは悪い、それで解決して行けばよい。これが道の上に立ったはたらきである。</p><p><br /></p><p>以上、第一と第二は外部からの働きかけに対する心構えであるが、次の第三、第四、第五の三つは内部、即ち自身の心の中に生ずる雲に対する心構えである。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p>○第三「想蘊」。想像紛飛の念、意馬心猿、これが五つの雲の中で一番激しい荒い念慮である。時には蜂の巣をつっいたように、妄念が紛起して収拾がつかないことがある。これをどう始末するか。神に祈ったり、水を浴びたり、そういう難行苦行では、荒れる意馬心猿には歯が立たない。</p><p><br /></p><p>しかしここに古徳の教えが残されている。それは数息観である。ズーッと息を吸う。吸う息の中に雑念を交えない。息をグーッと吐いて行く。吐く息の中に雑念を交えない。一念一念を正念化する。数息観こそが念々正念に入る秘訣なのである。元円覚寺管長釈宗演老師は「数息観は禅の初歩であるが、また終極である」と言われている。</p><p><br /></p><p>第一の三角矩本体は苦修三年頓悟でもいけるが、第三の念々正念が本当に自分のものになるには、二十年、三十年、否、一生かかっても難しい。それは、剣道では技や理念が邪魔するからである。</p><p><br /></p><p>持田先生が七十歳を過ぎてから「もう剣道はいやになった。難しい。構えていると内からヒョッと考えが浮かんでくる。どうしようもない。この世の中に剣道ほど難しいものはないであろう。いやになった」と言われたことがある。持田先生は七十歳を過ぎてもこの念々正念には徹していないと反省されながらこの修行に全力をかけておられたのである。</p><p><br /></p><p>世間で問題にしている段位などは先生の念頭にはない。先生の十段授与式の時、式場は妙義道場で、全剣連の渡辺敏雄(当時)事務局長が先生の前へ証書を持って行き、先生が受けられた時に合図をしてお祝の拍手をしようと望月正房先生が段取りをしていた。ところが渡辺事務局長が証書を持って行くと先生は、その証書をポーンと放り投げてしまった。そして、「わしはこんなものはいらない。実力がなくてこういうものがどうして受けられるか。わしにはこういうものを戴く資格がない」と言われた。そして列席の人々に「皆さんは若い。私は日暮れて道遠しだ。剣道は深いからしっかりやって下さい」と言われた。これが十段を受けられなかった時の先生の挨拶であった。先生は十段を辞退されて、後輩に、剣道修行の目的は段位ではない、人間形成である。人間形成の真髄は念々正念相続にありという秘訣を教えられたのである。</p><p><br /></p><p>五十歳以後の宮本武蔵は日常この工夫をしていた。「五輪書」地之巻に、我が兵法を学ばんと思う人は道を行なう法ありとして、九ヶ条を挙げ、その第一条は「邪になき事をおもふ所」とある。うそをついてはいけない―― これが武蔵という人の全体である。汚い着物で、風呂にも入らない。そこで弟子たちが、先生はどうして風呂に入らないのかと尋ねると、「身体の垢は桶一杯の水で取ることができるが、心の垢は取る暇がない」と答えた。</p><p><br /></p><p>雑念を正念化する。一念、一念を正念化する。ここまで行ったら本物である。我は古今の名人に候と自認し、常に念々正念の工夫を絶やさず、二天道楽と号して道一を楽しみ、本当の人生を味わい得た道人である。</p><p><br /></p><p>雲弘流に「一息円想無我」という教えがある。一息とは「坐禅用心記」に「心散乱する時、一息断両眼永く閉づるの端的に向て打坐工夫せば散心必ず歇む」とある。心散乱する時、即ち想蘊の起こった時、人間最後の一息、吐く息有って吸う息知らず、呼吸を「ウムーム」と踵に踏み込む、即ち運 足三昧になりきれば散心必ず歇むと。これを真人という。</p><p><br /></p><p>荘子いわく「真人の息は之を息するに踵を以てす」と。これは雑念を呼吸に合わせて正念化するのである。この正念相続の修行こそ人間形成の嶮関であり真髄である。念々正念の修行は道場内だけではない。日常生活の上で正念の工夫を絶やさない。これが本当の剣道である。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p>○第四は「行蓮」。これは細かい念慮、連想である。人間はこの細かい念慮に悩まされる。過去の事にぐずついたり、現在にこだわったり、また一寸先は闇の将来を気にしたりして、自分で自分を苦しめている。こういうやっかいな雲をどう捌いたらよいか。それには、この細かい念慮は、畢寛夢・幻空華のようなものであるということを見破っておくことである。空中の華とは、眼を患った時に、あたかも空中に在るが如くに見えるモヤモヤした華のようなもののことを言う。これといって拠り所のない、取るに足らないものである。</p><p><br /></p><p>雲弘流では、ここを「あと先のいらぬ処を思ふなよ、只中程の自由自在を」と、過去も未来もいらぬ、ただ現在になりきれと示しており、一刀流では夢想剣として秘している。ここは理屈では通れない悟りである。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p>○第五は「識瀧」。これは一念である。第三は荒い念、第四は細かい念、第五は一念と、こう心がいくつもあるのではない。第五の一念が本となっているのである。秋水のように心が澄んだ所から、ポツンと一念が生ずる。この一念に迷と悟の分かれる原点がある。</p><p><br /></p><p>剣道なら相手に一念が生じた時、どう空ずるか。押える。ヒョッヒョッと頭を押える。機先を制するのである。起こりを押えよう、機先を制しようと思うと後れる。相手に一念がポツンと生じた時、頭を押える。機先を制するのである。これで識蘊は空じられる。これが剣道の極意である。</p><p><br /></p><p>以上が般若心経の五蓋皆空を剣道に当てはめたものであるが、五薩皆空と照見すれば一切の苦厄は度せられるのである。これを剣道や坐禅の時ばかりでなく、一切時、一切処で修錬していく。</p><p><br /></p><p>これが人間形成の基本面の修錬である。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%89%A3%E3%81%A8%E7%A6%85-%E4%BA%BA%E9%96%93%E7%A6%85%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E7%AC%AC8%E7%B7%A8-%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88-%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4907453000?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%80%8E&qid=1617927415&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=5f8402e69af51761b1b0f51ca692868e&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4907453000&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4907453000" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-43375514269219142432021-04-09T08:19:00.004+09:002021-04-09T08:20:55.005+09:00小川忠太郎「我という雲」<p> </p><p>from:</p><p><a href="https://amzn.to/2Q6rV55" target="_blank">小川忠太郎『剣と禅』</a></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%89%A3%E3%81%A8%E7%A6%85-%E4%BA%BA%E9%96%93%E7%A6%85%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E7%AC%AC8%E7%B7%A8-%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88-%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4907453000?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E&qid=1617923858&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=166450360edbc1ca1a6815c74ba55795&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4907453000&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4907453000" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p><br /></p><p>剣を通して道を修行するということは、試合に勝つことでも段を貰うことでもない。剣を通して人間形成をする。これが剣道の目的であります。</p><p><br /></p><p>では、何故当り前のことが当たり前にできないかというと、人間本来の心は、明鏡のようなものであるが、それに雲がかかってしまう。雲がかかると、無明となり迷いとなる。どういう雲かというと、大雑把にいうと、「我」という雲がかかる。この無縄自縛の我という雲を無くせばよい。</p><p><br /></p><p>面白い譬話がある。</p><p><br /></p><p>神様の前で、鏡の前で頭を下げる。「我」というものを取ってしまう。「カガミ」の前で「ガ」を取れば、残るものは「カミ」である。それが神なのです。「我」さえ取ればよい。「我」をくっ着けているから駄目なのです。この無縄自縛の我という雲を、体と心にかけて、苦しんでいるのが人間です。この雲を無くす。空ずるのが剣道修行の基本であり、眼目です。</p><p><br /></p><p>これから、この雲を細かく5つに分けて、お話致します。</p><p><br /></p><p>第一は、構えに雲がかかる。心が生ずるから、妄りに構えが有ると執着し、自分に構えがあるから相手にも構えが有ると見て、そこで対立となり、争いとなる。之を構えに雲がかかったという。一刀流では、「あづち矢を招く」という。そこで、その自分の構えというものを、雲を取って本当の構えにしなくてはいけない。それが最初の修行である打込3年というものです。</p><p><br /></p><p>然し、現代では、これをやっていない。昔はここをやったのです。打込3年、ここで懸り稽古をやる。我を許さない。タッタタッタと懸って懸って懸り抜く。その内に、懸り稽古三味に入る。これを儒教では、己に克つという。剣道の打込3年では、己に克つ修行をやる。当てっこの修行ではない。全身全霊でやる。是を獅子の気合という。</p><p><br /></p><p>それは禅では、もっと積極的です。己を殺すと言う。之が三味。殺すから大きな自己が生まれて来る。それが大死一番、絶後に再蘇すると言う。これを最初の打込3年でやらなければいけない。</p><p><br /></p><p>剣道を打ち込み3年、本気でやり三味力を養えば、そこから自然に本当の構えが生まれる。山岡鉄舟先生は、これを三角矩の構えと言い、苦修3年にして本体(構え)が得られると、入門規則で言い切っている。そこには雑念が入っていない。俺がというものが入っていない。自分が無いから相手がない。自分と相手が一つである。自他不二。これが構えです。自分の構えの中に、相手が入っていなくてはいけない。相手の構えの中に自分がある。一つなのです。一如である。ここが剣道の第一基本です。ここを悟らなければ駄目です。これが私の話しているところの人間形成の土台になります。</p><p><br /></p><p>木村篤太郎先生が90才を過ぎて、“私は人間形成を若い時から心がけて来たけれども、まだまだ十分ではない。90を過ぎても。どうか、これからの若い剣道をやる人達に、若い時から人間形成の為の剣道を教えてやってほしいと思う。処が実際には、小学生から試合をやっている。自分があって相手があって当っこです。是は日本本来の剣道ではないと思う。困ったことだ”と既戴されている。その通りであります。どうか、木村先生のご配慮を無にしないで、全国の青少年及び指導に当たられる先生方が、一丸となって、人間形成の為の剣道修行に適進して頂きたいと念願する次第です。</p><p><br /></p><p>第二は、相手からの働きかけに対する心構えですが、剣道では、互いに一足一刀に剣を交えた場合、未熟の者は此所に雲がかかって迷う。相手から色を仕懸けられると色に迷わされる。少し上達した者は、色には着かないが、無念無想の穴倉に入り、働きがない。恐ろしい境涯である。</p><p><br /></p><p>この雲を取るには、どうしたらよいか。それは第一の構え即ち自他不二の本体に立てば、在りの儘が写る。写った儘で二念を継がなければよい。その働きは、相手と対した時に面と思う。思った時に面を打てばよい。小手と思う。思った時に小手を打てばよい。思った時に体は、そこに出てしまっている。自然の技というものです。それを思ってから打つのでは、人為的であり、後れてしまう。面と思ってから打つのでは遅い。小手と思ってから打つのでも然り、そこで出て来たら応じようと思うと後れてしまう。それでは駄目なのです。思っても駄目なのですから、思わずにやっては尚更駄目です。それは出鱈目です。</p><p><br /></p><p>思ったら打つ。之を一念不生という。二念以下をぶち切ってしまう。処世法もこれで行けばよい。自分でこれは赤だと思ったら誰が何と言っても赤は赤。白と思ったら誰が何と言っても白。これで行けばよい。それが剣道ですよ。それを赤だから赤と言いたいけれど周囲を見て、白と言った方がよいのではなどと考えて、二念を継ぐから駄目です。愚図愚図してはだめ。善いことは善い、悪いことは悪い。それで解決して行けばよい。之が道の上に立ったはたらきです。</p><p><br /></p><p>まあ、古い例で恐縮ですが、北条時宗は、二念を継がない。元から使者が3人来た。戦争すれば負けることは判っている。然し向うの言うことは道でないので斬ってしまった。これを斬った後には、大変だろうなどと考えてはいない。これを一刀両断という。時宗には時宗という自己がない。雲をかけていない。只至道あるのみ。</p><p><br /></p><p>剣道で大事な処は、この一刀両断です。さむらい(武士)のこの二念を継がない精神は、剣道と儒教と禅で修行したのであります。</p><p><br /></p><p>以上第一と第二は、外部からの働きかけに対する心構えですが、次の第三、第四、第五の三つは、内部即ち自身の心の中に生ずる雲に対する心構えです。</p><p><br /></p><p>第三は想像紛飛の念、意馬心猿、之が五つの雲の中で一番激しい荒い念慮である。時には蜂の巣をつっ突いたように、妄念が紛起して収拾がつかないことがある。これをどう始末するか。ここで昔の人は、実に骨を折ったものです。神に祈ったり、水を浴びたり、難行苦行したりしたが、それでは荒れる意馬心猿には歯が立たない。</p><p><br /></p><p>然し、ここに古徳の教えが残されている。それは数息観であります。ズーッと息を吸う。吸う息の中に雑念を交えない。息をグーッと吐いて行く。吐く息の中に雑念を交えない。一念一念を正念化する。数息観こそが念々正念に入る秘訣なのです。元円覚寺管長宗演老師は、数息観は禅の初歩であるが、又終極であるといわれております。</p><p><br /></p><p>処が、そういう修行が有るということに気の付かない人が多いのではないですか。第一の三角矩本体は、苦修3年頓悟でもいけるが、第三の念々正念が本当に自分のものになるには、20年30年、否、一生かかっても難しい。それは、剣道では技や理念が邪魔するからです。</p><p><br /></p><p>持田盛二先生が70才を過ぎてから“もう剣道は嫌になった。難しい。構えていると内からヒョッと考えが浮かんで来る。どうしようもない。この世の中に、剣道ほど難しいものはないであろう。嫌になった”と言われたことがある。先生は70才を過ぎてもこの念々正念には徹していないと反省され作らこの修行に全力をかけておられたのです。この真剣味に頭が下がる。世間で問題にしている段位などは、先生の念頭にはない。</p><p><br /></p><p>先生は十段授与式の時、式場は妙義道場で、全剣連の渡辺敏雄さんが事務局長で、先生の前へ証書を持って行き、先生が受けられた時に、合図としてお祝いの拍手をしようと、望月正房さんが段取りをしておいた。ところが、渡辺敏雄さんが証書を持って行ったら先生は、その証書をポーンと放り投げてしまった。そして、“わしは、こんなものはいらない。実力がなくて、こういうものがどうして受けられるか。わしには、こういうものを戴く資格がない”と言われた。そして列席の人々に“皆さんは若い。私は日暮れて道遠しだ。剣道は深いんだからしっかりやって下さい”と言われた。これが十段を受けられなかった時の先生の挨拶であった。</p><p><br /></p><p>先生は十段位を辞退されて、後輩に「剣道修行の目的は段位ではない。人間形成です。人間形成の真髄は、念々正念相続にあり」という秘訣を教えられたのです。念々正念の修行は、道場内だけではない。日常生活の上で正念の工夫を絶やさない。これが本当の剣道です。</p><p><br /></p><p>50才以後の宮本武蔵は、日常この工夫をしていた。『五輪之書』地の巻に、我が兵法を学ばんと思う人は、道を行う法ありとして9カ条を挙げ、その第1条は、“邪なき事を思う所とある。うそをついてはいけない。之が武蔵の全体です。汚い着物でね。風呂にも入らない。そこで弟子達が、先生はどうして風呂に入らないかと尋ねると、“身体の垢は桶一杯の水でとることができるが、心の垢は取る暇がない”とね。</p><p><br /></p><p>雑念を正念化する。一念、一念を正念化する。此所まで行ったら本物です。“我は古今の名人に候”と自認し、常に念々正念の工夫を絶やさず、二天道楽と号して、道を楽しみ、本当の人生を味わい得た道人です。</p><p><br /></p><p>第四は、細かい念慮、之は連想です。人間は、この細かい念慮に悩まされる。どうしようもない。過去の事にぐずついたり、現在にこだわったり、又ー寸先は闇の将来を気にしたりして、自分で自分を苦しめている。</p><p><br /></p><p>こういう厄介な雲をどう捌いたらよいか。それには、この細かい念慮は、畢寛夢・幻・空華のようなものであるということを、見破っておくことです。空中の華とは、目を煩った時に、俗も空中に在るが如くに見えるモヤモヤした華のようなもののことをいう。此れといって拠り処のない、取るに足らないものである。雲弘流では、ここを【あと先のいらぬ処を思うなよ、只中程の自由自在を】と過去も未来もいらぬ。只現在になり切れと示しており、一刀流では、夢想剣として秘している。ここは理屈では通れない悟りであります。</p><p><br /></p><p>これを参考までに世間の事例で話すと、私の知人の奥さんが、立派な子供を20才位で交通事故で亡くした。どうしても、何年経っても諦められない。或る日、“先生、何とか諦める方法はないでしょうか”と尋ねられた。大変ですよ、親としては。</p><p><br /></p><p>そこで私は、“奥さん【とんぼつり今日は何処までいったやら】(加賀の千代女のね)。この気持で諦められませんか"と言ってやったところが、奥さんは、よーく考えてね、まあ、それならば諦められると言いました。吾が子を亡くしたんですからね。そういうものなんですよ。力では駄目なのです。ここは、人生は夢也と悟ることです。</p><p><br /></p><p>第五は、一念であります。第三は荒い念、第四は細かい念、第五は一念と、こう、心が幾つもあるのではない。第五の一念が本になっているのです。澄んだ所からヒョッと一念が生ずる。普通ここを自己と思っているのであるが、ここは迷雲の本です。</p><p><br /></p><p>しかし、修行もここまで行くと容易ではない。ここは心の澄み切った所、明鏡止水・無念夢想、死人と同じく、こは危険なところ、ここを悟りと思い、修行を止める人はいくらでもいる。そこでもう一歩、薄紙1枚破る。百尺竿頭一歩進める。それで生き返る。</p><p><br /></p><p>これは、その人の勇猛心に依るの外はない。死に切れば生きる。そこで死に切らないのと死に切ったのとでは、どこが違うか。死に切らない前には二つの眼で見る。死に切った後で生まれた見方は、一つの眼で見る。之を一隻眼が開けたといい、見性と言う。</p><p><br /></p><p>又ー刀流では切り落しと言う。この切り落としを発明すれば、今日入門しても免許皆伝を允許される。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E7%B3%A7-%E5%88%80%E8%80%95%E6%B8%85%E8%A9%B1%E2%80%95%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E9%81%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E9%AD%82-%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D-%E6%9D%89%E5%B1%B1-%E8%9E%8D/dp/488458239X?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E&qid=1617923858&sr=8-3&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=6fe6ba6ff781e16de1f405206040938d&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=488458239X&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=488458239X" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-47446600059885472852021-04-03T08:34:00.002+09:002021-04-03T08:34:24.453+09:00小川忠太郎、「煩悩」即「不動智」<p> </p><p>from:</p><p><a href="https://amzn.to/3dy9L46" target="_blank">小川忠太郎『剣と禅』</a></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%89%A3%E3%81%A8%E7%A6%85-%E4%BA%BA%E9%96%93%E7%A6%85%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E7%AC%AC8%E7%B7%A8-%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88-%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4907453000?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%89%A3%E3%81%A8%E7%A6%85&qid=1617406112&sr=8-3&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=db8eb9a122dcf2d5422d72f66c0c2eed&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4907453000&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4907453000" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>剣道を道という面で説いている文献の中で、私は<b><a href="https://amzn.to/3fzUMcD" target="_blank">『不動智神妙録』</a></b>と<b>『猫の妙術』</b>の二つは優れたものであると思うが、前者は沢庵和尚の禅、即ち仏教に由来しており、後者は老荘思想から発しているが、ともに、非常に深い内容をもっているもので、剣道を道というところまで昂揚させている。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E6%B2%A2%E5%BA%B5-%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%99%BA%E7%A5%9E%E5%A6%99%E9%8C%B2-%E3%82%BF%E3%83%81%E3%83%90%E3%83%8A%E6%95%99%E9%A4%8A%E6%96%87%E5%BA%AB-30-%E5%AE%97%E5%BD%AD/dp/481332391X?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%99%BA%E7%A5%9E%E5%A6%99%E9%8C%B2&qid=1617406157&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=2c316790cfa48a6761b11e9178521483&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=481332391X&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=481332391X" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p><b>『不動智神妙録』</b>には、人間の心が説かれているが、それには次の二つのものが述べられている。</p><p><br /></p><p>一つは迷いであり、これを<b>無明住地煩悩</b>といっている。つまり、惜しい、欲しい、憎い、可愛いに執着する心の迷いであり他の一つは悟りであって、これを<b>諸仏不動智</b>といっている。</p><p><br /></p><p>従って、この両者の関係を明確に把握してかからないと、これを読んでも正しく理解出来ない。人間には迷いの心もあり、また、悟りの心もある。心が二つあるのではないかという疑問も起こるわけです。</p><p><br /></p><p>中国の朱子という大学者は、これを人心と道心に分けて、このつのものは別のものであると説いているが、これは別ではない。人心が即道心であり、無明住地煩悩が即不動智なのです。</p><p><br /></p><p>憎い、可愛い、惜しい、欲しい、の一念に執着すれば煩悩となる。剣道で言えば、カーッと上がって来た気持ち、打ちたい、勝ちたい、負けるものかという気持ちはすべて、この煩悩です。</p><p><br /></p><p>しかし、それをどこかへ片付けてしまうことが出来るかと言うと、そういうことは不可能であって、その煩悩も、頭から下へ降ろしさえすればよいのです。即ち、そういう気持ちを気海丹田へ、更には腫の方へズーッと下げると、煩悩はそのまま不動智になるのです。</p><p><br /></p><p>渋柿は、吊しておいて白い粉がふいて来れば、自然に甘くなる。田の雑草は稲の害であり、これを放置しておくと稗などが稲より大きくなって、稲が負けてしまうが、これを田に踏み込んでしまうと、稲の肥料となる。これと同様に、煩悩もグーッと踏み込むと肥やしになる。煩悩即菩提であり、無明住地煩悩即諸仏不動智というわけです。</p><p><br /></p><p>これを水と氷に例えれば、煩悩というものは、水が凍って氷になったようなものです。剣道でいえば、コチコチに固くなっていることです。ところが、その氷を融かすと水になる。このように、水と氷は本来別物でないにも拘わらず、水は融通無得であるのに、凍ってしまうと氷になって動けなくなる。これも再びサーッと融かしてしまうと、自由自在に動く。</p><p><br /></p><p>つまりは、迷いと悟りとは二つではない。不二である、ということを悟ることが大切なのです。自分で凍らなければよい。生まれたままの天心そのものであれば、それが即ち悟りであり、不動智であります。</p><p><br /></p><p>それ故、修行というものは、その諸仏不動智に悪い癖をつけないということであるのに、人間はともすれば、生活している中に後天的な悪い癖がつき易いものなのです。</p><p><br /></p><p>人間にとって、名誉¥利益は大切なものですが、名利に執着して凝ってしまうと、動きがとれなくなって苦しくなってしまう。 執着しなければ名利は邪魔にならないのですから、邪魔にならない。名利は大きい方がよい。その方がより多く社会のために役立つことが出来る。</p><p><br /></p><p>よく剣道の段などは要らないという人があるが、そうではない。又その反対に、段が欲しくてしようのない人もいる。何が何でも上がりたいという人もいるが、私はそのどちらもいけないと思う。何事にもこだわってはいけないのであって、スラーッとして執着しないという修行が必要なわけです。</p><p><br /></p><p>『不動智神妙録』に述べられている根本原理は、このように万人が生まれながらに持っているものであるから、これに執着しない修行さえして行けばよいのです。</p><p><br /></p><p>このように『不動智神妙録』は大変優れたものであって、鈴木大拙博士が英訳して、外国でも哲学書として有名なものです。熟読玩味して、よく分かるところを実際にやって見るのがよいと思う。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/-/en/%E6%B2%A2%E5%BA%B5%E5%AE%97%E5%BD%AD/dp/4770029470?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%99%BA%E7%A5%9E%E5%A6%99%E9%8C%B2+%E8%8B%B1%E8%AA%9E&qid=1617406260&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=3645e04b3d1ef24572c14a564949a155&language=en_US&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4770029470&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=en_US" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=en_US&l=li3&o=9&a=4770029470" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-23149378355758901982021-04-03T07:55:00.003+09:002021-04-03T07:56:01.287+09:00武術の精神、山中鹿之介<p> </p><p>from:</p><p><a href="https://amzn.to/3mgGLC1" target="_blank">小川忠太郎『剣と禅』</a></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%89%A3%E3%81%A8%E7%A6%85-%E4%BA%BA%E9%96%93%E7%A6%85%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E7%AC%AC8%E7%B7%A8-%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88-%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4907453000?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%89%A3%E3%81%A8%E7%A6%85&qid=1617404029&sr=8-3&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=8855e32e5a73f7fa90ff6555a7e2e969&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4907453000&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4907453000" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>先般、国体が開催せられた島根県には、歴史上有名な<b>山中鹿之介</b>という人がいる。</p><p><br /></p><p>この人は34才で毛利のために毒殺されたが、滅亡した主家の尼子家を再興しようとして、何度でも毛利の大軍に向かって行く。幾度捕われの身になっても、また刃向かって行く。殺されるまで立ち向かっていく。これが武術の精神です。</p><p><br /></p><p>勝海舟は、「日本の武士は何かというと、すぐに腹を切りたがるが、それだけではいけない。山中鹿之介の精神が大切である」と大きく彼を評価していますが、武術の根幹をなすものは、この、生きる、ということなのです。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E9%B9%BF%E4%B9%8B%E5%8A%A9-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E6%B8%85%E5%BC%B5/dp/4094063323?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E9%B9%BF%E4%B9%8B%E4%BB%8B&qid=1617404088&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=20d8661d6f395c77f0c20012d0fc3492&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4094063323&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4094063323" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-33915336835622960912021-03-29T08:41:00.001+09:002021-03-29T08:41:54.317+09:00「瞋拳(しんけん)笑面を打せず」<p> </p><p>from:</p><p><a href="https://amzn.to/2PCaHMG" target="_blank">小川忠太郎『百回稽古』</a></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4-%E5%B0%8F%E5%B7%9D-%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4884582438?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4&qid=1616974787&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=96f017ffe21b0bab20a3c46c68c55a5d&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4884582438&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4884582438" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p><p><br /></p><p>禅に</p><p><b>「瞋拳(しんけん)笑面を打せず」</b></p><p>という句があるが、これは合掌の精神である。</p><p><br /></p><p>瞋(いか)って握り拳を固めて赤ちゃんを撲ろうと思っても、赤ちゃんがニコニコ笑っていると、振り上げた拳が下ろせない。</p><p><br /></p><p>観音経では、相手が斬ろうと思っても、観音ということを念ずれば、刀が折れてしまうとあるが、これは刀が折れるわけではなくて、こちらが本当に慈悲の心になりきっておれば相手も慈悲心を起こして、斬れなくなってしまうということを言っているのである。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%A6%85%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%8C%B6%E6%8E%9B%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%E8%BE%9E%E5%85%B8-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B2%96%E6%9C%AC-%E5%85%8B%E5%B7%B1/dp/4062924110?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E7%A6%85%E8%AA%9E&qid=1616974861&sr=8-13&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=74069fc57648bf0208594f2b531c38b6&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4062924110&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4062924110" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-51995410574267939722021-03-29T07:29:00.002+09:002021-03-29T07:29:22.412+09:00平山行蔵と鳥居強右衛門<p> </p><p>from:</p><p><a href="https://amzn.to/3w8Rkvl" target="_blank">大森曹玄『剣と禅』</a></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%89%A3%E3%81%A8%E7%A6%85-%E7%A6%85%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E5%A4%A7%E6%A3%AE-%E6%9B%B9%E7%8E%84/dp/4393144163?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%89%A3%E3%81%A8%E7%A6%85&qid=1616970495&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=819f47119a7603ef72d88dba1c080e19&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4393144163&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4393144163" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>かれ(平山行蔵、ひらやま・こうぞう)がまだ修行中の、ある冬の真夜中のことである。</p><p><br /></p><p>ふと眼を覚ましたかれの脳裏に、昼間読んだ『長篠軍記』の鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)が、敵の重囲をのがれ出て味方の苦境を岡崎の本陣に知らせた一節が浮かんできた。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E5%BC%B7%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80-%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%81%8B%E3%82%89%E8%BF%91%E4%B8%96%E3%81%B8-%E9%87%91%E5%AD%90-%E6%8B%93-ebook/dp/B07T88CND7?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E9%B3%A5%E5%B1%85%E5%BC%B7%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&qid=1616970370&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=bcfa31f5822a0203878452cbe5b6f81c&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B07T88CND7&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B07T88CND7" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>あれがもしこんな晩で、しかも長時間、川の中にもぐり込んでいなければならなかったとすればどうだろう、果たして耐えられたろうか。</p><p><br /></p><p>そんなことを考えだしたらジッと寝ていられなくなった。さっそく起き出して風呂桶に水を汲み込み、ザブンとばかり飛込んでみた。</p><p><br /></p><p>身を刺すような冷たさに、さすがのかれも二、三十分でとび出してしまった。</p><p><br /></p><p>こんなことでは!</p><p><br /></p><p>と、いろいろ考えた末、こんどは下腹を綿で包んで入ったら、何時間か耐えられたので、これで冬の陣にもさしつかえなしと、やっと安心して眠ったという。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%A3%AB%E9%81%93%E4%B8%80%E7%AD%8B-%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E8%A1%8C%E8%94%B5%E4%BC%9D-%E4%BF%A1%E5%BF%B5%E3%82%92%E8%B2%AB%E3%81%84%E3%81%9F%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E3%81%AE%E8%A9%B1-%E6%A2%94%E5%A0%82-ebook/dp/B06XZW8JJK?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E8%A1%8C%E8%94%B5&qid=1616970045&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=bd08cf8cf055a5753d0f6544f07a970b&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B06XZW8JJK&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B06XZW8JJK" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com1tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-67593141155825366582021-03-29T06:58:00.003+09:002021-03-29T06:58:49.784+09:00鉄舟の「こより」<p> </p><p>from:</p><p><a href="https://amzn.to/3swjFtj" target="_blank">大森曹玄『剣と禅』</a></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%89%A3%E3%81%A8%E7%A6%85-%E7%A6%85%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E5%A4%A7%E6%A3%AE-%E6%9B%B9%E7%8E%84/dp/4393144163?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%89%A3%E3%81%A8%E7%A6%85&qid=1616968653&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=38df595a1a4ea6a3e813309119d716ed&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4393144163&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4393144163" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>ある人が、鉄舟翁に、</p><p>「剣術とはどんなものですか」</p><p>とたずねたとき、</p><p><br /></p><p>翁はその人に向かって、</p><p>「仕度をして道場に来なさい」</p><p>といって、十分に仕度をさせた上で、自分はコヨリを一本もって立ち向かった。</p><p><br /></p><p>バカにされたと思って少し気色ばんだその人が、</p><p>上段から真っ向に打ち下ろそうとするとその瞬間、</p><p>翁は手にしたコヨリをヒョイと相手の鼻の穴にさしこんだ。</p><p><br /></p><p>「どうです、わかりましたか。</p><p>剣術とはこういうものです」</p><p>といったそうである。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F%EF%BC%9C%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E7%89%88%EF%BC%9E-%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E8%8B%B1%E8%A8%98-ebook/dp/B07H29Q9JF?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F&qid=1616968696&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=6a7ea9ef6d1c9aac4720380a56052dab&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B07H29Q9JF&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B07H29Q9JF" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-37678552718724786182021-03-29T05:55:00.002+09:002021-03-29T05:55:37.921+09:00【道元】他はこれ吾れにあらず<p> </p><p>from:</p><p><a href="https://amzn.to/2PBWi34" target="_blank">『名僧のことば事典』</a></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%90%8D%E5%83%A7%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E4%BA%8B%E5%85%B8-%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%84-%E4%B8%AD%E5%B0%BE-%E5%A0%AF/dp/4642080414?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%90%8D%E5%83%A7%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E4%BA%8B%E5%85%B8&qid=1616964322&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=bba08dd8e4088a09c55c0e72d6d29fa8&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4642080414&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4642080414" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p><a href="https://amzn.to/3swe8mx" target="_blank">【道元『典座教訓』より】</a></p><p><span style="color: #2b00fe;"><br /></span></p><p><span style="color: #2b00fe;">山僧(やまぞう)近前(ちか)づきて、</span></p><p><span style="color: #2b00fe;">すなわち典座(てんぞ)の法寿(ほうじゅ)を問う。</span></p><p><br /></p><p>私が典座和尚に近づいて年齢を尋ねたところ、</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">座(ぞ)云(い)う、</span></p><p><span style="color: #2b00fe;">「六十八歳なり」と。</span></p><p><br /></p><p>「六十八歳である」といわれた。</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">山僧(やまぞう)云う、</span></p><p><span style="color: #2b00fe;">「如何ぞ行者(あんじゃ)、人工(にんく)を使わざる」と。</span></p><p><br /></p><p>私が「どうして下働きの者にやらせないのですか」というと、</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">座云う、</span></p><p><span style="color: #2b00fe;">「他(かれ)は是(こ)れ吾(わ)れにあらず」と。</span></p><p><br /></p><p>「他人に頼んだのでは私の修行にならない」</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">山僧云う、</span></p><p><span style="color: #2b00fe;">「老人家(ろうにんけ)、如法(にょほう)なり。</span></p><p><span style="color: #2b00fe;">天日(てんじつ)かつ恁(かく)のごとく熱し、</span></p><p><span style="color: #2b00fe;">如何ぞ恁地(かくのごとく)にする」と。</span></p><p><br /></p><p>私は、「御老僧のいわれる通りです。それにしても、このように厳しい暑さの中でなされなくてもよいではありませんか」といったが、</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">座云う、</span></p><p><span style="color: #2b00fe;">「更(さら)に何(いず)れの時をか待たん」と。</span></p><p><br /></p><p>典座和尚に「今やらないで何時やるのか」といわれ、</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">山僧、すなわち休(きゅう)す。</span></p><p><br /></p><p>私は何もいえなかった。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%83%93%E3%82%AE%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%82%BA-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3-%E9%81%93%E5%85%83%E3%80%8C%E5%85%B8%E5%BA%A7%E6%95%99%E8%A8%93%E3%80%8D-%E7%A6%85%E3%81%AE%E9%A3%9F%E4%BA%8B%E3%81%A8%E5%BF%83-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%96%87%E5%BA%AB/dp/4041354129?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%85%B8%E5%BA%A7%E6%95%99%E8%A8%93&qid=1616964855&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=41ee4edb8c92b46457ee3aca558c4d86&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4041354129&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4041354129" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-58877982596778141982021-03-28T04:56:00.002+09:002021-03-28T04:56:25.625+09:00出ず入らずの息<p> </p><p>from:</p><p><a href="https://amzn.to/2QLf2xN" target="_blank">小川忠太郎『百回稽古』</a></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4-%E5%B0%8F%E5%B7%9D-%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4884582438?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4&qid=1616874217&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=b24451b9fa6ece6ebab0bcf6de436fbf&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4884582438&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4884582438" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p><b>【出ず入らずの息】</b></p><p><br /></p><p>剣道の稽古は一日に一時間か二時間であるが、一日は二十四時間。その二十四時間、休みなく活動しているのは呼吸である。呼吸は人の命であり、この呼吸を正す工夫をする。これが日常生活の土台となるのである。</p><p><br /></p><p>呼吸を鼻と喉でしている人を剣道に当てはめてみると、手だけで打っている人と同じこと。これではだめで、呼吸を首でする。そういう修錬をすれば、構えにも繋がってくる。</p><p><br /></p><p>日本神道では、臍(へそ)で呼吸せよ、臍は一尺位前に出ていると思え、と教えている。臍で呼吸をすると、心火がずーっと下に降ってくる。 小渥愛次郎範士は、「臍を鍔に乗せろ」と言っている。これは落着けという意味であり、呼吸を臍でする。</p><p><br /></p><p>それから丹田で呼吸する。白隠禅師は『夜船閑話(やせんかんな)』で「心火を降下し、気海丹田の間に充たしむ」と言っている。ただし、無理に力を入れてはいけない。無理に力を入れると力みとなり、技が出なくなる。丹田から呼吸が全体にまわるように修錬すると、相手にも通じるようになる。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%99%BD%E9%9A%A0%E7%A5%A5%E5%B8%AB-%E5%A4%9C%E8%88%B9%E9%96%91%E8%A9%B1-%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B9%B4-ahi-Bon-ebook/dp/B01411JANQ?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%A4%9C%E8%88%B9%E9%96%91%E8%A9%B1&qid=1616874529&sr=8-12&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=fb397272ecead3e9f8f7922719bcf73b&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B01411JANQ&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B01411JANQ" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>それから呼吸を足でする。荘子は「衆人の息は喉を以てし、真人の息は踵を以てす」と言っている。呼吸を足腰でする。剣道は足腰が大事である。足の踏み方の悪いのは、呼吸が乱れる。左足から崩れてくる。</p><p><br /></p><p>斎村五郎範士は足が良かったが、三十歳位の時から歩き方の工夫をしたという。道を歩いていても呼吸を足でする練習をした。こういうふうに普段から心掛けて呼吸を修錬することが大切である。</p><p><br /></p><p>剣道は呼吸の乱れたところを打たれる。昔から呼吸を「聞く」というが、相手に呼吸を聞かれたら、打たれてしまう。しかし呼吸を練ると、息をしていながら吐く息、吸う息の切れ目がなくなり、まるで息をしていないようになる。こうなれば呼吸が乱れることはなく、相手に呼吸を「聞かれる」こともない。</p><p><br /></p><p>持田範士などは隙がないと言われるが、呼吸の修行を積んでいるため打つところがないのである。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E8%83%BD%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E3%80%8C%E5%92%8C%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%91%BC%E5%90%B8%E6%B3%95-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E7%99%BB/dp/4396613008?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%A4%9C%E8%88%B9%E9%96%91%E8%A9%B1&qid=1616874529&sr=8-29&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=266160f5db9521739285da24522c83a9&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4396613008&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4396613008" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><p><br /></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-6576835403650815322021-03-27T04:55:00.003+09:002021-03-27T04:55:46.489+09:00柳生連也と松井某<p> </p><p>from:</p><p><a href="https://amzn.to/2PBQNla" target="_blank">大森曹玄『剣と禅』</a></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%89%A3%E3%81%A8%E7%A6%85-%E7%A6%85%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E5%A4%A7%E6%A3%AE-%E6%9B%B9%E7%8E%84/dp/4393144163?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%89%A3%E3%81%A8%E7%A6%85&qid=1616788451&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=304628a304701ea889eaf3bbcc591f16&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4393144163&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4393144163" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p><b>放つ位</b></p><p><b>柳生連也の至境</b></p><p><br /></p><p>尾州の第二代瑞竜公、徳川光友が、その剣道の師、新陰流正統五世の柳生厳包(よしかね)入道連也(れんや)に、自分の悟ったところを呈示したものだといわれている歌に</p><p><br /></p><p></p><blockquote><p>張れや張れ</p><p>ただゆるみなきあづさ弓</p><p>放つ矢さきは知らぬなりけり</p></blockquote><p></p><p><br /></p><p>というのがある。</p><p><br /></p><p>この歌を、同流第二十世の柳生厳長先生は、日本剣道の真髄たる「真剣の妙趣」を詠じたものとして、これを精進、充実、超絶の三段に分け、大略次のように説いている。</p><p><br /></p><p></p><blockquote><p>まことに「真剣」は層々向上極り無き精進―向上発展、勤勉、努力そのもの、即ち是れ誠心であります。瑞竜公の「はれやはれ」であります。これを誠にするは「人」にあります。</p><p><br /></p><p>この精進、誠心による充実―充ち満ちた姿であります。兵法にこれを「勢」と謂ひ「位」とします。「たゞゆるみなきあづさ弓」であります。これは「地」にあり、また「人」にあります。</p><p><br /></p><p>さらに「真剣」は、この精進、充実を頂上とし、その絶頂からの飛躍であり、擺(はい)脱であり、超絶境であります。生死脱得であります。真に百尺竿頭一歩を放って行くものであります。「はなつ矢さきはしらぬなりけり」であります。兵法にこれを「放ツ位」「一刀両断の位」といふ。これは「天」にあります。(日本剣道の極意)</p></blockquote><p></p><p><br /></p><p>普通に剣道の教えとしてよく知られている守・破・離という修行の順序も、これにあてはめて考えることができるであろう。その意味では、この三つの次第は、ひとり新陰流あるいは剣の道にかぎるものではない。何の道の修行にしても、この順序でゆくほかはないと思う。</p><p><br /></p><p>前に書いた正三老人の仁王禅にしても、一生仁王さまのようにしていろということではなく、結局は如来禅という「放ツ位」に至るためには、まず緊張充実の仁王の門をくぐらなければ、本尊の観音様には、お詣りできないということなのである。</p><p><br /></p><p>晩年には夜中、写経などしていると肩や膝にチョロチョロと鼠がでてきて遊んでいたといわれる山岡鉄舟翁も、若い頃には坐禅をはじめると、不思議や今まで暴れ回っていた鼠が一匹もいなくなったという。夫人がそのことを話すと、翁は「おれの禅は鼠のかがしが相場な」と笑われたと「全生庵記録抜萃」に記されている。</p><p><br /></p><p>われわれの坐禅は、その鉄舟翁にとってはごく初歩であるところの、鼠のかかしにすらならないのだから情けないものである。試みに天井でガタガタやっているときを選んでグッと坐ってみるが、鼠公は一向に退散しない。要するに、張りかたが足りないのである。</p><p><br /></p><p>禅は向下を尚ぶという。エックハルトもニイチェも没落、下向を重しとする。わが天孫も高天原から人界に降ってきたものである等々、まさにその通りである。その通りであるが、現実に絶巓に身を置いたことのないものには、向下したいにも降りようがないではないか。はじめから下にいる者が、さらに降りようとすれば地獄よ りほかに行き先はないはずである。「放つ」 ことができるためには、まず「ゆるみなく」「張ら」れていなければならぬ道理である。</p><p><br /></p><p>さて、尾州侯は右の見所が印可されてか、連也の跡を受けて新陰流正統六世を継いだのであるが、ここでは光友公のことではなく、その師の蓮也についてのべたいのである。連也は、近頃、<a href="https://amzn.to/39jf1aG" target="_blank">五味康祐の小説</a>で有名になっているが、この人には小説の種になるような逸話がたくさんある。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%98%E5%89%A3%E3%83%BB%E6%9F%B3%E7%94%9F%E9%80%A3%E4%B9%9F%E6%96%8E-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%BA%94%E5%91%B3-%E5%BA%B7%E7%A5%90/dp/4101151016?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%9F%B3%E7%94%9F%E9%80%A3%E4%B9%9F&qid=1616787718&sr=8-8&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=a32fb8942310a3838b1b4094724a092a&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4101151016&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4101151016" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>かれはいつも門人に向かって「わしに隙があったらいつでも遠慮なく打込むがよい」と言っていたほど絶対の自信をもっていたらしい。</p><p><br /></p><p>すがすがしく晴れわたった秋の一日、かれは二、三の門人をつれて野外に清遊を試みた。ふと便意を催した彼は、川のほとりで澄みわたった大空を見上げながら、のんびりと小用を足していた。これを見た門下の松井某は「このとき!」とばかり背後から力一杯に連也の腰のあたりを突いた。途端に水音高く、しぶきが散った。</p><p><br /></p><p><a href="https://amzn.to/39jf1aG" target="_blank">五味康裕の小説</a>ならサテ落ちたのは誰だろうというところだが、連也は依然として両足をふんばり、気持よさそうに川べりに立って用を足していたというから、落ちたのは松井であることは明らかである。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E9%80%A3%E4%B9%9F%E6%AD%A6%E8%8A%B8%E5%B8%96-1%E5%B7%BB-SP%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%81%A8%E3%81%BF%E6%96%B0%E8%94%B5-ebook/dp/B00FBBIH0S?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%9F%B3%E7%94%9F%E9%80%A3%E4%B9%9F&qid=1616787718&sr=8-7&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=8d0a06b0a8e35978454f4727d738be60&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B00FBBIH0S&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B00FBBIH0S" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>松井君ばかり引合いに出してお気の毒だが、中年以後碁をたしなんだ連也は、今日も朝から松井を相手にパチリパチリと打ちはじめた。松井は川の水を存分に浴びせられた返報をとでも思ってか、容赦なく攻め込む。すでに何局か連敗を喫した連也は、ジッと盤面を見つめてしきりに長考一番、苦吟している。</p><p><br /></p><p>碁では師匠より強い松井は、好機とばかり、ソッと拳を握り固めた。すると、連也がヒョイと顔を上げて松井を見た。しかし、これは偶然かも知れない。かならずしも察気の法によって、こちらの心気の動きを感知したものとはかぎらない。だから、松井はさらに次の機会を作るべく、しきりに口汚なく師匠を挑発する。</p><p><br /></p><p>「先生、どうしましたか。もうあきらめて投げますか」</p><p><br /></p><p>などといいながら、苦慮沈思する連也の顔をねらって、またもや拳を打ち出そうとした。間、髪を容れず、連也は体をそらせながら、</p><p><br /></p><p>「冗談はよせ!」</p><p><br /></p><p>としかった。松井はあげた手で自分の頭などをかきながら、</p><p><br /></p><p>「なんですか」</p><p><br /></p><p>と、とほけてみせた。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E9%80%A3%E4%B9%9F%E6%AD%A6%E8%8A%B8%E5%B8%96-2%E5%B7%BB-SP%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%81%A8%E3%81%BF%E6%96%B0%E8%94%B5-ebook/dp/B00FBBIH2G?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%9F%B3%E7%94%9F%E9%80%A3%E4%B9%9F&qid=1616787718&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=15f46d0bfbd0bf012a5273a22681d9a5&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B00FBBIH2G&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B00FBBIH2G" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>八方破れの中に、みじんも隙のないこれらの作用は、剣の専門語で「拍子を知る」、すなわち機を知るというはたらきであろう。いわゆるきざしを察知することである。連也はのちに松井に向かって</p><p><br /></p><p>「お前がわしを試みようとするのは、お前がいまだ剣の真意を解しない証拠である。事には必ずきざしというものがある。すでにきざしがあれば相手に察知されるのは必定ではないか。体をかわすというのは術だが、きざしを知るのは術ではない。そのきざし、すなわち機を知ったら、その機に乗ずるというだけでなく、さらにその機をわがものにし、自由に使うようにしなければ駄目である」</p><p><br /></p><p>とさとしたということである。</p><p><br /></p><p>その機を知り、機に乗じ、機を使うというはたらきの基調をなすものは一体何であろうか。それはほかでもない。 張りに張って、緊張充実した頂点から、 さらに飛躍した「放つ位」、いいかえれば何ものにも依らない、そして何ものにも滞らないところの無住心でなければならない。仁王の門を通り越した、御本尊の観音の妙智力でなければならない。</p><p><br /></p><p>柳生に縁のある沢庵の言葉でいえば、それが「不動智」というものであろう。不動智とは、沢庵もいっているように流動して滞らないことであり、分別せずしてしかもよく分別してあやまらないことである。そのような境地が「放つ位」というものであろう。</p><div><br /></div><div><a href="https://www.amazon.co.jp/%E6%B2%A2%E5%BA%B5-%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%99%BA%E7%A5%9E%E5%A6%99%E9%8C%B2-%E3%82%BF%E3%83%81%E3%83%90%E3%83%8A%E6%95%99%E9%A4%8A%E6%96%87%E5%BA%AB-30-%E5%AE%97%E5%BD%AD/dp/481332391X?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%99%BA%E7%A5%9E%E5%A6%99%E9%8C%B2&qid=1616788378&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=daf037da4f6a69f4a680cc6a083ccd00&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=481332391X&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=481332391X" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></div><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-55400291399520292102021-03-27T03:56:00.001+09:002021-03-27T04:08:47.728+09:00「ヒジリ」の稽古<p> </p><p>from:</p><p><a href="https://amzn.to/3tTR41B" target="_blank">小川忠太郎『百回稽古』</a></p><p><br /></p><p></p><blockquote><p><b>相手に打たれるのは</b></p><p><b>自分の弱点を教えてもらうのだから</b></p><p><b>有り難いことだ</b></p></blockquote><p></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4-%E5%B0%8F%E5%B7%9D-%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4884582438?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4&qid=1616784819&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=cdf54cef5cf83af91e314acc693e8528&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4884582438&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4884582438" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>持田先生は相手から一本打たれると、二度目には決してそこを打たせなかった。</p><p><br /></p><p>自分の非を教えてもらったのであるから、感謝してその欠点を直して、完全なものに近づいてゆくというのが先生の修行法である。</p><p><br /></p><p>非を知ることを「ヒジリ」と言う。</p><p><br /></p><p>漢字で書けば聖と書くのは聖人のことであって、自分の非を知って、その非をなおして完全な人になってゆくのが聖人である。</p><p><br /></p><p>持田先生は三十歳以後は稽古相手に上がなかった。それにもかかわらず、あそこまで行かれたのは、打たれたところを反省して、「非知り」の稽古をされたから、八十四歳まで停滞することなく進歩されたのである。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%89%A3%E8%81%96%E3%81%A8%E6%A5%B5%E6%84%8F-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%89%A3%E9%81%93%E5%BD%A2-DVD-%E9%AB%98%E9%87%8E%E4%BD%90%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/B0000C1718?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%8C%81%E7%94%B0%E7%9B%9B%E4%BA%8C&qid=1616784880&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=f741d88166964d973a8fac9d59d78503&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B0000C1718&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B0000C1718" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p></p><blockquote><p><b>単なる攻撃精神は相対なり。</b></p><p><b>勝負の念がある。</b></p><p><b>懸待一致は絶対なり。</b></p><p><b>勝敗の両頭を超越す。</b></p></blockquote><p></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-10133115805881328332021-03-26T20:31:00.006+09:002021-03-26T20:31:51.911+09:00一息とは?<p> </p><p>from:</p><p><a href="https://amzn.to/31nnkha" target="_blank">小川忠太郎『百回稽古』</a></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4-%E5%B0%8F%E5%B7%9D-%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4884582438?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4&qid=1616757654&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=24c67225046642704d8db6ef8322a7a1&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4884582438&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4884582438" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>【一息】</p><p><br /></p><p>仏が、ある人に</p><p><br /></p><p>「人の命はどのくらいの長さか」</p><p><br /></p><p>と聞くと、その人は</p><p><br /></p><p>「数日の間」</p><p><br /></p><p>と答えた。すると仏は</p><p><br /></p><p>「あなたはまだまだ道を知らない」と。</p><p><br /></p><p>別の人が同じ質問に</p><p><br /></p><p>「飯食の間」</p><p><br /></p><p>と答えると、仏はやはり</p><p><br /></p><p>「あなたもまだ道を知らない」と。</p><p><br /></p><p>そこでもう一人が</p><p><br /></p><p>「呼吸の間なり」</p><p><br /></p><p>と答えると、仏は</p><p><br /></p><p>「あなたは道を知っている」と。</p><p><br /></p><p>人の命は、吸う息、吐く息、この一息。</p><p><br /></p><p>この一息の中に雑念を交えない。座禅でもこの一息に徹することが秘訣である。この一息に徹すれば、一息は同時に無限であり、将来につながっていく。</p><p><br /></p><p>正受(しょうじゅ)老人はこの一息を一日暮らしの説で</p><p><br /></p><p>「一大事と申すは今日只今の心なり」</p><p><br /></p><p>と言っている。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4-%E5%B0%8F%E5%B7%9D-%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4884582438?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4&qid=1616757654&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=24c67225046642704d8db6ef8322a7a1&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4884582438&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4884582438" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-7615280214966856822021-03-26T20:26:00.002+09:002021-03-26T20:26:12.568+09:00真面(まめん)とは?<p> </p><p>from:</p><p><a href="https://amzn.to/39ip2EX" target="_blank">小川忠太郎『百回稽古』</a></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4-%E5%B0%8F%E5%B7%9D-%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4884582438?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4&qid=1616757654&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=24c67225046642704d8db6ef8322a7a1&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4884582438&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4884582438" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>【真面(まめん)】</p><p><br /></p><p>剣道はつきつめれば面一本。</p><p><br /></p><p>面一本を打てればいい。</p><p><br /></p><p>自然体で構えて、真っ直ぐ上げて真っ直ぐ打つ。その間に雑念を交えない。形(かた)でも、切り返しでも、懸り稽古でもすべて同じ。この面一本を覚える。これを真面(まめん)といって、真面の出るうちは上達すると言われている。</p><p><br /></p><p>切り返しや懸り稽古をやってやってやり抜く。そうすると手や足が利かなくなり、全身全霊でぶつからなければならなくなる。そうして今まで自分が頼りにしてきた全てのものを投げ出して、最後の面を打つ。</p><p><br /></p><p>この面が真面であり、すべてを投げ出したところに本当の自分、剣道の本体が悟れるのである。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4-%E5%B0%8F%E5%B7%9D-%E5%BF%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4884582438?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E7%99%BE%E5%9B%9E%E7%A8%BD%E5%8F%A4&qid=1616757654&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=24c67225046642704d8db6ef8322a7a1&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4884582438&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4884582438" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-62295429878156212222021-03-26T06:07:00.004+09:002021-03-26T06:07:24.825+09:00【宋名臣言行録】「貧をもって宝となす」王質<p> </p><p>from:</p><p><a href="https://amzn.to/3m2UH2F" target="_blank">『宋名臣言行録』</a>王質</p><p><br /></p><p>公、相門に在りて驕(おご)らず華やかならず、貧をもって宝となす。</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">公在相門、而弗矯、弗華、以貧為宝、</span></p><p><br /></p><p>文正舎人(しゃじん)たりし時、家はなはだ虚なり。</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">文正作舎人時、家甚虚、</span></p><p><br /></p><p>つねに人に金を貸り、もって昆弟を贍(たらわ)す。</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">嘗貸人金、以贍昆弟、</span></p><p><br /></p><p>期を過ぎて入らざれば、乗るところの馬を輟(てっ)してもってこれを償(つぐな)う。</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">過期不入、輟所乗馬、以償之、</span></p><p><br /></p><p>公、家蔵の書を閲するによりてその券を得、家人を召してこれに示して日く、</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">公因閲家蔵書、而得其券、召家人、示之日、</span></p><p><br /></p><p>「これ前人の清風なり。われらが輩、まさに奉じて墜ざるべし。よろしくこれを秘蔵すべし」と。</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">此前人清風、吾輩当奉而不墜、宜秘蔵之、</span></p><p><br /></p><p>また顔魯公尚書たりし時、米を李大夫に乞いし墨帖(ぼくじょう)を得て、石に刻してもってこれを摸し、逼く親と友の間に遺る。</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">又得顔魯公為尚書時、乞米干李大夫墨帖、刻石、以摸之、遍遺親友間、</span></p><p><br /></p><p>その雅尚かくのごとし。ゆえに終身貧ならざるに、至る所氷蘗の声あり。</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">其雅尚如此、故終身不貧、所至有氷蘗声。</span></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%8B%E5%90%8D%E8%87%A3%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%B1%E7%86%B9/dp/4480097120?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%AE%8B%E5%90%8D%E8%87%A3%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2&qid=1616705274&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=674e1485188426a30f73e2c9d683c067&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4480097120&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4480097120" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8319592438672508765.post-6240979298484667132021-03-24T14:11:00.001+09:002021-03-25T04:38:32.903+09:00都治(辻)月丹の「へなへな剣」<p> </p><p><a href="https://amzn.to/39cf6wV" target="_blank">大森曹玄『剣と禅』</a>より</p><p><br /></p><p><b>一法無外</b></p><p><b>へなへな剣の都治月丹(つじ・げったん)</b></p><p><br /></p><p>1</p><p><br /></p><p>これまで何べんとなく述べたように、剣と禅とがその極致、ねらい所において一致することは疑いない。そういう意味でいうならば「諸道に通ず」といわれる禅と一致しないものは、おそらく一つもないであろう。茶も花も書もみな禅と一致する。それをもう一歩ふみこんで、はっきりと自分の剣は禅だと主張したものはないものだろうか。</p><p><br /></p><p>前に述べた針谷夕雲などはもっとも禅的であるが、それでも剣の道を究尽するための補助手段として禅を用いたというほうが正しいであろう。ところがここに一人、寛文から享保にかけて名を謳われた剣客に都治月丹(つじ・げったん、1727歿、79歳)がいて、明瞭に自分の剣は禅だと主張している。わたくしもかなり多くの伝書類を見たが、かれの伝書ほどその内容、文章等において充実したものはちょっと見当たらないと思う。古今随一だとは言えないまでも、少なくとも一流中の有力な一つであることは疑いない。</p><p><br /></p><p>一体に剣者には無学なものが多く、勿体ぶった伝書は大てい儒者か僧侶の代筆に成ったものである。一刀流の仮名字目録といわれる免許状が、平仮名のたどたどしい文章であることが、かえって始祖一刀斎自身の手に成ったものだろうと珍重されるなどは、その反証だといってよい。</p><p><br /></p><p>都治月丹は無外流の創始者で、かれの撰した皆伝の伝書を「無外真伝剣法訣」という。わたくしの想像では、たしかに月丹自身の書いたものだと思う。その伝書の末尾にこう書いている。</p><p></p><blockquote>右無外真伝の剣法は、禅理を以て教導いたす処、貴殿禅学御了知の上、当流の剣法御懇望、且つ御篤志につき云々。</blockquote><p></p><p>これらをみても明らかなように、この流儀は禅理をもって教導するのだから、必ず禅をやり、しかもそれが「了知」といえる程度に達していなければ許さないのがたてまえである。明治以後のことは知らないが、それ以前はこのたてまえが厳守されたものと思われる。わたくしの接した、そして伝書を写させてもらった無外流皆伝の前野先生は禅も印可の老居士であった。このように真向うから禅をうたっている流儀、あるいは伝書は、剣禅一致といわれる剣の世界においても稀有のことであろうと思う。わたくしは寡聞にして無外流の外には、まだ一つも見ていない。</p><p><br /></p><p>月丹の高弟森下権平辰直は「無外流にては術ということを忌む。よって兵法の、兵道の、剣法のというなり。またこの流については、真ということを宗とするなり」と語ったという(<a href="https://amzn.to/3vT2uEC" target="_blank">平尾道雄氏『土佐武道史話』</a>)。つまり、かれの剣は、それによって宇宙の真理、人間の道を究めるという主旨なのであろう。</p><div><br /></div><div><div>さて、その都治月丹であるが、古いものでは「武術流祖禄」に、わずか三行、『撃剣叢談』に「軟弱なる兄弟」に助太刀して仇討の本懐を遂げさせた物語が出ているだけである(いずれも天保十四年刊行)。先師山田先生の<a href="https://amzn.to/3lOknj9" target="_blank">『日本剣道史』</a>と、平尾氏の『土佐武道史話』には、若干くわしく出ている。しかしそれにしたところで、もともと大して資料がないのだから、そう詳細な紹介ができるわけがない。その他に昭和十三年に死んだ友人富永阿峡(前東福管長止渇室の縁者で同師に参じた)が、「剣人無外」という短篇を雑誌に発表している。かれがその資料をどこから得たかは、今となっては聞く由もない。</div><div><br /></div><div>月丹の身許につぃては『撃剣叢談』には「辻無外と云ふ者江戸小石川に住し、一流を弘めて名高し」とあるだけであるが、『武術流祖禄』には「都治月丹資持」(伝書には資茂)は、「近江甲賀郡の人也。京師に到って山口流刀術を学び妙旨を悟る。工夫を加へて無外流と号す。後、東武に来り番町に居る。門人多と云。子孫世々其業を継ぎ山内家に仕」とあるのがその全文である。月丹は近江国甲賀郡馬杉の郷士の出で、はじめは都治でなく辻と書いたものらしい。祖先は佐々木四郎高綱だという。富永阿峡の「剣人無外」によると、享保十九年に七十九歳で死んだことになっているが、『日本剣道史』には享保十二年歿とある。いずれにしても、それを基準に逆算すると、明暦または承応頃の生れということになる。</div><div><br /></div><div>かれははじめ山口下真斎という者について山ロ口流を学び、延宝三年、二十六歳のときその印可を得たという。ただし『日本剣道史』には、月丹の自記によれば、伊藤大膳という達人から印可を得たとあるが、自ら諸侯に出した願書には山口卜真斎に学ぶ由を述べてあるので、あるいは伊藤は山口の前名かも知れぬ、これらの点は不審であるが後考を倹つ、と記している。その後、諸国を修行して歩いた末、江戸に出て麹町の九丁目に町道場を開いたということになっている。ところがその後になって自分の剣境に疑問を抱き、麻布吸江寺の石還和尚に参禅し、朝参暮請、実に二十年に及んだという。阿峡は主として、その間の辛苦を小説風に描いているのだが、その一説にこう書いている。</div><div><br /></div><div><div></div><blockquote><div>おそらく武士とも乞食とも判りかねる異様な風態、頭髪は延びるに任せて蓬の如く乱れ飛び、羽織の肩は摺り切れて下の着物が透いて見え、髪の判らぬよれよれになった木綿の袴を着し、その下の着物の裾から綿がはみ出し、それが地上に引きずっている。云々</div><div></div></blockquote><div><br /></div><div>若い頃は髪に油もつけず、紙で束ねていたので、ときにはそれが解けて風になびくのが凄味を加えたという。あるとき街を歩いていると、前から七人ほどの荒くれ武士が肩を組みながら大道せましとやってきた。月丹は側らに避けながら、「各々方、通り筋はふさがれまいぞ!」と注意した。</div><div><br /></div><div>一人の侍が、「編笠をつけたままで物申すとはけしからん。いったいその方は何者だ」と気色ばんでつめよった。</div><div><br /></div><div>「ごもっともでござる」月丹は、そういいながら悠然と笠をとった。そのとき例の元結がとけて、折からの北風が髪を顔にふきつけた。その顔を見ると侍たちは逃げるように立ち去ったという逸話が残っている。</div><div><br /></div><div>貧乏時代はこのようにウラぶれた風体であったから、ときには不愉快な思いもしたものとみえる。あるとき門人の家に出稽古にゆき、一通りの稽古をすませて息を休ませていると、その家の下男が飛び出してきて、「先生! 私にも一本お願いします」といった。</div><div><br /></div><div>無外の心の中を、ふと不倫快な思いが横ぎった。「こやつ、おれの姿が見苦しいので、侮ってくみしやすしと見たか、無札な奴!」。こう感じたが、さりげない様子で、「いや、すこし疲れたからまたにせよ」と、おだやかに断わった。</div><div><br /></div><div>しかし一服しながら、ひそかに思い返してみると、心中なんとなく安らかでない。「まてよ、これがもし、この家の主人の要求だったら自分はどうしたろう。本当に疲れていたにし</div><div>ても、おそらく相手をしたであろうに、相手が下男だからと断わったのは、自らをあぎむき、他をいつわり、かつヒガむというものだ。こんな煩悩があってはとても大道の成就はおぼつかない」。</div><div><br /></div><div>こう反省した無外は、すぐに木刀を取ってパッと稽古場におどり出た。そしてすがすがしい気持でその下男に稽古をつけたという。</div><div><br /></div><div>そのときの術壊だというのに、</div><div><br /></div><div></div><blockquote><div>小車の夢ばかりなる世の中を何とていとふ身こそつらけれ</div><div></div></blockquote><div><br /></div><div>という一首が残されている。かれには、そういうところがあった。その頃の無外は、友人の好意でその離れに居候をさせてもらい、右のような風体で風の日も雨の夜も吸江寺に通ったのである。</div><div><br /></div><div>石還和尚が印可したとき、かれに一偶を与えている</div><div><br /></div><div></div></div><blockquote><div><div>一法実無外 乾坤得一貞</div></div><div><div>吹毛方納密 動著則光清</div></div></blockquote><div><div></div><div><br /></div><div>月丹が無外子または一法居士と号し、その流名を無外流と改めたのはこの偈に由来する。</div><div><br /></div><div>そのころ、師の卜真斎がたまたま江戸に出てきて月丹を訪い、ひさびさに手練を見たいと仕合を所望したが、三たび立合って三たびとも敗れたという。あるいは無外が師の前で、百目蝋燭をともし、それに向かって抜刀し、刃風でその火を消したので、卜真斎が驚嘆したとも伝えられている。</div><div><br /></div><div>かれには大名の弟子五十と称されるが、特に土佐山内侯の知遇を受けたので、その門葉が土佐に栄えたのである。かれが江戸の土佐藩邸に出入りをはじめたのは、五代の山内豊房の時代、宝永四年(一七〇七)の頃からだという。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>2.</div><div><br /></div><div>かれは山口流の印可を得たのち、自ら未在と反省してからは、専ら真剣の素振りと坐禅とで練ったようである。二十年もの長い間、一切の欲情を断ち、孤独と貧困に徹し、友人のつけてくれた下男からさえ馬鹿にされながら、ひたすらに精進をつづけたのであった。</div><div><br /></div><div>かれの剣はへなへなとして、相手には強いのか弱いのかわからなかったという。押してゆけばあとへ退るし、付け入って打とうとすれば風のようにすり抜ける。そのくせ、そのへなへなの袋竹が目の先にちらついて、どうにも打てなかったという。</div><div><br /></div><div>ちょうど、幕末の男谷下総がどうやらそうだったらしい。相対してみるとさほど強いとも思えないが、いつの間にか雲に包まれたようになってしまって、手も足も出なかったといわれる。</div><div><br /></div><div>例の島田虎之助もはじめて仕合ったときは自分が勝ったと思ったが、井上伝兵衛に注意されて再び仕合をしたら、その雲気に包まれ、完全に参ってその弟子になったという有名な話がある。</div><div><br /></div><div>また、清水次郎長が山岡鉄舟に真剣勝負の経験を物語ったとき、自分の刀で相手の刀を押してみて押し返してくる相手は必ず切れる、しかし押してもそのまま押されている相手は恐ろしい、といっている。鉄舟がそんな場合にはどうするかと聞いたら、次郎長は、刃を引いて逃げるのだ、と答えたという。鉄舟もそれより方法はあるまいと笑ったという話もある。</div><div><br /></div><div>これはひとり剣のみに限ったことではない。後藤象二郎がいつも術懐していたそうである。「自分は西郷南洲とよく議論をしたが、西郷は議論をしている間は黙っているので、いつでも自分が勝ったような気がする。ところがさて家に帰ってよく考えてみると、まるで松の大木に蜂がひとりで鳴いていたようなもので、自分のほうはなっておらんことが多かった」と。</div><div><br /></div><div>これが道元さんのいわれる柔軟心(にゅうなんしん)というものであろうか、剣のほうで俗に八方破れという「放つ位」なるものが、それであろうか。無外はそのへなへな剣なのである。</div><div><br /></div><div>けれども、またこんな話も伝わっている。</div><div><br /></div><div>あるとき、庭で薪を割っている所へ、一人の武士が来てしきりに仕合を求めた。無外は黙々として返事もしない。武士はいらだったのか、「無外流とはどんなものか、ぜひ見せてもらいたい」と詰めよろうとした。その言葉が終わるか終わらぬうちに「こんなものだ!」と、手にした薪で一撃した、と。これは無外は無外でも、初代の月丹でなく、その弟子で二代目をついだ記摩多だともいわれ、正確ではないが、いずれにせよ、ここには禅機と相通ずる無外流の鋭い機鋒がうかがわれる。</div><div><br /></div><div>わたくしは四十年ほど前、土佐に遊んだとき、高知の小高坂城内に陳列されていた無外愛用の袋竹刀を拝見して、覚えず舌を捲いたことがある。爾来無外の名はわたくしの脳裡に深く刻みつけられ、つねに畏敬して巳まないのである。ビロードか何かの袋で割竹を包んだその袋竹刀は、驚くべし、物打の辺一寸ばかりの間がスリ切れているだけであった。おそらくこれで型を使ったか、あるいは仕合ったかしたのであろうが、敵を打撃したり、敵刀を受け流す場合に、そこだけしか使わなかった証拠である。間づもりの正確というのか、打撃の精錬というのか正に神技というほかには言いようがない。</div><div><br /></div><div>かれは大名の弟子を持ち、立派な道場の主人たる身分になってからも石運和尚の禅風を慕い、名利を避け枯淡を甘なって、ひと筋に塵外の一剣を磨いていた。その頃のこと、ある日、下谷の車坂付近で一連の美しい女性たちに出逢った。かれは従者に「あれは?」と、目をみはりながら訳ねたそうである。かれは芸者を知らなかったのである。</div><div><br /></div><div>こうして無外の一法を受用しつつ、享保十二年六月二十三日、彼はいとも静かに床上に坐禅を組んだまま、禅僧のように坐亡してその七十九年の生涯を閉じたのである。ただしこの残年は『日本剣道史』によるもので、富永阿峡は享保十九年説をとっている。</div><div><br /></div><div>そのどちらにしたところで、伝書を撰した年号から考え合わせると、いささか疑問がある。わたくしの所持する伝書には、明瞭に「延宝八年歳庚申、仲夏望日」とある。歿年が享保十二年で七十九歳とすると、延宝八年はかれが三十一歳のときである。『日本剣道史』には延宝三年に山口卜真斎から印可を受けたことになっており「時に廿六歳」とあるから、何か拠りどころがあるのだろう。</div><div><br /></div><div>いずれにしても山口流印可ののち参禅二十年にして桶底を脱し、無外流を名乗ったものとすれば、伝書の年月日が早すぎて勘定が合わない。どちらかに間違いがあるものと思うが、しかしこれは、わたくしのいまここでの任務ではないから、後日、心ある人の考証にまつことにしよう。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>3.</div><div><br /></div><div>かれの撰に成る伝書『無外真伝剣法訣』は、壮麗な筆致の序文と<a href="https://one-zen-temple.blogspot.com/2021/03/blog-post_24.html" target="_blank">「十訣」</a>とから成っている。全文すべて漢文であるが、引用は便宜上仮名交り文に書き下しておく。</div><div><br /></div><div>「夫れ撃剣の術は鎮国の大権、擬乱の要備也」からはじまり「吾れ焉ぞ庾(かく)さんや、吾れ焉ぞ庾さんや」に終わるその序文は、儒に入り、老荘に触れ、禅に及ぶ名文である。あるいは師の石潭和尚の補筆があったかもしれないが、後に記された<a href="https://one-zen-temple.blogspot.com/2021/03/blog-post_24.html" target="_blank">「十訣」</a>と相照応するところから見れば、全然門外の他人の筆になるものとも思われない。</div><div><br /></div><div>その全文をここに引用したいが、長いので割愛することにする。前に引用した「小心手相称い、憶忘一の如し」などという句は、その序文中のものである。</div><div><br /></div><div><a href="https://one-zen-temple.blogspot.com/2021/03/blog-post_24.html" target="_blank">「十訣」</a>には、十本の剣名と、その注解が記されている。その剣名にしても獅王剣とか雛車刀、あるいは神明剣などは、どの流儀にも似たような名称があって珍しくないが、水月感応とか、玉簾不断、万法帰一などは無外流独特の禅的なものではないかと思う。それに注解がことごとく禅語である。</div><div><br /></div><div>たとえば<b>翻車刀</b>には「互換争う有るに似たり、鼓無、還って動かず」とある。鼓無の「無」は「舞」ではないかとも思われるが、これなど、どういう技のものかは知らなくとも、その剣名と語と照応してみると何となく想像できるような気がする。彼我互いに主となり客となって、双方の太刀があたかも車輪のように回転し、入り乱れて戦う、しかも中心一点の微動もないという技のように想像されるではないか。</div><div><br /></div><div><b>獅王剣</b>というのには、踞地の威、出窟の態、返擲の機と語をつけ、その後に「太極より出づる則(とき)んばその象を見難く、気象より発する則(とき)んば厥(そ)の痕(あと)を窮め易し」としてある。これなども臨済の四喝の一つのように、金毛の獅子が地に踞(うずくま)っているような、すさまじい気迫でジッと敵に対して構え、やがてその獅子が窟を出てゆくように敵を威圧しながら歩を進める。間に入った途端、おそらく圧迫された敵が苦しまぎれに打ち出したであろう一撃を、ハッシとばかりに斬り返すといった技のように想像される。その出窟も返擲も、太極と名づけられる絶対無の世界から、無心に音もなく色もなく発するから「その象」を見ることができない。もしそうでなく、ホンのわずかでも動く気配があれば、その痕跡が象を残すからそこをしてやられる、というのが後の対句の意味であろう。</div><div><br /></div><div>その他、<b>玄夜刀</b>というのには「暗裡に文彩を施し、明中に蹤(あと)を見ず」としている。いくら色彩鮮やかでも真っくらやみでは見ることができない。あれどもなきにひとしい。それに反し蹤形(あとかた)もないものは白昼でも見るわけにはいかない。ないかと思うとあり、あるかと思うとない。全く捉えどころのないかげろうのようなのがこの玄夜刀の妙趣であろう。</div><div><br /></div><div><b>水月感応</b>には「氷壷、影像なく、猿猴、水月をとらう」とある。氷壷は心の清いことの形容だから、この語は透きとおって影のない無心の状態をいったものであろう。こういうものには、猿が水中の月を捉えようとするのと同じく、全く処置なしである。いかなる相手も手の下しようもあるまい。しかしまた、そういう心境でおってこそ、水の月を写すように、相手の動きはそのままに感応するわけであろう。</div><div><br /></div><div><b>玉簾不断</b>には、「牛頭没し、馬頭還る」「前波後波、相続して絶えず、忽ち没し忽ち回(かえ)る、心心不二」とある。玉簾とは滝のことである。牛頭、馬頭は男波女波のこと。つまり、滝は一滴一滴の水玉が次から次へと無数に連続して流れているのであるが、それがたった一本の線のように見える。われわれの心もそのように「念起念滅、前後別なし」で、男波女波の寄せては返すように「忽ち没し、忽ち回」りつつ、畢意「心心不二」なのである。いわゆる地限り、場限りで、端的只今の無限連続以外のものではない、只今を最高に充実して生きることが、時間を越えて永遠を生きる所以なのである。剣の妙諦は「玉簾不断」に尽きるといってもよい。</div><div><br /></div><div><b>鳥王剣</b>には「正令当行、十方坐断」「金翅鳥王、宇宙に当たる、箇中、誰かこれ出頭の人」とある。正令当行云々は、一刀下に迷悟、凡聖の一切を截断することであり、その太刀風の凄じさを金翅鳥王に譬えたものと思う。金翅鳥王というのは双翼の広さを九万里、つねに竜を取って餌としている鳥の王様である。その金翅鳥が両翼を天地一杯に広げて襲いかかったら、何人といえども面出しもならぬこというまでもない。山岡鉄舟翁の無刀流の正五典にも、金翅鳥王剣というのがある。大上段に振り冠って猛然と敵に迫り、運身の力をこめて打ち落とす、さらに力を入れ替えて 刀を揮って敵を仕留めたのち、再び大上段でサラサラと引上げる、と小倉正恒氏は説明している。その技はともかく、無外流の金翅鳥王剣もおそらくは同じ気迫のものであろう。</div><div><br /></div><div>そのあとに「附」として「短剣法訣」が記され、それが出身、応機、転身の三つに分けられている。まず「出身は水の科(あな)に盈(み)つるが如し」とある。水が高きより低きに流れるように、無理なく自然にサラサラと敵のふところに入って行くことであろう。</div><div><br /></div><div>次に「応機は鏡の台に当たるが如し一で、明鏡が対象を寸分も誤ることなく写し取るように、相手次第に適応していくことをいう。最後に 「転身は環(たまき)の端なきが如し」で、玉の輪がキレ目なくグルグル回っているように、自由自在に渋滞なく身を転ずる働きをいうものであろう。</div><div><br /></div><div>これらはすべて禅語であるが、これをみればそれぞれの太刀の心がどんなものか、よくわかるように思われる。それと同時に、その型も大体は推察できそうな気がする。これだけのものが書けるのは、無外によほどの素養があったと見なければならない。また、もし師の石潭が補筆したとすれば、石潭和尚もなかなか剣心の深い理解者だったというほかはな</div><div><br /></div><div>一番ふるっているのは、最後のしめくくりである。それは「万法帰一刀」と呼ぶ。それに着けた語が、なんと「碧巌録」第四十五則の公案そのままである。すなわち、</div><div><br /></div><div></div><blockquote><div>問うて云く、万法、一に帰す、一、いずれのところにか帰す。</div><div>答えて云く、われ青州に在って一領の布衫(ふさん)を作る、重きこと七斤</div></blockquote><div></div><div><br /></div><div>とある。ただ「僧、趙州(じょうしゅう)に間う」とか「州云く」という固有名詞が省かれているだけである。万法、つまりすべての存在は結局のところ、一に帰着する。キリスト教でいえば、神に帰着する。科学的にいえば、エネルギーに帰するといってもよい。禅は無の一字に帰するといってもよいであろう。一刀流では万刀一刀の帰すといっている。</div><div><br /></div><div>それはわかる。ではその一は、いったいどこに帰するのであろうか。こう問いつめられた超州が、「わしが青州にいたときに、一着のころもを作ったが、ナンと重さ七斤じゃったよ」と答えたのである。</div><div><br /></div><div>万刀は一刀に帰し、その一刀はまた万刀と展開する、ということであろうか。一即多、多即一ということなのだろうか。その一多相即不二の消息をハッキリ承知し、体得し、自由に用いこなすことだろうか。</div><div><br /></div><div>無外流伝書には、万法帰一の公案を記したあとで、行をかえて、</div><div><br /></div><div></div><blockquote><div>「更に参ぜよ三十年」</div><div></div></blockquote><div><br /></div><div>と書き、その次に大きく一円相を描いている。まことに意味深長であり、無外その人の禅心の深さを示すもののようである。</div><div><br /></div><div>都治月丹が、自鏡流の居合を取入れたといわれる無外流の居合が今日まで伝わっている。もと姫路藩の藩外不出の秘技だったといわれる。その秘太刀三本のうち、一番向上のものを「万法帰一刀」という。数歩あゆんで、腰の高さで横に抜き払うだけのものである。その刃音に逃れ去る敵をダラリと太刀を右手に提げて、魯の如く愚の如く、追いもせずに見送るのみである。この真境がモノになるには「更に参ぜよ三十年」どころか、おそらく生涯百錬万鍛、学び去り、修し来たってもなお容易には至り得ないであろう。</div><div><br /></div><div>一刀流の仮名字免許に、</div><div><br /></div><div></div><blockquote><div>これのみとおもひきはめつゆくかずも</div><div>上にありすゐまう(吹毛)のけん(剣)</div></blockquote><div></div><div><br /></div><div>とあるが、おそらくそれと同じ心持だと思う。禅でいう「白雲未在」である。永遠になおこれ未在である。そこではあるが、そこではない。これが極意だ、と思い極めたその境地も、山上更に山ありである。停着することは許されない。「上に上あり吹毛の剣」「更参三十年」、どっかと尻を据えるべき極致とてはない。釈迦も達磨も、修行中である。「尚是未在、尚是未在」と願輪に鞭つのみである。しょせん肯定は、否定そのものの真っ只中にあるのであろう。</div><div><br /></div><div>剣人無外が一流の奥秘を極め、師の印可を得て一たん教場を開いたのち、更に尚是未在と気づいて再行脚し、苦修二十年にして「一法実に外無し」と悟入した端的は果たして何であったろうか。かれが末期、坐定して入寂するまで一生受用したその吹毛剣は、上に上ありと伊藤一刀斎の詠じたように一生受用不尽底のものであったろう。十訣を撰し、その末尾に「更参三十年」と記し、一円相を画したとき、かれは謙虚にその自己の心境を吐露したのではなかったろうか。</div></div><div><br /></div><div><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%89%A3%E3%81%A8%E7%A6%85-%E7%A6%85%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E5%A4%A7%E6%A3%AE-%E6%9B%B9%E7%8E%84/dp/4393144163?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%89%A3%E3%81%A8%E7%A6%85&qid=1616544770&sr=8-2&linkCode=li2&tag=airroomcom-22&linkId=177aa8d1ea2a454b8752f4e5ee9c5372&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4393144163&Format=_SL160_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li2&o=9&a=4393144163" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></div><div><br /></div></div>Unknownnoreply@blogger.com0