ある日、百丈(ひゃくじょう)が師の馬祖(ばそ)のもとを訪ねていたとき、頭上を野ガモの群れが飛び去った。
馬祖はたずねた。
「あれは何だ?」
「野ガモです」
と百丈。
「どこへ行ったのか?」
と師はたずねた。
「どこかへ飛び去っていきました」
と百丈はこたえた。
馬祖(ばそ)は突然、百丈(ひゃくじょう)の鼻先をつかまえ、それを捻(ねじ)りあげた。そのあまりの痛さに百丈は叫び声をあげた。
馬祖は言った。
「おまえは飛び去っていったと言うが、あれらは時のはじまりからここにいるぞ」
その瞬間、百丈は悟りを得た。
次の日、いつもの法話の席に馬祖が坐ろうとするやいなや、百丈がやってきて坐具をたたんでしまい、師は禅床からおりるしかなかった。
百丈は自室に帰る師について行った。
馬祖は言った。
「いましがた法話をはじめようという時に、なぜおまえは坐具をたたんでしまったのか?」
百丈は言った。
「きのう、尊師はわたしの鼻をねじられましたが、あの痛みは強烈でした」
「きのう、おまえは心をどこに用いていたのだ?」
と馬祖はたずねた。
弟子はただこう言った。
「今日はもう鼻は痛みません」
師はそこで評して言った。
「おまえは、きのうの話題をじつに深く理解している」
…
話:OSHO(和尚)
ふつうの合理的な思考をする者にとっては、これは「不合理な言明」にみえる。が、瞑想に調和している者には、これは「とてつもない目覚めの地点」になりうる。
馬祖は、野ガモが飛び去っていったことを知らないわけではない。野ガモがそこにいたことを、彼が知らないというのではない。彼はいかなる知的な答えも求めてはいない。彼は百丈が最初に見逃したレスポンス(応答)を求めている。
「あれは何だ?」
とたずねたとき、馬祖は、明らかにそれが何であるのかを知っていた。だからこれは、対象についての知をたずねる質問や問いではないということを覚えておかねばならない。
百丈はその地点で取り逃がした。彼の応答はマインド(頭)から出てきたものだった。彼は言った。
「野ガモです」
それは世界中のだれにでも言えるような応えだった。それは「空っぽのハート」から出てきたものではなかった。それは「無の鏡」から出てきたものではなかった。それは単に、どんな子供でも言えるようなことだった。答えは正しかったが、百丈の応答はハートから出たものではなく、マインド(頭)から来ていた。
ここで百丈は取り逃がしたのだ。彼はどんな脈絡もかんがえずに、この質問に応答すべきだった。
「どこへ行ったのか?」
師は彼に、もう一度チャンスを与えている。
「どこかへ飛び去っていきました」
と百丈は応えた。彼はまた、単にメンタル(知的な)レベルで機能したのみだった。
馬祖は突然、百丈の鼻先をつかまえ、それを捻りあげた。
百丈がマインド(頭)を通してしか働いていなかったことを自覚させねばならなかった。心は痛みしかもたらすことができない。心とは痛みだ。
そのあまりの痛さに百丈は叫び声をあげた。
この叫びは、マインド(頭)から出たものではなかった。この叫びは、彼の全実存からおのずと湧きおこる応答としてやってきた。この瞬間なら、師は彼に話すことができた。彼はいまや正しい空間にいた。彼はもはやマインド(頭)のなかにはいなかった。その痛みゆえに、彼の全実存が目覚めていた。
馬祖は自分がなぜ鼻をねじりあげたのか、何ひとつ説明はしなかった。
それどころか彼は言った。
「おまえは飛び去っていったと言うが、あれらは時のはじまりからここにいるぞ」
馬祖は、とてつもなく意味深い言明を述べた。「誰ひとり、何ひとつ、ここから外にでることはできない」と。「ここ」は果てしなく広大であり、「いま」も同じだ。どこにいようと、彼らはここにいる。
その瞬間、ただ痛みだけで、百丈に思考はなかった。
心は空っぽで、ただ鼻が痛んでいた。
百丈はいまや、師が言わんとすることを理解できる正しい状態にあった。
その瞬間、百丈は悟りを得た。
馬祖の言葉によって、百丈のなかの何かが触発された。それは禅がエンライトメント(大悟)と呼ぶものだった。
彼は自らの「ここ」にあること、自らの「いま」にあることに気がついた。野ガモは、ただの口実にすぎなかった。
百丈には用意がととのっていた。あとほんのひと押しだった。彼はまさに境界線にいた。そして鼻をねじられて目を覚まし、百丈は大悟した。
痛みは目覚めにとって、このうえもない価値がある。眠れる弟子を目覚めさせるために、多くの師たちが痛みを用いてきた。
ところが、あなた方の古くからの宗教はみな、むしろその逆に、弟子をなぐさめ、彼らがよく眠れるように助ける。天国には神があり、地上のことは何もかもうまくいっている。何ひとつ心配することはない、と。
だが、禅はあなた方をなぐさめることにはまったく関心がない。それは、あなた方を目覚めさせることに興味をいだく。
次の日、いつもの法話の席に馬祖が坐ろうとするやいなや、百丈がやってきて坐具をたたんでしまい、師は禅床からおりるしかなかった。
百丈自身が、光明をえた師になっていた。いまや彼は、師が対応するように対応していた。もはや百丈に法話は必要ではなかった。必要とするものはすべて、きのう得てしまっていた。
「きのう、おまえは心をどこに用いていたのだ?」
と馬祖はたずねた。
弟子はただこう言った。
「今日はもう鼻は痛みません」
…
引用:空っぽの鏡・馬祖
0 件のコメント:
コメントを投稿