2016年5月2日月曜日

舎利弗と「天女」 [維摩経]



話:室謙二





私はこの10年ぐらいは、「維摩(ゆいま)経」「観無量寿(かんむりょうじゅ)経」をよく読んでいる。どうしてかと言われても困るが、好きなんだね。







「維摩(ゆいま)経」にでてくる智慧第一の僧の「舎利弗(しゃりほつ、シャーリプトラ)」は、つまらない男であった。「在家の維摩(ゆいま)居士の病気見舞いに行きなさい」とブッダに言われて訪ねてみると、維摩は自分が作り出した空っぽの家にいる。

舎利弗は空っぽの家で、自分の座席をさがす。それで維摩に、

「おまえは教え(ダルマ)を求めてここにやって来たのか? 自分の座席をさがしにやってきたのか?」

と言われてしまう。

かつてパーリ語仏典では、舎利弗は重要人物であった。それが大乗の維摩によって「つまらない男」にされてしまった。舎利弗は維摩の空(くう、空っぽの家)で、すでに混乱している。その家には、全宇宙が入りうるらしい。



維摩居士は、

「自分は『方便』としての病気になっている」

と乱暴なことを言っている。そして、「病は真実ではなくて、存在しないものだ」と言いだす。

病が「方便(人を深い理解にいたらせる手段)」だとしたら、生老病死は人間が逃れることのできない四つの苦である、という仏教の基本認識はどうなるのか? 生まれることも、年をとることも、死もまた「方便」になるのであるか?

ここでは革命的なことが述べられているらしい。







さて、維摩の家には「天女」が住んでいる。

それが男たち(維摩・文殊・舎利弗)の議論を聞いて、うれしくなって参加すべく空中にあらわれた。敦煌の壁画などに描かれている空中を飛ぶ天女ですね。







彼女が部屋を飛びながら「花びら」をまくと、それはヒラヒラと落ちてきて、舎利弗の体にくっついて離れない。舎利弗はそれを振り落とそうとする。

「なぜ振り落とそうとするのか?」

と天女が聞く。

「出家者(男)の私に似つかわしくないからだ」

との答え。その私とは何なのか? 天女は、

「あなたには執着があるから、あれこれ分別して考えるから、花びらは体にくっついて落ちない」

と言う。







舎利弗は天女の「仏教理解」に感心して、

「あなたはどうして女であることを転じて、男の身を示さないのか?」

と女性差別的なことを言う。舎利弗に悪気はないのです。しかし舎利弗は、男がすぐれていて男のみが出家者になれると考えているらしい。だから天女も男になって、私とおなじような偉大な(なにしろ「智慧第一」なのだから)仏教指導者になったらどうか、ということなのだろう。

これに対する天女の答えは、

「私はまるまる12年間にわたって、女であることを求めていますが、それを得ることはありません」

天女はつづける。

「舎利弗さん、あらゆるものごとは幻術によってつくられたもので、完全なものではないのです。それなのに、幻術によってつくられた男のあなたが、幻術によってつくられた女性の私に、『どうして女であることを転じて、男の身を示さないか』などと言えるのでしょうか?」

と切り返す。それどころか神通を発揮して、舎利弗を天女の姿に変えて、天女の姿を舎利弗に変えてしまう。そして男の姿になった天女は、女の姿になった舎利弗に

「どうしてあなたは、女であることを転じて男の身を示さないのか?」

と言うのだった。



舎利弗は維摩の空っぽの部屋で混乱して、自分の居場所をさがしていたのだが、女にされてしまい、男と女のあいだでも混乱する。自分に乳房があり、男性性器が消えて女性性器をもったことに困惑しているのだ。

「どのように元にもどすのか? どうして男の姿が消えて、女の姿になったのだ? 私にはわからない」

ということになる。



天女の言葉はつづく。

「もしあなた舎利弗が、女であることを元にもどすことができるなら、そのときはすべての女たちも、また女であることを元にもどすでしょう。

でもいったい、どこに戻すというのでしょうか?

あなたが女でないのに女の姿になっているように、すべての女たちも、女でないのに女の姿になっているのです。世尊は『あらゆるものごとは、女でもなく男でもない』と言われました」

そうして天女は神通を解いた。すると舎利弗は男の姿になり、天女は結論を述べる。

「あなたの女の姿はどこにいったのでしょうか? あらゆるものは、作られたものでも、作りかえられたものでもありません。作られることもなく、作りかえられることもありません。それがブッダの言葉なのです」



ここで天女は、徹底的に男女差別を否定している。ありとあらゆる差別の否定と、あらゆる区別と分別をも否定している。ものは「作られることもなく、作りかえられることもない」。つまりもの自体が、他のものと区別して存在することを否定して、もの自体の存在も否定している。

区別も分別も差別もない世界である。

維摩経のひとつのテーマは

完全な平等性

である。モノとモノのあいだに区別はなく差別もなく、それらはすべて完全な平等なのだ。







私は、舎利弗をやっつけて完全な平等をうたう天女のファンになった。

私の還暦記念に「ゴビ砂漠のオアシス敦煌に行ってみよう」と妻を誘ったのは、維摩経の天女を知っていたからで、敦煌石窟の壁画の天女を、写真ではなく実際に見たいと思ったから。







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1 件のコメント:

  1. たいへんおもしろく読ませていただきました。ありがとうございます。当方の趣味でやっている小さなブログでご紹介してもよろしいでしょうか?法華経の話を書いたりしております。

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